第4話 長い前髪
第四話
冷たい水で顔を打つ。
この季節だというのに、水道の水は未だ冷たい。
その温度は、僕の寝起きの僕の目を覚まさせるには十分だった。
「…ふぅ」
濡れた顔をタオルに押し付ける。
顔を拭きながら、ふと僕は目を上げた。
鏡に映る少年の姿。
彼の長い前髪から、少し青みがかった目が覗いている。
……そう、僕は目が嫌いで。
僕はタオルを顔から離した。
ゆっくりと、鏡に顔を近づける。
鏡の向こうから、目が迫ってきた。
……僕は、目を見るのが嫌いで。
どうしようもなく苦手で、本当に無理で。
……だから、前髪を伸ばしているんだ。
「何やってるんだろ、僕」
僕は鏡から顔を離した。
馬鹿らしいな、こんなこと。
僕にとって長い前髪は、世界と自分とのバリアだった。
このどうしようもなく残酷で、安っぽい優しさで満ちた世界から自分を守るための。
……そして、自分がその安っぽい優しさをばら撒いて……不幸もばら撒いた事を見ないふりするための。
「ごめんね」
だから、僕は今日も目を隠す。
* * *
いつだったか、僕の両親も夢喰い狩りだったという話を聞いた。
……とは言え、僕だって二人が死んだ時幼かった。
“夢喰い”という存在もちゃんと知らないほど無垢な子供。
そうだ、僕が弟と共に孤児院に引き取られたのが5歳だったっけ。
そんな幼い時、両親が死んだ。
ちゃんとした思い出もないほど年端もいかない僕らを置いて。
……だけど、そんな僕にもひとつだけ焼き付いている光景がある。
両親が死んだ日。
両親から溢れたそれと同じ赫い目。
それだけは、10年くらい経った今でも、忘れることはできない。
それからだ。
僕が人の目をちゃんと見れなくなったのは。
* * *
「潮、潮!」
子供みたいにはしゃいだ声を上げて、仁科さんが洗面台に駆け込んできた。
「どうしたんですか、仁科さん」
僕は慌てて前髪を直しながら、彼の方を向く。
無表情な彼にしては珍しく、興奮気味に頬を上気させている。
「受かった…受かったぞ!」
「何に……?」
どこか得意げに彼が見せてきた書類が示していたのは_____
僕は、その文字を読み上げる。
「高卒認定試験……?」
その下には、仁科凪という字も丁寧に印刷されている。
「_____ってなんです?」
僕は首を傾げた。
高卒認定試験?
…聞いたことのない言葉だ。
彼は僕の言葉に、頷いて見せる。
「つまり、もう俺は大学受験できるってことだ」
「……はい?」
なんて言いました?
大学受験?
「あのな、潮」
はてなマークが脳に満ちている僕を尻目に、彼は言い放った。
「俺、大学に行こうと思う」
はっきりと言葉にされた、その思い。
……僕にはそれが冗談には思えなかった。
だってその目には_____
あまりにも……あまりにも強い決意が宿っていたから。
「この試験に受かったから、高校に行ってない俺でも大学受験が出来るようになったんだ。
……もちろん、金銭の問題は俺がバイトしてどうにかする。
奨学金も利用できれば、どうにかなるはずだ」
……黙ってて悪かった。
彼はそう付け加え、罰が悪そうに目を伏せる。
「…仁科さん…」
僕は口を開いた。
あぁ……この人は、どうして。
どうしてこんなに前に進もうとするのだろう?
僕も、彼も……どうしようもなく弱い。
そのはずなのに。
だけど、何故?
何故仁科さんは……こんなに…こんなに、強いんだろう。
「なんだ?」
僕に名前を呼ばれた彼が、目を上げる。
その時、僕は自分が彼の目をしっかりと見ていることに気がついた。
前髪の間を縫って、彼としっかり目が合う。
……だけど、怖くはなかった。
ずっと怖かったはずの、人の目。
そのはずだったのに。
彼の目を見ていても、不思議と恐怖心が湧かなかった。
「……ねぇ、仁科さん」
案外簡単だな。
僕はそっと笑う。
……僕も、彼も弱い。
だけれども、彼は……ただがむしゃらに前に進もうとしているから。
だから、僕は_____
「応援してますから!」
そう言って、彼にとびきりの笑顔を贈った。
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