けものへん
森川文月
けものへん
日本海のとある砂浜に男たちがひしめいている。その砂浜めがけて押し寄せる白い波頭が砕けては緑色の波にのまれていく。
兵庫県但馬(たじま)地方の小さな渚で、漁協の人間でもない男たちが紺色の作業着を身にまとい、白い長靴姿の出で立ちで作業にいそしんでいる。砂浜に打ち上げられる細長い褐色のワカメを朝からずっと愚直ともいえるほど拾い集めているのだ。ここには、特にワカメを加工する水産工場や輸送するトラックなども存在しない。ふだんから人気のない、うらさびしい小さな入り江には、男たちと二台のバンが停まっているきりである。
男たちは、ただひたすら無心になって、ワカメ採りの作業に精を出す。総勢で十数人の男たちの顔はいちように日焼けしていて、どこかの工事現場の日雇い労働者のように見えなくもない。
「こないにたくさんのワカメを集めて、どないするつもりですか」
背の低いひげ面の男は言った。
「ごちゃごちゃ言わんと作業に集中せえ。とにかく袋いっぱいにワカメを集めろ。そう上から言われとんねん」
「ちょっとぐらいなら、ちぎれとってもエエんですか」
「ちぎれとっても、たしょう傷んどってもエエ。手早く集めるんや」
リーダー格のがっしりした体格の男はかがんだ腰を真っ直ぐに伸ばした。男は思い出したように、喜色満面の表情を浮かべた。「エエ金になるらしいで」
「ホンマですか」
「但馬のワカメが札束に化けよるよってな」
その男は意味深長に笑った。
朝からざっと六時間ほどかけて、入り江に浮かぶ、もしくは砂浜に打ち寄せられたワカメを、手当たり次第にゴム手袋をはめた手で採り尽くした。
彼らのワカメ採りは但馬漁協の許可を得て正式に認められている。けっして勝手に採っているわけではない。きちんと申請書を記入し、使用目的や期日、時間、人数などを明確に決めた上で、但馬漁協から印鑑をもらい、ちゃんとお墨付きが出ている。
冬の但馬はカニが有名であり、京阪神方面からカニ目当てのツアーバスが毎年大勢の観光客を運んでくる。カニの水揚げが、ここよりもっと大きな港の冬の風物詩であり、観光資源の目玉と言っても過言ではない。
香住(かすみ)では、養殖ワカメの収穫体験も行っている。
「きょうは、この大きな袋三〇杯分のワカメを採るんや。エエな? わかったか」
「わかりました」
別の男が素直に承知する。
「ちょっと休憩しましょ」
ひげ面の男が懇願するように言い、リーダー格の男に申し出る。「水はまだ冷たいし、じっとかがむんも、ちょっとしんどなってきた」
その言葉につられるようにして、何人かの男らも浅瀬から砂浜に上がってくる。砂の上に車座になり、一同はどっかと尻もちをついた。
「だれがワカメなんかに目を付けたんですか」
「それは内緒や。わしらこの辺の人間なら、誰でも知っとる」
「そうですか。きっと頭のエエひとにちがいないわ」
ひげの男はさらに言った。「なにせ、ワカメなどというものは、なんぼでも海からやってくるさかい」
「そうや。そのとおりや。海からの贈り物をありがたく使わせてもらう」
リーダー格の男は顎に手をやり、満足そうに言った。「人のため、国のために、わしらは働いとるんやで」
単調な作業がさも尊いものであるかのように諭した。座っている作業の従事者たちはみんな無言で頷いた。
一五分ほどの休憩の後、
「さあ。つづきや、つづき」
休んでいる者たちに号令をかけて鼓舞し、自らも進んでワカメ採りに加わった。全員が腰を上げ、二月の海の中に入って作業を再開した。
その光景はその後も幾日かにわたって見られ、作業は場所を変えても行われた。
*
神戸市内の夜の公園で惨劇は起きた。
「コートを羽織った男が死んでいる」との一一〇番通報を受け、警官らは緊張した面持ちで現場に急行した。
ほどなくして、所轄の古矢(ふるや)刑事が現場で待機している警官らに合流する。うつ伏せになっている男の遺体の後頭部から地面に飛び散ったおびただしい量の血がいやおうなしに目に飛び込んできた。殺人事件なのは明らかだ。
「あんたが通報者ですか」古矢は訊ねた。
「はい。私が見つけて通報しました」
初老の男は飼い犬を待機させたままで、声をすこし震わせて言った。顔には怯えの色が浮かんでいる。
「他に目撃者は?」
「さあ、人が周りにいない時間帯だったので、なんとも……」
「では、男が倒れたときの状況を詳しく教えてもらえませんか」
「私はいつものように犬を散歩させておりました」
男は顔を犬の方に向けて言った。
「いつも通る道ですが、きょうにかぎって遅くなり、公園を通りがかったとき、偶然近くで男の悲鳴を聞きました」
「あんたの名前と職業は?」
「住谷(すみたに)義夫(よしお)。六九歳。無職です」
「単刀直入に訊きますが、犯人を見ましたか」
「見ました。後ろ姿ですが。おっかなくって」
男は背中を丸め、なおも怯えていた。
「ギャーと悲鳴があがり、大柄の男が走って逃げ去りました」
「そうですか。犯人は被害者をどうしましたか」
「暗くてよう見えへんかったけど、背後からなにかで殴りつけたようでした」
寒さも身に沁みる二月二日土曜日、夜九時過ぎのことだった。夕方から降り出した雨が上がり、付近のアスファルトで舗装された道路は濡れて濃さを増していた。灯りの少ない公園の真ん中で、被害者は地面と向き合うようにして倒れている。コートの上の方は遺体の血で赤黒く染まっていて、周囲はぬかるんでいる。飛び散った血がたまった雨水に流され、あたりは血の海と化している。
公園の四方は高層マンショと賃貸アパートに囲まれていた。現場には規制テープが張られ、警官と刑事課の古矢刑事らが遺体の様子を調べている。
三五歳の古矢は巡査部長から警部補になって三年、比較的恵まれた境遇だった。妻子を持ち、家族で暮らす毎日はそれなりに充実している。
殺人事件を受け、兵庫警察署に「神戸市会社員殺人事件捜査本部」が設置された。署長である五〇過ぎの池永(いけなが)修一(しゅういち)が総指揮をとり、古矢は部下で八歳下の立花(たちばな)主任らに混じって捜査を開始することになった。
鑑識係は足跡や血糊の写真を撮り、近辺の土などを採取した。
「遺体からすこし離れた場所のベンチにも足跡が多数あるんですが」
「それも写真に撮れ」
先輩の鑑識係が命じる。
「他の足跡の上から長靴のようなもので踏みつけられています」
「証拠隠滅か。エエから分かる範囲で写真に残せ」
「了解です」
「古矢警部補」
倉田(くらた)巡査が眉をひそめた。まだ二五と、若い巡査である。
「なんや」
「遺体の右手の地面に、指で書いたと思われるこのような砂の跡が」
倉田は被害者の手の先にある跡を指さした。被害者の右手の人差し指に濡れた砂がべっとりと付着していた。
「なんやろか、これは。けものへんにも見えるが」
古矢はペンライトで被害者の右手付近を照らした。
「それを含む漢字を書こうとした書きかけなのかもしれません」
「一種のダイイングメッセージというわけやな。鑑識は写真を撮ったか」
「はい。間違いなく撮りました」
雨上がりの地面に、指で「犭」と書かれた跡があった。古矢は夜空を仰ぎ、考え込むようにして首をひねりながら、「不思議やな」と感想を漏らした。
「はい。ちょっと意味不明です」
倉田は尻を落としてかがみながら、五〇センチ下にあるけものへんを指でなぞっている。
「財布の免許証から被害者の身元が確認されました」
倉田は免許証を古矢にかざし「被害者は野々(のの)塚(づか)弘(ひろし)、四二歳。遺体は服を身に着け、財布に金が入ったままです。強盗殺人ではないもようです」
「たしかにそや。争った跡もない」古矢は顎に手をやった。
「後頭部を鈍器のようなもので殴られ、血糊がべっとり付いています」
倉田巡査の言葉を証明するように、周囲には血が飛び散っていた。
「念のため、野々塚の携帯に登録してある自宅に電話をかけさせて妻に確認を取りました」
「で、どないやった?」
「野々塚はいつもと変わらず電車で通勤し、まだ自宅には戻っていないとのことです」
「では野々塚弘本人にほぼ間違いないな」
「はい。そのようです。念のため司法解剖に回してから遺族と対面させましょうか」
「そうやな。そうしてくれ」
遺体の身元確認は、鑑識係の方で照会することになっている。足跡や指紋、毛髪の採取などの作業は鑑識係にまかせ、さっそく現場付近の訊き込みを開始した。
訊き込みにより、サングラスをかけた男を、ここ数日のあいだに何人かの住人が目撃していることがわかった。その一帯では見かけぬ男だった。
あるものは、「男は大柄で角張った顔をしていた」と記憶をたどり、またあるものは、「髭は生やさず、坊主頭だった」と証言した。「わし鼻がとても特徴的で、頬はすこしこけていたわ」とはっきり覚えている主婦の言葉は、人相を特定する上でたいへん参考になった。
数人が署に戻って似顔絵捜査員の福(ふく)嶺(みね)に特徴を伝えた。
一〇分もたたないうちにその男の似顔絵が完成した。
「こんな感じになりましたよ」福嶺巡査が顔をほころばせた。
「よし。これをもとにして、さらに現場からもっと離れたところまで範囲を広げ、訊き込みをつづけよう」池永が命じた。
犯人の似顔絵を一五枚ほど署内でコピーしてから、捜査員らがコピーの紙を持って訊き込みを再開した。
兵庫警察署の刑事課の倉田と岡林(おかばやし)は、殺された野々塚の自宅を訪ねていた。免許証にある住所は殺害現場から目と鼻の先であった。自宅は住宅地にひっそりと佇んでいた。
夜遅くではあったが、建てられてからそう何年もたっていなさそうな、一戸建ての家の前で、二人は足を止める。
呼び鈴を鳴らし、「警察のものですが」と名乗る。すぐに、一見して妻と思われるショートカットの三〇代風情の女が玄関を開けた。
「はい、なんのご用でしょうか」
女の顔には陰気さが漂っていた。
「野々塚弘さんの奥様ですね?」
「はい。旦那がなにか……」
「さきほど警官が本人確認の電話を掛けたと思うんですが、お宅のご主人、実は今夜亡くなられましてね」
「え……。どういうことですか」
「すぐそこの公園で頭を殴られたらしく、死んでいました」
「そんなバカな。なにかの間違いでは」
「免許証と金の入った財布が残されていました。間違いありません」
女は黙ったままで、すこしのあいだ放心状態だった。
「司法解剖のあと、いちおう念のため、ご家族に遺体を確認してもらいます」
「わかりました」
弱々しい声で妻は了承した。小柄な体がいっそう小さく見える。
「遺体は他殺と見られますが、強盗殺人ではないようです。そこで、野々塚さんの交友関係についてお訊ねしたいんですが」
妻はやっと夫が死んだことを受け入れたらしく、大きな目から涙をこぼし、しばらく人目もはばからずエプロンで顔を押さえ泣いていた。様子に気付いた小さな娘が二階から降りてきたが、なんでもないのよ、と妻は娘をいちど抱きしめてから、「今夜は早く寝なさい」と命じて二階へ戻らせた。
目を赤く腫らしたまま、妻はハンカチ代わりのティッシュで目と鼻を押さえながら、倉田の質問に応じた。
「野々塚さんの同級生との関係について、ここ最近、なにかトラブルや目立った変化などをご主人の口からお聞きになったり、感じたりしたことはありませんか」
「いいえ、特にそのようなことはありません。高校の同級生とたまに会うことはあったようですが。その程度です」
妻はきっぱりと否定した。
「では、仕事上とか、プライベートで、なにか悩みやもめごとなどはありませんでしたか」
倉田はメモを取りながら、つづけた。
「いいえ。旦那は家では仕事のことを何も話さない人です。私はなにも知りません」
「奥様と知り合われる以前のご主人はどないでした? たとえば、特定の女性とお付き合いされていたとか」
「結婚してから一度だけ聞いたのは、豊岡に住む三姉妹と仲がよくて、その長女の方とお付き合いがあったとか。次女の方と旦那は同じ大学出身で、サークルの後輩やったそうです。その関係で、独身時代に豊岡まで出掛けたことがあると聞いていました」
「ほう、興味深いですね。わかりました。三姉妹の名前はわかりますか」
「ちょっと気が動転して思い出せません。そう言えば、旦那のつけていた日記に書いてあったのかもしれません」
「その日記帳と卒業名簿をお借りしてもかまいませんか」
「ちょっとお待ちください」
妻は階段を上がって、しばらくしてから日記帳と卒業名簿を持って戻ってきた。
「こちらになります。日記の方は、何年か分は抜けておりますが」
「それはかまいません。ありがとうございます」
倉田は三冊の日記帳と卒業名簿を預かった。
「それで、つづきですが、三姉妹以外で、最近、なにか気になった点などはありませんか」
「さあ……。そう言えば、税理士の仕事は一〇年以上やったから、もっと大きな夢を叶えたいとか言うてたような」
「なんでしょうか。その夢とは」
「私には、それ以上のことは言いませんでした。もともと口数の少ない人でして。仕事柄、取引先のことは言わないし、仕事中は取引相手とよく喋るせいなのか、家ではいたって物静かでおとなしかったですから」
「なるほど。よくわかりました。突然、亡くなられてお気の毒ですが、我々警察が必ず犯人を逮捕して、ご主人の無念を晴らしてみせます」
「ありがとうございます」
う、う、う……。妻はまた嗚咽を漏らした。
「では、またなにかありましたら、警察までご連絡ください。今夜はこれにて失礼します」
倉田と岡林は一礼して野々塚家を立ち去った。
「収穫といえば、豊岡の三姉妹か」
岡林は確かめるように倉田の横顔を見た。
「そうですね。かつて付き合っていて、わざわざ神戸から豊岡まで足を運び会いに行った間柄らしいですから。その三姉妹のことは日記でも調べてみます」
倉田はメモ帳を開け、書き込まれた細かい字を見つめた。
*
男は、壁際のデスクに座る白髪の男の方を向き直り、胸を張ってこう言った。
「どうやら相手を公園におびき出すのに成功した模様です。たったいま、妻からのメールで報告が届きました」
「そうか」
「相手はこちらの罠にかかりました。すぐに死亡することになるでしょう」
「それは嬉しい。あのお方にエエ土産話を持ち帰ってもらえるで」
「ごもっともです」
「あいつはウチの会社を事実上、強請(ゆす)っておった。当然の報いを受けるべきや。そないに思う」
「ウチは無視を決め込んでいましたが、事務所の経理もつぶさに調べたそうで。Sさんもあの税理士にはずいぶんとおかんむりだと聞いとりますが」
「ああいう輩が政治家になるとかなわん」
白髪の男は天井からぶら下がるシャンデリアに視線を向けながら、暗に同意を求めた。
「まったくです。細かい上に執念深く、その上に頭の切れるヤツというのは」
「あのお方でなくても消したくなるような存在やで。飛んで火に入る夏の虫というわけか」
「全くそのとおりです。本人にその自覚がないのが致命的です」
メールの字を再び見つめながら、男はゆっくりと頷く。
「うまく事が運べば、きみがあのお方の後釜になるのは近いはずや」
「そのときはどうぞお力添えをお願いします」
男は深々とお辞儀をした。
「身内やないか。そないにかしこまらんでもエエ。丁寧な言葉も使わんでもよろしい」
「はい」
「心配せんでもエエ。きっと上手い具合に行くよってに」
「私も期待しとります」
男は相手が死んだとの報告を待つあいだ、手洗いに立った。一階にあるトイレの窓から黒々とした林が見える。林の枝がときおり吹く冬の北風にあおられ、大きくしなっては元の位置に戻ろうとするが、反動がついて行ったり来たりしている。
夜中の国道の交差点の手前で、自宅に戻る途中の女は車を路肩に停め、ハザードランプを灯す。車中から携帯で男に電話を入れる。手にしていた皮手袋を片方外し、スマホの電話を操作する。
「野々塚さんは死にましたわ」
「そうか。死んだんか。これで第一段階は終わりやな」
「うまくいったわね」
「逃走用の車にヤツは乗ったな?」
「ええ、もちろん」
「凶器はどないした?」
「山奥の藪の中に捨てるつもりや、言うてました」
「警察に見つからんと帰ってこいよ」
「だいじょうぶよ。じゃあまた」
女は電話を切ると車を出し、深夜の山深い国道を日本海側へひた走った。
夜の道路は空いていて、山道を上っているとき、星が夜空に顔をのぞかせた。一つの星の寿命が尽きたような気がした。
女にとって、野々塚は思い出深い人物だった。男女の仲になった時期こそなかったが、他人から見れば恋人同然に過ごした時間を共有していた。彼が結婚し、家庭を持つようになってからは、税理士としての顔しか見せなかった。
そんな野々塚が死んだのだ。もう仕事であれこれとクレームをつけられることもない。その代償として、自分たちに警察からの捜査の手が及ぶかもしれない。でも、あの人は死ぬ運命にあったのだ――そう思うことで、残酷な仕打ちを正当化した。
家に帰ると、早く着替えてベッドで眠りたかった。今夜は滅多に飲まない洋酒を少し飲んで気分を落ち着かせて寝よう。
前方に霧が出てきた。フォグランプを点ける。見通しの悪い中を車は進み、道路の轍を頼りに安全運転で先を行く。
別荘のような屋敷の応接間で、男の義理の両親と姉妹二人、合わせて五人がくつろいでいる。暖炉に火を灯し、部屋は暖かい。
「姉さん、無事に帰ってくるかしら」
義理の妹が呟くと、
「心配しとるの?」
義母が訊ねる。
「だって……」
義妹がつづく言葉を飲み込む。
「心配する必要はない。涼しい顔して戻ってくる」
男は窓外の光景を眺めながら、ワインで喉を湿らせている。応接間のシャンデリアと暖炉の灯りで木々が照らされ枝ぶりが浮かび上がっている。ときおり吹く風に細い枝がしなりながら揺らいでいる。
男はこの家の婿養子で、屋敷の別館に先ほどの電話の女と一緒に暮らしている。女は男の妻である。
「別館は、エアコンだけで寒いことあらへんか」
義父が優しく言い、
「お義父さん、だいじょうぶですよ」
婿養子が目元に微笑みを浮かべる。
「これからいろいろとたいへんになる。なにか困ったことがあれば、すぐに家族で話し合うんやで」
義父が言い含めた。
「そうですね」
婿養子が相槌を打つ。
「自分の胸にしまい込んで悩みの種を増やさんようにせえよ」
「わかっとるわよ、ねえ?」
義妹が下の妹に同意を求め、
「そうよ。それぐらいわかっとる。もうエエ大人なんやし」
一番下の義妹は、父がくどいと言わんばかりの口調で、やや食傷気味に言った。
「とにかくきょう起きたことは人には漏らさんように気をつけましょう。こういうときこそ家族の結束が試されるんです」
婿養子が場をまとめる。
「今夜はぐっすり眠らなきゃ。おやすみ」
一番下の義妹が応接間を出て階段へ向かい、いそいそと二階の居室へ上がる。
「ほな、わたしも寝ることにするわ。おやすみ」
義妹二人がそろって二階の部屋に入る。それと同時に、壁の時計が一一時を知らせた。
婿養子が携帯でメールを送った。
《野々塚はヤツがやりました。計画どおりです》
しばらくして、返信メールが振動モードで携帯を揺する。
《ご苦労さま。次の計画にとりかかってくれ。報告を待つ》
婿養子は、さぞかしいい気分に浸っておられるだろうと相手のことを思った。
男は妻が帰ってきて寒がらないようにしようと思った。廊下を通って別館に行き、エアコンをつけて、部屋を温め始めた。
暗い部屋にオレンジ色の明かりが灯り、温風が循環し始める。計画も順調に進みだしたことだし、こちらには協力者がいる。腕を組んで壁掛け時計に目をやりながら、オーディオ装置でジャズを流し、妻の帰りを待った。
*
野々塚の人間関係を洗い出す二人組は、家族の次に、真宮理佳(まみやりか)という女をあたることになった。携帯メールの履歴と日記帳に記されていた女である。
若い警官も含めた三人は彼女の家で接触し、次のような証言を得た。
「野々塚さんが今夜殺された?……」
「ええ、そうなんです。なにか心当たりがあるんですね」
倉田巡査は静かに訊ねる。
「いいえ、特に。彼は私の知人でした」
「ほんとうですか? 妻子のいる野々塚さんと密会していたんでしょう?」
「どうしてそれを?」
理佳は目を見開いた。倉田の鎌をかける質問に、いとも簡単に引っ掛かった。
「やはりそうでしたか。それでは、ひとつ訊ねたいことがありますが」
倉田はそう前置きしてから、相手の表情を見る。「事件当夜、あなたはどこでなにをされていましたか」
倉田の強い語気に気おされたのだろうか。理佳はあきらめたようにうなだれ、口を割った。
「まさか殺されるなんてちっとも思わなかったです。今夜はカフェで簡単な食事を済ませ、私の運転する車でホテルへ行きました」
「何時にどこで別れましたか」
「私を疑っとるの?」
「いいえ。あくまで参考人として訊ねているだけですよ」
倉田は、意図的に穏やかな口調に戻した。
「夜の八時過ぎだったかしら。六角(ろっかく)公園で彼は車から降りて」
「そうですか。残念ながら、その公園で野々塚さんは九時ごろなくなりましたよ」
「そんなこと信じろと言うんですか? まだ信じられません」
理佳は狼狽し、「私、彼のことが好きでした。店も、彼のお陰で持っているようなものですから。死なれたら困るのは私の方です」
理佳は目で訴えるように倉田を見た。一滴の涙が頬を伝ったのをしおに、人目をはばからず泣いた。
倉田は岡林刑事と目を合わせて頷いた。この理佳という女は犯人や共犯者でなく、被害者との関係を素直に喋っていると判断した。
「失礼ですが、野々塚さんはどういう関係の会社に勤め、あなたの店とご関係が?」
「私はファッション雑貨の店を経営しています」
理佳は目頭を押さえながら、気丈にも話をした。
「経理がたいへんだから、ずっと税理士の野々塚さんに帳簿類を見てもらって経営のアドバイスを受けていました。彼の会社っていうのは、税理士事務所よ」
「よくわかりました」
そこで倉田に代わって、岡林が訊ねた。
「では質問を変えましょう。最近、彼の周辺で目だったトラブルや噂などはありませんでしたか」
「さあ、知らんわ。覚えてません」
理佳はそっぽを向き、それまでの従順そうな態度が一変した。横で聞いていた倉田は不信感を抱いた。なにかトラブルがあったと思わせるような口調とも取れた。
「しかたない。今日のところはこれまでにします」
拍子抜けするように岡林は引き下がった。
「なにか思い出したら、この番号まで電話してくださいな」
倉田は自分の名刺を渡し、岡林と制服の警官三人で理佳の家を辞去し、パトカーに乗り込んだ。
「どうです?」
助手席に座る倉田が、後部座席の岡林に訊ねた。
「野々塚はなにかトラブルを抱えていたにちがいない」
「私もそう思いました。そのトラブルに理佳も関係していそうなニオイがしませんか」
倉田は訊ねた。
「おおいにするな」
「私もそう思いました」
運転する高卒の若い警官も、倉田と岡林の意見に賛成した。
「仕事がらみで、税理士の野々塚がだれかの恨みを買った。そういうセンが怪しいと私は踏んでます」
倉田は黒縁の眼鏡の奥の鋭い眼差しを光らせた。
「どうしますか? 理佳をあのままにしておいても……」
「とりあえず泳がせてから尾行してみよう。野々塚の秘密を共有している理佳を狙って、犯人が姿を見せるかもしれない。その可能性は大だ」
岡林の読みは先を見越していそうだと倉田は思った。
兵庫署の古矢警部補は立花巡査部長を伴い、ネオンの煌めく夜の神戸の町に繰り出した。
殺害現場は密集している住宅群の中にぽつんとある公園だった。公園を取り囲むようにして戸建て住宅やアパート、マンションが建ち並び、これといった宿泊施設がないので、二人の刑事は神戸市街のホテルや施設、レストランなどを重点的に回った。
捜査開始から二時間くらいがたったころだった。海沿いの通りに建つ、とあるホテルの支配人から有力な情報が得られた。
大黒(おおぐろ)と名乗る支配人はやせ型で細長い顔をして、物腰のやわらかそうな人物だった。グレーの髪をオールバックにしている。
「警察のものですが、今夜起きた殺人事件のことでちょっとよろしいか」
「殺人事件? はい、なんなりとお訊ねください」
「この顔の男に見覚えありませんか」
古矢は似顔絵のコピーを見せ、カウンター越しに身を乗り出した。
「ああ。このお客様なら存じております」
「と言いますと?」
「当ホテルに連泊なさっていました。かれこれ二週間ほど」
「まだホテルに泊まっていますか」
「いいえ。今朝の九時半にチェックアウトされてます」
「ホテルまで来た手段は?」
「お車で来られたようですが、ウチの駐車場はあいにく満杯でして」
立花が席を外し、表に出ていった。
「支払いはカードですか」
「いえ、まとめて現金でした」
「こちらは任意の捜査ですが、昨夜の宿泊者名簿を見せていただけませんか」
「ようございます」
支配人はくるりと背を向け、奥の間に入っていった。ややあって、パソコンで印字された紙を持ってきて、茶色の光沢のあるカウンターに並べて見せた。
「名前は?」
「四〇八号室にお一人で泊まられた神里(かみざと)真一(しんいち)という方です。年は四三」
「神里真一ね」
古矢は名前と年齢をメモ帳に記した。おそらく偽名であろうが、犯人の似顔絵が功を奏したのは明らかだった。ちょうどそのとき、外に出ていた立花が走って戻ってきて、耳打ちした。
古矢はすぐさま携帯で署に電話を入れた。
「ああ、古矢です。犯人の泊まったホテル、分かりました。海岸通り二丁目の『ホテルエクシード』。犯人はそこに二週間泊まり、今朝出ました」
立花に目配せをして、
「偽名と思われますが、神里真一という名でチェックインし、今朝の九時半にチェックアウト。それと」いったん言葉を区切り、つづけて、「神里なる男は、ホテル専用の駐車場を使わず、少し歩いたところにあるコインパーキングを利用していました。目撃情報によると濃紺の軽自動車らしく、ナンバープレートはいまのところ不明です」
「そうか、分かった。引きつづき捜査してくれ」
午前〇時を前にして、署長の池永は、さぞかし古矢警部補を頼もしく思ったことだろう。
古矢らは男の足取りを追ったが、その晩は掴めず、深夜をまたぐことになった。
支配人の指示を受けた若いフロント係の男が手伝ってくれて、ホテルのエレベーターに設置した防犯カメラを解析した。その結果、神里と名乗っていた男の顔が映っているのを確認した。
「この人です」
ビデオに映った静止画像の男を指さして、大黒がきっぱりと断言した。その男は坊主頭だった。
「この人物にまちがいありません」
「この男が神里真一にまちがいないですね」
「ええ。はっきり覚えております。なにせ、二週間も連泊されてましたので」
大黒の力強い言葉に、古矢は満足した表情を浮かべた。
「ヤッコさん、カメラに堂々と映っとりますね」
立花巡査部長もにんまりと相好を崩した。
「たしかにはっきりと顔がわかる。このビデオを借りて、犯人の写真を作れるで」
古矢は得意顔で『ホテルエクシード』の防犯カメラの映像を借り、立花とホテルを出た。パトカーに乗り込み、署にビデオを持ち帰った。
兵庫署内でビデオから写真画像を作り、各捜査員の携帯に犯人の画像を添付して一斉に送信した。
深夜〇時、兵庫県警察本部から、刑事部捜査一課長の島崎(しまざき)警視と橋(はし)丸(まる)管理官が直々に捜査本部に加わった。
「捜査はどこまで進んでるんや」島崎が訊ねた。
「犯人の顔写真を手に入れました。いま、捜査員で手分けして、事件のファイルと照合作業中です」
署に戻っていた古矢が答える。
所轄管内はもとより、県内の他の警察署で起きた過去五年間の被疑者の写真と照合する手作業は、夜を徹して数時間に及んだ。
「あった。ありました」捜査員の一人が叫ぶ。
「どの男や」
古矢は、積み上げられた資料の山から問題のファイルに目を移した。
「この城島(じょうじま)という窃盗犯グループの一人に間違いありません」
「城島進(しん)一郎(いちろう)か」
「城島は、地元豊岡の繁華街にたむろする不良集団に属し、『半グレ』と認められる。そう書いてありますね」
神里真一はやはり偽名だった。三年前に豊岡で起きた窃盗事件の前科があった。いわゆる「半グレ」メンバーの一員であり、殺人事件の犯人の名前が城島進一郎であることがようやく判明した。事件発生から六時間が経過していた。
真夜中の町へと、古矢ら捜査員は再び散っていった。
兵庫署に設置された捜査本部のだれもが、面の割れた犯人を早晩に逮捕できるものと思っていた。
古矢も、けっして油断していたわけではない。初動捜査こそ時間がかかっているものの、捜査は流れるようにトントン拍子で進展したので、犯人を挙げる自信に満ちて、顔が上気していた。
古矢と立花は、犯人の潜伏していそうなホテルやネットカフェ、カラオケ店、深夜営業の飲み屋、遊興施設などをはじめとして、城島を運んだ可能性のあるタクシーやハイヤーなどにもあたってみた。
けれども、犯行後の城島の姿を見たという人間は現れなかった。
「ちくしょうめ。城島はどこに隠れとるんや」
古矢は苦虫をかみ潰したような顔になった。捜査員のあいだにも、しだいに焦りの色が濃くなってきた。
東の空が白々としてどんよりと曇ったままで夜が明け、日曜日の朝が来た。
「いいか。真宮理佳は言うまでもなく被害者と親密な間柄だった。彼女の店を徹底的に調べ上げよう。取引先までな。店の方は岡林に任せる。倉田は理佳の尾行の方を頼む。立花は私と古矢の三人で引きつづき城島の足取りを追うことにしよう」
池永に代わって指揮をとる橋丸は、捜査員らに指示を出した。
車を運転し、岡林は開店前の理佳の店『ジョリ・トワ』を訪れた。店は神戸市内の繁華街にあった。
「警察の者です。また失礼しますよ」
理佳は店の奥にいたが、すぐに気づき、
「何が知りたいんですか? 私は仕事の準備もあるし」彼女は口を尖らせている。
「ちょっと取引先などを調べさせてくださいな。すぐに済みますから」
「わかりました。取引先でエエですね? いまリストを持っていきます」
理佳の言葉に険があった。お洒落な店に不釣り合いな訪問客に対して苛立ちを隠さず、奥へ引っ込んだ。そのあいだを利用して、岡林は店内を見て回る。シャッターが降りていたので、店の照明をつけた。
『ジョリ・トワ』はファッション雑貨店というだけあって、アクセサリーや小物、バッグ、靴などがきれいに並べられている。通りに面した大きなガラス窓は小物やアクセサリーを中心とする棚で仕切り、ある程度の外の光を入れ、壁際は下段に小物や靴を、上段には皮革のブランドバッグや網かごなどを配置している。値段は四〇〇〇円台から八〇〇〇円台まで。手頃といえば手頃なのだろうか――お洒落とは無縁の岡林にはピンとこない世界である。和洋中というくくりで言うなら、アジア風ではなく、どちらかというとヨーロッパ風の雰囲気を醸し出している。それは、壁や天井、棚や椅子にいたるまですべて生成り色で統一されていて、床が明るい板張りだったせいでもある。
「気に入ったものでもありましたか? 刑事さん」
理佳が書類を手にして、その手を前に突き出す。
「おや、これはどうも」
妙な受け答えになり、首をすくめて取引先の書かれたリストを受け取る。
「ここ半年分の取引先よ。それ以前に取引しなくなった業者は省いてあるわ」
「これ、もらってもエエですかね」
「ええ、どうぞ。穴が開くまで見てちょうだい」
堂々と皮肉を言われても、いまの時点では、まだどの会社が事件と関わりがあるのか分かるはずもない。
岡林は書類をカバンにしまい、礼を言って店を出た。近くの電柱の後ろに覆面パトカーが待機している。言わずと知れた倉田が中にいて、こちらを見ていた。岡林は右手で髪の毛を掻き上げるふりをして彼に合図を送った。あとで倉田から聞いた話によると、けっきょくその日、理佳は開店から閉店まで店にいて、外出する様子はないらしかった。
岡林はその足で、野々塚の税理士事務所へ向かった。
事務所の主が殺され、雑居ビルの二階にある事務所は電話応対に追われていた。
「兵庫署の岡林です。失礼ですが、野々塚さんの関わった会社のリストなどをもらえませんか」
岡林の風体を見て、汚いものでも見るような目つきで、女の事務員が「ここのキャビネットにある会社です」と答えた。
ガラス張りのスチール製キャビネットを開け、中から重そうなファイルを取り出し、ぱらぱらとめくって、
「借りていきますよ」
と告げ、事務所をあとにした。
理佳の店と野々塚の事務所の書類を署に持ち帰った岡林は、島崎課長とともに、取引先のリストを調べる作業に没頭した。野々塚の仕事をした会社は当然ながら神戸中心であり、理佳の店の決算書なども含まれていた。
ここ半年から一年にかけて、なんらかの事件のあった会社を新聞記事と突き合わせ、片っ端から照合してみた。けれども、何の成果も得られなかった。
やがて昼どきになった。
昼になり、立花がいったん署に戻ってきた。立花を誘って昼を食べに外に出た古矢は、兵庫署員行きつけのファミレスに入った。行き詰まっている捜査のことは横に置き、話題は一昨日のことに及んだ。
――あれは、事件の前日の金曜日、昼過ぎのこと。
神戸市内で昼食をとろうと、ファミレスに寄った。午後一時半ごろだったはずだ。その時刻に兵庫署に電話を入れた履歴が携帯に残っている。
タバコをやめたお陰で禁煙席に通された。空腹だったので、運ばれてきたサーロインステーキにすぐ箸をつけた。
隣のテーブルの椅子に掛けている三人の女たちが、おしゃべりをしながら食事をしている。なんの気なしにその三人の会話が耳に入ってきた。
オレは隣のテーブルの女たちをよく覚えていた。話自体はたわいのないものだったが、三人全員が美人揃いだった。署内の女性警官には可愛いタイプはいるが、大人の女という点では、この三人の右に出るものはいなかった。彼女らは食後のデザートをゆっくり食べながら、話に余念がない。
どうやら三人の関係は姉妹らしい。話の内容から察するに、出張で豊岡から神戸まで営業に来た長女に、有給休暇をとった会社員の次女を加え、無職の三女がくっついて観光に来た様子である。
賑やかな嬌声が隣まで響いていた。神戸観光で回りたい場所の話から食べたいスイーツまで、まるで修学旅行の生徒のようなはしゃぎっぷりが伝わってきた。三姉妹は、細面で淑やかな長女、やや丸顔の次女、いちばん小柄で愛想の良さそうな三女という印象だった。
いかにも高価そうな毛皮のコートを脇に置き、大きなボストンバッグを床に置いている。ボストンバッグはきれいななめし革でできていて、金で縁取りがしてある。三姉妹はお揃いのショルダーバッグを肩から提げている。それぞれ、黒と白、薄茶色のバッグである。姉妹のつけている香水は柑橘系のものだ。香水の放つ匂いはとても爽やかな空気を周囲に振りまき、落ち着きと華やかさを感じさせた。
「サト姉。そのショルダーバッグ、似合てるね」
「ありがとう。さすがサマンサタバサのバッグよね。ドラマで女優が使うだけあって、エエ色とデザインやわ」
「サト姉ったらズルいんよ。自分だけが一番人気の黒にして。ウチも黒がよかったなあ」
三女は未練がましくぼやく。
「姉さんの仕事は何時まで?」
右に座る次女はじれったそうに言う。「まさかあの人と夜まで二人だけ?」
次女は笑って真ん中に座る長女の肩に手を触れる。
「商談で神戸まで出張に来たんよ」
「わかっとるよ。二人の邪魔はせえへんから」
「私には夫がいるわ。彼は過去の友人で仕事相手よ」
「そう割りきれるの?」右隣の次女は半分からかい気味だ。
「とにかく夕食までには話をつけるわ。そのあいだに二人で観光しといてよ」
「メリケンパークに行って、帰りに中華街でスイーツ食べて」三女の言葉を引き取るように、
「お土産はなにがエエと思う?」右端の次女が考えるようなしぐさを見せた。
「お土産ねえ。やっぱり神戸の洋菓子じゃないかしら。日持ちのするヨックモックの焼き菓子とか」
「百貨店にある?」
「『神戸阪急』にあるはずよ」長女はフォークで口にケーキを運びながら答えた。
「ほかにおススメの場所は?」三女が長女の顔を覗き込む。
「岡本まで足を伸ばせるなら、『ナイーフ』ね」
「なんのお店?」
「アジア雑貨が置いてあるの。食器とか掘り出し物が見つかるわ」
「へえ。そこ、エエなあ。ウチ、行ってみたい」
三女は甘えた声を出した。
「行こうよ、ヨシ姉」
「わかったわ。行きましょう」
神戸を中心に仕事をしているオレにとって、その三姉妹が話題にするようなところは、元『そごう』の『神戸阪急』以外は私事で訪れたことなど一度もなかった。
華やいだ会話と屈託のない笑い声とは対照的に、オレは黙々とナイフと口を動かし、ときどき彼女らの方を見て自然と話に聞き入った。
ただ、職業柄、刑事の勘というよりは予知的に、この美女三姉妹となにかの縁で関わりそうな気がした。それとは別に、虫の知らせがあったのも事実であった。なぜかと問われても答えようもないが、実際そう感じたのだからしょうがない。
「そういうことがあったんや」古矢は自慢げに語った。
「へえ。エエですねえ」
妻子持ちの立花でも羨ましいらしい。立花は運ばれてきたコーヒーを飲みながら相槌を打った。
「オレの親父が海運会社にいてなあ」
機嫌をよくした古矢はさらにつづけた。
「それがなにか」
「その美女三姉妹のことを親父に話したら」
古矢は思い出し笑いを浮かべた。
「なんですか? 話が見えませんけど」立花が話のつづきを促す。
「三つの胴体を持つ船みたいだ。そう言った」
「そんな船、あるんですか」
「あるらしい。高速船で、たしかトリマランっちゅうやつや」
「トリマラン?」
「そや。トリマラン」
「胴体が三つあると、いったいどないになるんですか」
「親父によれば、普通の船よりもゆったりして乗り心地がエエそうや」
「その三姉妹がトリマランねえ」
「船は輸送効率がよく、なんぼでも巨大化できる。エコでもある。親父の持論だ」
「ベタ褒めですねえ。そんな船が神戸の港を行き来しよるわけですか」
「海の安全を担う船があるように、われわれは町の安全を担っている。ちゃうか」
「まったくおっしゃるとおりです」立花は一瞬顔を強張らせ、キョロキョロと辺りを見回している。
「こらこら、タチさん。そんなことをしても今日はトリマランはおらんぞ」
立花より年上の古矢は、笑ってたしなめた。
昼食から署内に戻ると、先週の酒の席での話題が出た。古矢は酒が入るとダンディな容姿が一変し、へべれけのおっさんに早変わりしてしまう。残念なことだが、本人にその自覚はない。
「古矢係長は、また酔ったふりして、若い婦警相手にセクハラ発言をしてましたね?」
婦警が目くじらを立てる。
「オレ、なんか言うたか」
「まあ。平然とよくそんなことを」
「いやぁ、気持ちよう酔うてた記憶しかあれへんけど」
「私に向かって、なんて言ったと思いますか」
「覚えてへん」
「彼氏おるんやろとか、黒のストッキング履くんは欲求不満の証拠やとか、ここでは言えないような下ネタとか」
「記憶にないな」
「呆れた。それはもう酷くて、席を替わってもらったほどでしたよ」
「ホンマか」
「ホンマにですって!」
婦警はむくれた。
「怒っとるなら謝る。すまんかった」
「セクハラばかりしとると、出世できませんよ」
「まあ、許せ。仕事は人一倍、一生懸命に取り組んどるんや」
「さあ、どうやろか。口ばっかしで」
「オレ、やることはやっとるよな」
「古矢さんはやり手ですよ。酒と女癖が玉にキズですけど」
立花が弁護し、古矢から離れたところで岡林が笑っている。
「フルさんはキズだらけのようだな」
「課長までが、そんな」
刑事課内は笑いに包まれた。
*
野々塚は死ぬ数時間前まで、己の運命のいたずらを知らなかった。不幸な行く末を知るどころか、愛人の理佳と幸せなひとときを過ごしていた。特別な逢瀬ではない。ここ数か月、頻繁に繰り返していることである。この日、理佳は早めに店じまいをしていた。野々塚も税理士事務所には、「外出して直帰する」と告げていた。
夜のカフェテラスでくつろいでいると、神戸で過ごしたさまざまな思い出が野々塚の胸に去来する。学生時代に巡った異人館。六甲山から眺めた一〇〇〇万ドルの夜景。復興の灯りの下を歩いたルミナリエ。どれもが懐かしく、まるで昨日のことのように感じられた。
彼にとっての神戸は二つの顔を持つ。昼の顔はツンとした高級マダム風であり、夜の顔は華やかな夜景を舞台にアドリブ演奏を聴かせるジャズ奏者のようだ。そんな勝手な決めつけをし、夜の町を見てまどろんでいると、
「ねえ。なに考えとるん?」
理佳が猫なで声で、あごを両手の上にのせ、こちらを見つめている。
「なんもあれへん」
「うそよ。昔を振り返ってます、って顔に書いてあるわ」
理佳の勘もたいしたものだ。
「神戸で生まれ育ったからな。ちょっと思い出に浸っとった」
野々塚は本当のことを白状し、レシートをテーブルから摘まむと、会計をカードで済ませた。
理佳が駐車場から車を回し、助手席のドアを開ける。背中で港の霧笛を聞きながらBMWに乗り込んだ。
車は西へ向かい、鮎川筋を北上して高架の線路をくぐり、山手幹線を東に走ってすぐにハンター坂のコインパーキングで停まった。駐車場から歩いて、二人は堂々とハンター坂のホテルに入る。加納町のホテルといえば、いつもここ、『ロコ ポルティ』を利用する。
外の階段をトントントンと登り、小さめのドアを開けて中に入る。部屋は二〇三号室で、外に向いた窓にはえんじ色のカーテンが引いてある。
野々塚はすぐに上の服を脱ぎ、上半身裸になった。理佳も合わせるようにして無言で手早く服を脱いだ。彼女はベッドの横に服を畳んで置き、下着も取ろうと手をかけた。野々塚は強引に彼女を抱き寄せ、待ちきれんとばかりに、小柄な理佳の豊満な胸を露出させ、きつく手で愛撫し出した。理佳の下着をすべて脱がし、下腹部に手をあてがうと、熱を持った陰部はしとどに濡れていた。
「電気消そうよ」
「ああ」
理佳はベッド脇のスイッチに手を伸ばし、部屋の照明を落とす。暗がりの中で二つの体が溶け合った。夜の六時過ぎから二人はベッドの中で交わり、互いに男と女の昂ぶりをぶつけ合った。
野々塚の行為自体は早く済む方なので、妻とのセックスとは違い、ねちっこく前戯に時間をかけた。早く済まそうと思えばいとも簡単に終了してしまうので、行為の途中で男の象徴を抜いては焦らし、理佳のハリのある太腿に押し当てては彼女の身悶える様子を楽しみながら、またゆっくりと挿してやるのだった。
セックスを楽しんでから、バスルームに入る。ふだん見かけないようなボディーソープを敬遠して使わず、シャワーのお湯だけで体を適当に流しておく。裸のままわさわさとバスタオルで全身をふき、そばにあった携帯の時刻に目をやった。
「時間、気にしとるん?」
「娘を迎えに行く約束がある」
まだ晩の七時を回ったばかりだった。
袖に腕を通し、ズボンを穿いて、野々塚の方から話を切り出した。
「理佳の店、当面は安泰やな」
「それも野々塚さんが税理士として関わってくれたからよ。ありがとう」
「礼には及ばんよ。お金をもらって税金の助言をするのがおれたち税理士の仕事やからな」
「それにしても、今年度の決算、ひやひやしたわ。なにしろ、消費税が八パーセントから一〇パーセントに切り替わった年やから」
「ちゃんと領収書やレシートを保存して帳簿をつけておけば、恐れることはない。経費として落ちるもんは落ちる。だいじょうぶやで」
「そやけど、もしなにかの手違いで、一〇月前の利益の一〇パーセントを税金として持っていかれたらって思うとドキドキしたわ」
「そんなこと絶対にあり得へんから」
野々塚はベッドに腰掛け、理佳の杞憂を笑った。
ホテルを出たBMWの車中でも、話題は仕事に集中した。
「店を始めてもう三年たつのね。早いわ」
「三年にもなるか」
「ええ、三年よ。よう持った方よ」
「長かったな」
「そうでもないわ。感慨深いだけよ」
「従業員はパートの女の子だけでやれとるんか」
「なんの問題もないわ。私が三六で、私よりひと回り下の子なの。それよりねえ」
急に甘い、せがむような声を耳にし、野々塚は逢瀬の約束かと思ったが、
「これからも店の経理、お願いするわね。ずっと、ずっと」
「そういうわけにはいかんかもしれん。おれも男や。でっかい夢がある」
「夢?」
「ああ、夢や。けど、そう遠くない夢なんや」
野々塚は前のめりになってフロントガラスを見つめる。
「そろそろ六角公園や。夢のつづきは、また今度、時間のあるときに」
野々塚はそう言ってシートベルトを外した。車は住宅地に囲まれた公園に差しかかった。公園の入口で降りて理佳に手を振り、別れた。
自宅まで五〇〇メートルのところにある公園に吸い寄せられるようにしてやってきた。暗がりで見る携帯のラインには、
《六角公園で九時まで友だちと遊んでるね あゆみ》
の文字がバックライトで白く光っている。
一人娘のあゆみは、塾が終わると近くの公園で遊んでから帰宅することが多い。野々塚はときどき公園にあゆみを迎えに寄っている。その光景を二つの目が物陰から覗き見ているときもあった。
雨上がりで地面はぬかるんでいた。携帯の画面の光を頼りに暗い公園を歩いていたそのときだった。
後ろで人の気配がしたと思った瞬間、意識が飛んで気絶した。痛みが押し寄せる中、あの世へつづく道をわたる前に、だれかに待ち伏せされたという無念の思いが彼の右手を動かそうとした。そこから先は意識が薄れた。
*
初動からかなりの時間がたっていた。いぜんとして城島の足取りは掴めない。捜査本部に目立った動きはなかった。
午後二時過ぎに開かれた捜査会議で刑事の一人が発言した。
「城島はもう神戸を去ったんとちゃうか」
「親しい仲間が匿っていて、そいつの家かどっかに潜伏しとるんでは?」
「いや、ひょっとするとどこかで殺されたかもしれんで」
突然、会議机をバンと叩き、年嵩の一人の刑事が吠えた。
「それなら遺体が見つかってもエエはずや。なんの連絡もないのはどういうことや!」
古矢は刑事たちの諍(いさか)いを止めようとして、
「いま、犯人の持ち物と鑑定された長靴を製造業者に照会中です。ホテルの監視カメラから作成した顔写真も各方面に配布済みです」
古矢はさらに声を張り上げた。「それより、犯人がなぜ税理士の野々塚を殺したのか。そのスジを読みましょうよ」
「たしかに古矢刑事の言うことは的を得ています。野々塚が顧客とトラブルを起こしていたとかいうことはありませんか」
「家族に訊きましたが、仕事上で困っていることは特になかったと」
「野々塚の母校の同級生にも手広くあたってみましょう。家では話さなかった情報が得られるかもしれません」
「その可能性はあると思いますよ。家族に隠れて愛人を作るような男です。家ではあまり酒を飲まないらしいですし、外で発散して家では語らない秘密をポロっと漏らしていたのかもしれませんし」
「その意味で言うと、真宮理佳から再聴取すべきですね。もっとネタが取れそうですよ」
「妻の証言によれば、『夢を叶えたい』と野々塚が言ったらしいです。どんな〝夢〟なのか、調べてみる必要があるのかもしれません」
さまざまな意見と情報が出たところで、捜査本部を仕切る橋丸は、
「犯人を追う班は、引きつづき城島をマークしてくれ。訊き込みを中心にして。一方の被害者に関しては、彼の友人を重点的にあたってくれるか」
「承知しました」
古矢が代表するように大きな声を出して椅子から立ち上がる。他の刑事たちもそれを合図に捜査本部から次々と出て、再び車に乗り込み町へと消えていった。
犯人を捜す班の古矢は、立花とともに訊き込みを再開した。あれほど事件前に目撃されていた城島が、事件後ぷっつりと姿を消した。まるで手品を見ているようで不思議だった。
古矢は現場から少し離れた町までやってきた。
立花を連れて雑居ビルの中にあるカラオケ店内に入り、受付で警察手帳を提示する。
「警察のものですが、この写真に写っている男に心当たりはありませんか」
「さあ、見かけませんでしたね」
「だれか他の従業員の方も見てませんか」
「ウチもそうですが、深夜は若者中心なので、こういった中年のお客様が来られたら覚えているとは思いますが。店長に訊いてみますので少々お待ちを」
派手な音や歌声が鳴り響くカラオケ店の受付前で、しばらく待たされた。
やがてすこし落ち着いた雰囲気の男が古矢らの前に姿を現した。店長の男と思われた。店長かと問うと、そうです、と答えが返ってくる。彼は三〇前後に見え、店員と同じ制服を身に着け、ネームプレートを胸につけていた。
「警察の方がどういったご用件で?」
相手はすこし身構えた。
「兵庫署のものですが、昨夜事件がありましてね。この写真の男に見覚えや心当たりはありませんか」
古矢がさきほどと同じ台詞を繰り返す。
「この人ですか? さあ、ちょっとわからないですね」
店長は明言を避けた。
「わかりました。もし、なにか気づいた方や気になることがあれば、警察の方まで連絡してください」
「ええ、承知しました」
店長の目を見てから、古矢は立花の肩を叩き、雑居ビルの階段を足早に下りて、地上に着いた。
「やはりダメでしたね」
立花が残念そうな顔をして唇を噛む。
二人は駅前まで歩き、タクシー乗り場の数台後ろの運転手を捉まえて訊ねた。
「警察のものやけど、昨夜九時以降からきょうの昼にかけて、この男を乗せた運転手はおれへんか」
「わたしは乗せてません。無線で仲間に問い合わせましょうか」
「お願いするわ」古矢は無線機を持った運転手に頼み込む。
「こちら三七号車の松阪(まつざか)。警察からの問い合わせで、昨夜九時からいままで、四〇代半ばの坊主頭の男一名を乗せたドライバー、いますか」
しばらく無線の反応を待ってみたが、だれからも応答がない。
「すんませんな。ウチのタクシーではだれも乗せとらんようですね」
「そうですか。ご協力ありがとうございました」
古矢はなおも粘って、色のちがうタクシー二、三台を呼び止めて、同様のことを質問してみた。収穫はなく、がっくりと肩を落とした。
「タチさん、城島の影も形もあれへんわ。車で神戸から逃げたんとちゃうか」
「私もそう思っていたところです。城島の現住所は豊岡市です。私が城島なら、いちどは車を使って自宅に帰るでしょうね」
殺人事件から一日がたった。
夜の八時過ぎのことだった。
「明日の昼から豊岡市に出張する。泊まる予定なので、帰って準備を整えろ」
兵庫県警本部より捜査本部に派遣された橋丸管理官は、所轄である兵庫警察署の古矢刑事、立花刑事にくわえ、二人の刑事に命じた。
「フルさん、ちょっと」
刑事課課長に手招きされ、古矢は席を外し課長のそばに歩み寄る。
「捜査の進展はどうや」
課長が声のトーンを落として訊いてくる。
「初動捜査こそ手間取りましたが、必ずや犯人を挙げてみせます」
根拠の薄い自信の表明に、課長が胡散臭そうな目を向けてくる。
「現場でなにか不審な点はなかったんか」
「公園のベンチの周囲のあちこちに、踏み荒らしたような長靴の跡がありました」
「それで?」
「どうやら犯人と一緒にいた人物の足跡を消そうとしていたようで、どう見ても不自然でなりません」
「興味深いな。犯人とその連れの人物が、犯行前にベンチ付近で待ち伏せしていたのか」
「はい。間違いないですね。野々塚の携帯には、六角公園で遊んでいるとの、長女になりすましたSNSのメッセージが届いていました。野々塚の長女に確認したところ、その日は塾が休みで、午後七時にはすでに帰宅し、ずっと居室にいたとの証言が得られてます」
「周到に野々塚をおびき寄せ、足跡も工作したのか。で、ダイイングメッセージの方はどうなっとる?」
「例のけものへんの指す人物の絞り込みは難航しています。ただ、雨で地面が濡れていたとはいえ、一センチほどの深さまで瀕死の人物が指で字を書けるほどの力が残っていたとは考えにくいのです。オレは疑問に思いますね」
「と言うと?」
「犯人もしくは連れの人物が、被害者の指を持ち上げ、習字の筆の要領でけものへんを書かせた可能性が高いとの仮説を立てました」
「なるほどな。だれかがダイイングメッセージに見せかけたのか」
「確たる証拠はありませんが、字の深さが一様で、けっこう力を込めてあるので」
「まあ、犯人を逮捕すれば、それもわかることだろう」
「はい。全力をあげて、早期に捜査を終わらせます」
古矢は課長が知りたいことに対して丁寧に説明し、最後は力強い決意で締めくくった。
*
古矢はいつも深夜に帰宅することが多い。今宵もそのとおりになった。
家人を起こさないようにそっと廊下を歩く。寝室でパジャマに着替え、床に就く。
部屋の扉の向こう側で冷蔵庫のモーターが不快な低い音を立てている。
ブーン。
大きな音だ。虫の羽音のようで、地を這うような鈍い唸り声にも聞こえた。パタン。静まりかえった家に、冷蔵庫の扉を軽く閉めた気配がした。
誰だ、こんな真夜中に。眠くなければ確かめるつもりだったが、体がだるくて起き上がれなかった。一(かず)真(ま)がまたジュースを飲んでいるのか。妻の言ったことは本当のようだった。息子も小学三年生だ。そろそろ冒険心が芽生え、夜中に眠れなくなることもあるのだろう。
聞き耳を立てているうちに、しばらくして椅子を引く音が聞こえてきた。やっぱり、一真だ。一人っ子とはいえ、小三で個室を与えたのはよかったのだろうかなどと考えているうちに眠気が勝り、寝入ってしまった。
月曜日の朝を迎えた。闇が明け、まどろみの中のけだるさが肌を包み込む。
古矢は寒い朝の空気に体を震わせながら、カーテンを引いて外の天気を確かめた。ぶ厚い雲のすき間から太陽が一瞬だけ顔をのぞかせ、すぐに陽光は雲に遮られた。
前日の晩のことはとりたてて咎めないことにした。
台所手前のゴミ箱を開けると炭酸ジュースの容器が捨ててある。このゴミが存在する理由について、もし妻の立場なら一真をきちんと問いただして叱ることで躾けられるだろう。残念ながら、彼は子どもを甘やかす係である。役割を急に変えるわけにはいかない。
居間に移動して食卓に目を移すと一真が掌の上のゲーム画面を観ている。今度はゲーム機をテーブルに置き、欠伸をしながらランドセルの中身をいじり出した。妻はエプロンを着けた背中をこちらに見せ、弁当を作っている。
「きょうは何かの行事なのか」
「社会見学だよ。パパ」
一真が的確に答える。よく把握しているものだ。給食でない理由を訊くことで親子の会話が成立し、少し安堵する。
持っていく弁当をチラリと見る。小さいおにぎりが三個並び、ポテトサラダとミニトマト、玉子焼きが既に黄色の弁当箱に詰められている。あとはサニーレタスの上に妻が何かをのっければ完成なんやろうな。
ジャーという油のはねる音がした。推察するに、豚カツでも揚げているのか。
朝食を摂りながら、ふと先週の火曜日の晩を思いだし、唇と口腔の中が粘ついた。
酔って帰った玄関先で妻に問い詰められた。男の下半身の事情聴取である。
「ちょっと、あなた。このカードはなによ」
「なんやねん、カードって」
「覚えてへんのね。『おっぱぶ 織姫』って書いてあるわよ」
「それは、付き合いで入った店や」
「そこでなにをしたの?」
「若い姉ちゃんと話しただけや」
「へえ。話しただけでお金を取るの?」
「あのなあ。ちょっと胸を触っただけや」
「また、そういうことをして。この助平男」
「若い姉ちゃんのおっぱいは、ふわふわして最高や」
「なに言うとるの! 一真に聞こえたらどうすんのよ。恥知らず!」
「一真もいずれ、おっぱいを追いかけるんや。親子には同じ血が流れとる」
「はあ、この先が思いやられる。すこしは反省しなさい」
「すまん。酒が入ると、つい陽気になんねん」
「それだけじゃないでしょ?」
「え?」
「浮気しとるんちゃうの?」
「と言いますと?」
「この前の夜、脱いだシャツに女物の香水の匂いがしたわ」
「ばれたか。すまん、あれは遊びや」
「その前は、帰ったら変なボディーソープの匂いがして。どこのホテルのソープだったっけ? え?」
「そんなこともあったな。これからはボディーソープに気をつけるわ」
「違うでしょ? 裸になるようなこと、なんですんの。いやらしい」
「重ね重ね、すんません」
「まったく、あなたって人は。懲りん人やね」
「許してえな、晴美(はるみ)ちゃん」
「そんな名前で呼ぶな! これから裸になりなさい。変なところでおかしな香りをつけてないか毎回チェックします」
「ひええ。わかった。裸になんねんな」
「ちょっと。私は裸にならないのよ。なに、私の服、脱がそうとしとるんよ」
「裸が最高! すっぽんぽんや」
古矢は酔っぱらった勢いであっという間に服を全部脱ぎ、一糸もまとわぬ姿になった。
「晴美も裸になれよ。一緒に風呂に入ろう」
「私はもう入りました」
「そんなこと言わんと二人で入ろう。触りっこしよう」
「子どもみたいなこと言わへんの。さあ、チェックよ」
晴美は脱衣所で裸になった古矢の首筋や脇、胸、股間などを嗅いで回った。
「どうや。なんぞ匂うか」
「アルコール臭いわね。エエ匂いはきょうに限ってセーフね。これからも抜き打ちで裸にするからね」
「なあ、今晩どう?」
「酔った勢いでするなんて嫌よ。早く寝間着に着替えて寝なさい。この酔っ払い」
晴美の口調は忌ま忌まし気だった。
美人が歩いているとついデレデレしてしまい、すれ違いざまに反射的に後ろを振り向いてしまう癖がある。勤務中ならば、できればいろいろと職務質問して話してみたい。そういう願望に心を奪われることがたびたびある。
今回の事件でも、あの二月一日の金曜日が痛烈に頭に残った。ファミレスで隣に座っていた美人三人に目が釘付けになった。彼女らを見て、思わず生唾を呑み込んだ。それほどの美しさである。
女房の晴美とは、いまから一一年前、クラブで出会った。その日は非番だった。若かった古矢は、同僚を連れて踊っていた。ふと見ると、フロアで踊る晴美の横顔とスタイルの良さにベタ惚れし、すぐに交際を申し込んだ。首尾よく結婚まで漕ぎつけたものの、この一〇年でなんど浮気をしたことか。そのたびに玄関で土下座して謝った。
妻の孤独を理解していなかった。
ドレッサーの引き出しの奥にしまってある日記を発見したとき、読んではまずいという意識より、書かれている内容を知りたいという気持ちが勝った。パラパラとめくり、日記の一部を読んでみて驚いた。
夫の知り得ない妻の内面が生々しく書かれてあった。妻の気持ちが少しだけわかり、自身を情けなく思った。
一月二四日、木曜日。雨。毎日ほとほと厭になる。夫を殺したいわけじゃない。ただ、ほんの少しばかり一人になりたくなるだけだ。自分が背負った運命と子どもの未来。夫を抜きにして、それらを想像してみたくなる。なぜだか分からないが、母親とはそういう存在なのであろう。それをママ友たちに言うと、分かるわよと頷かれ、自分だけが特別な存在じゃないことに安心した。
日記に綴られた内容は赤裸々な心情の吐露で、妻の抱える暗い内面を照らしていた。
古矢は日記の文字が呪文のように蘇り、思わずむせかえっておかしな咳を二、三度した。妻は夫の異変に気付かず、黙ってカツを弁当箱に詰めていた。
一真のカバンに弁当箱を入れたあと、晴美は大きくため息をついてソファーに腰を下ろした。頭を押さえて目をきつく閉じ、とても辛そうな顔をし、ウンウンと唸っている。
「例の頭痛か」
「ええ」
「インターネットで調べたったで。コーヒーを飲むか、アイマスクをしたらエエ」
「じゃあ、アイマスクをして横になる。あなた、アイマスク出して」
「えーと……。どこやったっけ?」
「三年前、ハワイに行ったときに使うたやろ」
妻の口調にきつさを感じ取った。
「ああ、クローゼットの棚の上や。そこにあったはず」
古矢は慌ててリビングから寝室に行き、ウォークインクローゼットを開けた。これ以上妻の機嫌を損ねたくないという思いが行動を素早くさせた。
ウォークインクローゼットの左側の棚の上段にピンク色のアイマスクがあった。それを取り、急いでリビングに向かう。
晴美は相変わらず、頭を押さえて呻いていた。アイマスクを手渡すと、「ありがとう」と礼を言った。苦しそうな声色だった。
「コーヒー飲むか」
台所に行き、湯を沸かし始める。
「今はエエわ」
アイマスクをした妻は、痛みが去るまでコーヒーを口にしなかった。
沸いた湯で自分のコーヒーを淹れ、食パンを電子レンジでトーストした。
持病の頭痛は、二〇代の頃からだそうだ。色々なクリニックに通った晴美だが、結局薬で痛みを止めるしか解決法がないらしい。厄介なことだと憐れんだ。痛みを引き起こす根本の原因が不明なのだ。
固定電話からファックスを知らせる音声が鳴り、カタカタと用紙が動き始める。ピーっと終了の音が鳴った。捜査本部からだ。兵庫署古矢警部補殿――。
少し痛みが引いたのか、妻は薬箱から薬を取り出した。台所に行って水道水を出した様子である。水がコップに溜まる音がする。
薬を飲んだのだろう。機嫌を損ねないよう、古矢はテレビを消して新聞に目をやり、黙って焼けた食パンをかじった。
こちらも出張の支度があるので洗面台に立ち、歯を磨いて髭剃りをしていたら、妻の方から声を掛けてきた。
「少しマシになった。調べてくれてありがとう」
もう、いつもの優しい妻に戻っていた。イライラしているときとは別人格のようだ。
「別に礼なんていらん。水くさいやろ。家族なんやから」
古矢はこともなげに言って鏡に映る自分を見た。上出来だよ、と鏡の中の自分が古矢に対して親指を立てているような気がした。
鏡に映る、晴美の選んでくれた洋服を見て、
「痛みがひどなったら、必ず病院に行くねんぞ」
と小さな声で言う。ファックスに目を通し、出勤の支度を整えた。
玄関の扉を開け、エレベーターで一階に降りる。車を駐車場から出してマンションを出た。兵庫署までの道のりがいつもより遠く感じられる。とりとめのないことを考えていると、交差点で赤信号に引っ掛かりブレーキを踏んでいた。習慣が無意識に体を引っ張ってくれる。
古矢は精神的な圧力と闘っていた。マイホームのローンに加え、車のローンもある。神戸市内に新築分譲のマンションを見つけ、ローンを組んだ。自分の優先順位より、家族優先の生活を考え、マンション選びを計画した。それでよかったのだ。古矢さえ我慢すれば。妻と子どもらの喜ぶ顔が一番だ。
西に向かって車を走らせると、兵庫署前の大きな交差点ですこし渋滞していた。サラリーマンの通勤地獄より、まだ朝の渋滞の方が気楽である。すこし我慢すれば通勤電車のすし詰めを耐えるよりもマシだし、精神的な負担ははるかに小さいと思っていた。
大学を出て兵庫警察署に勤め、もう一三年。階級は警部補。憧れて入った警察の世界だが、数年も経つと組織の内情が見えてきた。甘い、生半可な考えでは出世やライバルとの競争からふるい落とされそうだった。昇進試験もしんどかったし、思った以上に資料作りに時間をとられ、事件を抱えているときは残業しなければ書類が片づかない。
仕事がきついと感じたときは、トイレに行って顔を洗ったり、喫煙室に入ってタバコを吸ったり、家族勢揃いの七五三の写真を見たりして、元気を出していた。
刑事課のなかでも強行犯専門の係に属し、殺人や強盗などを扱うのが仕事だ。早期に犯人を特定し、捜し出して逮捕しなければならない。犯人を逮捕したら、自供させるのは別の刑事が担当する場合もあれば、古矢が担当の場合もある。逮捕から四八時間以内に送検するよう規則で決められている。送検後は検事の取り調べもあれば、警察の取り調べも引き続いてある。逮捕日から数えて二三日以内に起訴か不起訴が決まり、拘留期限までに証拠を揃えて検察に提出しなければならない。
遅くまで供述内容や物的証拠のなどの書類作成の仕事を抱え、深夜に車で帰宅する。部屋で電気をつけてパジャマに着替え、やっと心が解放される。あとはベッドの上で泥のように眠るだけである。
渋滞の時間帯をやり過ごし、いつものように警察署の駐車場に車を停めた。
家庭内は、その日まで何ごともなく、起伏の少ない日々がつづいていたはずだった。
あれは一週間ほど前、一月最後の土曜日――殺人事件の起きる以前の平穏な日――だった。
一真が英語塾から帰ってきて居室に閉じこもっているあいだのことだ。友だちと一緒にそこへ通っている。
晴美が古矢の方へ歩み寄ってきた。
「晴美、どないしたんや」
晴美は、誰も聞いてないのに声を落として話し始めた。
「一真のことで困っていることがあるんよ」
「何や? 言うてみ」
「実はね。あの子、夜中に冷蔵庫を開ける癖があるの」
「ああ、知っとるで。そんなことか」
「軽く見ないで。それだけやあれへんの。隠れてジュースを飲んだり、チーズをかじったりしとるんよ」
「そうなん? マジか。それはアカンやろ。注意するのは晴美の役やで」
「きつく叱ったわ。そしたら謝ったけど、少し反抗的な態度を取るの」
「たとえば?」
「食事前に手を洗った後、手に付いた水を私目がけて浴びせてきたり、トイレの紙をちぎってわざと床に散らかしたりするの」
「それもきつく叱るべきやな」
「叱ったわよ。叱ったけど、イタチごっこになっとって。学校でなにか嫌なことでもあったんかしら」
「そやな。先生に電話して聞いてみたら?」
「聞いてみるけど、こじれたら協力してよね」
晴美は古矢の両腕を取って少し力を入れ、左右の腕を体にくっつけた。
翌日の日曜日の晩、苦手な役が回ってきた。
「だから言うたやないの! ちゃんと見とらんとアカンよって言うたでしょ」
まるでいたずらをしでかした息子に怒るような口調で、横に立つ晴美がフライパンを握っている古矢をなじった。
「うるさいなあ。ちょっと失敗しただけやろが」
肩をすくめた。妻の代わりに古矢が調理をしていた。ハンバーグを作っていて火加減を間違え、表面を焦がしてしまった。ハンバーグをひっくり返すとき、肉も崩れた。いきなり料理の本通りに上手くは作れない。ごめん、ごめんと謝りながら、どうにか食えるハンバーグができた。
そもそも夕方になって頭痛がしてきて、古矢が帰ってくるまで寝込んでいたという晴美が……。いや、病気は妻の責任でない。
一真は腹を空かせ、まだかまだか、腹減った、と愚痴り、勝手に冷蔵庫を開けようとする。
「こら、一真。勝手に食いもんを探すな。もうできとるから」
一真の身勝手な振る舞いをなだめようとした。
「早く食いてえよ」
一真は古矢の腰に無邪気にまとわりついてくる。
「さあ、完成したで。盛りつけるぞ」
「やったー」
「一真、皿を出してくれ」
「はーい」
少しでも手伝った方が早く食えると思ったのか、一真が素直に皿を食器棚から出して食卓に並べ出した。少し焦げたハンバーグを家族三人で食べた。
息子は、学校の体育で飛び箱を八段飛べたと自慢気に語った。「よかったじゃないか」古矢は褒め、「友だちとは上手くいっているのか」と訊ねた。
「うん、みんなと仲良く遊んでいるよ」
一真はすこし下を向いて視線を逸らし、スーパーで買ってきた付け合わせのポテトサラダを箸でつついた。
食事が終わり、テレビを観たがる一真をなだめて、皿洗いを手伝わせた。
「ママは頭が痛いし、一真が手伝うとママも喜ぶぞ」古矢は諭した。
寝る前、痛みの去った妻がドレッサーの前で髪をとかしながら言った。
「小三ならそろそろお風呂も一人、留守番も一人でできるぐらいにならなきゃ困るわ」
「そう……やな」
古矢は年令の区切りと自主性の目安が分からず、言葉を濁した。
「そうなのよ。実際、ご近所のママ友に訊いても、そろそろ自主性が出てくる頃だって言われるし、まず子どもの成長にとって必要かどうかで判断して、遠くから見守るようにしたらエエらしいのよ」
「なるほど。親は子どもの成長とともに歩め、か。もっともな意見やないか」
「一真、だいじょうぶかしら。あなたとちがって、おっとりしたところがあるわ。それに鈍足だし」
晴美は背を向けた姿勢のままで、頭だけこちらにねじった。
「先生に言われた。すばしっこさが欠けているから、からかわれる場面を何度か見かけましたって」
「よし。そうか、オレがひと肌脱いだろ。春休みに信州へスキーに連れていこう。滑ったり、雪合戦したりして、遊びの中で人間として必要な機敏さを覚えさせる。先の話やけど、夏になれば夏祭りに一真を連れていく。金魚すくいとかあるやろ? 素早く捕まえるコツを身につけさせたるわ」
「お願いね」
晴美がものをねだるように言った。
古矢はベッドに入り、目を閉じた。晴美は電気を消して同じベッドに潜り込んだ。自分専用の毛布を被り、背を丸めているような気配を背中に感じた。
月曜日の朝、目覚めて窓の外を見たら、少しだけ雨が降ったようだった。ベランダのコンクリートに水が浮いていて、プラスチック製の白いプランターに植わっているミントの葉が濡れていた。
晴美は体調がよかったのか、家族全員の朝食を作っていた。トーストを焼き、目玉焼きを三人分作り、牛乳をコップに注いでいる。前日の話の流れで、息子が自主的に物事を成し遂げられたら褒めてあげようということになった。
「オレは褒めてやれるけど、ハグはでけへんで。男同士やからな」
「そうね。パパに褒められて、私も褒めてやりたいときは、私からハグした方がエエよね。一真が落ち込んでいて励ましてあげるときも」
「いずれ難しい年頃になれば、親から触られるのを拒否するはずや。ハグできるのも今のうちだけやて」
冷静に言ったつもりだったが、晴美はすこし寂しそうな表情で台所に戻っていった。
やがて一真が起きてきた。腕を突き上げ、大きな伸びをする。
「お早う」
「お早う。よう眠れたか」
「うん。ああ、パンのエエ匂いがする」
一真が鼻をひくひくさせながら洗面所へ向かった。顔を洗い終えた息子の小さな肩に手をやり、息子に面と向かって言った。
「一真。今日から風呂に一人で入れ。な、できるよな?」
「えー、一人? できるけど」
一真は俯き加減で、すこし不満げな口ぶりだった。
夏休みまでに一人で何かをやらせてみようと意見が一致した晴美と古矢は、息子に早起きさせ、ベランダの草花に水遣りをするのを約束させた。自分一人で目標を立てさせて実行することの大切さ、苦労を知ってもらいたかった。
夏休みになれば、先生から、時間割を立てて生活リズムを守り、日々の勉強と遊びのバランスを取るよう言われるだろう。それは目に見えている。不規則に毎日を過ごしたり、やったりやらなかったりするのがいちばんよくないのだ。
一真はあるとき、約束をやぶった。
「ちょっと、一真。寝坊して水遣りをサボったやろ? アカンでしょうが。自分で決めたことやろ?」
「ごめんなさい、ママ」
「学校に遅れるといけないから、今日のところは帰ってきてから水をやりなさい」
「はーい」言葉に元気がない。一真は意気消沈していた。
「それとできなかったら黙っておかないで、できませんでしたとちゃんと報告するんやで。じゃないと先生に叱られたり、大人になって恥をかいたりするんやから」
「うん、分かった」
晴美に何度も説教され、一真の声が弱々しくなった。古矢が近寄って頬を軽く撫でる。慰めてやり、その場から離れた。
その後、一真は、大人の世界では、約束を果たせなかったり、言われたことをできなかったりしたときは、周囲に正直に話し、指示を仰がねばならないことに気付いた様子だった。
古矢は、家庭内である種の厄介な事情を抱えながら、署内でも新人と組んで捜査の指導をする役回りをしていた。
いまどきの若者は、ほんとうに打っても響かない。ついついそんなふうに嘆いてしまう。特に自分で課題を見つけてくることが下手だ。
例えば、強盗の発生した日時や件数だけをパソコンに入力し、そのまま放置している。パソコンの中に眠っている情報をプリントするなりして管内の地図に貼りつけ、各事件現場の距離や方角、状況などを頭に入れ、みんなで共有する。そんな基本ができてない。
先輩がしてくれるだろうとでも思っているのか。何かを指示されるまでは率先して取り組まない。報告もこちらが聞いてやらないとしてこない。まだ一真の方がましだと思うこともしばしばだった。
簡単に評するならば、おとなしくて無関心ということか。もっと失敗を恐れず、いろいろなことに興味を示して行動を起こしてほしいのだが、と思うことしきりである。
*
駐車場に車を停めて庁舎に入り、朝の捜査会議に出席した。それが終わると資料整理に追われた。
二月四日月曜日の昼一時前。刑事課に、橋丸以下、古矢、立花、他二人の刑事が全員揃った。みんなそれぞれに地味目の私服姿で荷物を持っている。さっそく五人は豊岡市に移動を開始した。
刑事らが二台の車に分かれて乗り込み、神戸を発ったのが午後一時頃だった。そのように古矢は自分のメモ帳に記していた。
丹波市を経由して北近畿豊岡自動車道を通り、豊岡市に着いたのがその日の午後三時過ぎだった。
さっそく、市内にある城島の自宅のアパートを訪ねてみた。城島の住むアパートは、二階建ての昔ながらの文化住宅である。
管理人に事情を話し、城島の部屋を開けてもらう。
自宅は、もぬけの殻だった。和室六畳と台所のついた部屋はきちんと整理整頓されていた。つい最近、人の暮らした形跡はなかった。ゴミ箱には紙くず一つない。
「ヤッコさん、ここにはまだ寄りついてないようですね」
「うん。そのようや。慎重に行動しとるんやろな」
古矢は立花の話に合わせた。
城島の捜索は、昨日から神戸と同時進行で始められていた。
次に、五人は澄川(すみかわ)邸に向かった。澄川三姉妹に会うためである。
日も傾き、山の尾根が橙色に染まっている。濃い緑の山々が畑に影を落としている。葉を落とし、枝だけの裸を晒した枯れ木が、田舎の冬の物悲しさを表している。融け残ったわずかの雪が道路にときおり顔をのぞかせ、ここが降雪地帯であるのを訴えかけているようだ。
屋敷に着いたのが午後四時半だった。
*
月曜日の昼過ぎ、幸三(こうぞう)は悠(ゆう)太(た)に呼ばれた。
「幸三くん。ちょっとエエか」
口調が厳しい。
「はい」
会長室に入る。
「そこに掛けて」
室内で、ソファーに座るよう命じられる。
「あれほど外部から来た役員には注意しろと言うたやろ?」
悠太はいきなり本題に入った。肘を机の上に置き、指を組んでいる。険しい顔をして幸三に苛立ちをぶつける。先刻、複数の役員から経営基盤の脆弱さと不透明な会計処理を指摘されたのが原因だろう。
「お義父さん。正直に申し上げますが、創業家である澄川一族に反発する勢力はどうしても抑えこむ必要があります。それをやるのは今しかないのですよ」
幸三にしては珍しく悠太に意見を述べ、反論する。
「そんなこと、言われんでも分かっとる。時間をかけて外から来た役員を取り込み、長いものに巻かれるよう仕向けていくんやないか」
「おっしゃることはわかります。でも、心配は無用です」
幸三は落ち着き払って、きっぱりと断言した。「彼らには、発言の見返りに相応の報酬を与え、すこしずつ切り崩してこちらに引き入れている最中です」
幸三も譲らない。「売り上げの伸び悩みを今後見直していく必要があるとの指摘は、充分に承知しております。採算の見込めない取引先との契約を見直し、豊岡カバン全体の広告宣伝を強化していくつもりです」
「具体的には?」
「豊岡の通年の観光ツアーにカバンの工場見学を含めることや、八月九日のカバンの日に記念イベントを豊岡でも大々的にやって地元のカバンを宣伝することなどを柱に、豊岡鞄協会と豊岡商工会議所の方で企画を練っているところです」
「そうか。外部への広報や宣伝にもしっかり取り組まんとな」
やっと悠太の口調も穏やかになった。「それを聞いてすこし安心した」
「会計処理に関しては、きちんとした決算書を株主総会や金融機関、税務署に出しております。金融機関を通さない特殊な資金提供に関しては幹部のみ知る機密情報ゆえ特別利益として計上し、決算書に反映するよう指導しています。不透明との指摘は決算書に関するかぎり見当違いかと思います」
「ほう。それだけ説明できるのなら頼もしい。さすがに社長として迎え入れただけのことはある」
「忠告してくる役員にはいま申し上げた内容をきちんと伝え、決算書類も必要ならば提示します」
「もうその話はそれぐらいでエエ。あのお方との会食はどうなっとる?」
「二月中旬にこちらに来られると聞き、城崎(きのさき)温泉の宴会場を押さえております」
「途中までは幸三くんも同席してくれたまえよ」
「わかりました」
澄川幸三は会長室を出て、社長室に入った。すぐに「コーヒーを社長室まで頼む」と指示を出す。やがて、女の事務員がコーヒーを載せた盆を持ってくる。コーヒーを啜る。
義父である澄川悠太の苛立ちを抑えこみ、ホッと一息をつく。悠太は社長の座を幸三に譲り、会長に就いたとは言え、いまもその影響力たるや、依然として大きい。
今回に関して、役員から指摘を受けた点は、半分は正鵠を射ている。経営基盤が脆弱だからこそ、さる人からのルートで援助を受け、赤字部門を補填できた。豊岡カバンの宣伝強化についても協会や商工会議所と手を携えて取り組んでいる最中だ。
仕事中だからこそ、気の休まらない〝戦場〟において、多少の気分転換は必要だ。
窓の外を見ると、二階の社長室からは駐車場と植栽が見える。土の表面は、積もった雪が融けて、湿っている部分と残りの雪でまだら模様になっている。駐車場は、社員の車と得意先の車などが車止めにピッタリと車後部をつけて停まっている。雪をかぶった車はないものの、どれもがスタッドレスタイヤを履き、いつなんどき雪が降ってもいいように準備しているはずだ。雪道を安全に走行するために、四輪駆動の車を選ぶのも雪国の人の常識である。
雪の多い日には、みんな車のワイパーを、虫の触角のように斜め上に上げておくのを忘れない。そうしないと、フロントガラスに積もった雪にワイパーが埋もれるのだ。その慣習もあり、雪の降っていない今日でも、どの車のワイパーも空に向かって突き上げている。翻って、その様は、よそから来た人たちにはとてもユーモラスに映るだろうと思い、すこし笑えた。
「刑事さんがやってきたわよ」良子(りょうこ)が姉妹に教える。
三人は二階の早苗(さなえ)の部屋に集まり、窓から刑事らが歩いてくるのを覗いている。夕方過ぎに刑事が訪れると電話があった。家族は仕事を早めに切り上げ、定時より早く退社し、自宅で待機していた。
「男前でシュッとした人かな」
一番年下の早苗はドラマの刑事のような恰好いい人を想像していたのか、楽しそうである。
「バカね。地味な人たちにきまっとるわよ、きっと」
専務の里子(さとこ)は醒めている。
「なんで? なんで地味なひとなの?」
「見た目から派手だったり、イケてる顔だったりしてごらんなさい。きっと犯人たちにすぐ顔を覚えられてしまうから」
「なるほどね」次女の良子はわかったように首をたてに振る。
「えー、なんだ。つまんない」
刑事らがなんのためにやってくるのか取り違えたような早苗は、イケメンが来ないと知って興味が失せた様子だった。
「なにを訊きにくるのかしら」
「さあ。わからんわ。とにかく、なにを訊かれても堂々としとったらエエねんで」
長女だけあり、里子はもっともなことを言う。
「たとえまずいことを訊ねられても、ウチはウソをつけるで。ウソつくの、得意やもん」
早苗は顎を上げて両手を腰にやり、自信たっぷりだ。
「わたしは得意でないけれど、顔にはでえへん方よ」
良子も落ち着いている。
内心どきどきしているのは、年長で既婚者の里子だけなのかもしれない。さっきから部屋の壁に背を向けて置いてある二人掛けのソファーに体を預け、里子は目を閉じてあの日の晩のことを思い出していた。
野々塚税理士はこの世を去った。自分が手を下したわけではない。もう警察は私たちの存在を嗅ぎつけたのかしら。そうだとしたら、あの晩に死体現場にいたこと、神戸から豊岡へ夜道を車で飛ばして自宅へ戻ったのを刑事らに知られてはいけない。いけないと思うと、妙に背中がむず痒くなったり、掌に汗がにじんできたりしてくる。
これまで、里子は職務質問すら受けたことはなかった。それなのに、刑事らは犯罪の臭いに敏感で、犯人逮捕のためならば執念深くつきまとう気がする。妹二人には、堂々としていたらいい、と余裕を見せた。どんなつまらないことでも、警察はひとたび怪しいと睨んだら、納得のいくまで徹底的に証拠を調べ尽くす組織なのだろう。その疑惑の目が真っ先に向かうのは、自分かもしれない。
緊迫した時が早く流れ去ってほしい――。会社の専務である彼女でさえも、こんな場面に出くわすのはそうそうなかった。刑事との対面をうまく乗り切らないと、自分だけでなく家族や会社にも汚点を残すことになる。
窓から夕陽が射し込み、弱々しい冬の光で部屋に立つ良子や早苗の影を作っている。その薄い影が消え入りそうになるのを見つめていたとき、「姉さん。部屋の電気、つけましょうよ」と良子に言われた。ハッと我に返る。「ええ、そうね。暗くなってきたわね」あらためて、里子は周囲の変化に疎くなっているのに気づかされ、胸に手を当てて深呼吸をした。
*
すでに屋敷の外では警官数人が待機していた。所轄の豊岡南署の警官である。彼らは古矢ら神戸組を出迎えた。
到着してみて驚かされた。その屋敷は想像とちがっていた。広い敷地を有する屋敷はどこか洋館風であり、豊岡の持つ和のイメージと趣を異にしていた。下に目を移すと、地面から積み上げた古びた赤煉瓦の上に黒の鉄柵があり、門があった。備え付けのインターホンを押すと、「どうぞ」と言われて門扉を開け、コンクリートの通路を歩く。
玄関に至るまでの数十メートルは細長い枝をつけた木々が生い茂り、森の中にぽつんとある古めかしい館そのものだ。まるで軽井沢の別荘のように閑静で上品な落ち着きがあり、神戸の旧居留地の建物を思わせる。二階の左右にベランダがあり、アメリカ植民地時代風の佇まい。澄川家だけがそこの土地とかけ離れた別世界のようである。
やっと玄関先に辿り着く。扉を開けると妻であろう上品そうな女が出迎え、応対する。
「どうぞお入りください」
「お邪魔しますよ」
古矢が大きな声で告げる。沓脱で靴を脱いでスリッパに履きかえると、白髪で年配の主人が出てきて頭を下げた。
「これはようこそお越しくださいました。そちらは妻の君江(きみえ)、私が当家の主人の澄川悠太です」
悠太はそこまで言ってすこし間を取り、さらにつづけた。「わざわざ神戸からお越しになられてご足労ですな」
悠太は朗らかな顔を浮かべて挨拶する。
「恐れ入ります。仕事ですので」立花が丁重に応対する。
「せっかくなので、ちょっと中を拝見させていただいてもよろしいか」
古矢は図々しくも、大きな邸宅内を大股でずんずん進み、屋敷の中を見て回った。一階に応接間と居間、台所がある。奥の廊下は別館へ通じているという。中央の壁際にある幅の広い白い階段が踊り場で二手に分かれ、左右対称に反対方向に伸びてゆるやかな曲線を描き二階に繋がっている。二階には主人の書斎とそれ以外に部屋が三つある。表に面した二階の廊下には細長い窓がいくつもあった。
応接間の斜め格子の入った大きな窓からは、林を通して陽光が室内を明るく照らすようにできているらしい。ギリシャ風の彫刻模様の白い天井から吊るされたシャンデリアが荘重な印象を際立たせている。
株式会社スミカワは創業五〇年の老舗皮革会社で、創業者の澄川悠太は、現在、会長に退いている。社長をしているのは婿養子の幸三である。悠太自身がそう説明してくれた。
澄川家の家族が中にいるにしては邸内で物音一つしない。林で夜に啼く野鳥の声が響いてくるのみである。
澄川三姉妹と古矢は、やはりファミレスで会っていた。邸宅に入って応接間に通されたとき、サイドボードに置いてある小さな写真立てに家族六人が映っている姿を見つけた。そばまで行って手に取る。顔を確認して、野々塚と関係があるのはこの三姉妹にまちがいない。二〇〇パーセントの確率で一致している。
しばらく、悠太と君江を相手に、古矢らが雑多な話をしていると、二階から三姉妹が降りてきた。
部屋の隅々にまで暖房が効いていることもあり、三人の令嬢はとりたてて服を着こんではいない。
長女は生成り色のセーターの下に白のブラウス姿で、淡いグレーのパンツを穿いている。髪に関しては、前とかなり異なっている。たしか栗色のロングヘアだったのに、黒髪のショートヘアで、ちょっと見には別人かと思うほどである。耳には金色のイヤリングを光らせている。
次女は赤のカーディガンを薄い青色のワンピースの上に羽織っている。長い髪を後ろでまとめてくくり、すこしだけ垂らしている。
三女は赤いブラウスの上にピンクのセーターを着て、長女と同様にカーキ色のパンツ姿でいちばん後ろに立っている。髪の長さは肩まで伸びている。
三人は、色の異なるスリッパを履いていた。長女が赤、次女がグレー、三女がピンクの、毛並みのふさふさしたスリッパである。
長女が古矢らに向かって挨拶した。
「はじめまして。長女の里子です」
軽く来客に会釈すると、つづいて次女と三女が順番に、
「次女の良子です」
「三女の早苗です」
各々が名乗り出て、三人は口の端を軽く上げた。
当人たちは古矢を知らない様子である。警察が来ていると聞いても、いたって朗らかな表情を崩さず、落ち着いた様子である。
「私は兵庫署の古矢というものです。こちらは、県警本部の橋丸管理官」
以下、立花ら三名が名乗ってお辞儀をした。
「それで、きょうはどういったご用件で?」
三姉妹のうち、長女の里子が訊ねる。
「報道でご存じかと思いますが、税理士の野々塚さんが一昨日の夜なくなられまして」
「ええ、存じております」
野々塚の妻や理佳とは違い、うろたえた様子は微塵もうかがえない。いたって冷静に受け答えに応じようとしている。澄川里子はそうとう肝が据わっている。古矢はそう感じた。
もしもなにかを感じていて顔には出さず、それを悟られまいと演技しているとしたら、たいしたものである。女優並みの根性の持ち主である。
「生前、野々塚さんと親しくされていたと聞き、参考のため話をうかがいに来たしだいです」
「わざわざ神戸からですか。ご苦労様です。でも」里子は言葉を切り、なにか躊躇いの表情を見せ、古矢に向かって「私たち三人は、野々塚さんを殺したりはしませんわ」
「犯人と思われる人物は、鈍器のようなもので野々塚さんの背後から後頭部を殴って殺害しております。相当な力が必要なはずです。われわれは大柄の男だろうと見ております。すでに犯人を特定しており、その男を追っています」
「それと並行して、死んだ野々塚さんの交友関係をあたっておられるのでしょ?」
「ええ。まあ、そういうことです。野々塚さんとはビジネスの相手としてなんどかお会いになったと聞いとりますが」
「それは認めます。私も株式会社スミカワの専務であり、神戸の雑貨店などにカバンを中心とした皮革商品を卸しております。野々塚さんには雑貨店の知人がいらして、彼を介して商談をしました」
「それは二月一日の金曜日のことですね?」
「はい、二月一日です。調べられたんですね?」
里子の問いかけには答えず、古矢はさらに話をつづける。
「どういった類の商談ですか」
「それは仕事上の機密事項であり、公にはお答えできかねます。事件と関係ないですわ」
「そうですか。では質問を変えます。野々塚さんと初めてお会いになったのは、いつですか」
「もう一〇年も前のことになりますわね。まだ私の夫と出会う前でした。当時、野々塚さんと付き合うてまして」
「ほう、それは興味をそそりますな。男女の関係だったと」
「そういう目で見られても困ります。清らかな交際を数か月していただけですわ。野々塚さんと結婚しようなどとはこれっぽっちも思いませんでした。向こうはどう思っていたのか、はっきり訊きませんでしたが」
「では、次女の良子さん。あなたの場合はどうです?」
それまで黙って聞いていた次女の良子は、
「わたしの場合は、たまたま野々塚さんと同じ大学に入り、あちらが先輩でした。サークルも同じで、サークル仲間として親しくさせてもらいましたが、特に恋愛に発展するようなことはなかったです」
「同じ大学で先輩だったと。サークルも同じですね」
古矢はメモを取りながら、ちらりと良子の顔を一瞥した。特に表情の変化は見られない。
「良子さんは、野々塚氏が亡くなられていかがな気分ですか」
「そりゃあ悲しいです。エエ先輩でしたし、姉の元交際相手ですから」
「早苗さんはどうですか」
「ウチも悲しく思います。サト姉と別れる前は、よくここに遊びに来ていただいて、仲ようさしてもろたし」
「なるほどね。野々塚さんは澄川邸に頻繁に遊びに来られたのですか」
「それは……まあ、月に一、二度ぐらいでしたわ」
早苗に代わり、里子が答えた。
「突然の訃報ですし、娘たちもさぞ辛かろうと思います。きょうのところは、このぐらいでお引き取り願えませんか」
父の悠太に促され、刑事らはあっさりと澄川邸を引き揚げた。
その晩、良子と里子は居室で、それぞれに野々塚との思い出を振り返っていた。
*
野々塚が澄川家と関わりを持った発端は、彼がまだ二二歳の大学生のころのことだった。当時、同じサークル内に次女の澄川良子がいた。彼女は大学一年の後輩で、そのとき一八歳だった。
野々塚は、色白の丸顔で明るい性格の良子に惹かれている様子だった。翌年大学を卒業しても、OBとして野々塚はサークルの行事にときどき顔を出していた。
あれは夏合宿のときだった。
「あら、野々塚先輩。お久しぶりです」
JR神戸三宮駅の南側のロータリーで、良子の方から声を掛けた。そこはサークルの合宿に行く連中の集合場所になっていた。よく晴れた青空に明るい挨拶で、野々塚は気分良さげだった。
「久しぶりだね。良子ちゃん。おれのこと、覚えていてくれたんや」
「そりゃあ忘れませんよ。このサークルの〝顔〟でしたから」
「きょうは淡路島に行くんやな? だれがだれの車に乗るの?」
「わたしは野々塚先輩の車に乗ることになってます。よろしく」
「おれの車でエエのんか」
「もちろん。先輩は安全運転ですから」
「音楽はジャズ。それしかかけへんで」
「構いません。わたしたち、おしゃべりしときますから」
「車は計何台や」
「四台みたいですね」
「おれの代わりに、携帯電話で休憩場所と出発時刻をあとでやり取りしてくれよな」
「わかりました。任せてください」
明石海峡大橋を通って淡路島に着いたのが、一時間後の一一時過ぎだった。一度だけトイレ休憩を挟んだ。二年の良子は女友だちとテレビドラマの話で盛り上がり、車内は終始賑やかだった。
まっすぐホテルに行くには時間が早かったので、二か所ほど島内の観光をし、お昼をみんなで食べて時間を調整してから、その日に宿泊するホテルに着いた。
全員が揃って三時過ぎにホテルにチェックインした。大浴場が営業を開始するのは四時からである。時間を持て余していた良子は、部屋に荷物を置いてから同じ部屋の友だちを誘い、野々塚らOBの部屋に遊びに行った。
「野々塚先輩、いますか」
畳の部屋に寝ころんでいた野々塚は起き上がると、女たちを手招きして部屋に呼び入れた。
「やあ、いらっしゃい。まあ、こっちに来てお茶でも飲もう」
「お邪魔します」
女数人は沓脱でスリッパを脱いで、畳の上に座る。
「野々塚先輩、会社はどうですか」女の友人が訊ねる。
「まだ入って間もないし、仕事に慣れてないからあたふたしているよ」
「たしか税理士でしたよね?」良子が訊ねる。
「ああ、そうやで。資格自体は学生のあいだに取ったから、いまは税理士事務所で宮仕えや」「将来はどうするんですか」
「近いうちに、独立して自分の事務所を持ちたいな。開業するってことやけど」
「へー。恰好エエ。すごいやないですか」最初に質問した女友だちが野々塚を持ち上げる。
「開業してもしなくても、日々の仕事はそう変わらんと思うけどな」
「年収どれくらいになるんですか。開業すると?」友人はなおも食い下がる。
「さあ、それはわからん。得意先の数によるのかも」
「とにかくビシッとスーツで決めて電話を掛けている姿なんて、私は憧れるわ。めっちゃ恰好エエ」
「年収とか、学歴とか気にする人もいるけど、性格ですよね。最後の決め手は」良子は自分の理想を言ったつもりだった。
「まあ、良子ったらいい子ぶって。いい男、捕まえたの?」
「こら。野々塚さんの前でそんなこと、話すもんですか」
「オレは、温かい心の持ち主がいいな。そんな人を女房に迎えたい」
「きゃー。すごい決め台詞やわ」
その後、わいのわいのと気が置けない間柄のように、いろんな話をして場の空気は和やかになっていった。良子には野々塚との縁はなかったが、その合宿のときの野々塚とのやり取りがいちばん頭に残っていた。
野々塚が税理士として精力的に働き出し、偶然神戸の町で長女の澄川里子と出会ったのは良子との出会いから一〇年ほどたったころだった。このときは野々塚の方から声を掛けている。
「やあ。もしかして、良子ちゃんのお姉さんの澄川里子さん?」
「はい、そうですが。あら、もしかして良子の大学の先輩だった……」
「やっぱりそうだ。声を掛けてよかった」
「あの……」
「名乗り遅れました。野々塚弘です。ご家族の写真を見せてもらい、三姉妹の顔は知っとりました」
「まあ、そうだったんですね」
「奇遇です。こちらへは仕事で?」
「ええ。父の会社に勤めていて、ときどき出張で神戸へ」
「もしよかったらおれが奢(おご)りますから、昼食、ご一緒にどうですか?」
「私、そんなつもりでは」
「景色のきれいで旨いレストランを知ってますよ」
里子は野々塚の押しに負けて、昼食を共にした。帰り際に連絡先を交換した。野々塚はたいそう喜んだ。
それ以来、野々塚のしつこいぐらいのデートの誘いに負けて、里子は野々塚と付き合うようになった。
週末になると、用事があっても後回しにして、野々塚は豊岡へ車を飛ばして里子に会いに来た。
近くは城崎から遠くは舞鶴まで二人きりでドライブし、野々塚はとても満足している様子に見えた。
「里子さん。どんな愛称で呼べばエエ?」
「なんでもエエ。好きにして」
「じゃあ、サトちゃんで」
野々塚と里子は車から降りた。二人で肩を並べ、通りを歩く。初夏の陽射しが降り注ぐ城崎で散策していると、冷たいものが欲しくなる。
「サトちゃん。お腹すかへんか? ソフトクリーム売っとるで」
「じゃあ、買おうかしら」
「おれが奢るよ。なにがエエ?」
「チョコとバニラのミックス味」
「じゃあ、おれはバニラにするわ」
「会社の仕事はどない?」
「私は製品開発と在庫管理をしとるの。在庫の管理は難しくない。製品開発ね。いつも頭を悩ませるのは」
「そうなんや。老舗の皮革会社なんやろ? 靴とかカバンとかって言うてたよな」
「布製品を全般に扱うんやけど、売れるのはカバンよね。靴は合皮のメーカーが阪神間に多くて競争に勝てない」
「皮やから、長持ちする製品を作るんか」
「そうなの。良い商品を長く使ってもらいたい。うちは複数のお店のブランド名を製品につける生産方式を採っている。開発もいくつかの店の人と打ち合わせをして、要望を聞いた上で決めないといけないの」
「新製品の開発一つとっても、話をまとめるのがたいへんそうやな」
「私だけでは決められないから、担当のベテラン社員を連れて神戸と豊岡を往復するのよ。もう慣れたわ」
「じゃあ、そこの雑貨店を覗いてみないか。仕事の参考になるで、きっと」
「ええ、入ってみましょ」
ソフトクリームをすこし残しながら、雑貨店の中をぶらぶらと品定めして回る。
野々塚にとってはありふれたデート中の出来事に過ぎなかったかもしれないが、里子には仕事に活かせるものがあると思うと貪欲になり、真剣な眼差しを商品に注ぐのだった。
里子が神戸に来ているとき、野々塚は時間を作って彼女を誘ってくれた。里子は大事そうにノートパソコンと書類を抱え、野々塚と会った。
「悪いな。出張中に呼び出して」
「エエわよ。別に」
「今夜は豊岡に帰るんか」
「ええ、車で帰るわ」
「じゃあ、アルコールはなしやな」
「飲みたい気分だけど、なしね」
「打ち合わせは上手くいったんか」
「デザインでかなり注文をつけられた。私もまだまだやね」
「そうか。でも豊岡のカバンは質がエエそうや。他県でも評判らしいで」
「そうよ。エエ職人さんが集まっとるから。職人のお陰よ。商売が成り立つのも」
「スミカワも豊岡のカバンも、ますます発展してほしいな」
「ありがとう。野々塚さん、案外エエ人ね」
「案外はないやろが。ひと言よけいやで」
「ごめんなさい。怒った?」
「いいや。別に怒ってへんで。サトちゃんやから許すけど」
「これからどこへ行くん?」
「神戸ビーフの美味しいレストランを予約しといた。行くよな?」
「ええ、ありがとう」
二人は神戸ハーバーランドに移動して、神戸牛など地元の食材を使うフレンチの店に入った。その日、里子は濃紺のワンピース姿、野々塚はネクタイにグレーのスーツ姿であった。
里子は車を運転して豊岡へ日帰りするのでノンアルコールのワインを頼み、二人でディナーのコース料理を堪能した。里子は食事のときも人のバッグが気になるらしく、
「あの女の人のバッグ、アニエスベーよ。さすがパリのバッグね。シンプルで飽きがこないわ」
「そうなんか。言われてみるとたしかに洗練されとる」
「見て、見て。斜め向かいの女の人のバッグはサマンサタバサよ。素敵! 私もああいうカバンを手掛けてみたいなあ」
里子は目をキラキラと輝かせてバッグを観察している。
「デートのときぐらい、仕事のことを忘れたらどうや」
野々塚も半ば呆れ気味で、やれやれといった顔をしている。
「サトちゃんはお洒落に敏感やから、きっと素敵なカバンを世に送り出せるよ」
「ほんとうにそう思てる?」
「ああ。ホンマやで」
「嬉しいわ。ありがとう」
数か月が過ぎたころ、里子から一方的に別れを告げた。二人はホテルのバーにいた。漆黒の闇にネオンがきれいだ。
「私、野々塚さんとはもうこれで終わりにしたいの」
「なに言うてんねん、サトちゃん。まだまだお互いのこと、知らへんやろ? 税理士のこのおれに不満でもあるのか」
「私は三姉妹の長女よ。いずれ父の会社を支える役員になるわ」
「それで?」
「わからへんの? 私の夫になる人は、会社の婿養子になって父の跡を継がなきゃならないのよ。つまり独立した税理士さんなんていらないということ」
「税理士の仕事を辞めて婿養子に来なければ、いくら交際をつづけても結婚でけへんと?」
「そういうことよ」
「良子ちゃんや早苗ちゃんがおるやろ? 下の彼女らが婿養子を取ったらアカンのか」
「父が許さへんわ。そんなこと」
「残念やな。せっかく神戸の町でとびきりの美人と付き合うてこられたのに」
野々塚は神戸の夜景の見えるバーでグラスを傾けながら、フーッとため息をついた。赤や緑のネオンが恋人たちの心を揺さぶるように、包み込むようにして煌めきを放つ。タワーや建物のライトアップが海面に映り込み、その人工的な美しさが神戸という町の持つ情趣をいっそう際立たせている。
「わかったよ。君と出会えたことはエエ思い出にさせてもらう。これ以上引き止めても無駄なようやな」
「あなたと過ごした数か月はけっして忘れないわ」
それだけ言うと、里子はスツールから尻を浮かして立ち上がり、振り向きもせずにバーを出ていった。
別れて以来、野々塚が里子に連絡することはプツリと途絶えた。
やがてスミカワの専務に就任し、税理士の野々塚と敵対関係になろうとは、里子には考えが及びもしなかった。そして、野々塚が死ぬ運命にあるなんてすこし前までは想像すらできなかった。
*
神戸から来た五人の刑事は、車で澄川邸から今夜の宿に移動した。古矢らは豊岡駅から程近いビジネスホテルに投宿することになっていた。
ホテルにはすぐに着いた。時刻は五時過ぎだ。大きな駅ならどこにでもありそうな十数階建てのありふれた直方体の佇まいである。
自動扉を開ける。黒塗りのカウンターで、橋丸が代表して名前と住所、電話番号を記帳し、カードキーを三つ受け取る。
カウンターから向かって左にあるエレベーターに荷物を持って中に入る。五人を乗せたエレベーターが六階で止まる。
中からぞろぞろと廊下に出て、すこし歩いたところにある六一三号室のシングルと、六二四、六二五号室のツインに分かれて部屋に入った。それらが五人の泊まる部屋である。
刑事たちは荷物を置いて一〇分後に、橋丸のいる六一三号室の扉をノックした。中から橋丸が顔を出し、カードキーを持って出てきて扉を閉める。全員が揃ってから、徒歩で市内に繰り出す。
通りに目をやりながら、一人の刑事が口を開いた。
「豊岡は落ち着いたエエ町ですね」
みんなは無言で頷き、国道沿いの中華料理店に入った。それぞれに、炒飯やラーメン、餃子定食などを注文した。待っているあいだ、立花が喋り出した。
「三姉妹は仲が良さそうでしたね。美人揃いで」
「しかし、知人が死んだにしては、妙に落ち着いていた。落ち着き払っていたと言った方が適切かもしれない。あんなに淡々と話せるもんやろか」
橋丸管理官が素朴な疑問を呈する。ほどなくして料理が運ばれてきて、
「オレもそう思いました。なにかいわくありげな気がしますね。まあ、まだ初日やし、徐々にわかってくるでしょう」
古矢が言いくるめ、五人は夕飯を食べ始めた。
その後、場所を変えて豊岡南署の捜査員らと合流し、情報交換をしながら酒を飲んだ。初めは事件の話に終始した。そのうちだれかれともなく、かつての失敗談や上司への愚痴に移り、気づくともういい時間になっていた。
酒に弱い古矢は先に「神戸組」をホテルに帰し、酔いざましに一人で町を歩いた。豊岡の真夜中はほんとうにひっそりとして、神戸から刑事らが来ていることなど白河夜船だったようである。夜は早々に店が閉まり、町を通る車以外は人気も絶えた。
古矢はひとり坂道を散策し、なにか割りきれぬ思いを夜の闇に捨ててこようとした。
野々塚を殺した城島は絶対に豊岡へ寄ったに違いない。自宅と実家のある場所なのだから。豊岡と神戸、城島と野々塚。いっけん接点を持たなかったところに澄川三姉妹の影。これからなにかの化学反応が起きそうな気がしてならない――。
小川まで来て、川のせせらぎと夜風の音を聞いた。川に架かる小橋の真ん中で佇んでいると、向こうからやってきた老婦に「旅の方ですか」と声をかけられた。「はい」それだけ答えると、「エエ月ですね」と微笑まれ、あらためて満月なのに気づいた。
月明かりに照らされ、道端に積もった雪がうっすらと輝いて見える。小川がさらさらと音を立てて流れてゆく。豊かな自然の営みと土地の人の優しさにふれ、なり行きに任せようという気になった。帰りは月と満天の星空を見上げながら、豊岡市民になったつもりで、心穏やかにビジネスホテルまで引き返した。
六二四号室をノックして、同僚にドアを開けてもらい、寝間着に着替えてツインベッドに入り、古矢はすぐに寝息を立てた。
朝、しとしとと降る雨音で目が覚めた。朝食までまだ時間がある。服に着替え、一階へ降りてホテルの傘を借り、朝の豊岡を散歩してみた。
小雨の降る中、ホテルの名前の入ったビニール傘を差し、足元に気をつけて歩いていると、人家の軒先に赤い色の花びらが地面に落ちている。おそらくサザンカであろう。椿かとも思ったが、椿は花ごとボロっと落ちるので違うはずである。傘を上げると、胸の高さあたりに赤花が幾輪か咲いている。
サザンカの花言葉は「困難に立ち向かう」である。あとで調べてみたらそのように出ていた。寒い季節に凛として咲くその姿は、冬にもかかわらず健気で人を励ますようであり、まさにいま難事件に直面しているわれわれに、困難と正面から向き合い、それを乗り越えよとエールを送っているかのようでもある。
今年の冬は、例年になく暖かい。それは日本海側でも同じらしく、ここ豊岡でも雪がすくないと聞いていたが、実際に来てみて、やはりそのとおりである。そうはいっても、いつ雪が降り積もるかしれないので、車にスタッドレスタイヤをはかせている。
ゆっくり駅までの道のりを往復し、ホテルに戻ると七時頃で、ちょうどいい時間になっていた。
暖房のよく効いた館内に入ると眼鏡が白くくもってきて、思わず外す。あらためて眼鏡をかけ直すと、正面に橋丸の姿が見える。ロビーのソファーに座り、浴衣姿で新聞に目を通しているのがわかる。
「橋丸さん、おはようございます」
「ああ、古矢くんか。おはよう」
二人の関係を一般の宿泊客はどう見ているのだろう。まさか、警察関係者とは気づいていまい。
「夕べはよく眠れたか」
「ええ。ぐっすり眠れました」
「それはよかった。そこに、コーヒーとクロワッサンが用意してあるぞ。何杯飲んでも無料のサービスや」
「そうですか。では、コーヒーだけでも」
ビジネスホテルにしては、パンとコーヒーがロビーの端に無料で置いてあるのがうれしい。他にこれといって特徴のないホテルにしばらくのあいだ連泊するわけだけれど、さりげない気遣いに心の温まる気がした。
コーヒーサーバーからホットコーヒーを抽出して、砂糖とミルクをカップの横に添え、細いプラスチック製のマドラーを手に持つ。こぼさぬように運びながら、空いている席に座る。コーヒーの香りに包まれながら、ゆっくりと目覚めの一杯を啜る。
「九時からいつもの場所で会議だからな」
橋丸の言う「いつもの場所」とは、きょう初めて訪れる豊岡南署のことを暗に指している。一般の泊り客に無用な警戒心を煽(あお)り立てないように、言葉を選んでオブラートに包んでいるのだ。
部屋に戻ると、同僚の若い刑事はノートパソコンに向かい、昨日までに判明したことをキーボードで打ち込み、資料作りに余念がない。まだ朝七時過ぎなのにずいぶん感心である。指示しなくても仕事をこなす姿勢に、将来が有望だと思って以前の嘆きを撤回したくなった。
古矢は、昨日のうちに買っておいたサンドイッチと牛乳で朝食を済ませ、ベッドに仰向けに寝転んだ。
やがて六二四号室の扉を叩く音がした。ドアを少しだけ開けると、立花が立っている。
「古矢さん、入ってもエエですか」
「かまへんよ」
古矢の許しを得て、立花が部屋の中に入る。
まじまじと古矢の顔を見つめて、
「古矢さん。私はずっと、ダイイングメッセージの意味を考えとりましてね」
「けものへんのことか」
「はい。たまたま被害者はけものへんまで書いて絶命したのかどうか、疑問に思うのです」
「それで?」
「犯人の名前一文字を書くだけの時間と体力すら残されてなかった。だから、けものへんだけを地面に書いた。ちがいますか」
「課長にも言ったことだが、オレの見たところ、それはちゃうな。被害者は後ろから派手に殴られ、深さ一センチほどの字を書くだけの力さえ残ってなかったはずだ」
「じゃあ、だれがあのメッセージを?」
「犯人もしくは連れの人物なのかもしれん。警察の捜査を撹乱させようという意図を持って」
「捜査の撹乱、ですか」
「あるいは、その意味を解読してみろ、という挑発的な意味が込められとるかもしれん。いずれにせよ不可解だ。いまのところ、あまりあれには深入りしてもしょうがないで」
「たしかに、そうですね」
立花は気落ちしたのか、古矢から視線を逸らして下を向いた。しばらく二人は黙っていたが、急に立花がなにかを思い出したように指を折って数えだした。
「ね、うし、とら……。さるだ! 三女の早苗の恋人が江角大作という男らしいんです。豊岡南署からの情報によると、彼は申年生まれですよ。普通に使う漢字は『猿』。唯一のけものへんです」
立花は古矢に自分の考えを述べた。
「じゃあ、江角が主犯で、城島に殺させたと言うのか」
「物的証拠はありませんが、可能性は否定できません」
「もし亥年生まれの犯人が捜査線上に浮かんだらどないすんねん? いのししやって『猪』やから、けものへんやろが」
「あ、そうでした。私の早とちりです。忘れてください。すみません」
立花の推理は、古矢に比べると論理の根拠に乏しく、まだまだ稚拙と言わざるを得ない。
「さあ、そろそろ出発の時間や。橋丸さんを呼んできてくれ」
古矢が私服の上からダウンジャケットを着込み、若い刑事と連れ立って部屋をあとにする。
五人はビジネスホテルをあとにして、車で一〇分足らずの豊岡南署に着いた。朝の九時過ぎのことである。
その後、会議室で合同捜査会議が始まった。事件の舞台は神戸なので、神戸組の若手刑事が事件の概要を説明し、被害者と犯人に関して知り得ていることを説明した。
一方、澄川家ではちょっとした騒動が持ち上がっていた。一夜明け、三姉妹が行方不明になったのである。
長女の里子が出社せず、不審に思った夫で社長の幸三が自宅に電話をしても家を出たという。それっきり、会社に顔を出していない。里子は専務といえども、毎日、定時の九時には席に着いている。里子ばかりか、別の会社に勤務する良子も無断欠勤しているらしい。家事手伝いで、家にいるはずの早苗にいたっては、何も言わずに二時間以上外出したままで、家にはなんの連絡もよこしていない。
これはただごとではないぞ――。
幸三はそう思ったと後で述懐した。どうやら、三人が同時にいなくなった様子だった。
幸三からの一一〇番で、三姉妹が行方不明になったと通報があったのは、午前一一時を回ったころだった。
「野々塚が殺され、次は被害者と仲の良かった澄川三姉妹が行方不明。場所は神戸と反対の豊岡市……」
古矢の脳裏に、四日前のファミレスで感じた嫌な予感が浮かんだ。
「これは危険な香りがします」立花はため息をついた。
小雨の中、所轄の警官らがどやどやと慌ただしく庁舎から出てきてパトカーに乗り込み、自宅付近の巡回を始めた。古矢ら神戸組も、再び澄川邸に出向き、三姉妹の行きそうな場所を家族から訊き出し、手分けをして周辺の訊き込みを行った。
しばらく情報は入ってこず、目ぼしい成果は得られなかった。ただ時間だけが無情に過ぎていく。
昨夜、脳裏をかすめた化学反応の始まりか。古矢はそんな気がした。
豊岡南署の捜査員らと合同で、昼前から夕方にかけ、刑事らは飲食店やスーパー、ホテル、旅館といった施設を重点的に回ってみた。古矢は自分もよく通うパチンコ店に足を踏み入れ、城島がいないかと目を皿のようにして捜した。
余談になるが、古矢は休日になると一真を連れて、一緒になって遊んでやった。そのうち、一真に友だちができ、週末に友だちと遊ぶようになると、ひとりで駅前のパチンコ店通いを始めるようになった。
ど派手な照明と賑やかに鳴り響く音楽、特有の電子音の出る画面に導かれるようにして、パチスロの虜になった。古矢にとっては、独特の喧騒が活気にみちていて、疲れた体にこの上ない刺激となるのである。
よく打つのは『番長3』。スロット上部のアニメ画面で番長と相手の「対決」が始まる。「対決」に負けても特訓が待っていて、すぐに「別の対決」が始まる。アニメは面白いが、スロットのチャンスを外しまくり、効果音がかえって癪に障るときもある。それでも金をつぎ込んでは遊び倒した。
業界が出玉規制するのは、風営法の規則改正に則って射幸心を抑えるためだ。大当たりが二四〇〇枚で強制終了になると決められては、大勝ちが期待できないというのが現状らしい。まさか、刑事がパチスロに興じているなどとはだれも知らないだろう。パチスロの顔見知りには、生活保護を受けていると言ってある。別の顔見知りから情報提供を受けることもあり、趣味と実益を兼ねると内心では思って打っている。
むかし、尾行している犯人がパチンコ店に入ったので、離れたパチスロ台で遊びながら様子を探ったこともなんどかあった。客に扮したわけである。以来、いろんなパチスロ台を経験してきたが、入れ替わりが激しく、しばらく通うのをやめたら新しい機種だらけになっていることも多い。
豊岡のパチンコ店は初めて入ったが、どこも一緒で懐かしさすら感じた。が、感慨に浸っている場合ではない。緊張しながらも警察と悟られないようにそれとなく店内を捜索したが、三姉妹はもちろんのこと、城島らしい人物など影も形も見つからない。
しかたなく澄川邸に詰めることになった。
静寂が破られたのは午後四時過ぎのことだった。澄川邸の電話がけたたましく鳴る。母の君江が出ると、
「三人のだれか一人を殺す」
電話の声の主は名乗らずに、それだけで切れた。君江は体を震わせ、犯人の言葉を橋丸管理官に伝えた。まちがいなく、犯人からの脅迫電話である。誘拐したとは言わなかった。
犯人が三人と一緒に行動しているのは明白であり、身代金が目的かどうかはいまのところ不明である。殺人の実行を断言する内容である。
「いつ犯人が身代金を要求するかわからん。広域捜査態勢をとる」
橋丸管理官の命令で、兵庫、鳥取、岡山、京都、大阪、香川、徳島、和歌山の各八府県にまたがる捜査態勢が敷かれた。
娘三人が朝から忽然と姿を消したことで、悠太と幸三は業務上の会議などの予定を早めに切り上げ、人と会う予定を延期して、すでに昼過ぎに澄川邸に帰宅していた。それから夕方までしばらく居室に閉じこもっていた。
古矢が絨毯の敷き詰められた二階につづく階段を上がり、悠太のいる書斎の扉をノックした。
「ご主人。刑事の古矢です。入りますよ」
鍵のかかっていない部屋は八畳ほどの広さの洋室で、窓際に置かれた机の上に肘を置き、悠太が頭を抱えていた。どうやら失意の底にいる様子である。
「娘さんたちが行方不明になっとりましたが、いましがた、誘拐したとみられる犯人から殺害予告の電話がありました」
古矢が白髪の悠太に声を掛ける。八〇前後の年令の割にスーツ姿がよく馴染んで見える。
「殺害! 犯人は娘を殺す気ですか」悠太は首に青筋を立て、声を張り上げる。
「まあ、落ち着いてください。まだだれかが死んだと決まったわけではありませんから。犯人の隠れていそうな場所に心当たりはありませんか」
「わたしどもにはなにも分かりません。神戸に三人揃って旅行に出掛けたばかりなのに、家に戻ってきたと思ったら、すぐに行方知れずになって」
「たいへんなことになり、ご心中を察します。目下のところ、娘さんたちが神戸で起きた会社員殺害事件の被害者と面識があるので、犯人に狙われる心配があります」
「殺されたのは野々塚さんでしょう。なんで、次にうちの娘までもが……」
悲痛な叫びにも似た言葉の語尾は消え入りそうなほどだった。
「ご姉妹は、なにか野々塚さんに関する秘密のようなものを知ってらっしゃいませんでしたか」古矢が訊ねる。
「さあ、そのようなことは、わたしどもには話さなかったと記憶しておりますが」
「では、最近になって、野々塚さんとお会いになったことは?」
悠太の顔色や態度などをねめつけるようにして観察しながら、また質問する。
「長女はスミカワの専務をしております。昨日も本人が申し上げたとおり、二月一日にビジネスの話をつけに行くと言って車で神戸へ向かいました。それに便乗する形で次女と三女も長女にくっついて神戸に行ったと聞いております」
「そのビジネスの相手が税理士の野々塚さんだった。次の日の土曜日、野々塚さんが殺された。失礼ながら、殺人事件の起きた二月二日の夜のご家族の行動をお話し願えませんか」
「その日のことはよく覚えています。ちょうど神戸から娘たちが自宅に戻った土曜日の晩でした。家族全員で車に乗ってレストランへ外食に出掛けました。六人ぐらいならゆうに乗れる、トヨタのシルバーのシエンタという車です。レストランの従業員に訊いていただければ分かると思います」
「わかりました。レストランの名前は?」
「たしか『ラメール』という名だったと記憶しておりますが」
「『ラメール』ですね」
古矢が悠太から聞いた内容を、階下の橋丸に伝えに降りた。
橋丸はそばにいた立花と一人の刑事に耳打ちした。おそらく、『ラメール』に裏を取りに行け、と命じたのだろう。立花ら二人は、ちょっと失礼しますと言い残し、澄川邸から車で出ていった。
それからしばらくして、橋丸の携帯に立花から電話があったようで、橋丸は「わかった」と短く答えた。
橋丸が、古矢ともう一人の刑事に向かって、
「アリバイは成立している。たしかに、二月二日、澄川家の家族六人がこぞって夜の七時に『ラメール』に入店している」
すこし間をあけて、
「八時半ごろまで食事をしたそうだ。ウェイターの浜口という男が証言している」
と告げた。
「八時半に食事が終わって、車でも二時間かかる神戸に移動して野々塚を殺すのは不可能ですね」
古矢があらためて当時の状況を整理しながら、自明であることを口にした。
「二階の悠太氏と幸三氏を呼んできてくれないか」橋丸は古矢に命じた。
古矢は、重厚な大理石で造られてある階段をまたゆっくり上がり、悠太と幸三を連れて一階へ降りてきた。
みんなは、申し合わせたように自然と応接間に集まった。そのうち、立花らが澄川邸に戻ってきて古矢らに加わった。
古矢が悠太と幸三の顔を交互に眺めながら、二人に向かって説明を始める。
「野々塚さんを殺害したと見られている城島という男が、野々塚さんと親交のあったお宅の三姉妹を誘拐していると思われます。地元の豊岡南署を中心にして、三姉妹の捜索活動を展開していますが、いまのところ収穫はありません。電話の逆探知で通信記録を調べてみますが、犯人が携帯を使用している場合、おおよその位置しかわかりません」
二人の顔を見比べながら、さらにつづける。「豊岡市近辺で、犯人の潜んでいそうな場所に心当たりはありませんか」
「さあ。身を隠す場所と言われても、ホテルや旅館は城崎にもたくさんありますし、香住まで含めると相当な数にのぼります。その気になれば、山の中や玄武洞だって隠れられますからな」
幸三がフーッと大きなため息をついて窓の外をじっと眺める。悠太は憔悴したままで顔色が悪そうに見える。
古矢も幸三につられるようにして、窓外の緑を見た。雨が少し止んで霧の煙る中、天然の杉の木立が濃い緑を形成し、地面にうっすら広がる雪の白さと対照的である。
窓の景色をひとしきり眺め、くるりと回って窓を背にし、古矢が悠太に近づいて訊ねる。
「ご主人。ほんとうは、野々塚さんに関してなにかご存じなんじゃないですか? 株式会社スミカワにとって不都合なことを彼が掴んでいたとか」
悠太が口を開きかけたとき、それを制するようにして、幸三が早口で喋りだした。
「実は厄介なことがなんどかありまして」
幸三によると、野々塚は、ブランドのカバンが注文通りに仕上がってない、このままの状態を放置したら商取引を中止して訴訟を起こす。そういう主旨の脅迫まがいの電話をたびたび会社に、それも元恋人だった妻の携帯に掛けていたらしい。
里子は夫で社長の幸三の耳に入れ、実際に注文書とでき上がったサンプルを突き合わせてみて、彼らの目で隅々まで点検してみた。注文書に書かれていたとおりに仕上がっており、カバンの強度は充分で、留め具の欠陥やカバン本体の傷などもないはずだった。
どれもみな、長年スミカワで働いているカバン職人たちの手作業で作られ、目で見て手袋をはめて触りながら丹念に検査し、納品する製品である。他の店からそういった苦情はここ最近だと届いていない。完成した製品は厳重に梱包してから京阪神を中心に出荷しており、幸三も里子も首をひねるしかなかった。
スミカワで作った製品に他社のブランド名を冠して販売する方式を採用しているので、とある店のブランドに傷がついた、と言われると、店からの苦情が風評となって他店に悪影響を及ぼしてしまうのが一番の悩みの種である。父の悠太は、それについて、つい最近知った、と発言した。
「やはりそうでしたか。野々塚は恨みを買うような〝いちゃもん〟をつけていたのですね」
「そういうことになるかもしれませんね」幸三は肩を落とした。
「つまり、その火消しに専務の里子さんが神戸へ出向いた。そして、二月二日に野々塚は殺された。彼が殺されたのと、里子さんの行動になにか関係はないのでしょうか」
「いや、ただの偶然では……」
幸三は言葉を濁した。自分たちに疑いの目が向けられ、なんどかその場をしのごうとしているようにも見える。
しばらく無言のときが流れた。壁時計の短針が六時の位置を指し、あたりはすっかり暗くなっている。
「今日のところはこれで引き揚げます。なにか動きがあれば、至急、警察か私の携帯に知らせてください。いいですね?」
橋丸は懐から名刺を取り出し、幸三に手渡した。
*
刑事らが帰ると、男二人は申し合わせたように二階の悠太の書斎に上がった。
幸三は居間の幾何学模様の絨毯の上をゆっくり歩き回りながら、悠太に問うた。
「刑事らが豊岡に来るのは織り込み済みでしたが、城島が見つかったらいかがしましょう?」
「きみの好きにするとエエ。任せたで」
悠太は、窓外の、杉の木の枝を見つめて言った。
「そうですか。では私の考えた第二段階の計画を実行します」
「すまん。私も年で、物忘れがひどくなってしもた」
「もう一度、言いましょうか」
「そうしてくれ。なんだったかな、その計画とやらは?」
「けっして難しいことではありません。警察に身柄を渡す前に、こちらで殺してしまう。それが次の計画です」
「それでだいじょうぶか」
「お義父さん。所詮、城島は金で雇った人間。しかも前科者で、独身者ときている。半グレと呼ばれる不良グループの一員です。警察内部には協力者もいます。彼に依頼して始末させるなど造作ないことです」
「なるほどな。きみの考えはようわかった」
「殺人犯というカードは、斬り捨てるのが最善の口封じ」
「きみという人間は思っていた以上に冷酷や」
「そうでしょうか。温情をかけるのなら、最初から巻き込まないだけです」
冷たく言い放った幸三の台詞が終わるのと同時に、窓の外で小さな音がした。悠太が窓を開ける。杉の枝に止まっていた鳥の群れが枝を揺すって飛び去っていった。しなって揺れる枝が元通りに動かなくなるまで、悠太は窓を閉めずに眺めている様子だった。
その背中を見つめながら、もし己が城島の立場だったら、この人は私をどうしただろうかと想像してみる。殺人を犯した身内として匿うだろうが、彼にまで警察の捜査が及んだらどうか。やはりトカゲの尻尾を切るように、この世から消し去って延命するのではないだろうか。但馬財界のドンと呼ばれる人物だ。よそからやってきた婿養子を始末するなど、いとも簡単に実行に移すのではないか。そうなればやられる前にやるしかないだろう。では、城島も身の危険を感じたら、こちらに牙をむくのではないか。
頭の中では、餌を求めて山を下りてきた熊が大暴れして、それを猟銃で撃ち殺す場面が浮かんだ。大きな熊は、頭から真っ赤な血を流し、その鮮血が白い雪にきれいに映えている。赤か白か。二つに一つしかない――。クロはいずれ赤になる。
雪のように白い里子の肌を連想し、今晩抱いてやろうという気になった。
*
晩になった。五人は豊岡南署に戻らず、車を走らせていったんホテルに帰った。
六二四号室に入り、古矢は備え付けのポットで湯を沸かし、パックの緑茶を淹れて熱い茶を啜る。同僚の若手刑事が、
「城島は本気で姉妹のだれかを殺すつもりでしょうか」
「いや、それはないな」
古矢は言下に否定した。
「城島は、野々塚が憎くて殺したんとちゃう。だれかに命じられた実行犯や」
「なぜそう言い切れるんです?」
「そら、城島は無職の半グレで前科者や。インテリの税理士とは無縁のはず。普通はな」
「半グレって、暴力団に属さない犯罪集団のことですよね」
「ああ、そうや。そういうやつらは、不良のグループやねん。暴力団対策法などの法律の対象外で、捕まっても量刑が軽いときている」
「そうですよね。半分グレているし、白でも黒でもないグレーやから、こちらも実態や情報が掴みづらい。とするとだれが命じたと?」
「いまのところは、澄川家のだれかやろな」
「つまり?」
「澄川家のだれかが、豊岡の繁華街かどこかにたむろする不良グループの一人に〝仕事〟を持ち掛けた」
「しかし、その城島が三姉妹を……」
「まあ、いずれわかるわ」
古矢は若手の肩に手を乗せ、ドアに向かった。二人が廊下に出てしばらく待っていると、六二五号室の立花らと、六一三号室の橋丸が出てきた。
五人はエレベーターで一階に降り、カードキーを持ったまま、暗闇の広がる外へ消えた。
駅までぞろぞろと歩きながら、「きょうはやけに冷えるな。特に北風が冷たい」と橋丸が言うと、その言葉を待っていたかのように、若い刑事が、
「今夜は城崎温泉に移動します。旨いカニ料理を食べられますよ。ちゃんと五人で予約しておきましたから」
と恵比須顔で声を弾ませた。
まもなく、JRの豊岡駅に到着した。待つこと数分、鈍行列車が来た。列車に乗り込み、十数分揺られてJR城崎温泉駅のホームに滑り込む。
駅から歩いて一〇分。観光客で賑わう、活気溢れる温泉街に入った。温泉街を通って、風情の漂う川に架かる橋を渡り、目的の店の暖簾をくぐる。
五人の刑事は、二月という季節もあって、カニ料理の割烹店でカニ三昧のコース料理を注文した。その店は、カニの足を塩で包んで天火で焼き上げた「かにかまくら」という名物料理を出す店である。その名の通り、カニの足が真っ白の「かまくら」で覆われ、白い塩の塊を木槌で割って食するという変わった趣向の料理で評判だった。
料理を待つあいだ、声を落として仕事の話になった。
「行方不明の三姉妹はどこにおるんでしょうか」
「さあな。動きがまだ掴めん。そもそも犯人の意図が読めん」
「そうですよね。犯人からの要求は、『いくらの金を用意しろ』とか、『どこそこに金を持ってこい』とかなら誘拐ですけどね。誘拐の要求というより、『三人のだれかを殺す』ですから。殺害予告や」
「たしかに殺害予告や。その意味からして、金銭目当てではないと思う。狙いは最初から第二の殺人。そう意図しているように見せかけている」
古矢はそう推理した。「犯人は、野々塚殺しと同一人物――城島進一郎――が主導しているんやろな」
「三姉妹と行動をともにしている城島は、誘拐を装って姿をくらましているのだろう」
橋丸も古矢の推理を支持し、そう付け加えた。
「もしかして、三姉妹は野々塚殺しに一枚かんどって、実行犯の城島を匿っていると?」
立花は古矢の言わんとしていることがようやくわかりかけたようだった。
「澄川家のだれかが城島を雇い、野々塚を殺させる。そして、三姉妹が行方不明をよそおい、城島を隠す。事件の主犯は、最初からそういう青写真を描いたんやろ。あくまで推理の域を出ないが」
古矢の自信満々な表情に、立花は目を見張った。
「だとすると、澄川悠太や幸三の表情や態度は全部」
「演技っちゅうことやな」
「演技……ですか。してやられた」
立花は自分だけが彼らにいいように踊らされたとわかり、口惜しそうな表情を浮かべた。
「たぶん、身代金の電話もかかってこえへん。三姉妹と城島はグルやからな」
「じゃあ、われわれはどうすればエエんですか」
「タチさん。そう慌てるな。敵は必ずなにかを仕掛けてくる」
「どうしてわかるんですか」
「刑事の勘や」
「勘、ですか」
「そうや。豊岡南署に『三姉妹が行方不明になった』と通報があったときから、だれかが城島を逃がそうとしていると予感しとった」
古矢の発言に対して立花がなにかを言いかけたときに料理が運ばれてきて、話が中断してしまった。
「その話はまた、あとでや」
カニ刺しから始まり、カニのしゃぶしゃぶ、天ぷら、カニ味噌のスープ、カニの甲羅蒸し、カニ鍋、カニ雑炊、カニかまくらなど、カニ尽くしの品々を五人は堪能した。
旨いカニ料理に舌鼓を打ち、腹が膨れた。帰りは寒いのでタクシーを呼んだ。温泉街からタクシーを二台拾い、ホテルに辿り着いた。
ホテルに戻ったら、夜の九時半を回っていた。
古矢はホテルで二日目を迎え、携帯を開いて自宅に電話を入れた。家族の生の声が聞きたくなった。
「もしもし」
「もしもし、あなた?」
「ああ、オレだ。いま、出張先の豊岡のホテルにいる」
「お仕事、お疲れさま」
「こちらは特に変わりはない。そっちはどや」
「いまのところだいじょうぶよ」
「一真は?」
「『パパとこんどの日曜日に遊んでほしい』って。週末はこちらに帰ってこれそうなん?」
「さあ、どうやろ? まだわからんな。うまくいけば帰れるかもしれんが。期待はせんでほしい。そのかわり、なにか土産を買って帰るから」
「ありがとう。風邪が流行っとるから気をつけてね」
「ああ、気をつける。ありがとうな。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
電話を切り、ひと息つけた。すっかり冷めきった緑茶の湯呑みに手を伸ばした。テレビを点けてニュースを観ていると、電話中に入浴していた若手刑事が風呂から上がった。
「古矢さん、風呂場が空きました。次、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ツインベッドの枕元に、明日着る服を折り畳んで置く。それからおもむろに下着姿になって、部屋のバスルームに入る。
熱い湯を体に浴びると、体の疲れがどっと出てお湯に洗い流されていくような感じがした。シャワーを浴びながら、どれぐらいのあいだ、豊岡のホテルに泊まりつづけるのだろうかと思いを巡らした。
けれど、誘拐犯がどこにいるか判明するのはまだ先のことであり、いつ出張の束縛から解放されるのかはいくら考えてみたところでしかたのないことだとすぐに思い直した。
バスルームから出て、汗とお湯を拭き、頭も体もさっぱりした。気が緩んだせいか、自然に欠伸が出る。もう晩の一一時近い。
「そろそろ寝るか」
若手に声を掛けると頷いたので、部屋の灯りを消して床に就いた。
二月六日の朝が来た。目覚めはよい。服を着てから窓の外を見やると、小雪が舞っているのが目に入る。
朝食はロビー脇のクロワッサンとホットコーヒーで簡単に済ませ、食べ終わるとソファーに腰掛けたまま、新聞に目を通す。神戸市会社員殺人事件の続報は出ていない。新たにメディアに伝わった情報がないか、たとえあったとしても、その情報が記事にするのに値しないのだろう。
やがて五人がロビーに集合し、それぞれの車に分かれて豊岡南署を目指した。
古びた鼠色の、三階建ての建物が大きく見えてくる。庁舎の駐車場に車を停め、コートに降る雪を手で軽く払って中に入る。
五人の刑事は二階の会議室に通された。澄川三姉妹の誘拐の可能性があり、会議室には緊張の色が漂っている。
九時半から始まった捜査会議では、三姉妹と犯人と見られる城島の足取りについての報告から始まった。
「現在までに判明している事実を申し上げます。澄川家の里子、良子、早苗の三姉妹が昨日の朝から行方不明であること。『三人のだれかを殺す』という男からの脅迫電話が昨日の午後四時過ぎに澄川家に掛かってきたこと。電話は携帯電話からの発信であり、NTTドコモの豊岡市内の市村(いちむら)基地局からの通話と確認されたこと。犯人は三姉妹とともに豊岡市近辺に潜伏している模様であり、依然として危険な状況がつづいていること。以上です」
豊岡南署の三〇代と見られる生真面目そうな警官が話し終え、着席した。
「犯人の使用している車は、神戸でナンバーの判明した濃紺の軽自動車ではないのか」
橋丸管理官が着席したまま手を挙げて問い質した。
「神戸で城島の使った車は野々塚殺害の犯行用であり、いまは別の車を使って逃げているものと思われます」立花が発言した。
「その根拠は?」
「兵庫署の調べによると、Nシステムの追尾の結果、その濃紺の軽自動車は神戸港の埠頭に乗り捨ててありました。ナンバープレートをもとに陸運局に照会すると、たしかに城島進一郎のものであるとのこと。昨日の火曜日に判明したそうです」
神戸組の若手刑事が説明を加えた。
「そうか。車を二台、用意していたのか」
橋丸は腕組みをして天井を仰いだ。
「相手が別の車で移動しながら三姉妹を連れ回しているなら、豊岡市近辺での検問を強化しろ。それと、城崎や香住も含めた半径五〇キロ圏内の宿泊施設を中心に四人の足取りを追え。いまのところ、それしか打つ手がない」
橋丸は神戸組と所轄の豊岡組の刑事らに命じた。
古矢は神戸組の若手刑事とペアを組み、用意した城島と三姉妹の顔写真を携え、豊岡市内の方々を歩いて回った。
結果は芳しくなかった。
たまに市民に反応があっても、
「澄川さんとこのお嬢さんでしょ? なにかあったん?」
と顔を知られている程度である。つい昨日から消息不明であるとはだれも知らず、まして城島という凶悪犯を見かけたなどという人物には一人も出会えなかった。
「三姉妹が誘拐されてから丸一日がたつ。なんとか早く見つけて救出しなければ」
古矢は心の中で呟きながら、事件が予想した展開と異なる局面にならないことを祈った。
まさか、切羽詰まった城島が正気でなくなり、三姉妹を殺めるなんてことにはならへんやろな――。
犯人の城島は半グレの人間である。自暴自棄で無茶をする可能性もないと断言はできない。ただならぬ男だ。お嬢さん方とグルとはいえ、育ちも環境もちがう人間同士が同じような気持ちで行動をともにするというのは、ある意味では無謀かつ危険すぎる。
捜査員すべてに焦りの色があるが、必ずどこかで捜査の網に引っ掛かるであろうという楽観的なムードはあった。正直な話、古矢にもその気持ちがあった。
「古矢さん、城島らはどこに隠れとるんでしょうか」
若い刑事が訊ねる。
「わからん。ただな。生きている以上は、メシとトイレは必要になる。誰でもな」
「そうですね」
「食糧を買いに行くとしたら、スーパーやコンビニかもしれへんな。トイレを借りるならば、公園か公共施設や飲食店、スーパーなどや。そこらを重点的に当たる」
「つまり、決め打ちのローラー作戦を展開し、それらを確実に潰してゆけば、四人のいる場所にきっと近づけると」
「そういうこっちゃ。たとえ、野々塚殺害後に逃亡してからどこかに潜伏するまでの一連の計画を巧みに練り上げ、実行に移しているとしても、どこかに〝ほつれ〟が出てくる。その欠点を突くんや。それと」
古矢はさらにつづけて言った。「ひとつ言えるのは、人質が女であるということや。さらに言えば、もしかしたら三人の女であるかもしれへん」
「女なのは間違いないです」
「これは犯人側の立場からすると、全員で逃げるときを考えれば、必ずしも有利とはいえんやろ」
「わかります。不利にちがいない」
若い刑事は深く頷き、古矢を頼もしく思ったかもしれない。
必ず城島を見つけ出し、殺しの自白を引き出してやる――。
古矢は気合を込めて、精力的にほうぼうを訊ねて回った。昼過ぎには豊岡名物の十割そばを食べ、市内からすこし離れたところまで車で足を伸ばしたが、結果的にその日の収穫はゼロに等しかった。
澄川邸に詰めていた立花から、
「澄川家の固定電話や幸三氏の携帯などに、怪しい電話はなにも掛かってきませんでした」
という報告を受け、その日は最後まで空振りで、徒労に終わった。
捜査に大きな動きがあったのは、翌日、二月七日木曜日の昼過ぎのことだった。
城島の潜伏先が判明したのである。所轄である豊岡南署と古矢ら神戸組は、勇んで現場に急行した。
城島と三姉妹がいた場所は、山の中の古びた廃屋であった。廃屋から車で近い場所に位置する公民館に寄ったときに、そこのトイレで地元の人に目撃されていた。城島と澄川三姉妹の写真を見せると、目撃した老人は、「ああ、この人たちならさっき見かけたよ」とこともなげに答えた。
目撃情報を受け、女一人と城島が公民館を出て車に乗り込んだのを確認した。付近に待機していた覆面パトカーが慎重に尾行してその車を追跡した。追跡しながら、助手席に座っていた一人の警官が豊岡南署に連絡を入れ、応援を求めた。
城島の運転する逃走用の車が山中の小屋の前で停まり、二人が中に入っていくところまでを捜査員が確認している。応援部隊として、県警捜査一課特殊班から来た二人が、ようやく現場に到着する。
現場と言っても、廃屋のぐるりは森の茂みであり、車を停めるところがない。仕方なしに、廃屋より下ること五〇メートルほどのところにある民家に、事情を説明して三台の覆面パトカーを停めさせてもらう。
捜査員らは拳銃を所持し、気づかれぬよう廃屋の手前の藪の中に身をひそめる。
廃屋は平屋で、杉の森を背にしてひっそりと立っている。茶色の板壁は雨風でまだら模様になり、ところどころ色がくすんでいる。築年数がかなりたっていて全体に古めかしい。屈強な男にかかれば、いともたやすく壁を蹴破れそうなほどの厚みでしかなさそうである。道路に面している表側には、窓が横に二つ、前に一つある。
廃屋の中には人質が複数人いる可能性が高い。それが大人の女だけに――たとえ、それが人質でなく全員が仲間であり、三姉妹が逆に城島を匿っているにせよ――迂闊に手出ししたりして犯人をいたずらに刺激するような真似だけは慎み、避けなければいけない。その方針は全ての警官の頭に入っている。
古矢が立て籠もりの事件に臨場したことは、これまで一度たりともなかった。だから、かなり緊張の色を隠せず、額に汗を掻いている。
豊岡南署に置かれた捜査本部から、
「犯人のいる部屋はどこで、人質は何人いて、どういう状態で監禁されとるんや? 早う情報をこちらに伝えろ」
と催促の声が携帯無線機のイヤホンを通して飛んでくる。
ぱっと見たところ部屋は二つしかなさそうだ。特殊班の二人が中の様子を探るべく、双眼鏡を使用し、数メートル離れた藪の中から古びたガラスを覗いている。
「よくわかりません」
「動きはないか」無線で橋丸が訊ねる。
「あっ! 男がカーテンを閉めました。犯人のいるのは奥の方の部屋と思われます」
「人質は何人おるんや」
「まだわかりません。空き部屋の窓から侵入し、赤外線カメラで見てみます」
「くれぐれも気づかれんようにな」
「了解しました」
しばらく捜査員は沈黙した。
特殊班が裏手の山から回って手前の部屋に接近し、窓をそっと開けるのが藪から見える。慎重に窓から入る姿は、まるで忍者さながらだ。特殊班は無事に部屋に入ると、そっと窓を閉めた様子だった。
ややあって、特殊班からの声が無線機を通してイヤホンに流れた。
「廃屋の手前の部屋に侵入しました。侵入成功」
無線を聞きながら、廃屋の方を見つめていた古矢はひとまず安心し、じっと推移を見守っていた。
「奥の様子はわかったか」
「もうすこし待ってください」
「慎重に行えよ。犯人に知られるなよ」
「了解です」
ふたたび緊張の瞬間が連続して訪れる。異様な空気に包まれて息苦しくなってくる。
「反応が出ました。サーモグラフィーで、オレンジ色に光る人の顔が四つあります。人質は、犯人を除いて三人の模様。座っているけれど、それぞれときどき立ち上がることもあり、四人とも自由な状態でいます」
「よし、わかった。作戦に移る」
管理官以下、捜査本部の立てた作戦は、次の通りだった。
まず、時間稼ぎをしているあいだに、城島の家族を連れてくる。その家族、できれば母親を利用し、廃屋から出てくるよう説得を試みる。説得に折れて犯人が出てきたら、隙を見て中に入り、人質を救出する。いつまでも相手が粘るようならば、最後の手段として閃光弾を用いて強行突破を図る。
城島の運転免許証から、すでに現住所と家族構成が割り出されている。城島進一郎は未婚で両親の住む実家から離れたアパートで暮らしているのは先刻承知である。七〇に近い母と、それより三つ年上の父がいる。弟も一人いて、彼は離れたところで暮らし、所帯を持っている。
作戦に移ろうとして、城島の母が到着するのを今かいまかと待っているときだった。現場から仰天するような報告が入った。
「重要事項! 犯人は拳銃を所持している。繰り返す。犯人は拳銃を所持している」
「なんだと! それを早く言わんか。作戦がまるっきり変わるやないか」
管理官は怒りを露わにした。もっとも、特殊班の捜査員は、犯人が銃を所持していないとはひと言も漏らしていなかったのだが。
「作戦を練り直す。犯人の様子を観察し、くれぐれも刺激することのないようにして待機せよ。侵入した特殊班は音を立てず気配を消せ」
しばらく捜査本部で議論があったのだろう。作戦は変更になった。
説得工作をして犯人とのあいだに関係を作った上で、要求を訊き出す。どうにかして相手を廃屋から外へおびき出し、出た隙に乗じて手前の部屋にいる特殊班と入口の左右と屋根の上に配置した捜査員が犯人に飛びかかり取り押さえる。場合によってはこちらも拳銃を使用して利き腕に銃弾を浴びせ、相手に拳銃を撃たせないようにする。
ともかく、城島が銃を所持して潜伏していることがわかり、ますますもって現場の廃屋付近には張りつめた空気が漲(みなぎ)る。藪の中に潜む捜査員は心身が緊張する。
雲間から覗いた二月の夕陽が廃屋を含めた山のそこかしこを茜色に染め、冬空に垂れこめた雲の切れ端を赤く照らす。もう夜のとばりが降りようとしていた。付近には、民家も商店もない。
「夜も近いな。城島らはどこで食糧を調達するんやろ?」古矢が疑問を投げ掛ける。
「もうすこしたってから動きがあるかもしれませんね」
「たとえば?」
「人質二人を縄で縛って残し、一人だけ連れて買い出しに出掛けるとか」
「夜になっても、スーパーなんかやと街灯に照らされ、人質が外から他人に見られる可能性もあるで」
古矢はさらに、
「城島が買い出しに行くんなら、一人で行くのとちゃうか」
と推測した。
様子をうかがっていると、現場の下の民家に母親を乗せた覆面パトカーが到着した。古矢が藪から這い出て、民家まで降りていく。顔を見て、あっと声を漏らした。あの満月の晩に散策し、橋の上で声を掛けてきた老婦がそこにいた。
「あら、いつぞやの方。この前、会いましたね」
「それはいいから。私は刑事です。いま、大変な状況なんです」
「わかってます。息子が中にいると聞いてびっくりしとります」
「お母さん。息子は、人質を取って立て籠っとるんです」
古矢が代表して状況を母親に伝える。
「ええ、おおよその事情は訊きました。小さな頃から突飛なことをしでかす子でして。ほんとうに申し訳ありません」
「お気持ちはわかります。ここはひとつ、お母さんの出番ですよ」
「そうでしょう。私が息子を説得するように、と警察の方から頼まれました」
「その風呂敷は?」
「腹が減ったやろう思て、握り飯をこさえてきました」
見ると、タッパーに握り飯がたくさん入ったものを三つばかし用意してきた様子だった。
「これは助かる。城島も腹が減っているだろう。自分の母が手作りしたおむすびを食いたくなったら、絶好のチャンスだ」
「チャンスと言いますと?」
背中が曲がり、目元の窪んだ老婆がすこし首をかしげる。
「ですから、『せがれや。腹が減ったやろ。無茶なことはやめて、おむすびを食べにこっちへ来なさい』とでも言って説得を試みてください。お願いします」
「なるほど。食事で釣るわけですか」
「城島がどう出るかわかりませんが、会話ができます。相手との心理的距離を縮められれば、必ず確保できますから」
「ちょっと待っとってください。着いたばかりでこちらも休みたいし、心の準備もありますから」
「わかりました。心を落ち着けてください。説得にあたっては、くれぐれも叱ったり、責めたりするような言葉は出さないでくださいね。家の中には女の人質が三人もおりますから」
古矢が親身になって母親の気持ちを案じる。
母親は胸に手を当て、民家から廃屋の方を見つめ、なんども瞬きを繰り返す。
「じゃあ、そろそろ行きますから」
母親の方から、捜査員に声を掛けてきた。
「わかりました。それでは、打合せどおりにお願いしますよ」
古矢が母親を連れて民家から坂を上り、ゆっくりと慎重に廃屋に近づく。母親に付き添う古矢が廃屋の数メートル手前で足を止め、母親に拡声器のマイクを持たせた。母親はマイクを手にして喋り出す。
「進一郎、進一郎や」
夕暮れ時の山の中でしわがれた声が響く。中の様子はうかがえないが、カーテンがちらちらと揺れ出している。犯人が母親の姿を見つけたのだろう。
「進一郎。迷惑かけたらアカンがな」
古矢らの表情が変わった。打合せとまったく違う。アドリブで母親が喋り出している。プロの交渉役でないから台本通りにやれと言っても無理な話だったのかもしれないとほぞをかんだ。
「カーテンを開けて顔を見せとくれ」
やや間があり、窓のカーテンがすこし開く。日焼けした黒い顔が半分だけ窓からのぞいた。
「進一郎。こんな山の奥でなにしとるん? 腹が減ったやろ。握り飯を持ってきたよ」
母親は風呂敷を顔の高さまで持ち上げて、ウソでないことを示す。
「おまえがなにを考えとんのか、母さんはわからん。とりあえず握り飯でも食べて、もうちょっと落ち着いて物事を考えなさい。立て籠もりなんて馬鹿な真似はやめときなさい」
「うるせえ、母ちゃん。おれは、おれなりにやることがあるんや」
窓をすこしだけ開け、初めて城島が口を開いた。
城島の母親は、いざというとき頼りになる切り札だと思ったけれど、やはり世間に迷惑をかけているといった気持ちが強く出たのか、息子を叱ってしまった。こればかりは仕方のないことだった。人の親なのでこちらも自在に操れない。
裏目に出たのか。そう思ったときだった。
玄関の引き戸が開いて、中から人影が見える。
暗がりの中、日が落ちて色のわからないキャップを目深にかぶった人物が急に背中を押され、前につんのめるようにして出る。キャップの下に髪が盛り上がっている。
坊主頭やないがな。これは城島とちゃう。人質の女や――。
古矢は心の中で呟く。
隠れていた捜査陣も出るタイミングをずらされ、拍子抜けした恰好になる。その隙を見計らうようにして、別の黒い影がサササっと停めてあった車に向かって駆け出す。
「車や! 人質を囮にして車の中へ逃げ込むぞ」
古矢は叫んで、廃屋の車の前まで走り出す。間髪入れずに、車に乗り込もうとする影に向けて、パン、パンと二発の銃弾を見舞う。
ギャアアア。低音の悲鳴が響いた。一発が城島の腕に命中したようだ。
城島と思しき影がなにかを地面に落とす。右腕を別の腕で押さえながら、体を曲げて車のドアに手をかけ乗り込もうとする。
そうはさせじと、入口の左右と屋根にいた部隊が密集して真っ黒の影に群がる。乗り込もうとする城島の足を引っ張り、車から引きずり降ろすのに成功する。
「犯人確保! 城島を確保しました」
捜査員の声が無線を通して弾んでいる。
「人質は無事か」
冷静な橋丸の声はまだ気を緩めていない。
「こちら特殊班。人質三人を無事に保護。人質すべてを保護しました」
「よし、よくやった」
橋丸の安堵の気持ちが無線の声に乗り、口調に滲み出た。すこし状況は変化したが、結果的にうまくいった。
囮にされた長女の里子に警官のコートが掛けられ、部屋の中で震えていた良子と早苗も外に連れ出された。三姉妹はそれぞれ別のパトカーに乗せられ、家まで送り届けられたと後から聞かされた。
誘拐立て籠もり事件は解決したように見えた。これで城島を警察の手元に置き、神戸市会社員殺人事件もいずれ近いうちに方が付くと思われたのは、当然の成り行きであった。
城島は豊岡南署に連行され、初日の七日夜九時から一一時まで、取調べが始まった。
「城島。おまえは三人の澄川姉妹を誘拐したんだよな。間違いあれへんな」
「いいえ。オレにはなんのことだかわかりません」
「なんやと? どういうこっちゃ」
「ですから、なにも知りませんて」
「なんやと? 警察をなめとんのか」
「なめとるんやないです。誘拐なんてしてません。たまたま一緒におっただけです」
「ほな、なんで拳銃なんぞ持っとった? ええ?」
「護身用です」
「だれか一人を殺す。そう言うて電話を澄川家に掛けたんは、おまえやろが? どうや、自分の口からはっきり『脅迫電話を掛けました』と言うてみろや」
「たしかにそういう電話は掛けました。そう言え、と命令されたんです」
「だれにや」
「それは言われへん」
「なんやと? なんで言われへんねん?」
取調官は憮然とした表情になる。
「どうしてもです。ここから先は黙秘します」
「この野郎め! ふざけんな」
取調官はぬっと椅子から立ち上がると、メモを机にたたきつけて一喝した。そばで二人のやり取りに立ち会っていた別の刑事が、まあまあ、と激昂した取調官をなだめてその場を丸く収めた。
城島は最初こそ会話に応じたものの、誘拐立て籠もりを頑として認めなかった。
よくあることだが、取調べで落ちにくいタイプだと署内で噂された。
しばらく休憩をはさみ、取調べのつづきが再開された。
「澄川三姉妹と一緒におった。さっき、そう言うたな?」
「はい。たしかに言いました」
「ホンマに誘拐やないねんな?」
「ええ。誘拐やないです」
「ほな、顔見知りでもない三人の女となにをしとったんや」
「それは言えません」
「さよか。なにか言えん事情でもあるんやな?」
「さあ、わかりません」
きっぱり言えない、と拒絶の姿勢を貫いている城島に対し、別の角度から切り崩そうとした。
「言えん事情ってなんや? 税理士殺人事件と関係あるんとちゃうか」
「……」
「黙っとっても伝わらんぞ」
「それについても黙秘します」
「黙秘せえとだれかから命令されとんのか? そいつはおまえの親分か」
「なにも言うことはありません」
それだけ言うと、城島は俯いて目を伏せた。
何分間かの重苦しい沈黙が、窓のない無機質な取調室に気まずい雰囲気を作った。
なにかを考えていた取調官は、正攻法ではもう限界と見るや、ちがう話を振って、会話の糸口を掴もうと試みる。
「野球のキャンプも始まったな」
「そうですね」
「おまえの好きな球団はどこや」
「巨人です」
「そうか。読売ジャイアンツか。日本一になれるかな」
「リーグ優勝はするでしょうね。それは堅い。でもパ・リーグは強い中で、とびきり強いチームが勝ち上がってくるからな。五分でしょう」
「なるほど。パ・リーグ、バリバリに強いもんな。西武の山川やソフトバンクの柳田と巨人の岡本ではどちらが上と思うか」
「三人ともすごいな。全員が巨人にいれば、日本一を三年つづけるのも夢とちゃうわ」
「そりゃそうやろ」
案外、事件以外の世間話には乗ってくる。城島という男が根っからの悪人でも、孤独を愛する男というわけでもなさそうだ。
「新聞はなにを取っとるんや」
「スポーツ報知」
「やっぱりな。巨人贔屓のスポーツ紙か」
「ええ。巨人のことが多いから。野球は巨人に限ります」
「同じ兵庫県内でも、山を越えた阪神間は、阪神ファンがぎょうさんおるで」
「ですね。試合に負けても負けても、阪神好きの知り合いがいます」
「そうなんや」
「刑事さんは、どこのファンですか」
「オレか。どこやと思う?」
「さあ、巨人でも阪神でもなさそうな」
「当たりやな。オレは横浜ファン」
「意外ですね。なんで、また?」
「青いユニフォームが恰好エエのと、横浜で育ったからな」
「へえ、珍しい。こちらへは就職で?」
「いや、高校のときに、横浜から神戸に転校した。高卒でバイトをやりながら、兵庫県の警察官採用試験を受けたわ」
「いま、いくつなんですか」
「オレは三九や」
「なんや。オレの方が年上ですわ」
「そういうことやな。おまえはずっとこっちか」
「まあ、いろいろと」
「兵庫はエエとこやで。神戸に行けば中華街に港。食いもんは神戸ビーフ。日本海側に行けば、カニやスキー、温泉もある」
「よくご存じで。大阪とちがってド派手やない分、人がエエ」
「話は変わるが、おまえのところでは、そばを作っとるんか」
「ええ。畑でそばの実を育てとります。秋に収穫し、手打ちそばや天ぷらにして家で食べるのが楽しみでした」
「打ち立ては旨いやろな」
「とても美味しいですよ」
城島は目を細め、なにかを思い出すような顔をした。「もう一度、あの打ち立てのそばを食うてみたいなあ。腰があって風味が豊かで」
取調官の目には、会話が噛み合い、とても人間一人を殺めたとは思えないほど落ち着いた男に映る。半グレの男とは思えなかった。
その日はどちらかの雑談にもう片方が応じ、犯罪者と刑事のあいだには一定の信頼関係が築けた、と取調官の刑事は上司に報告した。たとえ雑談をしただけでも、大きな前進と言える。すべてを拒絶するわけでも、反抗的な態度を貫くわけでもないのだから、人として話し合えるというのは大事なことである。
よく引き合いに出されるたとえが、童話の『北風と太陽』である。相手に強く冷たくあたる北風よりも、ぽかぽかと旅人を温める太陽として接する方が、心は打ち解けて通い合う。 取調官の担当刑事も、方針を転換して「太陽」になったわけである。
翌日の八日も、前日同様、朝九時から取調べが同じ取調官の担当で始まった。
「元ベイスターズの筒香は大リーグでやっていけるんかいな」
取調官が当たり障りのない野球の話から始める。
「さあ、どうでしょうかね。アメリカは試合数が多いし、移動距離も長い。故障さえしなかったらホームラン一五本ぐらいは軽く打てそうやけど」
「それを聞いて安心したわ。そこそこやれそうか」
「あとは向こうの環境になじめるかどうかやな。打てへんかったら日本に戻って、巨人に入ればエエのに」
「それはアカンやろ」
ここからどうやって立て籠もりや殺人の自供を引き出せるのかと普通の人なら悩むところを、三九歳のベテラン取調官は、それ相応に考え抜いた筋書きを実行した。
「筒香選手は、読書が趣味らしい。本好きなんだな。海育ちなので食い物は魚が好きだとか」
「へえ、それは知らんかった」
「城島。おまえの好きなものはなんや」
「オレですか。オレはゲームが好きですね。食い物は筒香選手と同じで魚かな」
「ゲームと魚か。魚は自分でさばけるか」
「ええ。独身が長いから、一匹丸ごと魚を買ったときは、包丁で三枚におろすぐらいはできますよ」
「ほう。器用なんや」
「それほどでもないですよ」
「魚の血を見てもなんとも思わないか」
「平気ですよ」
「ゲームで登場人物が死ぬのと、人が殺されるのとは、どっちの方が気味悪い?」
「そりゃ、人間の方でしょ。後始末があるし、ゲームならリセットしてまた一から生き返る」
「なるほどね。野々塚税理士は、いまごろ無事に成仏して天国にいるのかな」
「さあ、オレに訊かれても」
「困るんか」
「いや、そういうわけとちゃうけど。現実に人がなくなるのはたいへんなこととちゃうかなって」
「たいへんやで。残された家族は悲しみに包まれ、それを引きずりながら葬式を挙げにゃならん。これからの生活が大きく変わる節目や」
「……ですね」
「野々塚さんにも残された妻子がいてなあ。かわいそうだよ。子どもはどうしてパパがいなくなったのか、まだ理解できないかもしれない。いや、たしか小四の子だったから、父親が殺された意味を理解できて苦しむと思うで。犯人を憎んで育つかもしれん」
「そ、そうですかね」
「まあ、まさか、おまえがやったんやないんやろうから言うが、恨みを抱いた人間には復讐という選択肢が与えられる」
「復讐、ですか」
「そうや。犯人が仮に捕まって有罪になり、何年間も服役して刑務所から出てきたら、父の仇討ちに現れるかもしれん。考えただけでも恐ろしいな」
「お……恐ろしい」
「刑期を終えて、罪を償っても、仇と思う相手を殺すまでは、気持ちが晴れないかもしれへん。犯人にとってみれば、いつ仇を討たれるか、びくびくして暮らさなアカン。辛いやろな」
「それは辛い」
「辛いどころか、生きとる心地がせえへんかもしれへんな。そうなる前に、極刑が下り、死刑を執行された方が犯人にとってはむしろ幸せかもと思たりもする。これはあくまで、オレ個人の意見やがな」
野球選手の話から、一気に城島の心を追い詰めていく語り口には、そばで待機する刑事も思わず鳥肌が立った、とあとで聞いた。ヘビに睨まれたカエルかと思うような、息を呑むほどの巧みさがあったと。
それまではきちんと椅子に座っていた城島の足の方からカタカタカタと小さな音が鳴りだした。下を見ると、膝が震えて貧乏ゆすりを始めている。昨日の聴取では見られなかった現象だ。取調官の術中にはまり、城島が動揺しているのは火を見るよりも明らかである。
「死刑……ですか」
「だいじょうぶや。おまえがやったんちゃうもんな。おまえのことはオレが守ってやるで。保証する」
「ありがとうございます」
礼を言う時点で、もう半分罪を認めかけている雰囲気だった。
そこで休憩に入り、しばらくして、取調官は刑事課課長と話し合った上で、その日の取調べを打ち切りにした。
あとで聞くところによると、あれ以上脅しをかけて吐かせるのは、犯人にとって辛いだろう、という親心のようなものが働いたんや、とのことだった。
その日の取調べのすんだ夜、城島は送検された。検事の取調べを受けたのち、拘置所に入っていた城島は、夜遅くからこんどは古矢の取調べを受けた。
引き継ぐ形の取調べで、古矢は、前の取調官同様、「北風」のやり取りから入った。そのあいだ、城島は事件に関して否認を貫いた。
九日の土曜日、検事の判断により城島の勾留が決定する。本来なら面会の許される期日のはずだ。しかし、土曜と日曜は面会謝絶の不文律のため、それは行われなかった。
週明けの一一日月曜日の朝、とあるカフェにモーニングを食べに行った。JR豊岡駅からそう遠くない場所にカフェはある。『N’s cafe』という名の店である。車を停め、一人でログハウス風の店内に入った。
「あの文豪、志賀直哉が城崎温泉に投宿したのが一九一三年。うちのカフェを開いたのがちょうど一〇〇年後の二〇一三年でした。何かの縁があると思い、開店に当たって『N’s cafe』と命名させてもろたんですよ」
店のマスターは初めて訪れた古矢に、店名の由来を嬉しそうに聞かせてくれた。眼鏡の奥で瞳が優しく光っている。
古矢はモーニングを頼み、トーストを食べながら、コーヒーを啜って、マスターとその妻らしき人と対面していた。その女はエプロン姿で厨房と座席を行き来していた。
「文学がお好きなんですね」
古矢は厨房の肩越しに声を掛けた。
マスターはすこしだけ頭をもたげ、振り返って古矢の顔を確かめてから、
「私の名前が郁(ふみ)哉(や)でしてね。親父が城崎出身の関係で、志賀直哉から一字もらったんです。私自身はそれほど文学青年でもなくて。お恥ずかしい」
四〇から五〇ぐらいのマスターは、照れた口調で手早くカップをゆすいでゆく。
「カウンターに座るお客さんの方が文学に詳しくて。いつも、文学や直哉について教わってばかりです」
また顔を上げ、白い歯を見せた。「脱サラして故郷に帰ってはきたけれど、特に目ぼしい仕事もなくて。コーヒー好きやからという理由だけで女房を巻き込んで店を開きました」
古矢はマスターの話に聞き入り、しばらくしてから「また来ますわ」と言って店を出た。
駐車場に停めた車を出し、拘置所へ向かった。
午前一〇時過ぎ、逮捕のときに説得にあたった母親が面会しに訪れた。一五分ほど話をしたあと、城島の心境に変化があったのだろう。サバサバとした、悟りきったような改悛の表情を犯人の顔に見て取った。
古矢は率直に訊ねる。
「城島。おまえが野々塚をやったんやな?」
「はい。オレがやりました」
ついに吐いた。犯人が落ちたのだ。
「そうか。誘拐立て籠もりはどうなんや」
「それはオレの意思ではありません。信じてください。実は、あ、……う、う。苦しい、胸が」
突然胸を手で押さえ、城島の顔が蒼白になる。古矢もうろたえ、
「早く、早くADEを」
と言い間違えるほどだった。
取調室で上半身を机に伏せ、苦しみ呻く城島。指が辛うじて動くのでメモ用紙を置き、ペンを握らせてやる。その元へ署内備え付けのAED(自動体外式除細動器)が運び込まれたときには、城島の息の根は止まっていた。すでに口から泡を吹き、心臓発作で絶命したばかりだった。AEDを作動させても、彼の心臓が再び動くことはなかった。
罪を認め、自白を始めた途端の悲劇だった。不幸にも激しい心臓発作に見舞われ、息を引き取るとは、なんともついていない男だ。古矢は哀れに思い、その場で合掌した。
これで二つの事件が振り出しに戻ってしまった。辛うじて、野々塚税理士の殺害に関しては、自分がやったと自供したのでそれを調書に記した。だが、事件当時の実際の状況や動機は訊けずじまいに終わった。
城島は亡くなる寸前、右手で字を書いた。指を動かしたので、あわててメモを置き、彼の手にペンを握らせてやった。ミミズが這ったように震えて書かれた線は、文字の一部のようだった。城島は激痛に悶えながら最後の力をふり絞り、メモに「犭」としたためて急死した。
古矢は、目の前でダイイングメッセージを書く姿を、初めて生で見た。しかも、神戸市会社員殺人事件と同一のけものへんである。
これはどういうことや?――
予期せぬ展開の連続に、古矢の頭も混乱しっ放しだった。
実行犯の城島がいましがた遺した「犭」と野々塚の指先にあった「犭」。事件の鍵を握ると思われるけものへんは、事件の背後に、なにか得体の知れない存在があることを示唆しているに違いない。
けものへんの意味する謎がますます深まるばかりである。
*
男の事務所に、見知らぬ人物から匿名の電話が掛かってきたのは、昨年のお盆前のことだった。たしか、夏祭りの前日だったと記憶している。
「おたくの事務所の帳簿には、税務上、いくつかの問題点がありますね」
それだけ言って電話が切れたらしい。職員は男に報告した。
「どうせ単なる嫌がらせだろう。放っとけ」
男は不愉快に思ったが、けっして慌てたりなどしなかった。
それから数日後、「地検の捜査が入るとマズいですよね」「私ならこんな危ない状態を放置しない」などと、内部事情をさも知っているような趣旨のことを電話で言ってきたらしい。男は電話の主の正体を知りたくなった。
電話の人物は事務所の金の流れについて意味ありげなことを仄めかし、男の大きな野望の妨げになるように思われた。しかも、匿名の人物は、「吉竹(よしたけ)作造(さくぞう)議員と親交がある」と後ろ盾のあるようなことを強調してきたと言う。
男はそれを聞いて心が乱れるのを禁じ得なかった。部屋に置いてあったゴルフクラブのアイアンを振り回し、何十万円もする高価な壺を二つほど叩き割るぐらいに激高した。そのときになってはじめて、その電話を掛けてくる人物に対して憎悪の気持ちを抱いた。
自分がこれまで築き上げてきた努力の塊と輝かしい結果を一瞬でふいにしてしまうような敵。そんなふうに頭の中で判断を下した。自らが接触することなく、この世から早く消えてほしいと願った。両膝を床につけ、手でカーペットの床を激しく叩き、口惜しがった。
自分しかいない事務所の部屋に内側から鍵をかけ、両手を頭にやり、ワーッと大声を出して叫び悶えた。
そんな経験は子どものとき以来だった。
なにもない田舎で生まれ育ち、これと言って取り柄のない男がその地位までのし上がってこられたのも、人の弱みにつけこんで秘密で脅し、人を支配してきたという過去があったからである。
電話の男がどういう人物なのかははっきりとわからない。自分のような有力者の弱みを握り、いまの座から引きずりおろそうとするやり口は、過去の自分の醜さを見せつけられているようであった。自分に跳ね返ってきた、悪行に対する天罰のようにも受け取れた。
「酒を持ってこい」
男は秘書に命じた。アルコール度数の高い洋酒を一人で開けて、朝まで飲みつづけた。半袖のシャツを着たままで酩酊し、仰向けになった。
どこかでわしのことを妬むヤツがいる。わしのことを恨めしく思い、表舞台から消そうとするヤツがいる――そう思っただけで背中をムカデが這いずり回るようなたまらない嫌悪感が走る。
もし電話の男の企みどおりに事が運べば、自分は屈辱を受け、汚名を着せられて引退せざるを得なくなると思うと、膝がわなわなと震えた。
と同時に、そんな企みなど握りつぶしてしまえ、いや、その人物の存在すらこの世から跡形もなくしてしまえばいい。そう強く心に決めた。
なんだ、簡単なことだ――。ある人物を使えばいいことを頭に閃いた。酔いは残っているが心の痛みは消え、爽やかな朝の空気を吸いたくなった。酔いで火照った体を冷まそうと思い、服を脱いで上半身だけ裸になる。窓を開けた。でっぷりと太った体が朝焼けの陽光に黒光りしている。ほんのりと赤く染まる朝焼けに思わずぼんやりと見とれた。しばらく時を忘れた。
手洗いに行きたくなり、部屋を出て廊下の突き当りにある二階のトイレで用を足す。部屋に戻って上着を着る。
酔い覚ましに朝の散歩に出掛けることにする。スリッパを沓脱で靴に履き替え、外に出た。道路沿いを歩くと花々が目に飛び込んできた。田舎の家々は柵のある家が少なく、道端から花がよく見える。朝顔や向日葵などが青空に向かって元気に咲いている。とても気分がよくなってきた。そう言えば、五〇万本咲く向日葵畑がここから車で四〇分のところにある。
五〇万の花々。わしなら、二〇万票でいいから集めてみたいわい。太陽に向かって咲く向日葵から元気をもらい、急にその花が身近なものに感じられ、思わずニタニタと笑いがこみ上げてきた。
*
なにはともあれ、犯人の死亡により、古矢ら神戸組は荷物をまとめてホテルをチェックアウトした。七泊して八日目にあたる一一日の月曜日の昼前のことである。神戸組は車で帰ってきた。
神戸市会社員殺人事件の捜査本部は大幅に人員を削減され、規模も縮小された。古矢と立花が事後処理の担当として残った。
古矢が立花に自分の考えを打ち明けた。
「野々塚殺しは城島の仕業に間違いないやろな。だが、城島は実行犯であり、裏に実行を指示した人間が必ず隠れとるはずや」
「ホンマですか」
「ホンマや、タチさん。城島のしでかした誘拐劇も、城島を逃がそうとする茶番やとオレは見とる」
「すると、真犯人がおると?」
「おる。たぶんな。その真犯人に三姉妹が関係しとると思とる」
「事件に動きがないとなれば、われわれはどう動けばエエのんですか」
「まずは、野々塚の亡くなった、最初の現場に行ってみよう」
古矢は荷物を机の上にどっかと置き、立花を連れ、二日土曜日の事件現場となった六角公園を再訪してみた。行き詰まったときには現場に戻るのが警察官の鉄則である。
古矢がしばらく遺体の付近とその周辺を丹念に観察して回る。木枯らしが小さく舞って、朽ちた木の葉を巻き上げる。
ふと、その足が止まった。公園のベンチ下に黒のマスクが木の枝に絡まって落ちているのを発見した。
「タチさん、これ」古矢は立花にマスクを差し出した。
「マスクに栗色の長い髪が数本、絡まっとりますね」
「髪の毛は三姉妹のものかもしれない。オレたちが豊岡に行ったとき、三姉妹の髪の毛の色と長さを覚えとるか」
「さあ、どうでしたか……」
「覚えとらんのか」
「面目ないです」
「たしか、三人とも黒髪で、里子だけはショートカットだった。もし、事件のあとですぐに美容室に行き、髪の色を栗色から黒色に戻し、髪を切ったとしたら」
「古矢さん。ひょっとして」
「うん。オレは事件当夜、城島と里子がここにおったんやと思う。このベンチに座り、カップルをよそおった。野々塚を待ち伏せするために。そして、何らかの方法で野々塚の携帯に偽のメッセージを送信して六角公園におびき寄せた」
「じゃあ、そのときに里子がマスクを外し、落としてしもたと」
「そうやろな。マスクは用がなくなり、ポケットから落ちたとでも解釈できる。そういう仮説が成り立てへんか」
「さすが、理論派。鋭いですね」
立花は古矢の推論を支持した。
「そうなると、当日の豊岡でのアリバイが怪しいな」
「もう一度、ウェイターに問い質しましょう」
古矢がすぐに携帯を出し、レストラン『ラメール』に電話を入れた。腕時計を見ると、夕方の四時半を回っている。
「はい、ラメールです」
「このまえ訊ねた兵庫署のものですが」
「まだなにか」アルバイトの店員が電話口に出た。
「ウェイターの浜口さん、おられますか」
「まだ出勤前ですが」
「携帯の番号、わかりますか」
「わかります。教えましょうか」
「お願いします」
「〇九〇(一一××)××××」
「ありがとうございます。では」
古矢はそらで記憶し、すぐ浜口の携帯に掛けた。
「もしもし」
「はい、浜口です」
「警察の古矢ですが」
「なんでしょうか」
「二月二日の事件の夜、いつもとちがったことが起きていませんでしたか? 三姉妹に」
「……」
「なにか不都合でもあるんですか」
「あのぉ、どうしても言わなければいけませんか」
「捜査上、大事なことです。あなたが犯人を庇うと罪になりますよ」
そう言われて、浜口は慌てたのだろう。言いにくそうだったが、諦めたのか電話口で真相を話し出した。
「実は、あの晩、三姉妹の長女の方だけが、頭にニット帽をかぶり、口にはマスクをしたままで来店なさりました。ご注文のときもその恰好で、さすがに食事をなさるときはマスクを外したと思いますが、私は店が忙しく見ておりません。会計の際には、長女の旦那様がカードで支払い、そのときもニット帽にマスク姿でした」
「つまり、長女の顔をはっきりと確認でけへんかったんやな」
「ええ。確認できませんでした」
「なぜ、それを黙っとったんや」
古矢は携帯を持ったまま怒りを露わにした。
「なにせ、澄川様はウチの得意先でして。いつも贔屓になさるのと、刑事さんになにか訊かれても、いつもと変りなく家族で食事をしていたと答えろと」
そう答えてくれ、と予約の電話のときに父親から釘をさされたらしい。
これで証言の一部分が偽りであることを浜口は認めた。
この電話でもって長女のアリバイは崩れ、第三者が里子の替え玉として来店し、三姉妹に紛れこんでいた可能性が出てきた。
やはり、三姉妹は城島とグルやったんや。それに加えて、父親の悠太もアリバイ工作に関わっていたとなると――。
ゾクゾクっと背筋をクモが動くような気色悪い錯覚に陥った。不気味な黒いクモが自ら張り巡らした網の上をスルスルと移動し、葉の陰に隠れてしまう。そんな視覚のイメージが脳裏をよぎった。
「どないしました? 古矢さん」
立花の声に、やっと我に返った。
「いや、なんでもない」
古矢が首を振る。
「電話、どないでした?」
「やはり三姉妹が怪しい。父親や婿養子も含めて。オレは明日から二日間、代休を取る。一四日の木曜日、日帰りでまた豊岡に行くぞ」
「裏を取りに行くんですね?」
「そうや。ようやく相手のベールを脱がせられそうや」
警察署の窓から見える外の景色に目をやった。日もとっぷり暮れた夜空が深い闇夜に変わり、町にはネオンが煌々と灯っていた。
古矢は夜の町に出た。今宵は、いっちょ、狩りでもするか。
月曜日の深夜の神戸の町で、若い女の二人連れに声を掛けた。二人は私服姿だった。
「ちょっと、きみたち」
「なんですか」
「きみらはこんな夜に繁華街を歩いとるけど、いくつや」
「警察の人ですか」
「おう、そうや。古矢言うねん。あんたの年令は?」
「ウチは一八です」
「その連れは?」
「私は二〇」
「ホンマやろな? 職業は? 学生か」
「はい、大学生」
「学生証、見せてみ」
「ちょっと、いまは持ってません」
「ほな、なにかの身分証を出しなさい」
「ちぇっ」
二人の女は顔を見合わせ、しぶしぶカバンの中からそれぞれに生徒手帳を見せた。
「ほれ、見てみ。まだ高校生やがな。アカンで。深夜にうろついたら。警察に来てもらおうか」
「どうか、見逃して下さい。初めてなので」
「ウソやな」
「なんでわかるんです?」
「顔に書いとる。なんべんもこの時間にここへ来とる、とな」
「補導されるんは困ります。見逃してください。このとおり、お願いします」
「ほな、神社に行こか」
「神社でなにするんですか」
「まあ、来たらわかる」
二人の女子高生をパトカーに乗せ、サイレンを鳴らさずに走って生田神社の参道に停めた。
生田神社の森の中へ入り、古矢は背の低い方の女子高生のスカートをたくし上げる。スカートの中に手を入れ、足を触った。予想していた以上に肌が生温かい。
やったのはそこまでだった。尻や胸は触らない。あとで被害届を出されても困るからだ。
「エエな? 合意の上やで。お互い、弱みを握り合っとる。そっちは補導、こっちは猥褻。どっちかが行動を起こしたらアウトや」
古矢はチタン製フレームの眼鏡のブリッジをすこし上げた。
「おっさん、汚いなあ」
触られた方の女子高生が、恨めし気な目で見上げている。
「こら、警官やぞ。とにかく、きょうは見逃したる。こんど同じことしたら、触らずに補導やからな」
本来なら生活安全課の行う補導を、刑事課の古矢がしてよいはずがない。職権の乱用である。同僚の刑事に見つからぬよう、ときどきやっていることだ。
古矢自身は、課がちがおうが、正義に変わりはないと思い込んでいる。すこし心の汚れた警官。それが古矢という男である。
憂さ晴らしを終え、古矢はマスクとそこに絡まっていた髪の毛を科捜研に提出し、後から三姉妹の毛髪と唾液を採取し、封筒に入れて郵送する算段をたてた。
二月一四日木曜日。その日の朝はそれまでより一入(ひとしお)寒く、吐く息も白く濁った。古矢は寒さをこらえて車に入り、暖房をすぐにつけた。立花を助手席に座らせ、再び車で二時間の道のりを豊岡まで飛ばした。
時間があったので、車で豊岡市内に入り、その足で澄川里子の行きつけの美容室に向かった。あらかじめ、澄川家に電話を入れ、その美容室の名前と場所を君江から訊き出していた。
雑居ビルの二階にある美容室を見つけ、脇の階段を上がる。扉を開け、警察とは名乗らずに、美容師を捉まえて訊いた。
「澄川里子さんの知合いの者です。二月になって里子さんが来店したはずですが」
「はい。ご来店になりましたよ」
「そのときの彼女の髪の色、覚えてはります?」
「ええ。栗色でした。でも、その日はカラーリングせずに黒髪に戻したいとおっしゃられて」
「長さも、もしかして」
「はい。いつもとちがって、『バッサリとショートヘアにしたいのよ』って言われて」
「違和感はなかったですか」
「ありました。意外だな、心境の変化かな。それぐらいは思いましたが」
「参考になりました。どうもありがとう」
古矢は美容師に礼を言い、そこを立ち去った。
「里子が真犯人ですか」
立花が勢い込んで訊ねる。
「里子が城島に指示して殺させた可能性は高い。なにしろ、野々塚という男はカバンのクレームをつけ、脅迫まがいの電話を里子に掛けた張本人やからな。ただ」
「ただ、なんですか」
「ただ、里子一人が真犯人やとすると、城島を匿うのになんで三姉妹が全員で動いたんや」
「それは……。おそらく、城島に三人とも監禁されたと見せかけるためのポーズでは?」
きょうの立花は頭が冴えている。
「そうとも言えるが、父親もアリバイ工作を知っとったんやで。スミカワの会長に社長、三姉妹。そのへんが家族ぐるみで怪しい。オレはそう睨んどる」
「うーん、なるほど」
「とにかく、科捜研にDNA鑑定を依頼する。澄川三姉妹の髪の毛と唾液をもらわんとアカン」
「わかりました」
「タチさんに任せてもエエか」
「私がやってみます」
立花が握りこぶしで胸をどんと叩いてみせる。古矢は、頼もしいヤツ、と思った。
翌朝の九時ごろまで待って、古矢と立花は澄川家に立ち寄った。
「兵庫署の立花ですが、すこし時間をもらえますか」
立花が玄関先で出迎えた君江に向かって言った。
愚直に知りたいことをそのままぶつけんなよ。古矢は立花の隣に立ち、心の中で祈った。
「お嬢さん方の帽子を見せてもらってもかまいませんか」
「帽子、ですか」
「はい。三人分の帽子を」
「ちょっとお待ちください」
細かいことに頓着しなさそうな君江が、いったん奥に引っ込む。
しばらくして、三つの帽子を持って戻ってきた。
「この赤いのが里子のです。緑は良子の、ピンク色が早苗のです。これでよろしいでしょうか」
「はい、けっこうです。ちょっとお借りしますよ。すぐ返しに来ますから」
立花が目配せをして古矢に合図を送り、車を停めている道路脇まで小走りに去っていった。
残された古矢は、怪しまれぬよう、適当な世間話で会話を繋ごうとした。
「いや、去年の今ごろはコロナ騒動で日本中がたいへんでしたなあ」
「ええ、そうでしたわね。マスクをはじめ、いろいろなものが品切れになったりして。受け入れ先の病院は患者で溢れ、飲食店や遊興施設なんかは店を閉めて。ほんとうにたいへんだったですよねえ」
「まったくもってそのとおりです。ウチの子の学校も休校期間が長く、子どもが毎日家にいて外にも出られずたいへんで。政府にしてみれば、人命や安全第一だったんでしょうが」
古矢も顔をしかめ、肩をすくめた。「国民側にしてみれば、あちこちにしわ寄せがきた。まったくけしからんです」
「外に出るときはマスクが欠かせませんでしたよね」
「そりゃそうですよ、奥さん。ところで、もうひとつ頼みごとがあるんですが」
「はい、なんでしょう?」
「お嬢さんたちが歯磨きをするときに使われるコップ、ありますよね」
「ええ、それぞれにありますけれど」
「ちょっと拝借願えませんか。妙なウイルスでも付いているとたいへんですから」
「はい、はい。すぐに持って参ります」
ウイルスというキーワードを聞いて、慌てて取りに行った君江の背中を見送りながら、新型コロナウイルスとは言ってないのにな、と古矢が意地悪な笑みを浮かべた。
やがて、車に戻って毛髪を採取して戻ってきたであろう立花と、コップ三つを抱えて持ってきた君江が、玄関で鉢合わせした。
「あら、刑事さん。ずいぶんと早かったですね」
立花が小脇に帽子を三つ重ねて抱えている。
「奥さん、そのコップは?」
「ああ、これはそこの刑事さんに言われて持ってきたんですの。朝、三人が出掛けるときに使ったばかりなんですが」
「ほら、タチさん。グズグズしとらんと、早うコップを借りなさい」
「わかりました。古矢さん、恩に着ます」
ぺこりと一礼し、立花がいま来た方へ、再び踵を返して駆けていく。
頬に手を当て、心配そうな顔の君江が、
「ウイルスの検査もたいへんですわねえ。病院も警察も」
と警察まで駆り出されていると思い込んだような言い草をした。思わず失笑しそうになり、尻をつねって笑いを噛み殺した。見当違いもはなはだしいことこの上ない。
今度はすこし時間がかかった。肺炎患者の話から暖冬で雪が少なく、雪かきをしなくて済むから楽だの、東京オリンピックの日程が一年延期されて選手もかわいそうだのといった世間話をしているところへ、息を切らして立花がコップ三つを持ち帰ってきた。
透明なプラスチックのコップには、赤と緑とピンクのガムテープが短く切って貼られている。おそらく姉妹が識別するためにつけたのだろう。
古矢はにこやかに愛想笑いを浮かべ、立花とともに澄川邸を辞去した。
駐車場まで戻り、二人は車の中に入ってホッと一息ついた。立花がニヤリと笑い、
「帽子についていた髪の毛は、それぞれこのビニールの小袋に入れて名前を書いて保存しています」
「そうか。匂い、嗅いだんか」
「まさか」
「おれなら嗅いでみる。警察の特権だ。それで唾液の方はうまくいったか」
「うまくやりましたよ。三個のコップの口周りを、コンビニで買っておいた綿でよく拭き取りました。こちらも同様に、ビニールの袋に入れて名前を記入しておきました」
「唾液、なめんなよ」
「古矢さんじゃあるまいし、なめませんよ」
「それは冗談として、上々だな」
「本来、DNA鑑定をするには裁判官の令状がいるんでしょう? たしか」
「たしかにそうや。けどな、緊急性を要するからエエねん。やむを得ない場合、後で令状を持ってって、三姉妹本人たちに直接会って詳しゅう説明したったら済む話やろ」
古矢はフロントガラスを見つめ、そう言明した。
「これを科捜研に送るんですよね」
「オレのカバンに茶封筒が一〇枚ほど入っとる。それを使え。神戸の科捜研に郵送するんや。切手もあるで」
「了解しました」
「たぶん里子がクロやろうとして、結果が出るまでには数週間はかかるで」
豊岡から車を出し、兵庫署へ戻る道すがら、古矢はDNA鑑定について詳しく話した。
「採取したDNAは、フラグメントアナライザーという名前の分析装置で高速にデータの照合を行うんや。民間でも血縁関係なんか調べる目的で、鑑定は実施されとる」
「へえ。科捜研もすごい武器を持っとるわけですね」
神戸に戻ってきた古矢と立花は、兵庫署の前の交差点で信号待ちをしていた。
「古矢さん、また美人に見とれて」
「エエやないか。見るだけはタダや」
「そらそうですけどね」
「いかなるときでも観察力を養え。タチさん」
「オレはもう所帯持っとるし、色目を使うこともないですよ」
「人間、死ぬまで枯れたらあかん。女や。女ににやけとれば、ずっと現役でいられる」
「そうなんですかね」
立花は半ば呆れ気味だった。
「おっ、見ろ。あの交差点を歩いてくる姉ちゃん。めっちゃ足がきれい。顔も整っとる。神戸っ子は最高や」
「また、古矢さんのビョーキが始まった」
「なかなかきれいな姉ちゃんや」
「信号、変わりますよ」
「惜しいなあ。また、夏にでも会おうな。こんどはスカート姿で」
「だれに話しとるんですか」
「さあ、出発や」
兵庫署に着いて、課長に仕事の報告をした。
すこし休んでから立花を連れ、こんどは徒歩で神戸市内を訊き込みに回った。
「兵庫署のものです。このへんで、けものへんについてなにかご存じありませんか」
「けものへん? なんですか? けものがどうかしたんですか」
「いいえ。事件があってね。けものへんについて調べて回っとるんです」
「けものへんて言うと、猿とか猪とかでしょう?」
「ああ、なるほど。動物の漢字にけものへんは多いですよね」
「猿や猪のつく人は知りませんけど。町名にもないし」
「そうですか。参考になりました。ご協力ありがとうございました」
古矢は通りに戻って歩きながら、
「けものへんの漢字は、人名か町名あたりだろうな」
「神戸市内で、それがつく地名を検索してみましょうか」
若い立花はスマホを出し、早々に検索をかける。
「検索結果に〝あ〟から〝わ〟までの町名が出ました」
「どれどれ」古矢が横からのぞき込む。
しばらくスマホの画面に指を這わせるように、下に向かってゆっくりスクロールしていたが、けっきょく五分以上かけて最下段まで行き、けものへんの「けの字」も見つからなかった。
「やはり人名の方でしょう。殺した相手か、その関連人物かと」
「殺したのは城島進一郎にまず間違いない。凶器こそ発見されておらんが、殺害前後の行動からして、『野々塚をやった』という自供は充分に裏づけられる。ただ、けものへんなんてどこにもないぞ」
「うーん。じゃあ、実行犯を指示した人物がけものへんを名前に持つもの、ですかね」
「たとえば、猪原とか、猿渡とかか」
「そういうことになりますね」
「難しい捜査になりそうやな」
次の日からは、神戸でだめなら豊岡で、と車で移動して場所を豊岡市に変え、訊き込みをして回った。
しかし、何日たっても、けものへんに関する人名や情報などは見つからない。畢竟(ひっきょう)、なんの成果も得られずじまいだった。
古矢は難題に直面し、途方に暮れた。
神戸に戻った古矢は、倉田に命じて図書館に行かせ、人名事典を調べさせた。
しかし、これもまた雲をつかむような話で、膨大な量の人名から探すのは困難きわまりない、と倉田は嘆いて帰ってきた。なにせ、『現代日本人名録』は一巻二〇〇〇頁で四巻。『日本紳士録』に至っては二〇〇〇頁以上のぶ厚さである。CDの人名録もあるが、暇潰しにしかならないおびただしさだ。該当する人物が少ないわりに、どこに住む人物なのかは個人情報で調べようもなかった。
やはり、野々塚と城島周辺の人物をもう一度コツコツとあたってみるしかないのか――。
そう思ったけれど、野々塚と城島の接点がこれまで見えてこなかったのに、やっと〝犭〟でつながったのだ。この〝犭〟は城島からの重要なサインだという事実を忘れてはならない。古矢はそう肝に銘じた。
けものへんの捜査をつづけながら、疲れた様子の倉田を仕事終わりにとある店に連れていった。夜の盛り場の一郭、狭い路地裏にあるキャバクラだった。どぎついネオンの煌めく派手な看板の店である。
「こんばんわ」
「きゃあ、また渋いPさんが来たわ」
キャバ嬢がはしゃぐ。
「Pさんて、なんのことですか」
「バカ、倉田。おれたち警察のことや」古矢が倉田の耳もとで囁く。
「ああ。ポリスのPですね」
「いきなりやけど、けものへんのつく人の名前って、なにを思い浮かべる?」
古矢はニコニコ笑うキャバ嬢を捉まえて訊ねた。頭のよくなさそうな感じの女の子だ。
「えー、難しいわ。動物でしょ? 犬とか猫?」
「猫田さんとか、いそう!」
隣の若い女がはしゃぎ立てる。
「人を呼んでくる招き猫だったりして」
キャハハと声を上げ、別のキャバ嬢もつられて下品に笑う。
「猫……か。どっかで見たような気が」
古矢は頭の片隅に記憶しておいた。
「古矢さんも猫派よね。わたしの体、舐めてくるもん」
「うひょー。じゃあリクエストにお応えして、ニャーニャーが舐めまくるぞ」
「きゃあ、変態の猫やわ」
場は盛り上がり、キャバ嬢の女の子と酒を飲んで、楽しい一晩を過ごした。
後になって、古矢は「猫」に関係した人物とすでに会っていた事実に気づかされた。
夜遅くまで遊び倒してタクシーで帰宅した。例によって、妻と息子はもう寝ている。
コートとセーターを脱いで、ソファーの上にカバンを置く。台所の灯りをつけ、水を一杯飲んでからトイレに行った。
灯りの消してある寝室にそっと忍び込むようにして、なるべく音を立てぬように入る。ウ、ウーン。晴美が気づきかけた様子だった。
それでもお構いなしに、服をパジャマに着替え、ベッドに潜り込んで息を潜めた。さながら立て籠もり事件の侵入のようだと吹きそうになる。
「臭い。酒臭い」
真っ暗の寝室で、晴美が厭そうな声を上げる。
「すまんな。また飲んできた」
古矢が小声で詫びを入れる。
「もぉ、あっち向いてよ」
妻は寝返りをうって背を向ける。古矢も背を向け、互いの背中同士が向き合った形になる。
すぐに古矢は寝息を立て始めた。酔いのせいだ。
晴美は、すぐに寝入った古矢に腹の虫が収まらなかったのか、後ろ足で一発蹴ってきた。それすら気づかぬふりをし、深く寝入った。
週明けの月曜日、一八日がやってきた。
朝、明るい光がカーテンからこぼれ、目を覚ました。眠い目をしばたたき、上半身をベッドから起こす。
まだ二月中旬であり、部屋の空気はひんやりとしている。
部屋のクローゼットから地味な柄のシャツを取り出し、下半身は男物の黒のレギンス姿のままで居間のソファーに置いたズボンを穿く。
居間の壁掛け時計を見やると八時を回っていた。
「一真はもう学校へ行ったんか」
台所の奥で家事をする晴美が、
「そうよ。一真は寝坊なんてせえへんからね。まったくもぉ、いつまで寝とんのよ」
すこしむくれ、半ば呆れたような言葉を浴びせてくる。それには答えずに、
「さあてと。テレビでもつけるか」
リモコンに手を伸ばし、テレビをつけた。民放のワイドショーは司会者とパネルを交互に映していた。話題は、深刻な不景気に関する内容であった。
「夕べ、飲んで帰って、ちゃんと手洗いしたん?」
「えーと。した、した。手洗ったで」
古矢は苦しまぎれのウソをついた。
「もし熱出たら、一真の部屋に閉じ込めるから」
なんだか汚いもの扱いされているようで、古矢もさすがにムッとした。男としての沽券にかかわると思い、啖呵を切ってやった。
「オレがコロナに罹(かか)って寝込んだら、だれが家計を支えんねん」
「なに言うとるん。へそくりでなんとでもなるわよ」
逆襲にあった。
「まあ、だいじょうぶやて。外ではマスクして、家に帰ったら手洗いとうがいして。あの騒動から一年たったんや。もう感染する人は少ない」
「それでも〝密〟はダメなのよ」
「グズグズしとる暇はないわ。早よ飯食うて、出勤せんと」
古矢は自分に言い聞かせるように大きな声を出し、パンをトーストしているあいだにコーヒー用の湯を沸かした。
朝食を食べ終え、身支度を整えて玄関を出た。
いつものようにマンションの駐車場から車に乗り込み、いつものルートで兵庫署に向かった。
兵庫署に着くと、九時一〇分前だった。朝がバタバタしていたにしては、首尾よく定時に間に合った。
係長の席に着くと、さっそく後輩の刑事がやってきた。
「古矢係長。一昨日の強盗の件ですが、犯人を見たという人物が出てきまして」
「お? ああ、あれか」
古矢はすこしむせた。心の中はまったく別の事件のことを考えていた。例の城島の関わった二件の事件を解明する打開策はないものかと、朝からずっと思案していたのだ。
「で、その人物からどういう証言が出た?」
「はい。犯人と年恰好の近い人物を事件当夜に見かけた、と言っております」
刑事は背筋を伸ばしたままの姿勢で報告した。「その人物の年令は三〇前後、背が高く痩せ気味。特徴と一致しています」
「付近はたしか商店街からすこし離れた住宅地だったわな」
「ええ、そうです」
「防犯カメラに怪しい人物は映っとったか」
「はい。犯行時間帯にそれらしき人物が一人で映り込んでいました」
「どっちに逃げたかわかるんか」
「住宅街の方へ向かった様子です」
「よし。そのカメラの画像を解析するとともに、不審者の訊き込みに回ってくれ」
「了解です」
慌ただしく指示を出す。刑事課内全体も活気づいている。
しばらくは別件の書類をパソコンに入力する作業に没頭し、こちこちとキーボードのキーを打つ音だけがせわしなく課内に響いていた。
入力を終え、清書したファイルを自らプリンターで打ち出し、書類に目を通す。
こんどは立花のまとめた「神戸市会社員殺人事件」の書類に目を通し、彼を席に呼んで不足している部分を確認し合った。被疑者の死亡で、どうにも動機の解明が進まないのが難点である。城島と野々塚に接点はない。そうかと言って、行きずりの殺人ではないことは、二週間ものあいだ城島が神戸に投宿し、殺害現場付近でたびたび目撃されている事実から自明である。
古矢自身は、
「三姉妹とその家族が城島に殺人を依頼したのではないか。彼ら一家のだれか、もしくは複数の人間が事件に関与している可能性がある」
と公言している。目下のところ、現場近くで採取した毛髪と唾液のDNA鑑定の結果を待っている状況は変わっていない。
野々塚の友人にあたってみたけれど、彼の周辺で目立ったトラブルや〝夢〟に関する噂のたぐいは聞いてないらしい。どうやら野々塚という男はかなり口が堅かったようだ。
それが事件を謎に包む霧か靄のように作用して、他人から見れば、事件の全体像が不透明でわかりにくいものになっていた。
きょうの仕事も一区切りがつき、あっという間に日没となった。
若い署員らは、用事があると言ったり、約束があるからと言ったりして、ひとりまたひとりと帰っていく。気がつくと、残っているのは中堅、古参の署員ばかりだ。
岡林が課長の隙を見て古矢の方を向き、右手で飲む仕草をしたのをしおに、古矢は仕事を切り上げた。
酒に弱い古矢だったが、タバコをやめた分だけ、ストレス解消に酒を飲む機会が増えた。若い連中と一杯やるのは稀であり、もっぱら岡林と立花の男三人で飲んでいる。飲む場所は駅近くの居酒屋と決まっている。話の中心は、署内での悪口が中心である。けっして褒められたことではないけれど、生真面目な公務員の仕事のガス抜きは必要だと古矢は自らに言い聞かせ、割り切っている。
「署長も副署長も、みんな風見鶏やな。オレ、つくづく思うわ」
今宵の矛先は、まずトップ二人に向けられた。古矢はつづけて、
「このあいだの事件、覚えとるやろ? もうすこし部下を信頼して、県警本部長にひと言ガツンと物申すぐらいの気概を見せんとアカンで」
「まあまあ、フルさん、そうカッカせんと」
岡林が、すでに酩酊している古矢の愚痴の聞き役に回る。
「岡林さんもそう思わへんですか」
「俺は、まあ思うときもあるけど、人それぞれに立場があるからね。上の人は、署内と県警本部のパイプ役で、両方がうまく回るように考えんとアカンねんな、と思とるよ」
「あの事件だって、犯人を逃がしてしもたから、また罪が増えたんや」
「古矢さん、声、デカいですよ」
今度は後輩の立花が口に指をあてて制する。
その晩はグダグダとくだを巻き、二人に両側から支えられるようにして、どうにかタクシーに乗り込み、家まで帰り着いた。そのあと、どうやってベッドに入ったのか、朝になっても思い出せないほど泥酔していた。
朝になった。頭がジンジンする。瞼が重い。
さすがにこの二日酔いでは、車の運転は無理だろうと判断し、出勤前にコンビニでソルマックとアクエリアスを買って飲み、しばらくしてから大事をとって電車で通勤した。仮にも刑事が飲酒運転で捕まったら洒落にならない。
昨夜の酔いっぷりを知る酒豪の岡林は、「フルさん。酒もほどほどに、ですよ」と涼しい顔をして、事件の書類を古矢の机の書類の山の上に積んでいく。
まだよそさまに迷惑をかけずにすんでよかった方である。
その日、朝の一〇時過ぎから、管轄内で起きた強盗事件の被害届に駆り出された。捜査員がいくつかの事件を掛け持ちしているのはけっして珍しいことではない。まして、被疑者死亡の税理士殺人の件は事後処理であり、詳しい動機や裏付け捜査は地道にコツコツ積み上げていくしかないのが現状である。
強盗事件は、兵庫署管内で発生した。勤め帰りの女の会社員を尾行し、後ろからねじ伏せ、財布の入ったカバンを奪って金だけを抜き取ったというごくありふれた事件であった。
被害届を出しにきた会社員の女に立ち会った。トリマランの澄川三姉妹に比べれば、ずいぶんブスというより、ごくありふれた普通の若い女である。
「私は駅から家まで三分のところにマンションを借りてます。いつものように駅を出て、もうすこしで自宅というところで、運悪く被害に遭いました」
被害に遭った女は、いたって冷静に、つとめて客観的に話している様子だった。
が、しだいに二つの掌を両頬に当て、感情の昂ぶりからか声が大きくなった。「あの犯人ときたら、自宅の前の公園に潜んでいたんです。きっと。様子をうかがって公園から私を尾行したんだわ。公園とその前の通りは街灯が少なくて暗いんです。人気がなくて、なんとなく不安やなと思とったら、案の定、パッと襲ってきて……」
そこまで状況を細かに説明して、女は机の上に手を下ろし、拳をぎゅっと握りしめた。
「お嬢さん。襲ったんは、もちろん男ですね」
「ええ、男です。身長は一七〇から一八〇センチぐらいの男です」
「男ひとり?」
「そうです」
「背が高くて痩せ気味?」
昨日の後輩の報告が頭に残っていた。
「はい、そんな感じです」
「どんな服を着とったんですか」
「そんなん、ようわかりません。暗くて。後ろから襲われて、力ずくでカバンをひったくられたんですよ」
女は憮然とした表情に変わり、態度も横柄になってきた。タバコをくれ、とばかりに人差し指と長指でタバコを吸う仕草をした。やれやれとタバコをやめたばかりの古矢が、付き添いの刑事を見て、顎でしゃくった。刑事が懐からライターとタバコを取り出し、女に渡して火を点ける。
女はフーっと紫煙を吐いた。
「黒か紺の目立たない服だったかしら」
古矢は整った字で調書を手書きしながら訊ねる。
「盗られた財布にはいくらぐらいの金が入っとったんです?」
「そうね。七、八万ぐらいってとこかしら」
「どっちなんですか? 七万いくらなのか、八万いくらなのか」
「覚えてへんよ、いちいち」
「じゃあ多い方で、被害金額は八万円にしときますよ」
「それでエエわ」
「その次に、場所と時刻ですが」
「あのさ。私、会社を抜け出して、朝からここへ来とるんですよ。それぐらいパパっと調べてよね」
「じゃあ、自宅近くということですね。免許証を拝見させてください」
「免許証ね、はい」
「犯人は財布から現金の札だけを抜いて財布を放置したのですか」
「そうよ。高い財布から札だけを抜いて公園に放って逃げたわ」
「自宅住所は、神戸市兵庫区〇〇×丁目××―××××。被害者名は森(もり)花(はな)佐織(さおり)さん、二六歳。西京商事に勤める会社員。電話は?」
「〇九〇(××××)××××」
「発生時刻は?」
「夜の九時過ぎよ。ねぇ」
「なんですか」
「ほんとうに八万円、私の手元に戻ってくるんでしょうね?」
「もちろんですとも。警察を信頼してください。犯人を逮捕したら必ず」
「ラインペイにすこし残高があるけどさ。ピンチなのよ。わかる?」
「わかりますとも。一度に現金八万円がなくなったら、だれだってたいへんですよ。家賃ひと月分や」
「そうよ。たいへんなの。電子マネーだけでは心もとなくて。でさぁ。ものは相談なんやけど、刑事さーん」
「お金、貸してほしいの?」
「よくわかるわね」
「何万円も借りられる、と思ったでしょ?」
「ちゃうの?」
「そうは問屋が卸さない。一〇〇〇円までが限度なんです。交通費程度ね。足りなくて困っとるなら、まず会社の上司にでも相談するか、親に電話して借りましょうね」
「チェッ、ケチ。タバコは恵んでくれたくせに」
「お金は大事なものですからね」
「じゃあ、もうエエでしょ? 昼から会社に出ないと」
「わかりました。どうも時間を取らせましたね。では」
女は面倒くさそうな顔をして立ち上がると、ついたてで仕切られた小部屋から出ていき、古矢はそれを見送った。曇り空の下、兵庫署からスタスタと歩き去っていく。
「やれやれ。兵庫区内でまたしても強盗か」
「古矢係長。連続強盗では?」
「そう簡単に決めつけるな。捜査するかどうかは横に置いておこう。先週に起きた事件とは手口がちがっとる。別人の犯行の可能性だってある。もうすこし犯人を泳がせてからにしよう。ヤツの出没しそうなところをマークして、重点的にパトロールしろ」
「はい、承知しました」
*
その日は割と早く帰宅できた。と言っても夜の九時前である。
「あなた。一真のことで、ちょっと」
「またなんかあったんか」
古矢がコートをソファーにかけ、セーターとシャツを脱いで真っ黒のパーカーに着替える。
「この前、夜中に起きて冷蔵庫の中の食べものを漁るって言ったでしょ」
「ああ、あれか」
「あの原因、わかったの。学校の先生に呼び出されたわ。『おたくの一真くん、クラスの男子児童数人から、ある女子児童との仲を冷やかされている、との噂があります。家でなにか変化なり気づいたことはありますか』やって。学校でのストレス発散で、家であんなことをするようになったんとちゃう?」
「そうなんか。困ったな」
「困るでしょ?」
「で、なんや? その仲を冷やかされとるっちゅうのは?」
「一真から訊いた話では、ある女子が筆箱を忘れてね。鉛筆と消しゴムを貸してあげたんやて。消しゴムはカッターで半分に切って。エエとこあるでしょ、一真は」
「さすが、オレの子やな」
「ところが、次の日から、一真とその女子がラブラブやと囃し立てられた、って言うんよ。ラブラブとかとちゃうのにね」
「ホンマやな。汚いのう、男どもは」
「一真、おとなしいから言い返せなくて。ずっとやられっ放しなわけ」
「ほな、それが解消されたらストレスもなくなり、家での奇行もなくなるんか」
「うまくいけばね」
「オレが一真をコーチしたるわ」
「だいじょうぶ?」
「任せとけ。ふっかけられたら、逆にボケた上で開き直る。それを訓練したる」
自信満々の古矢は腕組みをして、
「一真をここに呼んでこい」
「一真、一真。パパが呼んどるわよ」
晴美が一真の部屋へ呼びに行く。しばらくして一真が台所へやってきた。
「パパ、なあに?」
「学校で女子との仲をからかわれとるんやろ?」
「知っとったんか」
「エエか。からかわれたら、ボケ倒せ。そんで開き直れ」
「どんなふうに?」
「じゃあ、いまからパパが見本みせたる。からかってみぃ」
「やーい、やーい、古矢。おまえ、丸下(まるした)とできとるんやろ? やーい、丸下の恋人」
「ヘヘヘ。ばれたか。丸下が好きで悪かったな」
「聞いたか? 好きやねんて。チューしたんか」
一真も迫真の演技で乗ってくる。
「チューなんて普通や。毎朝、校舎の裏でしとるよ。おまえら、チューしたことないんか? 子どもやのう」
「もうエエって」
一真は冷やかし役を降りた。
「どや? 好きやし、付き合うとる、と逆に告白する。そして、のろけるんや。冷やかす連中は、半分羨ましがって言いよるからな。ウソでもかめへんから好きやと言い通せ」
「わかった。やってみる。パパ、ママ、ありがとう」
一真は元気な声を出した。
「これでよかったのかな」
古矢はコントを演じた気分だった。
「一真もすこしは言い返せると信じとるわ。あなた、ありがとう」
晴美はにっこりと笑った。
実際に学校で父親ばりの演技をしてやったら、相手は引いてしまったようで何も言わなくなったらしい。言い返す度胸さえあれば、そんな冷やかしなど屁でもないのだ。
*
豊岡南署において、「誘拐立て籠もり事件」の被害者として、当時の状況や誘拐された経緯などを訊ねるべく、三姉妹それぞれの事情聴取が一二日から始まっていた。
ところがいざ蓋を開けてみると、三姉妹の語る話に一貫性が認められない。
「どうだったかしら。気が付いたら一緒にいたわ」ととぼける良子。「ウチが町をブラブラ歩いていたら声を掛けられ、車に乗せられてあちこち連れ回された」と言う早苗。「『君江さんが交通事故で病院に運ばれたからすぐに車に乗ってくれ』とウソをつかれて気が動転し、よく確かめもせずに城島の車に乗り込んだ」と語る里子。
それぞれ三者三様、てんでバラバラであり、そのとき車の中に姉妹がいたと言うものもいれば、いなかったと言うものもいて、真相は始めからはっきりしなかった。
とにかく三人は、「城島と一緒に行動した」という点ではおおむね一致してそれを認めたが、「誘拐」と見なせる証拠は不充分であった。縄で縛られ拘束されたわけでもない。ただ同じ場所を転々と移動しただけである。「立て籠もり」に関しても、たまたま廃屋で身を隠したのであって、一連の行動を裏付ける確固とした証拠や証言は得られず、なきに等しかった。
豊岡南署の捜査員の一人が取調べを補足するかのように、
「彼女らに罪を被ったという意識はありません。悪人顔でもないし、とても城島を匿ったり、逃がそうとしたりするような人たちではないのです」
と擁護した。小松原(こまつばら)豊(ゆたか)という三三の巡査部長である。
「田舎育ちの地元名士のお嬢さんですよ。城島のような荒っぽい男を手なずけるほどの度量もないし、そんな真似などできっこありません」
彼は取調官に対し、そう言いくるめた。
同じ意見の捜査員も少なからずいて、事件の犯人が拘置所で病死してしまった以上、被害者の側から事件の全容を解明することは困難であった。
結果として、神戸の事件と豊岡の事件の双方に共通する犯人が死亡してしまい、殺人の方は何者かの指示で城島が実行し、立て籠もりに関しては、逃走に行き詰った城島がたまたま三姉妹を人質に取り、「殺す」と脅しをかけた上で、後に身代金を要求する前に逮捕されたというセンでシナリオができ上がった。
だが、三姉妹の事情聴取を打ち込んでいたデータをパソコンから消去されるという小事件が豊岡南署内で起きた。
署員はみんな訝(いぶか)しがった。県警本部から同署の刑事課に派遣されていた小松原は、「私はなにもしとりません」ときっぱり否定し潔白を主張した。しかし、署員のあいだではもっぱら、彼が怪しいのではと噂された。と言うのも、資料の打ち込みを終えた日に、残業して最後まで署内にいたのが小松原巡査部長ただ一人だったからである。タイムカードにはそう記録されていた。
小松原は、疑いの目を向けられても平然と構えていた。
俺は現職の警察官だ。悪いことをしたヤツを逮捕するのが仕事である。豊岡の「誘拐立て籠もり事件」の犯人は城島であり、その男はすでに死んでいる。犯人がいなくて自供も得られず、被害者の方もはっきりした被害を認めていない。俺の考えでは、嫌疑不充分と被疑者死亡により、三姉妹をただちに釈放すべきだ。
三姉妹の事情聴取のデータがパソコンから消えてしまったが、残しておいたところで、このような状況だからその必要性は薄い。だれが消し去ったのか知らんが、俺に罪をなすりつけようとする不心得者がいるようだ。同じ警察官として、恥ずかしいし情けない。まったくもって、つまらんヤツが組織の中にいるもんだ。
小松原は周囲にそう漏らした。
今日は彼にとって、非番の日である。
独身の小松原は、休日にスキーをするでもなく、友人とカニを食べに行くわけでもない。ただ、日がな一日、郊外のパチンコ店に朝の一〇時から並び、ひたすらスロットを回転させて、月給の何分の一かをつぎこむことにささやかな幸せを見出しているような男だった。豊岡において、容疑者が捕まると、取調べの最後には必ず訊くことがある。「どこの店がいまいちばん出玉がいい?」これが彼のお決まりの台詞である。
警官としてスーツを着ているときと、スーツを脱いで私服姿のときとでは、まるっきり性格まで真逆で、だらしないように思われてもしかたがなかった。小松原は、そんな自分を、聖人君子ではなく、人情味の溢れた人間らしい人間と思い込んでいた。仕事のときはきちんと仕事をこなし、遊べるときは目一杯に人の倍だけ遊ぶ。それが彼のモットーである。
*
朝の食事を終え、居間でコーヒーを飲んでいるときのことだった。
部屋の外から幸三を呼ぶしわがれた声が聞こえる。扉を開けると、義父の悠太が立っていた。しわがれた声の主は悠太だった。
「城島が警察に捕まってしもたで。どないするつもりや」
前に幸三から聞かされた方法では、この先が立ち行かなくなる。その不利な状況を悠太が危惧しているような口ぶりだった。
「城島を殺せない状況になり、正直なところ困っておりました。が、内通者の情報によれば、城島は持病の発作でもう死んだと」
「ほう。死んだんやな? それは確かか」
「ええ。確かです。間違いありません」
「神戸の殺人に関して、ヤツはどこまで喋った?」
「さあ。その辺はわかりません。神戸の事件に関して自供を始めた途端、発作で亡くなった。そのようにしか聞いとりませんので」
「次の一手は?」
「私らに疑いの目が行かぬよう、策を練ります。ご安心ください」
「私の娘たちを道連れにせんでくれよ」
「だいじょうぶです。三姉妹は、里子以外、事件の背景を知りません」
「君の妻でもある里子はだいじょうぶなのか。警察の事情聴取に耐えられるのか」
「耐えてもらうしかないでしょう。とにかく実行犯は死人です。もう喋りません」
幸三は悠太の心を落ち着かせようと言葉を探し、間をとってから言った。「里子を問い詰めたり、SNSの『アカウント乗っ取り』のカラクリを暴いたりしても、野々塚からスミカワへの脅迫電話を突き止めてみても、どれも状況証拠に過ぎない。野々塚殺しの動機や犯行には結びつきません」
「なるほど。そう言われると、筋が通るわな」
「城島の演じた誘拐劇にしても、三姉妹の話は台本どおりで、供述に一貫性がないと見なされ、立件できる事案になりません。いずれ釈放されるはずです」
「ダイイングメッセージにけものへんを書かせたのはどういう意味がある?」
「里子の話を信用するのなら、三姉妹の名前のどれにもけものへんがつくので、捜査を撹乱する意図があったと」
「それで、警察は実際にどう動いた?」
「人名事典などを片っ端から調べ、町で訊き込みをした結果、けものへんの示す人物にまだ辿り着いとりません」
「あのお方に接触するようなことはないな?」
「一二〇パーセントないです。指一本触らせません」
「犯人が死んだとなると、警察はどうする気や」
「被疑者死亡で書類送検し、いずれ不起訴に。犯行動機も解明されることはないでしょう」
「結果的に、まんまとトカゲの尻尾を切れたわけか」
「そういうことになりますね」
しばらく間があき、幸三は飲みかけの冷めたコーヒーをズズズっと啜った。
「真相は私たちの掌の中からこぼれ落ちません」
「さよか。ほな、計画通りに行くな」
「もちろんです」
「気分が晴れた。ちょっと外を散歩してくるわ」
悠太が居間を出てゆっくり歩いていく後ろ姿を見送った。
幸三は悠太を安心させはしたが、己の内心はロウソクの炎のように揺れていた。ほんとうに三姉妹、とくに里子は、野々塚殺害を命じたのは誰なのかを白状しないだろうか。自分の妻でありながら、心の奥底まで信頼しきっている夫婦でないのは百も承知だった。それでも、野々塚殺しを成功させるために、彼女は必要であり、実行犯の城島の見張り役を引き受けてもらったのだ。
「里子。おまえしかいないんだ。半グレの城島が野々塚を殺す現場に出向き、見届けてくれ」
「私が……?」
「すべては株式会社スミカワのためなのだ。この事件が失敗すると、会社は経営が傾いてしまう。専務なら、今の会社の窮状をよくわかっているだろう?」
「ええ。たしかにスミカワは赤字部門で苦しんでいるわ。それをあの人からの援助を受けてなんとか持ちこたえている」
「今回の事件はその人のためでもある。わかっとるな?」
「わかったわ。言われた通りにする。神戸出張の後、城島の殺人を見守るわ。その後は、あなたに連絡を入れればいいのね?」
「そういうことだ」
あの事件の共犯者になるのを依頼した晩のことを今でも思い出す。部屋の電気を消した中で、月明かりに照らされた妻の横顔は美しくも妖しかった。
無言で妻の方から幸三をベッドに誘い、二人は久しぶりにセックスをした。まるでこれから始まる悪事をきれいな体で消し去りたいかのように、妻は夫の裸体の上で激しくゆさゆさと腰を滑らかに動かした。
*
休日の取れた二月二三日から二四日の土曜と日曜を利用し、神戸市内のキャンプ場に一泊した。
冬のキャンプ場でもそれなりに楽しいことはある。バーベキューをするのはもちろんのこと、夜になると澄んだ夜空を冬の星座が埋め尽くし、とてもきれいだとの評判である。
土曜の昼にさっそく肉や野菜を焼いてバーベキューを楽しんだ。その後、しばらくしてから一真と晴美の三人でミニサッカーをして体を動かし、汗を流した。一面に草地の広がる運動場で、サッカーを思う存分に楽しんだ。
最初は古矢と晴美がチームとなってボールを回し、一真に取られないようにボールを蹴り合っていた。一真が疲れてきて動きが緩慢になったのを見て、今度は古矢がボールを奪いに行く役になる。
「オラオラ、一真選手。そんな下手くそなドリブルでオレを突破できるんか」
「パパ、本気で来んなよ」
一真は楽しそうにキャッキャとはしゃいではサッカーボールを足先で器用に転がしながら、古矢に追い詰められて苦しまぎれに晴美の方へパスを出した。ボールがそれて晴美が走って取りに行き、こんどは晴美の足元を見ながら、
「そう簡単には一真へパスを出させへんぞ」
とプレッシャーをかけ、晴美のボールを取ろうと足を伸ばしたとき、
「えーい」
と晴美が勢いをつけてボールを蹴りだす。ボールはふわりと宙を舞って一真の方に行ったが、蹴ったあとの晴美の足が古矢の向こうずねに当たった。
「イテテ」
古矢が足を押さえてうずくまる。
「パパ、だいじょうぶ?」
晴美が近寄ってきて、心配そうに古矢の背中越しにのぞき込む。
「なあに、へっちゃらや。これくらい。次はシュート練習や」
すこし足を引きずりながらテントに戻り、トートバッグの中から青色の小さなカラーコーンを二つ取り出した。青のカラーコーンを二メートルぐらい離して草の上に置いた。
「一真、こっちへ戻ってこい。晴美はキーパーや」
一真を呼び寄せ、晴美をカラーコーンのあいだに立たせる。一真とペアになり、晴美から数メートル離れて、
「さあ、オレと一真でシュートを決めるで。キーパーは二人のパスを邪魔しにくるんや」
「よおし、行くわよ」
晴美も乗り気だ。そのやる気のこもった声を聞いて、すぐに古矢は横にいる一真に横パスを繰り出した。
「一真。ドリブルや。ドリブルしてキーパーを引きつけろ」
「わかった。ママ、こっちに来て」
「パパにパスを出させないわよ」
晴美が一真の足元に長い足を伸ばしたとき、
「今や、股抜きのパス!」
古矢が叫ぶと、それに呼応するようにして一真が晴美の両足のあいだをきれいにパスで抜き、フリーになっている古矢のもとにボールが転がる。パスを受けて、がら空きのゴール目がけ、古矢が、
「イニエスタ選手ばりのシュート!」
と叫んでカラーコーンのあいだにゴロのボールを転がした。
イニエスタ選手は元スペイン代表のサッカー選手。FCバルセロナで一六年間プレーし、小柄でサッカーセンスに秀で、手品師の異名を持つ。二〇一八年からJリーグのヴィッセル神戸に移籍して活躍している。
「ヴィッセル神戸のイニエスタは、もっと華麗なプレーをするで」
一真から注文をつけられた。動き疲れた古矢は、
「ちょっと休ませてくれ。ハーフタイムや。給水、給水」
と草地にへなへなと腰を下ろす。晴美に財布を渡し、ペットボトルのアクエリアスを買いに行かせた。
ミニサッカーを終えると汗が背中に滴る。夕食の準備に取り掛かり、パンとシチューを食べた。体を温めて、ランタンに火を灯すと、辺りは紺碧の夜空に変わっていた。
夜空に光る星がきれいに輝いている。
「どっちが南か分かるか」
「あっちの山に日が沈んだから、あの方角が西や」
「そや。その反対が東。東からぐるっと時計の回るようにして西に行くやろ。その真ん中が南や」
「冬の空も星が出とるね」
「ああ、そうやな。南の空にチョンチョンとあるのがオリオン座」
「知っとるよ。こいぬ座のプロキオンとおおいぬ座のシリウス。それにオリオン座のベテルギウスで三角形」
「おお、頭エエなあ」
「冬の大三角て言うねんで」
「じゃあ、一真とパパとママはなんの大三角や」
古矢がひねった質問をする。
「さあね。凸凹の大三角かな」
「なんやねん、それ?」
「怒ったり、がっかりしてへこんだりするから」
「なるほど。そうか。オモロイやないけ」
「なに、二人で話しとるんよ」
夕食の片付けの済んだ晴美が二人に加わった。
「ママはどの星が好き?」
「そうね。どれもきれいね。全部が宝石に見えるわ」
「おっと、これはいかん。百貨店でなんぞ買わされるかもしれん」
古矢が舌を出しておどけてみせる。
「そんなお金、ウチにはないわよ。ママは、一真の好きな星が好きよ」
「そっか。オレ、赤い星が好き」
三人で幸せそうに夜空を眺めながら、楽しい親子の団欒の夜は更けていった。
翌朝、気持ちのよい日曜日の朝を迎えた。持ってきた毛布にくるまり、目覚めのインスタントコーヒーを飲みながら芝生を見て、ぼんやりとくつろいでいた。
一真が起きてきて体操をし、「ちょっとそのへんを走ってくる」と言う。体を温めるのだろうと後ろ姿を見送っていると、横から一台の白い車が飛び出すのが目に入った。
どうしてだかわからない。古矢はコーヒーカップを投げ出し、車の行く手を遮るようにして前に飛び出していた。
暴走した車。その車が一真を狙っている――。
瞬時にそう判断したときには、考えるよりも早く体が機敏に動いた。数メートル手前で走る息子に追いつき、その身をかばうようにして覆いかぶさる。
車はスピードを緩めず草地を駆け抜け、古矢の右手をタイヤで踏みつけたあとも、猛スピードで走り去り、視界から消えた。
一瞬の出来事だった。
痛みが右手に走る。
ややあって、周囲から人が集まってきた。
「だいじょうぶですか? 救急車、呼びましょうか」
「お願い……します」
振り絞るようにして、古矢は掠れた声を出すのが精一杯だった。
「パパ!」
その場にうずくまる古矢の体を一真が揺さぶり、叫ぶ。
古矢は痛みをこらえ、小声で、
「おまえが無事でよかった。危ないとこやったな」
と顔を引きつらせながら息子に微笑んだ。
騒ぎを聞きつけ、遠くから晴美の声がする。
「あなた! なにが起きたの?」
激痛の中で、意識が右腕にばかり集中する。
チキショー。やりやがって――。
救急車のサイレンが遠くから近づき、頭に響く。せっかくのキャンプも中断し、右手をもう片方の手で押さえながら、立ち上がって救急車に乗せられ、病院に行く羽目になった。
晴美と一真も救急車に同乗し、心配そうな顔をして覗き込む。
「痛いけど、だいじょうぶや」
古矢は虚勢を張ってみせた。ほんとうのところは、もがきたいぐらいに痛いけれど。
「あなた、危なかったわ。よく右腕だけですんだものよ」
「そうやな。一真目がけて車がビューって走ってきたんや」
「悪質よ。ナンバー覚えとる?」
「ああ。忘れんうちに代わりに書いてくれ」
「ちょっと待ってね」
晴美がショルダーバッグからメモ帳を取り出した。「ナンバーを言って」
「『神戸 は15―97』」
古矢はナンバーをはっきり告げた。
「被害届を出さんとな」
古矢が激痛に慣れてきたころ、ようやく病院に到着した。
救急隊員に付き添われながら、家族と一緒に診察室に入る。
「どれ、腕まくって見せてみ」
眼鏡をかけた医師が椅子を滑らせて顔を近づける。「たぶん捻挫やろな」
医師が「なんでまた?」と訊ねたので、
「息子をかばって車に轢き逃げされました」
古矢は口惜しさをこらえて状況を説明する。「キャンプをしとったんですわ。一家三人で。朝、息子が空き地を走っていると、突然、白い車が横から飛び出してきたのが目に入りました。慌てて猛ダッシュして息子の体にかぶさり、かばった右手を車に轢かれました」
「それは災難でしたな。レントゲンを撮りましょう」
奥の部屋に移動し、レントゲンを撮影して、しばらく待たされた。
「古矢和夫(かずお)さん、中へどうぞ」
看護師に呼ばれ、再び診察室に入る。
「先生。どれくらいで治りますか」
「レントゲン、撮ってみたけどな。捻挫や。全治二週間」
老医師はこともなげに、カルテを記入しながら言う。
「しばらく通院してみなさい。薬も出します」
右手を包帯でぐるぐる巻きにして、古矢は最寄りの管轄署に被害届を出した。キャンプ場で小学生の息子を庇い、車で轢き殺されそうになった、と。
それをどのようにして知ったのか、県警本部の小松原豊巡査部長から電話があった。彼は豊岡南署に出張中の身である。別件で取調べたことのある前科者の山岸(やまぎし)徹(とおる)という男の仕業ではないか。電話を掛けて古矢にそう吹き込んできた。
小松原が自信ありげに、
「山岸という男を二年前に豊岡で逮捕したのは私です。ヤツは車上荒らしを専門とし、盗難車を使用した強盗の前科もある。古矢警部補の息子さんを狙った殺人未遂の動機は定かでないが、今回も盗難車を使っての犯行でしょう」
と言った。
実際、その後の調べで、古矢が現場で目撃した神戸ナンバーの車はやはり盗難車であり、山中に乗り捨てられていたことが判明した。
しかし、古矢は、山岸という前科者がはたして神戸に土地勘があるのかはなはだ疑問であった。息子を狙って轢き殺そうとしたとは到底思えず、心の中に暗澹(あんたん)としたものが残った。
県警本部の刑事が豊岡南署からわざわざ神戸の兵庫署に電話を掛けてきて、まだ捜査の始まったばかりの段階の殺人未遂事件に首を突っ込むだろうか。犯人は別件の前科者だろうと吹聴する小松原の魂胆が知れなかった。
豊岡南署に出向いて三姉妹の様子を捜査員に訊ねたときも、小松原巡査部長が三姉妹のことを庇っているという噂を耳にした。小松原と三姉妹のあいだに特別な関係でもあるのかと穿った見方をしてみたくもなってくる。
古矢は右手を使えなくなり、慣れない左手を利き腕代わりにする生活が始まった。
「チクショーめ。慣れへんな」
自宅に帰った古矢が忌ま忌まし気に吐き捨てる。食事のときも左手に持ったスプーンで豚カツを口に運び、がぶりとかじりつく。
患部を濡らさぬように風呂に入らないといけないので、無理を言って晴美と入浴し、体を洗ってもらった。
「すまんな」
「なによ、水くさい。夫婦でしょ?」
「この埋め合わせはベッドで」
「もうエエから。それより一真のピンチを救ったんでしょ? たいしたもんね。ありがとう」
「親子やからな。ところで犯人は最初からオレたち家族を狙っとったんかもしれんぞ」
「気味悪いわね。恨まれるようなことしたん?」
「そんなはずはない。いや、待てよ。事件はまだ終わってないっちゅうことか」
「殺人事件?」
「ああ。しかし、オレを狙えばエエものを、息子を標的にするとは卑劣や」
古矢は憤りを感じ、思わず目の前にあった晴美の乳房を左手で握りしめた。
「こら。痛い、痛い!」
「ああ、すまん」
ベッドで布団をかぶっていても、事件のことが頭から離れない。
三姉妹も従犯で、主犯は別におるとしたら、真犯人はだれや?――
古矢は体に汗をかきながら考えたが、なにも閃かなかった。
夜になり、眠りに落ちたとき夢を見た。夢の中で、自分の背丈の三倍はある大きなクモに捕まり、クモの糸にがんじがらめになった。身動きしようにも、ネバネバの糸が絡まり、体がいうことをきかない。目の前にいる巨大な化け物グモがカッと目を見開いて大口を開け、古矢を丸呑みにしようとする。叫び声を上げた瞬間、クモの顔が野々塚殺しの主犯に見え、夢から醒めた。残念なことに、その顔はすぐにぼやけて頭から消えた。
強盗事件の五日後、犯人が逮捕された。兵庫署管内でここ最近発生していた一連の強盗事件が解決した。
犯人は糸内(いとうち)悟(さとる)という無職の男である。やはり目撃情報どおり、痩せ気味の上に背が高い。糸内には前科があり、小松原の言うように、山岸と同じ刑務所で服役したことがあった。豊岡にも「神戸刑務所豊岡拘置支所」があるが、山岸は、「兄が神戸にいるから」と理屈をこねて明石市にある「神戸刑務所」に入所した。いわば刑務所仲間である。その山岸を二年前に強盗傷害事件で逮捕したのが、当時豊岡南署にいた小松原巡査部長だった。
夜の署内に古矢はいた。だれもいない取調室の中へ一人で入る。この短いあいだに、矢継ぎ早に起こった出来事を頭に思い浮かべた。税理士殺人、誘拐立て籠もり事件、複数の強盗事件、古矢一家を狙った殺人未遂事件――。つくねんと考えごとをした。
小松原はほんとうのことを言うとるんか?――彼の真意を測りかねた。
このときはまだ気づいていなかった。
*
すっかり腫れがひき、症状もなくなったのは、ケガをしてから二週間が経過したころだった。刑事課課長には「無理すんなよ」と言われていた。右手を使わない生活には慣れた。ベッドから立ち上がり右手でそっとカーテンを開けてみる。痛みも違和感もない。もう三月の中旬であり、外は春の光がまぶしく、その季節特有ののどかさが漂っている。
ちょうど、DNA鑑定の依頼から四週間がたち、結果が判明した。DNA鑑定の結果、栗色の髪は澄川里子のものと断定してさしつかえないという診断がなされた。それを裏付けるようにして、マスクに付着した唾液も彼女のものと一致した。
ケガの癒えた古矢はひとりで車を運転し、豊岡南署へ向かった。
長女の里子を署に呼び出し、野々塚殺害の夜の状況と、野々塚と城島がそれぞれ書いたと見られるけものへんについて訊ねてみた。
「どやねん。鑑定結果であんたの毛と唾液が六角公園にあったのは証明されとるんや」
「ほんとうなのですか」
「ああ、ホンマのことや。ここに鑑定結果が書かれとる」
古矢は結果が書かれた用紙をヒラヒラさせ、「観念したらどないや? なにかを隠し通すんは辛いやろ?」
「隠しごとなんてありません」
里子は突っぱねたが、目が泳いでいる。古矢がバンと机を両手で荒々しく叩いた。まるで畳み掛けるように。
「事件当夜、黒のマスクをしとったな? それを落とし、唾液と毛髪が付着した。DNAの鑑定を依頼したら、あんたのDNAと一致したんやで。事件翌日の日曜に、髪をバッサリ切って黒髪に戻したとの証言も取れとるんやで。行きつけの店の美容師からな」
古矢がさらに身を乗り出し、里子の俯いた顔を斜め下から覗き込むようにしてまじまじと見つめる。
「事件の夜、六角公園にいたのは間違いないな?」
「それは……」
里子は喉元まで出かかった言葉を押しとどめようとしていた。それを見てとって、古矢が言った。
「いま自供すれば罪は重うないで。あんたら姉妹が殺人を犯したわけやない。殺人罪に問われるわけとちゃうねんからな」
それでもまだ沈黙しているので、切り札を出してみた。城島の取調べのとき、彼に対して取調官が行ったように、野々塚の家族の話を引き合いに出してみたのである。
「野々塚もけっしてエエ人間ではなかったみたいやな。仕事の上ではきっちりしていたが、愛人の店を守るためとあらば、脅しも辞さなかった。そんな彼にも家族がおった。妻と一〇歳になる娘さんや。ちょうど物心のつく頃やから、きっとパパが死んでしまったことも理解しているんやろうな。パパは殺された。犯人を恨んで大人になる。大人になったとき、犯人たちに復讐しようとするかもしれへん。もっとも、実行犯はすでにこの世にいないから、殺人に関わった人物たちを調べ上げ、制裁を加えるかもしれん。父の仇討ちや」
「もうやめてください。そんな仮定の話は。私は野々塚さんを殺してはいません」
里子が大きな声を出した。肩を震わせている。かなり精神的なダメージを受けている様子である。
「六角公園で城島とおったんやろ?」
事件当夜の様子について、こんどは優しい口調で同意を求めた。眼鏡の奥でこれまた優しい目をして。
「……はい」
とうとう口の堅かった里子が共犯を認める瞬間が訪れた。いままさに罪を認めようとしている。
「そのとき城島が野々塚を殺害したのを見とったんやろ? 替え玉を用意してまでアリバイ工作をしたんやろ?」
「はい。たしかに父にアリバイ工作を依頼しました」
「そうか。依頼したんや。それで、遺体の指でけものへんを書いたのはどういう意図があったんや」
「わかりません」
里子はまた顔を伏せ、否定した。
「わからんとはどういうことや? あんたは税理士殺害の共犯者やろ? 城島に野々塚殺しを依頼したんちゃうんか? それとも主犯が別におって、あんたはただ城島の殺人を手伝っただけか」
「その点については黙秘します」
里子が古矢の顔を見る。彼女の表情は険しいように映った。頑なに主犯の人物を吐かなかった。
まだ隠しとる。古矢は思った。
「桜の蕾も大きくなってきたな」
世間話できまずくなった雰囲気を変えてみる。「外はまだ雪が降っとるで」
取調室の小窓から雪がぱらつくのが見えた。
「そうですか」
「今日は温いから、降っても積もらんで融けよるやろな」
「雪は融けても、私の心は冷たいままです」
「ほう。さよか。『アナと雪の女王』みたいやな。アニメ映画みたいに、優しい王子が現れんと無理か」
「そういうわけではないんです」
「里子さんはスミカワの専務やったな? 会社のために、だれかを庇っとるんちゃうか」
古矢が鎌をかけてみる。
「だれかとは? 私はそんなことしてません」
再び重苦しい空気が取調室を支配する。困った古矢はしばらく腕を組んで目を閉じる。里子に命令できる人物と言えば、父か夫しかいないだろうと推測した。
「事件の話は横に置いて、里子さんのお父さんは尊敬できる人物か」
「ええ。もちろんです。下の者に慕われる存在です。苦労人ですし、スミカワの創業者ですから」
「夫の幸三氏のことは、どない思てる?」
「夫は普通の人間です。優しい部分もあるし、優しくない部分もあります」
「そうか。だれが里子さんを苦しめとるんやろか」
ポツリと独り言を漏らしたつもりだったが、里子はその言葉に著しく動揺した様子に映り、突然声を上げて泣き始めた。
弱った古矢は、バツの悪そうな顔をし、
「取調べはいったん中断するから」
と里子に言い残し、ポンポンと背中を軽く叩いてから部屋を後にした。
一番年下の早苗を取調べたとき、転機が訪れた。それは、三姉妹のそれぞれの取調べが始まってから約四週間後、三月一三日のことだった。
三女の早苗は江角大作と付き合っていた。江角はバイク好きだった。彼が深夜の国道でトラックと衝突し、交通事故に遭った。足を打撲して入院することになったのである。
とうぜん早苗にもその連絡が行き、彼女は気が動転して病院に駆け付けたらしい。
それ以来、早苗は落ち込み、すっかり弱気になっていた。
早苗についた取調官が訊ねる。
「早苗さん。あんたは野々塚氏殺害計画を知っとったんやろ」
「知りません」
「あんたの両親も心配しとるで。もし娘が有罪になったらどないしょうと」
「ウチはなんもしとりません。ホンマです」
「ほな、城島と一緒に逃げ回ってたんはなんでや」
「わかりません」
「城島に殺人を命じた人物、知っとるんやろ? だれやそいつは?」
「知らへんのです」
「里子さんは共犯を認めたで。けものへんのこと以外は喋りよった」
「ホンマですか」
「ああ。ホンマや。こんどはあんたが白状する番や」
「……」
「江角という恋人が入院したらしいな。会いたいやろ? 罪を認め、会いに行ったれよ」
「ウチはただ、野々塚さんが殺されるんを知っていただけや。なんも知らん」
「計画を知っとったのは認めたな。で、けものへんのつく人物が真犯人なんやろ? だれや、その人物は?」
これまで両親のことを引き合いに出し、心を揺らしてみたものの、なんの効果もなかった。
それなのに、江角の入院で心を乱していたのかしれないが、いままでと表情が違っている。やつれた表情であり、すべてを語りたいような顔に見えた、とあとで取調官は語った。これまで、どう煮ても焼いても開かないアサリの殻のように、上唇と下唇をピタリとくっつけ、事件の核心についてはなにも語らなかった早苗。その彼女が、ポツリとひと言漏らした。
「けものへんて、ウチらのことやで」
「なんやて?」
「里子の里、良子の良、早苗の苗。どれも〝犭〟をつけられるやろ? 『狸』、『狼』、『猫』というふうに」
「なるほど。『狸』、『狼』、『猫』か。よくできとるな。ではもう一度訊くが、野々塚氏の殺害には関わっていなかったんやな?」
「ウチは事件の計画を聞かされただけや。野々塚さんが殺された晩はレストランにおりました」
「そうか。もうひとつ要領を得んな。あの晩、神戸におったのは、長女の里子だけやろ?」
「うん、そうや。サト姉とこんな話をしたことがある」
「私は野々塚さんの長女の名前と生年月日を知っとるのよ」
「へえ、どうやって調べたの?」
「それは内緒」
「それで?」
「二月二日の土曜日、公園のベンチに座ってメールを打ったわ。『六角公園で九時まで遊んでいるね』って長女になりすまして、メッセージを野々塚さんに送信したわけ」
「どうやってなりすますのに成功したの? SNSのIDとパスワードが必要でしょ?」
「いくつかのSNS上で、野々塚あゆみのIDを見つけたわ。あと、パスワードはね、単純だった。あゆみちゃんの生年月日だったわけ」
「それでSNSのアカウントを一時的に乗っ取れたのね?」
「そういうこと。あとは父である野々塚弘宛に、〝なりすましたあゆみ〟でメッセージを送りつけ、六角公園におびき寄せたの」
「サト姉自身のアカウントでメッセージを送ったり、電話を掛けたりしようとは思わんかったん?」
「馬鹿ね。犯行当日の夜に私の履歴が残ったら、一発でアウトでしょ? 重要参考人として警察に呼ばれるわよ」
「あ、そうか」早苗は膝を打った。
「それで乗っ取ったアカウントはどうしたの?」
「用が済んだら、その日のうちに削除したわ。あゆみちゃんには悪いけどね」
「六角公園のことは下調べしたの?」
「もちろん。あゆみちゃんの通う塾から六角公園までの道のりや公園内を事前にじっくり下見しておいたわ」
「へえ、すごい」
「実際に、塾帰りのあゆみちゃんが、夜の八時過ぎに六角公園で友だちと遊んで、仕事帰りの野々塚さんが迎えに立ち寄る光景を二、三回ぐらい自分の目で確かめておいたわ」
「けっこう綿密に下調べして、城島に協力したんやね」
「そんな会話を、豊岡に戻ってきた城島と逃げているときの晩に、サト姉とウチでしたんです」
「わかった。それは重要な証言や。ところで城島か里子さんは、なぜ、野々塚の死後に現場でけものへんを書いたんや」
「そんなん知らへんわ」
頬を焼き餅のように膨らませ、早苗はプイと横を向いた。
「このままやったら、城島の立て籠もり事件の罪を問われるで」
「どういうこと?」
「殺人犯を匿ったと見なされる」
「立て籠もりとはちゃいます。ウチら、行方不明をよそおって警察を違う方向に誘導したんやから。捜査の邪魔をしてたんよ」
「それぐらい、警察も気づいてとったで。指で地面に書いたけものへんは、三人全員が殺意を持った共犯者だと言いたかったんか」
「さも犯人をにおわすメッセージを被害者が書いたように見せかけ、捜査を混乱させるつもりやったんです」
「捜査を混乱? なんでまたそんなことを?」
「とにかくウチらは野々塚さんに恨みを抱いていました。彼から脅しを受けていたんです。それで城島に依頼し神戸まで出掛けてもらい、殺人を実行させたんや」
重要な自供ではあったが、充分に納得のいくものではなかった。どうして恨みを抱くようになったのか。里子への脅しは、会社の商品に対してである。法的措置を取り、まず弁護士に相談するのが普通ではないのか。他の二人にどんな脅しをかけたのか。まだそういったことが不明瞭だった。
夜の署内で、いつか考えていたことが頭にくっきりと浮かび上がった。
いっけんつまらない、いくつかの点でしかない複数の事件が、いつしか一本の線上にあり、その上を古矢が危ない綱渡りを強要され、歩かされている。そんな気にさせられた。
糸内を取調べるうちに、古矢は小松原の存在が大きく浮かび上がった。神戸刑務所で山岸と糸内が親しくなるのはわかる。そうなったとして、その山岸が古矢の家族を狙う動機が見えてこない。小松原の「犯人山岸説」は単なるガセネタに過ぎない。
むしろ、山岸を通して糸内と知り合った小松原こそが、なんらかの事情を抱えていて、神戸の殺人事件の事後処理を担当する古矢を狙ったとしたら筋が通る。あくまで仮定の推理だが。
まさか警察という身内が一連の事件の一部に加担しているとしたら――。
古矢は立花に命じて小松原の身辺を洗わせた。
二日後、立花が息をはずませて古矢の座る席に来た。彼からの報告は、次のような内容だった。
「古矢さんの睨んだとおりでした。小松原は豊岡にいたころギャンブルに手を出し、一〇〇万単位の借金を抱えていました。澄川幸三から金を借りていたんです。おそらく頭が上がらない存在だったのでしょう。古矢さんが捜査をつづけているのを疎ましく思った幸三が、小松原巡査部長に命じて、古矢さんに危害を加えようとした可能性がありますよ」
それを聞いて、すべての事件の背後に幸三の影があると悟った。あるときは半グレの城島を雇い、またあるときは現職警官の小松原を使って、巧みに事件を引き起こす。
その冷酷な態度に虫唾が走った。
*
三月半ばの晩、娘たちが取調べを受けているとき、父の悠太は自らの書斎でくつろいでいた。
先頃、女婿が説明したように、娘らをいくら問い詰めたところで、すべては状況証拠と推測にしかならない。犯行に使用された凶器も見つかっておらず、動機も明らかにされていない。幸三の計算通りに事が進み、警察も早晩に諦めるだろう。
あのお方と懇意になっておいて、ほんとうによかったと思った。
あれは二月の中旬、大物代議士の白井(しらい)慧史(さとし)衆議院議員が地元兵庫五区に里帰りしたときのことだった。そのように悠太は記憶している。
城崎温泉に幸三と泊まった晩、代議士の白井を囲む宴会を開いたあと、二人きりになり密談を交わした。
「いま国を挙げて環境に優しいエネルギー開発に取り組んでいるのは知ってのとおりじゃな?」白井が赤ら顔で声のトーンを落とす。
「承知しております」
「日本海で採れるワカメに、わしは注目した」
「あの海藻のワカメですか」
「うむ。あれが水産バイオマスとかちゅうてメタンになり、エネルギーを産むらしいんじゃ」
白井はいかにも頭が切れると言いたげに、嘘か真かわからぬ話を持ち出した。そろそろ大臣の座も射程にあるベテラン代議士は自慢気につづけた。「そちらの会社とは直接関係ないが、あんたが地元の財界に顔が利くのは承知しとる」
「たしかに、私は但馬財界のドンと呼ばれております」
「その人脈で地元の但馬漁協から金を集めてベンチャービジネスを展開してもらいたい」
白井は酒も入り上機嫌である。「もちろん国会でわしが政策を打ち出し、出資金を集めてくる」
「なるほど。集めた金で会社を作り、新エネルギーの研究をしてそのあとは……」
「そうじゃ。他の例を見るまでもなく、新事業の助成金をわしとあんたで山分けするんじゃ」
「ほう。エエ話ですな」
「よかろうが? 国のために研究し、大金が懐に入る。環境省の大臣にはわしからも根回しをしておく。任せておけ」
白井は嬉しそうに背中を揺らした。
「ワカメで一儲けじゃ。笑いが止まらんな」
わっはっはと白井が大声で笑う。
「たいへん機嫌がよろしいようで」
「次の選挙のときも、組織票を頼んまっせ」
「そちらは任せてくださいな。ご期待に答えますので。それより、白井先生。後釜の方もどうかよろしくお願いします」
「安心しなさい、わしが引退した後の地盤を譲ろう。あんたの娘婿の幸三くんにな」
「よろしく頼みましたよ」
「まだ先の話やけどな」
わははと大口を開けていったん豪快に笑い、すぐに顔つきを険しくして、
「例の野々塚殺しはだいじょうぶやったか」
「はい。幸三が半グレの城島という男を雇い、ぬかりなく実行しました。城島は口を封じるまでもなく、病死しました」
「なにせ、野々塚という男はわしの事務所の不正経理を裏から手を回して調べとったからな」
不服そうな顔でタバコを出すと、悠太は如才なくライターを取りだし、火を付けた。
「税理士から政界へ転身するつもりやったと聞く。わしと反目する野党の吉竹作造議員と懇意にしとった。雑草は芽を出す前に摘まんとならん。生えてからでは遅い」
「ごもっともで。野々塚の芽は摘み取りました。もう安心です」
のちに、悠太はパイプを作った白井から資金提供を受け、幸三に会社の経営を立て直させた。と同時に、白井の嫌がる人物を消すことを幸三に仄めかせた。
あとは幸三が城島という男を見つけてきて、手はず通りに殺人を実行した。城島も口封じで殺すところを、どういうわけか娘たちが匿っておかしな展開になったが、とにかく死んだ。
悠太は、白井から資金提供を受けられたこと、あの方の政界引退と引きかえに、幸三が社長職を辞して代議士に立候補し、当選するであろうことに、とても満足していた。
共通の敵である野々塚を消したことで、白井との絆も深まった。政界との繋がりを保てて、強力な後ろ盾が得られた。それらは大収穫であった。今後もなにか面倒なことが起きれば、白井代議士に頼み込めばいい。
権力の力は絶大だ――。そう思うと気が大きくなり、書斎の椅子で背中を反らし、ニンマリと笑みがこぼれる。机上にあるベルを鳴らし、妻に酒を持ってこさせた。
まだまだ寒い夜のつづく但馬の晩は、日本酒で心も体も温めるのが、悠太の習慣になっていた。
*
古矢はあらためて考えてみた。野々塚が死亡して、だれがいちばん得をするのかという根本的な疑問がまだ心の底にずしりと重く残っている。むろん、城島ではない。三姉妹でもない。専務の里子にしてみれば商品のクレーマーである厄介な人物がいなくなり、ひとまず難局は乗り切れたのかもしれない。
が、そういう民事のトラブルについては、弁護士に相談し、互いに事実を確認した上で話し合って和解するというのが普通のやり方であろう。殺害に走るような脅しでもなく、また男女間のトラブルもなかったと聞いている。
では幸三はどうか。株式会社スミカワの社長として、会社経営に苦しんでいたとは町の噂で耳にした。それが野々塚殺しの直接の原因とは結びつかないだろうと古矢は見た。
冷酷無比な澄川幸三にとって、特別な存在がいるにちがいない。主犯は幸三だろうが、ほんとうに悪い黒幕の存在を突き止めなければ事件の全貌は見えてこない。
古矢は豊岡南署管内になんども足を運んだ。
三月一二日火曜日、古矢は神戸をまだ暗い夜明けに出て、八時前に『N’s cafe』に着いた。
常連客でもないのにカウンターに一人で座り、お決まりのようにモーニングを注文した。
二つ向こうのカウンター席の客がマスターを捉まえて話している。その会話が自然と耳に入る。
「今朝も、あの連中ときたら、浜辺でいつもの作業をしとったで」
「またですか」
「ああ、一月からやからな。かれこれ三か月にもなるか」
「ワカメを採っとるんでしょう?」
マスターの声だ。ワカメを採る? それがどないしたんや? 古矢は疑問を持った。
「そや。売り物にもならん、ちぎれたクズのワカメをぎょうさん採っとんねん。妙な話やで」
「ホンマに変ですね」
「どないすんのか、訊いても教えてくれへん」
「そうですか」
「地元の漁師の一人は、どこぞの会社が買い取る、と言うとる。食えんようなワカメをなんにするんやろか」
「さあ。粉にでもするんですかねえ」
マスターは呆れた口調で調子を合わす。
「ホンマに不思議やで」
客の声に体が反応し、古矢は身を乗り出して横の客に訊ねた。
「どこの浜辺ですか。その光景を見たのは」
「円山川の河口やで。津居山の入り江や」
「わかりました。代金は置いていきます」
古矢は慌てて千円札をコーヒーカップの下に挟み、すぐに『N’s cafe』を出た。
車を飛ばすこと二十数分。
見落としそうなくらいの入り江の後ろには、切り立った小さな山が海に迫っている。風か波で山肌は削られ、土が剥き出しだ。漁船やボート一艘すらない。その入り江の浜辺で、たしかに一〇人前後の男たちが体を屈めて手を動かしていた。
車から降りて、彼らに近寄る。浜辺を歩き、砂が靴に入り込む。こちらに気づいても作業の手を止めない。名もない入り江で黙々とワカメ採りをする男たちの集団。
彼らに訊ねた。
「オレは地元の人間でないのでわからんが、なんでワカメを採っとるんです?」
「エエ金になるそうです。それしかわかりません」
気の弱そうな男が言った。要領を得ない答えだった。
その話を持ち帰って、神戸にいる県警本部を訪ね、橋丸管理官に話した。
現在、県警本部の刑事部捜査二課で某代議士Sの身辺を洗っている。橋丸はそう告げた。Sが汚職事件に関わっている可能性があり、それを追っているのだと言う。
「橋丸さん。捜査一課とは関係ないことかもしれませんが、詳しく話してもらえませんか」
「わかった。兵庫五区選出、当選五回の地元の代議士が、売り物にならないワカメでメタンガスを作る研究を二年前から始めた。環境省から新事業の助成金が入り、その代議士Sとスミカワの両者でそれを折半し、幸三社長はスミカワの資金繰りに使ったらしい。ワカメなんて日本中の海や砂浜でたくさん手に入る。濡れ手に粟で一儲けを企んだようだ。その見返りとして、年が明けてから選挙協力と野々塚殺しをSが幸三に仄めかした」
「なぜSは野々塚殺しを頼んだんですか」
「Sの事務所で行われていた不正経理の実態を、野々塚が知り合いの税理士からの情報で掴んでいたらしい。野々塚はSを問い詰める一方で、Sとライバル関係にある吉竹議員の推薦を受けて政治家に転身する夢を持っていたようだ」
「なるほど。そういうわけだったんですか。政治家になるのが野々塚の夢だった。Sと幸三が野々塚殺害の主犯。実行犯の城島もいずれ消すつもりで完全犯罪を計画したんですね?」
古矢が気負いこんで訊ねる。
「その可能性はおおいにある。物的証拠さえ掴めば、Sと幸三を逮捕できるのだが」
それだけを聞き、古矢は弾かれたバネのように県警本部を出て、車に飛び乗った。
また豊岡へ向かったのである。豊岡近辺で訊き込みをして回り、ようやく最後に辿り着いたのがSこと白井慧史代議士だった。白にも〝犭〟がつく。狛犬の「狛」――。
メタンガスというクリーンな次世代エネルギーの研究はよしとして、それに伴う国からの助成金を不正に着服するのは、「新エネルギー汚職」と言わざるを得まい。野々塚殺害に的を絞れば、「仄めかした」だけでは物的証拠にならず、任意同行を求めるしかない。
里子も城島も、三姉妹の〝犭〟ではなく、白井の「白」に対する〝犭〟を書くことで、真犯人を見つけてほしいという警察へのアピールをした。そのように古矢は考えるに至った。
三姉妹は幸三にそそのかされ野々塚殺しに加担したが、再三にわたる事情聴取を受けた末、ようやく自供を始めた。自らの身の安全を考え、留置場に入ってでも警察に庇護される方を選択したのかもしれない。三人がそう望んだといってもよい。
そこまで考えると、完全犯罪をもくろんだ幸三を逮捕する決め手になるのは、三姉妹の自白。それに頼るしかない。
澄川幸三は、白井代議士の保身と会社のために、警察でたびたび取調べを受けている三姉妹までを消そうとしたら――。証拠隠滅を図る最後の手段として、あの冷酷な幸三ならやりかねない。
おりしも、自白した三姉妹は野々塚殺害の共犯者として先ごろ逮捕された。彼女らを伴い、野々塚殺害現場の六角公園で、実況見分が昼過ぎから始まろうとしていた。
「しまった。三姉妹が危ない!」
サイレンを鳴らして片道二時間の距離を飛ばし、古矢は豊岡から神戸までの道のりを急いだ。心臓がバクバク波打っている。
神戸の六角公園に着いたときには、すでに三姉妹の実況見分が始まっていた。
古矢は周囲を見回した。公園の車止めに数台のトラックや車が並んで停まっていた。六角公園は工事中で、フェンスが取り外されている。
「まさか、こんなふうになっているとは」
思わず、意表を突かれたような言葉が口をつく。
その気になれば、外から車一台が、黄色の薄いフェンスを突破して乗り込んでこられるようになっている。
三姉妹はきっと澄川幸三という男のほんとうの恐ろしさを知らないのだ。三姉妹にすべてを喋られたら一巻の終わり。その前に口封じで始末するには、留置場の外に出たときが、彼にとっての千載一遇のチャンス到来なのである。
ふとそう思って六角公園に足を踏み入れると、車止めではなく反対方向のフェンスを突き破り、実況見分中の三姉妹めがけて一台の暴走車がうなりを上げて突っ込んでくる。
どこかで体験したことが時を経て、また自分の周囲に降りかかろうとしていた。
ピンチや、助けんとアカン――。
キャアアアと女たちの悲鳴が上がり、絶体絶命の危機で目を覆わんばかりの瞬間だった。
「お嬢さん方、逃げろ!」
叫ぶと同時に古矢は股を割ってピストルを構えた。暴走車が三姉妹まであと三メートルもないぐらいに迫ったところで、パン、パン、パンと三発の乾いた銃弾の音がした。古矢の拳銃から放たれた銃弾が二発、タイヤに命中した。間一髪でハンドルをとられた暴走車が、猛スピードのまま大きくカーブを描き、成り行きを見守って反対側に停車中の乗用車にぶつかる。両方の車は大破した。
救急車が駆けつけたときには、暴走車を運転していた男と、停車中の車にいた運転手と澄川幸三の三人の息の根はなかった。なんと、暴走車の男は警官の小松原だった。警察内の犯人が二度目の殺人未遂で死亡した。暴走して大破した車のナンバーを見てみる。「神戸 は15ー79」だ。古矢の息子を襲った車と一致している。小松原が古矢らを襲ったのを裏付ける証拠だ。
「やっと、終わったのね」
幸三の妻である澄川里子が言った。心なしか安堵したように見えたのが印象的だった。
*
澄川三姉妹は助かり、事件の真相を知るかぎりにおいて供述し始めた。里子は語った。
「事件の主犯は白井代議士と夫の幸三なんです。夫が代議士とどんな密約を交わしたのかまではわかりません。けれど、スミカワが白井から経済的な支援を受けていて、それを示す書類を会社に保管しています。夫は『野々塚の件に関しては、こちらで計画を練って処分するようにします』と携帯電話で喋っていました。私はそれを立ち聞きしました。
その後、夫にそそのかされて加担し、殺害現場の六角公園で城島とカップルのふりをし、直前まで公園のベンチに座っていたのは認めます。殺害後、城島は私の用意したレンタカーを使って豊岡まで逃げました。私は自分の車で真夜中に自宅に帰り着きました。その後は、三人で行方不明をよそおって城島を匿った。幸三は城島も殺すと言っていたので、なんとか逃がそうと彼と行動をともにしたけれど、警察に捕まってしまいました。
夫は白井代議士の関与が発覚するのを懸念していました。私たち三姉妹の口を封じる策として弁護士を雇い、『助けてやるから事件の動機については黙秘しろ』と誘導しました。まさか私たちを裏切って、実況見分で殺そうと企んでいたのには気づきませんでした。妻として情けないし、恥ずかしい限りです。六角公園でけものへんを書いたのは私です。白井の存在をどうにかして知らせたかった。廃屋で、幸三を陰で操ったのは白井だと打ち明けました。死んだ城島もきっと同じ思いで、けものへんを書いたのでしょう」
彼女は終始顔色を変えず、冷静に話した。
主犯の幸三は三姉妹を殺そうとしたが、利用した小松原の運転する暴走車の餌食になり、事故に巻き込まれて命を落とした。主犯の死亡により、三姉妹は犯人隠匿罪であらためて逮捕されたが、三人の性格や置かれている立場、境遇、犯罪の情状などを勘案し、不起訴となった。
一方の白井代議士については、税理士殺害事件の物的証拠は得られないまま証拠不充分で逮捕はされなかったものの、別件で県警本部の捜査二課が追究し、「新エネルギー汚職」に関与している疑いで逮捕、起訴された。
のちに、白井は有罪判決を受け、議員を辞職している。
古矢の粘り強い捜査と果敢な行動力が実を結んで、事件はみごとに解決した。
「古矢さん。やっと苦労が報われましたね。おめでとうございます」
立花が古矢の労をねぎらい、ささやかな祝杯のビールを古矢のコップに注ぐ。
「いや。みんなのおかげやで。ありがとう」
「オレひとりではとても解決でけへんかったです。実に大きなヤマでしたよ。いろいろたいへんな目にあわれ、お疲れ様でした」
立花が古矢に頭を下げる。
「家族に迷惑かけたしな。身内から犯人を出したのは遺憾やで。城島、澄川幸三、小松原。犯人三人が次から次へと死亡するなんて、こんなおかしな展開の事件は初めてや」
古矢が事件の感想を述べながら、どこか嬉しそうでもあった。
そこで池永署長がみんなに訓示を述べ、捜査終結の乾杯の音頭を取る。
「まあ、最後はどえらい人物にまで捜査が及んだけれど、必ず正義は勝つんや。また明日から市民の安全を守っていこう。では、乾杯!」
軽く飲んでから、みなはそれぞれの仕事に戻っていった。
古矢は人の心のあざとさを厭というほど思い知らされた気がした。
立花が古矢の机に近づき、机を整理しながら座っている古矢に目配せをする。
「古矢さん。よかったですね。事件の全容が見えて」
「ああ、タチさん。最後まで粘り強く捜査をつづけた結果やで」
「古矢さんの気迫と執念を感じましたよ」
「あの三姉妹と出会ったのが事の発端やからな。美人と出会うと何かしらの縁ができるもんや。つくづく思たわ」
「それは古矢さんの願望も入っとるんちゃいますか」
「そうかいな」
ハハハと古矢は笑ってから、唇を真一文字に結んで言った。
「トリマランはどんな乗り心地なんやろな?」
「トリマランて……三つの胴を持つとかいう、あのとき話してくれた高速船ですか」
「そや。親父がたとえた船、トリマラン。今回の三姉妹もみんな仲良かったで」
「それで、トリマランの乗り心地って、どないなことですか」
「いや、単に珍しいもんに興味をそそられたんや。そんな船に乗ってみたいなあ、と思ただけ。『馬には乗ってみよ人には添うてみよ』っちゅうことわざがあるやろ?」
「ええ。聞いたことはありますが」
「なにごとも経験してみんとわからん。三姉妹がどんな三人の女なんかも、人それぞれにちがうわな。けど、エエ経験になったで」
古矢はニコリと口角を上げた。
*
仕事を終えて久しぶりに八時過ぎに帰宅した。
「あら、あなた。お帰りなさい。早いわね。なにかあったん?」
「事件が終わったんや。犯人が次々に死亡して拍子抜けしたけど、これで枕を高くして寝られるで」
「そうなの。エエやないの」
「それで、今晩どないや」
「待って。匂いをチェックしてからね」
「きょうは、なんともないはずやで」
「だいじょうぶみたいね」
「なあ、晴美」
「じゃあ今夜の〝密〟はオーケーよ」
「やったね」
古矢が脇を閉め、拳を軽く引いてガッツポーズを決める。たまにはこんな夜があってもエエもんや。ニンマリ笑って食卓についた。晩飯を食べながら、ささやかな幸せがずっとずっとつづいてほしいと願った。
食事が終わり、古矢が晴美に話し掛ける。
「この世に犯罪はなくならへん」
「急にどうしたん?」妻は口をポカンと開けている。
「今後、オレの関わった犯人たちが、事件のあとで日常を取り戻すやろ?」
「それがどうかしたの?」
「そのときに犯罪の呪いから解き放たれて人間らしゅう生きていく。それがオレの望み」
妻は黙って聞き入っている。古矢は締めくくりにこう言った。
「彼らが同じ空の下でみんな笑てる。その姿を思い浮かべるだけで、心も体も自然と軽やかになる気がする」
古矢は、ふと頭に浮かんだ空想に翅が生え、それが蝶となり花畑を乱舞するような心地よさで胸が一杯になるのだった。 〈了〉
けものへん 森川文月 @hjk-0731
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