2日目-2
『海のクマさん』
深い深い海の底に、女の子と友達だったクマのぬいぐるみがいました。
クマのぬいぐるみは女の子と海へ行った日からずっと、ここで女の子を待っていました。
ある日のことです。
一匹の魚がクマのぬいぐるみに言いました。
「今日、海の上の方が騒がしいんだ。また人間がなにか壊してるんだ」
クマのぬいぐるみは魚に言いました。
「そんなこと言わないで。僕の友達はとても優しい子だったんだ」
魚はクマのぬいぐるみに笑いました。
「優しい子がこんな暗いだけでなにもない場所に、君を置いて行ったりするもんか」
クマのぬいぐるみは泣きそうになりながら言いました。
「なにかあったんだよ。だってあの子は、僕の友達なんだ」
魚はクマのぬいぐるみをつつきながら、やっぱり笑いました。
「人間はそういう奴なんだ。いつもなにか壊すんだ」
クマのぬいぐるみはとうとう泣き出してしまいました。
「そんなこと言わないでよ。あの子は違うよ」
魚はクマのぬいぐるみを笑いながら、どこかへ行ってしまいました。
一人ぼっちのクマのぬいぐるみは、泣きながら、まだまだ女の子を待ちます。
ある日のことです。
一匹のウミウシがクマのぬいぐるみに言いました。
「今日も、海の上の方が騒がしいわ。まだ人間はなにかを壊しているのかしら」
クマのぬいぐるみはウミウシに言いました。
「そんなこと言わないで。僕の友達はいつだって僕のことを考えてくれたんだ」
ウミウシはクマのぬいぐるみに言いました。
「あなたの友達のことなんか知らないわ。騒がしい海が好きじゃないだけよ」
クマのぬいぐるみは泣きながら言いました。
「知らないなんて言わないで。僕はずっとあの子を待ってるんだ」
ウミウシは困ってしまって、どこかへ行ってしまいました。
一人ぼっちのクマのぬいぐるみは、まだまだ、泣きながら女の子を待ちます。
ある日のことです。
クマのぬいぐるみは気付きました。
「僕からあの子に会いに行こう」
クマのぬいぐるみは歩きます。
どこまでも上を目指して、歩いて、時々泳いで、女の子に会いに行きます。
上へ行くうちに少しずつ、魚が増えて、ウミウシが増えて、海月が出てきました。
騒がしい声と降ってくる石を避けながら、クマのぬいぐるみは手と足をばたばたし続けました。
そしてやっと、クマのぬいぐるみは海から顔を出しました。
満月でした。
クマのぬいぐるみのボタンの目に、女の子の家が見えました。
女の子と一緒に住んでいた大きなお城は、ボロボロで、人なんか一人もいなくて、小さくなっていました。
「ごめんね。でもね、おねがい。
わたし、むかえにいくから。
ぜったいぜったい、あなたをむかえにいくから。
だから、ずっとずっと、ここでまっててね」
クマのぬいぐるみは思い出しました。
女の子と最後に海に行ったあの日のことを。
女の子は約束をすると、友達を海に遠く放り投げました。
そしてその後、クマのぬいぐるみは、女の子が叫ぶ声を聞いたのです。
クマのぬいぐるみは思い出してしまいました。
ある日のことです。
一羽の鳥が誰もいなくなった丘の上で休もうとしました。
丘の上には崩れかけた壁や瓦礫しかありませんでした。
その中の瓦礫の一つに、誰からも忘れられたぬいぐるみが座っていました。
深い深い海の底から出てきたひとりぼっちのクマのぬいぐるみが、お家で静かに、眠っていました。
* * *
「『おうちでしずかに、ねむっていました。』――おしまい」
ユメちゃんが本を閉じる。ボクが拍手すると、ユメちゃんは嬉しそうに笑った。
水色ウサギの時計が鳴ってベッドの中でもぞもぞしたユメちゃんに「おはよう」をして、昨日みたいに双子ウサギと朝ご飯を食べて、「なにして遊ぶ?」ってなった時に、起きる前に見ていた本を読んでもらっていた。
「きれいなえだよね。ユメね、ここのくまさんがすきなの」
ユメちゃんはそう言うと、満月とぼろぼろになった城がボタンに映っているページを開いた。
「絵は綺麗だけど……なんだか、苦しくなるお話だった」
腕の中の双子ウサギを抱き締める。上手に笑えていないのが自分でも分かった。
ボクは誰よりも長くユメちゃんのそばにいた。だからこの本棚の本は全部、ユメちゃんが読んでくれたから覚えている。このお話も覚えていた。ユメちゃんが読み始めてくれた時にそれに気付いて、けれど急に止めるのもユメちゃんを傷付けてしまいそうで、結局好きじゃない話なのに最後まで聞いてしまった。
ユメちゃんは悲しそうな顔でボクの顔を覗き込んだ。
「ユメ、このおはなしをはじめてよんだとき、『まほうつかいになりたい』っておもったの」
ユメちゃんは悲しそうな顔のまま、ボクに笑いかけた。
ボクは心の中でだけ、知ってるよ、と返した。
「『ユメがくまさんにまほうをつかったら、おんなのこにあわせてあげられるのに』って。でもユメはまほうつかいじゃないから、くまさんとおんなのこはあえなくって、ちょうなんいたちさんもきらわれたままで、まっしろねこさんとまっくろねこさんはいっしょにいられなくなっちゃった」
ユメちゃんが立ち上がる。本棚に絵本をしまうと、泣きそうな笑顔のままボクに振り向いた。
「ほんとはね、ユメ、わかってるんだよ。まほうなんてなくって、まほうつかいもいないの」
「……」
そんなことないよ。ボクがユメちゃんとトモダチになれたのは魔法使いさんのおかげなんだから――そう言いたかったのに、声が出せない。
ユメちゃんは「えへへ」と力なく笑った。
「だってね、ユメ、いっぱいおねがいしたんだよ。『またおともだちにあいたいです』って。でも、いっぱいないても、がっこうにともだちなんてひとりもいなかった」
ユメちゃんの声が震える。
ああ、やだな。またユメちゃんが泣いちゃう。
ボクはぎゅっと目をつむると、声を張り上げた。
「ユメちゃんっ!!」
飛びつくようにユメちゃんを抱き締める。ユメちゃんの顔を見ないようにきつく抱き締めながら、ボクは笑った。
「大丈夫。ボクはキミのトモダチだよ。だから、……泣かないで」
ユメちゃんがもぞもぞ動く。それでもボクが抱き締め続けていると、ユメちゃんはもごもごと言った。
「ありがとう。ウサくん、おうじさまみたいだね」
「……」
声で、ユメちゃんが笑っているのが分かる。ボクは思わず唇を結んで、言いたい言葉を飲み込んだ。
――ユメちゃんは、お姫様なんか、信じてないくせに。
「ウサくん、ユメ、のどかわいちゃった」
ボクは唇を結んだまま、なんとか笑顔を作ると、ユメちゃんから静かに腕を離した。ユメちゃんがボクを見上げて嬉しそうに笑う。
「ウサくんにも、のみもの、もってくるねっ」
「……うん、ありがとう!」
ねえ、どうして?
ボクの言いたい言葉に気付かないユメちゃんは、ボクから離れると、ぱたぱたとドアへ向かった。
どうして、「泣かないで」なんて同じことしか言えないボクに、キミは笑ってくれるの?
* * *
ユメちゃんはリンゴジュースを半分くらいまで飲むと、「ぷはぁ」と一息吐いて、ボクを見上げて嬉しそうに笑った。
ボクはベッドにもたれかかりながら笑い返す。ユメちゃんの笑顔は変わらない。きっとボクは上手に笑えているんだろうな。
「次はなにして遊ぶ?」
「んー、ちょっとまってて」
ユメちゃんは立ち上がると、机にコップを置いて本棚から一冊の本を抜き出した。ボクは表紙の絵で本の内容を思い出した。
「えっとね、んとね、あっこういうのやりたい!」
ユメちゃんはページを捲るのを止めるとボクにそのページを見せてくれた。大きく見開かれたページには向かい合って腕を伸ばしている一組の友達の絵が描かれていた。
「二人で歌に合わせて手を動かすんだっけ?」
「うん! 『てあそび』っていうんだよ!」
手遊びはユメちゃんが幼稚園で友達とよくやっていた遊びだ。夕ご飯の時に楽しそうにお話ししている声が聞こえていたから、よく覚えている。
「どうやって遊ぶの?」
ユメちゃんは目をまんまるにすると、嬉しそうに笑った。
「ユメがおしえてあげる!」
――そしてユメちゃんはボクにたくさんの歌を歌ってくれた。
歌に合わせて手を動かす。触れて、合わせて、音を鳴らして、笑い合う。ユメちゃんがたくさん笑いながら歌う。
キミの口から紡がれる歌は、キミが嘘吐きになる前に、よくボク達に歌ってくれていた歌だった。
* * *
たくさん遊んでいるうちに時間が来てしまった。パパさんが作るご飯の良い匂いがする。そろそろ夕ご飯だ。
漂ってくるみそ汁の匂いに気が付くと、ユメちゃんはうつむいた。
「……がっこう、いきたくない」
「ユメちゃん……」
ボクは今までヒトリだった時はなかった。ユメちゃんが幼稚園に行くようになる頃には、話せるようになった双子ウサギや灰色ウサギがいた。
でもボクは寂しかった。ユメちゃんにはボク達の声が届かないから。
それでも寂しさに押し潰されなかったのは、ボクにはみんながいたからだ。もしみんながいなかったら、ボクは寂しくて心が潰れていたと思う。
だからユメちゃんと話せるようになって寂しくなくなったはずなのに、みんなの声が聞こえなくなって――みんながボクを忘れて、どこか遠いところへ行ってしまったような気がした。
だから今のボクにはユメちゃんの寂しさがよく分かる。
「……話したいのに話せないのは、寂しいよね」
「……うん」
ユメちゃんがしょんぼりと頷く。ボクはそんなユメちゃんの頭を優しくなでた。
「――大丈夫だよ。明日も会えるから」
「ほんとっ!?」
びっくりした顔でボクを見上げたユメちゃんに笑いかける。
「『行ってらっしゃい』も『おかえりなさい』も言えるよ」
ユメちゃんが嬉しそうに笑う。大きな声を出しそうになったのか、ユメちゃんは慌てて両手で口を押さえた。
「っ、……あしたも、あそんでくれる?」
内緒話をするように、小さな小さな声で、ユメちゃんが言う。ボクも小さな声で、ユメちゃんに笑った。
「ボクはユメちゃんのそばにいるよ」
「やったぁ。ぜったい『いってらっしゃい』も『おかえりなさい』もいってね。やくそくだからね?」
「……うん、約束」
ユメちゃんは嬉しそうに笑うと、小指を差し出した。ずっと前、仕事が大変になる前に、よくパパさんかママさんがユメちゃんと小指を結び合っているのを見たことを思い出した。
ボクも小指を差し出してみる。ユメちゃんは自分の小指でボクの小指を掴むと、きゅっと握り締めた。
「ゆびきりげんまんっうそついたらはりせんぼんのーますっ――ゆびきったっ」
結ばれていた小指が、離れる。
ママさんが夕ご飯にユメちゃんを呼ぶ声が響いた。
「ウサくん、またあしたっ」
ユメちゃんが笑いながら部屋から出て行く。
ボクは去って行くユメちゃんの背中を見つめながら、体温がなくならないように小指を握り締めた。
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