7日目-3

 夢を見たんだ。椅子だったボクに、キミが気付いてくれる夢を。

 たった一度の願い事で、夢を見ちゃ、いけなかったのに。

 気付いてほしかった。分かってほしかった。そんなボクのわがままでキミを傷つけた。

「……ユメちゃん」

 本棚の前で座り込んで、どれくらいの時間が過ぎただろう。ユメちゃんが泣きながら部屋を飛び出してすぐ後に立っていられなくなったボクは、しばらく床に倒れていた。ずっと倒れているとこのまま起き上がれない気がして、なんとか這って、本棚に寄りかかるように座って。それから多分数時間、ボクはずっとそのままだった。

「……ごめんね」

 あんな言い方はしたくなかった。傷付けたいわけじゃなかったんだ。でも、もう遅い。

 キミが帰ってきた時に部屋に残っているのは、ただの木片だけだ。


 ――「ごめんね。僕が神様じゃなくて」


 傷ついた笑顔でそう言った魔法使いさんを思い出していると、なにかが落ちた音が聞こえた。つい音の方を見る。

 白く霞んだ世界の中で、ボクが好きな表紙の色が見えた。


   * * *


『忘れ雪の魔法』

 雪に色がなかった昔のお話です。

 色がなかった一羽のウサギがいました。

 色なしウサギはいつも一羽でした。

 色がないウサギは誰にも見てもらえず、ずっと一羽でした。


 ある春の日のことです。

 桜と一緒に冷たいものが降ってきました。

 雪でした。

 冷たくてびっくりさせる雪は嫌われ者でしたが、温かくなってきた頃に降る雪はもっと嫌われていました。

 色なしウサギは、色がないのに誰からも嫌われている雪が、羨ましくて仕方がありませんでした。


「雪さん、冬じゃないのにどうして降るの?」

 ウサギが訊くと、雪は言いました。

「神様が忘れないでほしいと泣いているからだよ」

 雪はふわふわと降りながら、そう言いました。

「雪さんには、どうして色がないの?」

 ウサギが訊くと、雪は笑いました。

「何色にもなれるからだよ。神様は全ての色を知りたいんだ」

 雪はくるくると降りながら、そう笑いました。


「僕も、何色にも、なれるかな?」

「なれるよ」

 雪は最後にそう言うと、地に降りた刹那から溶けて空へ戻ってゆきました。


 透明色のウサギはいつも一羽でした。

 透明色のウサギは誰にも見てもらえず、ずっと一羽でした。

 けれど寂しいと思ったことはただの一度もありませんでした。

 雪が待雪草から色をもらい何色に染まることがなくなろうとも。


 白色になった雪は少しだけ嫌われ者ではなくなりました。

 温かくなってきた頃に降る雪はもっと嫌われ者でなくなりました。

 桜と一緒に降る白色の雪は、それはそれは綺麗でした。


 色がないものはなくなりました。

 水には水色、風には淡く揺れる色、水晶には色々な色。


 透明色のウサギは今日も一羽、空を見上げます。


 透明色ウサギは、水面に映った自分の姿を見るたび、寂しん坊の神様のことを想うのでした。


   * * *


「――……おし、まい」

 読まなくても本の内容は分かっている。だってこのお話は、ボクが一番好きなお話だから――このお話を聞いている時に、ボクは目覚めたんだから。


 ――「ごめんね。僕が神様じゃなくて。ちゃんとした魔法使いじゃなくて。

    でも、僕に願ってくれて、ありがとう」


 ボクの願いを叶えてくれたのはカミサマじゃなかった。ボクが願って、魔法使いさんが来てくれなかったら、カミサマは来てくれた? カミサマなら、ボクの願いを叶えてくれた?

「――そうかも、ね」

 思わず笑っちゃった。だってユメちゃんにひどいことを言っちゃったのは、魔法使いさんのせいでもあるもん。

「でもね、ボク、来てくれたのが魔法使いさんで良かった。魔法使いさんだから、願ったんだよ」

 ここにいるかもしれない魔法使いさんに言う。魔法使いさんにボクの言葉が届いているか分からないけれど、みんなには聞こえてるでしょ?

「ありがとう。こんな“おしまい”は寂しいけど、ボク、ユメちゃんとトモダチになれて、良かった」

 目が熱い。違うのに。ちゃんと笑っていたいのに。

 どうしたって、胸が、痛い。

「……っごめんねっ」

 言いたいことがあった。どうしても伝えたいことがあった。けれどもうボクは、キミに会えない。

 ボクにかけられた魔法は強すぎて、最後にはボクを保てなくてボクは壊れてしまう。人間になった時から、椅子に戻る道も、人間として生きる道も、ボクにはなかった。

 それでもボクは、キミとお話ししてみたかったんだ。

 生まれた時からずっとそばにいた、白ウサギがモチーフの、椅子のボクとしてじゃなくても。

 そう思うだけで良かったのに。キミのためならなにをしても良いって、嫌われても良いって、思ってたのに。


 ――「どうしていつも嘘を吐くの? 言いたくないことを言って、自分で自分を傷つけるの?」


 言いたくないことは言わないで良いんだよって伝えたかった。


 ――「どうして勝手に決めつけるの? やってもいないのに、最初から諦めるの?」


 やってみないと分からないよって、本当は出来るかもしれないよって、伝えたかった。


 ――「どうして自分からはなにもしないの? しようとしないの? 誰かが来てくれるのを待ってるだけで、自分じゃない人に任せちゃうの?」


 歩き出してみようよって伝えたかった。誰かも、キミを待ってるかもしれないよって、伝えたかったんだ。


 ――「魔法もお姫様も信じないくせに、どうして、王子様を待ってるの?


 待っていただけなのはボクの方だ。本当のことを言って嘘だと否定されるのが怖くて、キミに気付いてもらえるのをただ待ってたんだ。

「……っ」

 心の底から伝えたかったことなのに、傷付けるように言ってしまった。ボクはもう、これまでみたいにユメちゃんのそばにはいられないから、だから、部屋から出ても大丈夫になってほしかったのに。


 お願い。もし、もしもう一つだけ、願いを叶えてくれるなら。

 ユメちゃんに、ちゃんと、伝えたいことがあるんだよ。


 ――玄関から音がした。金曜日なのに歌が聞こえないのは、ボクが傷付けちゃったからかな。でも間に合って良かった。これでユメちゃんに謝れる――そう思ってたのに。

「……?」

 音が、なんか、違う。

 桃色ウサギの柱時計を見てみると、いつもならとっくにユメちゃんが帰ってきている時間だった。

「――!?」

 嫌な予感がした。慌ててベッドの下に入り込むのと同時にパパさんが部屋のドアを開けた。

「夢見子? 寝てるのか?」

 パパさんが電気がついたままの部屋を不思議そうに見回している気がする。ベッドに近付いてユメちゃんが眠っていないと分かると、夜にボクが隠れているおもちゃ箱を開けて確かめた。

「夢見子? ……」

 パパさんが急いで部屋から出る。そのまま耳をすませていると、トイレや洗面所でユメちゃんを呼ぶ声が聞こえた。パパさんの声にどんどん焦りが混ざっていく。もう一度部屋に来ると、パパさんはなにかを取り出して持ち上げた。すぐにママさんの遠い声が聞こえて、パパさんが急いで言った。

「早く仕事から戻ってきてくれ! 夢見子がいないんだ!」


   * * *


 パパさんは持ち上げていた物をしまうとベッドに座り込んだ。深い溜息を吐く。

 パパさんが誰かとしていた話によると、ユメちゃんは部屋を飛び出した後、学校には行っていたようだ。けれど「ランドセルも給食袋も体操着も全部忘れた」と言って、授業が終わった後、「靴も忘れた」と言って、上履きを履いたまますぐに学校から出て行ったらしい。

「ごめん……ごめん夢見子……」

 パパさんが泣きそうな声でユメちゃんを呼ぶ。遠い声から学校でのユメちゃんの様子を聞いてしまったパパさんは、苦しそうに何度も、ユメちゃんを呼ぶ。

「……夢見子……無事でいてくれ……!」

 祈るようにユメちゃんの名前が呼ばれる。

 声をかけたくて、でも上手に話せる自信がなくて、ボクはベッドの下に隠れたまま唇を噛んだ。

 パパさんが立ち上がる。ふらふらと本棚の前に歩くと、床に落としたままだった双子ウサギを手に取った。

 ――双子ウサギと、目が、合った。

 ――うん。そうだよね。

 ベッドの下から這い出る。なんとか立ち上がると、パパさんが呆然とボクを見つめた。

「――パパさんっ!」

 大きな声で呼びかける。パパさんの身体がびくっと跳ねた。ボクは両手を握り締めると、少しでも安心させたくて、笑った。

「ユメちゃんは絶対帰ってくるよ! だからママさんと二人で、ユメちゃんの名前を呼んで待ってて! ユメちゃんはね、仕事が忙しくてもユメちゃんを大事に想ってくれてる二人が、大好きなんだよ!」

 ――好きすぎて、嘘を吐いちゃうくらい、ね。

「……君は?」

 パパさんが双子ウサギを手にしたまま訊く。びっくりしすぎているのか、ボクを怖い目で見ない。

 ボクはフードを被って、泣きたい気持ちを押さえて、「えへへ」と笑った。

「ボクはユメちゃんの、最初のトモダチだよ!」


   * * *


 びっくりしたままのパパさんを置いて家のドアから飛び出すと、耳をすませた。もう目が見えなくても、身体が思うように動かなくても、耳はキミの声を拾ってみせる。だってボクはキミだけのウサギだから。だから、どこにいたって、キミの声はボクに届くんだ。

「――!」

 遠くからユメちゃんの声が聞こえた。声の方へ走り出す。初めての外の景色がボクの後ろに流れていく。

「っ、はあっ、はあっ……!」

 固くなっていく喉のせいで息が出来ない。それだけでも苦しいのに、走っているせいで、胸も足も痛い。こんな苦しさ知らなかった。こんな痛み感じたことなかった。でもそんなの、走らない理由にはならない。

 きっと手遅れだよ、諦めようよ、なにも見ないで終わろうよ――もう一人のボクのささやきが、胸の奥を深く刺す。諦めたい、嫌なものなんか見たくない。

 でも、それでもボクは、走らなきゃ。

「っねえ、カミサマ! おねがいだから――、」

 ボクは忘れ雪が帰る場所にいるというカミサマに願う。

 本当は泣き虫なボクが望む、寂しん坊な神様への最期の願い。


 ――まだボクに、もう少しだけ、時間をください!


 まだボクは伝えられてないんだ。「ごめんね」も、「ありがとう」も、それ以外にも、たくさん。人間になったら、話せるようになったら、真っ先に言いたかったことだったのに。

「っ、……っ、は、ぁ……っ」

 なんとか着いた場所は森の奥のボロボロの小さな家だった。

 ここに、ユメちゃんが……っ?

 力が入らない身体をドアにぶつける。何度もぶつけていると、ガチャンッと金属が壊れた音がした。

「……っ!」

 急いで家に入る。

 ドアから一番遠い壁際から、座り込んで泣くことも出来ないユメちゃんの声が聞こえた。

「――っユメちゃんっ!!」

 駆け寄って抱き締める。ボクの腕の中でユメちゃんは「ウサ、くん……?」と確かめるように呟くと、小さな身体を震わせた。

「ごめんね、ユメちゃん、ボクのせいでこんな目にあわせてごめんね……!」

 ユメちゃんが泣きながら首を横に振る。

 ボクはずっと抱き締めていたい腕をなんとか離すと、ユメちゃんに笑った。

「帰ろう。ママさんとパパさんが待ってる、ユメちゃんの家に」

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