第6話 一方的な攻防


 オーガが笑いながら指を突き出す。

 その巨大な指が目の前に迫ってくる。

 あ――。死んだな、これ。一瞬で理解してしまった。

 あんな攻撃、絶対に耐えられない。コンマ数秒後には俺の体はぐしゃぐしゃになっているだろう。

 思えば短い人生だった。

 できればもう少し旅を続けたかったけどな。森のこっち側の世界のことは全然知らないからな。きっと俺の知らない不思議なことがたくさんあるんだろうな。ま、今となっては考えてもしかたないことか。

 それにしても、なんかオーガの指の動きがめちゃくちゃゆっくりに見える。

 すげえ。どうなっちまったんだ? まるで時間が止まったみたいだ。

 ……ああ。これ死ぬ前に起こるあれだな。走馬灯ってやつ。本当にあるのか。ま、それを知ったところでもう……。

 オーガの指先が俺の顔に触れる。

 ………………………………。

 な、なんだ? 痛くないぞ。どうなってんだ?


「ほう。今のを受けて倒れんとは。小僧、貴様少しは丈夫なようだな?」


 オーガが口角を吊り上げる。


「よおし。じゃあお次はこいつをお見舞いしてやろう!」


 オーガが胸の前にかかげた拳を握り込む。

 一振りで家すらも吹き飛ばせそうな、恐ろしく巨大な拳。

 あんなもん喰らったら今度こそ完璧にお終いだ。

 そう思った瞬間。一気に膝がガクつきだした。

 同時に全身の力が抜け、まるで現実感がなくなっていく。水の中にでもいるようなフワフワとした感じ。自分の足が本当に地についているのかすらわからなくなる。

 恐怖。そう。抗いようのない圧倒的な恐怖が全身を支配していくのがわかった。

 怖え……。怖え。怖え!

 ダメだ。

 ココットだけでも助けようと心の中で誓ったばかりだってのに。

 俺の心は早くも折れかかっていた。

 正直言って今すぐにでもここから逃げ出したい。でも足が動かない。まるで自分の足じゃないみたいに……。


「う、うぁ……」


 無意識のうちに情けない声を漏らしていた。


「うん? なんだあ?」

「や、やめて……」

「あん?」

「た、助けて……」

「何を言っている? まさかこの期に及んでやめるというのか?」


 気が付くと俺はガクガクと震えながら無様にも命乞いしていた。


「くっくっく。そうか助けてほしいのか?」


 問いかけるオーガ。俺は震えながらゆっくりとうなずく。


「だが無理だな! こんな楽しい遊び、今更やめるわけがないだろう! 死ね!」

「な、なんで……」


 俺が泣きそうな声を漏らすなか、オーガは拳を振りかぶった。

 俺とは対照的にオーガは実に楽しそうな、それでいて邪悪な笑いを浮かべる。


「ひっ……」


 悲鳴にもならない悲鳴が無意識のうちにこぼれる。


「くたばれいッ!」


 圧倒的威圧感を放つ巨大な拳が俺の顔めがけて振り下ろされる。

 ただ腕を振るっただけ。

 生まれ持った体。

 生まれ持った腕。

 それをただ振るっただけ。

 たったそれだけのことだというのに。

 ――悲惨なほどの力の差。

 即死だな。

 それだけはわかった。

 苦しまずに死ねる。

 それだけがせめてもの救いだった。

 ただ――。

 あとに残されるココットのことだけが気がかりだった。


 ゆっくりと目を閉じる。

 その直後。顔になにかが触れた感触があった。あの巨大な拳であることは考えなくてもわかる。

 しかし不思議と痛みはない。そうか。即死したときってこんな感覚なのか。

 まったくといっていいほど痛みがなくて逆に驚く。

 でも暗い。ただひたすらに暗かった。もう何も見えない。さっきまで届いていた光は今はもう届かない。そうか――。

 ――これが、死か。


「キ、キヒヒヒ。あっけねえ! あっけねえなあ! 所詮人間の餓鬼なんてこんなもんだぜええええええええ!」


 目の前から勝ち誇ったようなオーガの声が聞こえる。

 オーガは野太い声で機嫌よさそうに高笑いしていた。


 声?

 なんでオーガの声が聞こえるんだ?

 俺は、死んだんじゃないのか?

 まぶたを開けてみる。

 まばゆい光が目に差し込んで一瞬、薄目になる。

 目の前では高らかに笑うオーガの姿。

 どういうことだ。

 もしかしてこれが幽霊ってやつか?

 俺、幽霊になっちまったのか?


「お、おい見ろよ! あの少年、目を開いたぞ!」

「す、すげえ! オーガの攻撃をまともに食らってピンピンしてるじゃねえか!」

「な、なんだよ、どうなってんだよこりゃあ!? 奇跡でも起きたってのか!?」


 遠くから村人のどよめきが聞こえる。

 俺の姿が見えてるのか。てことは幽霊になったわけじゃなさそうだ。

 気が付くとさっきまで聞こえていたオーガの高笑いが止んでいる。

 俺はおそるおそる視線を上げた。

 そこにはなにか不思議なものでも見るかのようなオーガの顔があった。


「て、てめえ。どうして生きてやがる……」


 オーガは解せないといった様子でポツリとこぼした。


「なんでだ……。おい、なんでだよ……。てめえ俺の拳をまともに喰らったよなあ? 俺の拳を食らって……。俺の拳を食らっておいて……。何で生きてるんだああああああああああああああッ!」


 突然取り乱し叫び出すオーガ。


「ひいいいいいいいいいいいいっ!」


 オーガの怒声に反射的に悲鳴が漏れてしまった。


「てめえ! なんなんだその顔はよお! 生意気な野郎だッ!」


 ただ見上げていただけなのにオーガはひどく不機嫌に言い放った。

 今にも飛び掛かってきそうな形相のオーガに俺は心の底から震えあがった。


「や、やめ……てえぇぇぇ……」


 オーガは怒りでこめかみに血管を浮かび上がらせ、ぎりぎりと歯を噛み締めた。

 ドスン。

 巨大な足が怒り任せに大地を踏みつぶす。

 オーガは俺に向かって一歩前進した。

 し、死ぬッ――。

 今度こそほんとに死ぬッ!


「う、うあ……あああ……うっ……うぐぅ……ふぐぅ……ぐええっ……ごぼっ……」


 気が付いたら泣いていた。

 俺は人目もはばからず盛大に泣きじゃくった。

 この場に立っているだけで恐怖に押しつぶされそうになる。しまいには腹の底から酸っぱいものまでこみ上げてきた。


「うっ……ぐぅっ……うぐっ……うぐっ。ぐふっ……ぐへっ……ぐえっ……。うぐえええぇぇぇ……」


 ただただ恐怖だった。

 涙が止まらなかった。


「くたばれええええええええッ!」


 怒声を上げながらオーガがボディーブローを放つ。

 おっさんを一撃で倒したあの攻撃だ。

 いや、どう見たってあの時よりも強そうだ。オーガは全身をプルプルと震わせながら、力強く拳を繰り出してきたのだ。

 ――まずい。よ、避けないと。

 しかしかわそうとしたが、足がすくんで動けない。

 策を考える間もなく、無情にもその攻撃は俺の胴体へ直撃した。

 オーガの巨大な拳は俺の腹に収まらず胴体全体をカバーし、俺の全身へ衝撃を与えた。そしてその巨大な拳はピクリとも動かなくなった。

 俺は直立したまま目の前の拳を見下ろして、ただ立ち尽くしていた。


「う……うえっ……うえええええええええええっ!」


 俺は恐怖でさらに涙が増した。


「うあああ……。うああああ……。うおああああああああああああんっ!」


 立ったまま恐怖で号泣した。


「なに突っ立ってやがんだよおおおおおおおおおッッッ!」

「ひいいっ!?」


 オーガの怒声に反射的に全身がこわばり、悲鳴がこぼれた。


「テメエなんで吹っ飛ばねえんだああああああああッ!」


 オーガがさらに怒りを増し、俺の胸倉へつかみかかった。

 俺の足は簡単に地を離れ、全身が宙に持ち上げられる。


「小僧テメェなにもんだァァァァ!」

「うああああああああん!」


 目の前からぶつけられる怒声。文字通り鬼のような鬼の顔。怖い……。

 俺は嗚咽が止まらず、まともに言葉が出ない。

 その様子を見てオーガの眉がさらにキリキリと吊り上がっていく。

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