SKELETON FLOWERS

青木花絵

1. 悪霊とギター

―― 一ノ瀬サヤ ――


 嫌いだった。昔から、彼女のことが。


 絶え間なく気泡が生まれる。水面へ達したものから順に弾ける。私はそれを為す術もなく眺める。

 机に突っ伏したまま、数匹のメダカが漂う水槽と、その中のエアレーションをじっと見つめていた。生徒がはけた真夏の教室を、強烈な西日が容赦なく照りつけている。まだ冷房が効いているとはいえ、環境の配慮した設定温度では身じろぎひとつさえ億劫だった。誰もいなくなって空調が止まったら、メダカは茹で上がったりしないのだろうか。

 一緒に時間が経つのを待っている小湊は、熱心にスマホの画面を覗き込んだいた。

「何やってるの」

「ホーム画面見てた」

 小湊は朗らかにそう答えると、画面を見せてきた。壁紙がおもしろいことにでもなっているのかと思ったけど、単色の水色だった。

「楽しいの、それ」

「あんまり。メダカは?」

「あんまり」

「マジであんまり楽しくないね、私たち」

 そうだね。全然楽しくない。

 口ぶりに反して楽しそうに笑う楓から目を逸らして、鞄を手に取る。そろそろスタジオの時間だった。

「やば」

 同じく身支度を始めようとしていた楓が、鞄の口を開いたところでその手を止める。視線だけでどうしたのか尋ねると、胸の前で手を合わせて懇願の素振りを見せた。

「日焼け止め忘れちゃった。貸してくれない?」

「嫌」

 あまりに悪びれる様子がなかったものだから、反射的に拒否してしまった。まあ、熟慮したところで結果は変わらないけど。

「えー、そんなケチくさい娘に育てた覚えはありません」

「だろうね。私も小湊から教育を受けた記憶ないし」

 ブラウスの襟から覗いている、小湊の首筋を一瞬だけ視界の隅で見る。少しくらい焼けたほうが健康的なんじゃないかというくらい白い。無性に腹立たしい。

「これ、スティック式の高いやつだから小湊に使わせるのはもったいない」

「えー」

 なおもゴネてくるのを無視して、スカートから露わになっている自分の脚に塗布していると、突然、小湊が身を乗り出すようにして顔をずいと近づけてきた。

「じゃあさ、塗って」

「は?」

「一ノ瀬がわたしに塗るなら、一ノ瀬が使ったことになるでしょ」

 無防備に顔を突き出したまま、小湊はそう放言する。

「ごめん、何言ってるのかわからない」

「謝ることないよ。世界的に見ても日本語は難しい言語らしいし」

 ――嫌いだった。冬の夜みたいに澄んで通る声が。

 一向に身を引こうとしない小湊に、私はついに根負けする。

「化粧の上からでいいの?」

「今日なんもしてない」

 顔にかかる髪を指先で払って、私の体温で湿ったままの日焼け止めで輪郭をなぞった。

「ふふ。くすぐったいね、これ」

「眼球までUVケアしたくないなら動かないで」

 ――嫌いだった。硝子細工のように繊細な顔が。

 スティックの先端が、額と鼻と口元と頬を滑らかに通過して、こめかみから首筋に至る。そこでようやく我に返る。結局日焼け止めが小湊に消費されるのはもういいとして、別に私が塗ってやる必要まではない。

「あとは自分でやって」

 文字通り日焼け止めを放り出すと、小湊はすんでのところでキャッチした。

「サンキュー。明日は私のやつ貸す」

「三回分」

「こりゃ高くついたな」

 微塵も遠慮せず、小湊は生白い二の腕にスティックを滑らせる。聞き覚えのないフレーズを鼻歌交じりに。

「お、」

「こんどは何?」

「今の鼻歌インプロ、結構よかった。今後の何かに採用」

 破顔しながらピースサインを突き出す腕に、まだ乾ききらない日焼け止めが西日を反射するのを見て、夢の中の私は深々とため息をつく。

「遅れちゃうから早くして」


 嫌いだった。夢に見るくらい。あなたの歌が。あなたのすべてが。


 だから、死んでくれて本当によかった。


---


―― 和泉孝太郎 ――

 

 物心ついてからこのかた、身内の不幸には縁がなかったから、お通夜なるものに出席するのはこれが初めてだった。

 大抵の学生がそうであるように、喪服の用意ができず制服で代用することになったけど、あいにく我が校の指定する制服は薄茶のブレザーだ。尋常な法事なら場違いの感がどうしても否めないだろうけど、今日に限っては話が別で、僕以外の参列者もほとんどが制服姿だった。事情を知らない人には、何かしらの学校行事にしか見えないだろう。

 参列者全員がのっぺりと黒い喪服を纏っているのに比べれば、いくらか雰囲気も華やいでいるし、故人としても悪い気はしないのではないだろうか。少なくとも自分が告別される側なら、こっちのほうが良いと思う。本人の感想を聞くことはもうできないけど。

 ある日、同級生が死んだ。これはそいつの告別式だった。

 死亡日時は曖昧らしいから、ある日、死んだ同級生が川岸で発見されたと言い換えたほうが正確かもしれない。

 市内の川に敷設されている小さな水門で持ち物一式が見つかっているそうで、順当に考えればそこから飛び降りたことになる。事故か、あるいは自殺か、飛び降りた際の詳しい状況はまだわかっていないらしい。噂好きな連中の間では眉唾ものの風説が好き勝手に出回っているみたいだけど、僕が耳にする情報は地元新聞の一面に載っているそれと大差ないものばかりだった。

 人が多い割には静かな式だった。

 学校からのお触れもあって、生前に親交のない同級生もたくさん出席している。人数が人数だからお焼香は代表の生徒だけがあげていた。かく言う僕も、故人とは特に仲がよかったわけではなかった。親に促されなければ、この場に足を運ぶこともなかっただろう。

 あえて見回して探すようなことはしていないけど、涙を浮かべている参列者はほとんどいないみたいだった。親族席にいる遺族ですら、悲嘆に暮れることもなく悄然と式の進行を見守っている。子供を持ったこともなければ当然失ったこともない人間には、その胸中なんて想像もできなかった。

 やることもないから、壇上に飾られている遺影を眺める。知らない顔ではない。記憶にはないが、一度くらいは言葉を交わしたこともあるかもしれない。それでも、彼女の死に対する悲しみよりは、自分と歳の近い赤の他人が不幸な事故で亡くなったニュースをテレビで見てしまったときのような、匿名の哀れみと居心地の悪さが圧倒的に大きかった。

 読経も法話も喪主による挨拶も、現実味のなさゆえか、どこか不自然なまでに淡白に進んでいって、式は粛々と終わってしまった。

 感情が宙吊りのまま会場を出てると、ようやくわかりやすく悲しんでいる人を見つけた。

 三人組の女子だった。制服姿の女子がわんわんと泣いている。それを囲むように、学生にしては珍しくちゃんとした喪服を身につけたおさげの女子と、金髪と表現して憚らないくらいのブリーチがかかった長髪の女子が、寄り添うようにして泣いている彼女を宥めようとしている。二人の慰めも虚しく、泣いている彼女の目からとめどなく溢れる涙が、いくつかアスファルトに落ちて点を穿つ。

 ちょうどその真上に灯っている街灯が、彼女たちの周りをスポットライトみたいに照らしている。まるでオペラの舞台の上のような、どこか現実離れした光景で、思わず足を止めて見入ってしまっていた。それがよくなかったのだろう、宥めていた方の一人、金髪の女子がふと顔を上げた瞬間に、視線がかち合ってしまった。

 生きている人間が、自分も含めて、みんな死んでしまえばいい。そうとでも言いたげな、酷く虚ろでいて、強烈な敵意の籠もった視線。

 同じ学校に通っているとはいえど、顔も名前も知らない女子だった。睨みつけられるような因縁もないけど、不躾に見つめるのは失礼だったかもしれない。素知らぬ顔を努めながら、僕は彼女たちから目をそらした。


---


 式場の敷地を出て少し歩いたところで、友人の大崎春斗と瑞口夏希に出くわした。ふたりとも小湊とは特別仲がよかったわけじゃないだろうと思い聞いてみると、やはり僕と同じく親に言われて出席していた口だった。

「どう思ったよ」

 挨拶もそこそこに、大崎はそんなことを尋ねてきた。通夜の感想を聞かれているのだろうか。だとしたら悪趣味なやつだ。

「どうもこうも、人って死ぬんだなあとしか」

「死なないと思ってたのか?」

「いや、そうじゃないけど。こうして歳が近い知り合いが亡くなるとさ、死ぬことを身近に感じるというか。まあ、そんな感じ」

 丁寧に答えてやったのに、大崎はふぅんと興味なさげに吐息を漏らした。腹が立ったので、お前はどうなんだと聞き返しておく。

「特になしだな。寿司とか出なかったし」

 デリカシーの欠片もない大崎の言い分に、瑞口は盛大に溜息をついた。

「あのさ、大崎。マジで最悪だよそれ」

 瑞口に同意だ。悪趣味なやつという評は撤回しよう。趣味がどうとかではなく、シンプルに最悪だった。人間見た目が九割と言うけれど、これだけ顔の良い大崎が異性にまったくモテないのは、間違いだらけのこの世界にあって数少ない正しさの象徴だと思う。

 僕が押し黙っていると、瑞口はこいつはこいつで嫌にドライな口調でこう続けた。

「でも、小湊さん、急に死ぬような人じゃなかったと思うんだけどな」

 おかしな話だけど、瑞口のこの一言を聞いて僕はようやく、ああ、あの小湊さんが死んだのか、という実感を得た。『小湊楓』という字面は会場で散々目にしていたけど、お坊さんも遺族も、誰もコミナトサンとは呼ばなかった。

「仲良かったのか?」

「去年はクラス同じだったから、たまに話すことはあったよ。なんか面白い子だなーとは思ったけど、印象としてはそのくらいかな。いっつもバンド仲間と一緒にいてちょっと絡みづらかったし」

「……へえ、バンドやってたんだ」

 僕は小湊さんのことを何も知らない。新聞の記事に載らなければ、きっと死ぬまで下の名前すら知らずにいただろう。

「バンドと言えばさ、お前のとこのライブは次いつやるんだよ」

 同じエリアで同じような活動をしているのに、小湊さんが演ってるところはみたことがないな、と考えていると、にやけヅラを浮かべた大崎がそう尋ねてきた。

「再来月かな。音葉のイベントにたぶん出ると思う。チケット買うか?」

「いや、いい。また打ち上げだけ行って、静御前とおしゃべりしたいだけだし」

 大崎の脇腹を肘で強めに小突く。ぐえっ、という小気味の良い啼き声が漏れた。

「あ、私はちゃんと買うよ」

 大崎を挟んで反対側の脇腹にグーパンを叩き込んでから、瑞口が手を上げて表明する。

「毎度あり。瑞口が来ると、柴崎さんと三隅さんも喜ぶよ」

「うえー。わたし、あのおっさんたちちょっと苦手なんだけど」

 実のない会話をぽつぽつと交わしながら歩いていると、県道が交差する十字路の信号機に差し掛かった。僕たち三人はそれぞればらばらの方向に住んでいるから、だいたいいつもこの信号の手前で別れることになる。

「じゃあな。お前らは死ぬなよ」

 別れ際、大崎がそんなことを言ってきた。瑞口は中指を立てながらさっさと歩き去っていく。

 僕は思わず頬を擦る。そんな忠告を受けるほど、死にそうな顔に見えたのだろうか。

 自分が川で溺れ死ぬ姿なんて、想像することもできなかった。死を身近に感じると口で言ったところで、しょせんはそんなものだ。同級生がひとりこの世からいなくなった程度で、命の重みの実感が変わったりしない。

 大崎だってそんなことは百も承知で、だからこれはいつもの趣味の悪い軽口なのだろう。僕は少しだけ考えて、結局その応酬に乗ることにした。

「死なないよ。当分は」

 そう、人生は長い。たぶん、僕が想像しているよりもずっと。

 大して仲がよかったわけでもない同級生の死なんて、一週間もしたら忘れているだろう。

 このときの僕は、そう思っていた。


---


「ただいま」

 同級生の通夜から帰宅して、いつもどおり玄関の戸を開きつつ家族に向けて帰宅の挨拶をした、その矢先。

「お邪魔しまーす」

 背後から、知らない女の声が聞こえた。

 ぎょっとして振り向くと、まず最初に強烈な既視感に襲われた。

 遺影で散々見た顔が、すぐそこにあったからだ。

 先ほど告別を済ませたばかりの小湊楓が、制服姿で玄関先に立っていた。

「おかえりー。どうしたの、孝太郎くん」

 母がやってきて、玄関で固まっている僕を訝しげにしている。視線はまっすぐと僕だけに注がれていた。

「あの、これ……」

 口をパクパクさせながら、背後の小湊を指差す。夜分にどうもすみませんという声が背中越しに聞こえた。

「え、なに? 玄関先になにかあるの?」

 母は少し背伸びをして、僕の背後を覗き込もうとする。そんなことをしなくても、人ひとりがすぐ後ろにいれば見えるはずだ。泡を食いながら振り向くと、やはり小湊の姿があった。自分のローファーと格闘しながら、「あれ、脱げない」などと宣っている。

 落ち着いて状況を整理する作業は、コンマ一秒もかからず脳内で完結した。

 最近、中間テストが間近に迫っているうえに、バンドの練習もいつにも増してハードだった。きっと疲れているのだろう。

「……なんでもない。気のせいだった」

 すべてを見なかったことにして、玄関の扉を閉じる。小湊は平然と扉をすり抜けて我が家の敷居を跨いだ。見てない、見てない、僕は何も見ていない。

 心配そうにしている母の脇を早足で通過して、そう段数があるわけでもない階段を一段飛ばしに駆け上がり、自室に滑り込んで急いで扉の鍵をかける。

 当然の権利のように、小湊は扉をすり抜けて入ってきた。

「うわー、初めて男子の部屋に入っちゃった」

 幻覚なのだから、僕の想像力を超える生々しい反応をしないでほしい。こっちも女子を自室に入れるのも初めてだ。不本意が過ぎる。ノーカウント。

 努めて普段通り生活をするべく、デスクの椅子に腰掛ける。いつもは真っ先に部屋着に着替えるのだが、幻覚と理解しつつも小湊の前で脱衣するのはどうしても気が引けた。

「おーい。和泉ー」

 何をするでもなく机に向かう僕に、小湊はしきりに話しかけてくるのだが、すべて聞き流す。幻聴に反応してしまったらもうおしまいだ。

「聞こえないの? あれ、おかしいな」

 何がおかしいのだろうか。……ああ、僕の頭か。

「ふむ。この人とだけは会話できるとか、そういうパターンだと思ったのに」

 あってたまるかそんなパターン。

「でも、さっきは思いっきり目があったよね。見えてはいるのかな」

 恐怖のどん底に落とされている僕の内心はよそに、小湊の独り言は続く。めちゃくちゃ怖い。まさか耳なし芳一にシンパシーを感じる日が来るとはつゆとも思わなかった。

「……幻覚かなんかだと思われてるのかな」

 幻覚以外のなんなんだ、というつっこみを必死の思いで飲み込んでいると、

「お、いいもの発見」

 という得意げな声が聞こえた。嫌な予感に心臓を締め上げられ、思わず振り向く。

 よっこいしょ、という人間味のあるかけ声とともに、小湊が僕のギターを抱え上げるところだった。そのまま熟れた手つきでシールドを挿し、練習用のアンプに接続する。

「チューナーどこだろ……まあ、いっか」

 死んだはずの同級生が自室でギターを抱えている。脳がその光景を情報として処理しきれず、気絶しそうになった。

「これならさすがに聞こえるっしょ」

 おもしろおかしいいたずらを思いついた子供のように、小湊が顔を綻ばせる。そして、アンプのノブがフルテンに回された。

「おい、やめ――」

 静止の声を発しきるより先に、ピックが振り下ろされた。

 若干ピッチの狂ったAmの轟音が、強烈に歪んで響き渡りびりびりと肌を刺す。出力10w足らずの練習用小型アンプとはいえ、全開で鳴らせば余裕で近所迷惑になり得る音量だ。いわんや家族をや。

「孝太郎くん! 何してるのこんな時間に」

 階段を駆け上がってきた母さんが、珍しく大きな声を出しながら扉を乱暴にノックしている。

 小湊はいうと、振り下ろした右手をそのままに、弦の振動をサスティンに任せて余韻に浸っていた。

 なに悦に入ってんだ、こいつは。ネックを強引に掴んでミュートして、アンプのボリュームノブをゼロまで絞る。

「ご、ごめん。ヘッドホンのプラグがちゃんと挿さってなくて……」

「小湊さんのことがあってセンシティブになっているのはわかるけど、ほどほどにしなさいね」

 まさにその通り、今の僕は目に前にいる小湊のことで頭がいっぱいだった。

 母さんが部屋の前から立ち去るのを足音で確認して、小湊からギターを奪い取る。

「なんだ。やっぱり見えてるじゃん」

 変な話だけど、自分が人生最大クラスの混乱状態に陥っていることを僕は冷静に自覚していた。自覚できても良いことはあまりなさそうではある。

「なんなんだ、きみ。ほんとうに小湊なのか?」

「うん。小湊楓だよ」

 まるで教室で会話するかのような調子で、小湊は受け答えする。

「死んだんじゃ……ないのかよ」

「うん。死んだよ。和泉もお通夜出てたじゃん」

 極めて間の抜けた僕の問いかけに、小湊はさも当然のように答えた。

「だから、今のわたしは幽霊ってやつなのかな。いわゆる」

 その言葉を聞いて、僕は部屋着に着替えることを完全に諦め、制服のままベッドに潜って頭から布団を被った。夢なら覚めてくれ、と強く念じながら固く目をつむる。

「急に寝ちゃったよ。おーい、お話しようぜー」

 小湊を名乗る何かが耳元で話しかけてくるが、徹底的に無視する。これはきっと悪い夢だ。朝になって目を覚ませば、きっと――

「しょうがない。こんどはこっちを試してみようかな」

 ギターより一オクターブ低い弦の音が微かに聞こえた。僕の部屋には、愛機のテレキャスター・カスタムの他に、長らく借りっぱなしになっている知人のジャズベースが鎮座している。

 プラグが差し込まれる小気味の良い音に弾かれて、僕は身体を跳ね上げた。


---


 いまいち要領を得ない小湊の話を、以下に無理やり要約する。

 死の直前からしばらくの記憶がないこと。

 記憶があるのは、告別式がお開きになったあたりからであること。

 僕以外の人間には姿も声も認識されないこと。

 触ろうと思えばものには触れること。

 生き物には触れないこと。

 要点をかいつまんだだけで発狂しそうだった。

「なんで僕につきまとうんだよ」

「そんなつもりはないんだけど、半径3メートルくらいの距離から離れられないんだよね。無理に離れようとすると、こう、リードで引っ張られる犬みたいになる」

 小湊はどちらかと言えば犬系だから、首輪を着けてリードで引っ張られる様子は簡単に想像できた。無論、そんな想像をしている場合ではない。

「だから、つきまとっているというか、取り憑いているんだろうね。和泉に」

 そのふたつの何が違うのか、いまいちわからなかった。

 だめだ、埒が明かない。

 通学鞄から財布を取り出して、中身を確認する。相場がわからないから、引き出しに入っているポチ袋を片っ端からひっくり返して、有り金をすべて財布に詰めた。足りなかったらあとで貯金を下ろそう。

 いつもより厚みを増した財布をポケットに突っ込み、部屋のドアに手をかけたところで、それまで黙って見ていた小湊が話しかけてきた。

「どこ行くの?」

「近所の寺」

「ああ、お参りしてくれるの? 気持ちは嬉しいけど、わたしまだ納骨されてないんだよね」

「そんなわけないだろ! お祓いしてもらうんだよ!」

「うわー、お祓いだなんてそんな。悪霊みたいな扱いしないでもらいたいな」

「きみの振る舞いは今のところ立派な悪霊だぞ!」

 んーそうかな、と小首を傾げる小湊は、こうして見ているぶんには普通の人間と変わらない。ユーモアセンス最悪なドッキリ企画でもなければ、やはり世界か僕のどちらかがおかしくなっている。

「もしかして、顔とかJホラーみたいなことになってる? ほら、貞子とか伽椰子みたいな」

「……いや、遺影そのまんまだけど」

 なんだこの狂ったQ&Aは。

「そっか、よかったぁ。鏡にも映んないのはさすがにちょっと不便なんだよね」

 我慢の限界だった。僕は小湊を無視することに決めて部屋を出ていこうとした。が、すんでのところで足が止まる。何かに腕を無理やり引っ張られたからだ。

 振り向くと、制服の袖口を小湊に掴まれていた。困ったことに、こいつは生き物以外には触ることができるという特異な状況に順応しつつあるらしい。

「離せよ。僕は全裸になってでも行くからな」

「え、社会的に死ぬよ」

「生物学的に死んでるやつに言われたくない!」

 こりゃ一本取られた、と小湊は頭をかく。どうしてこんなに余裕あるんだ、こいつは。

「でもさ、お祓いされたり、成仏させられたりするのは、困るんだよね」

「元同級生の幽霊に取り憑かれること以上の困りごとが、この世に存在するとは思えないんだけど」

「まあまあ、そう邪険にしないで。聞くだけ聞いてみてよ」

 小湊はそこで一度言葉を切って、うつむきがちに薄く笑んだ。

 僕は思わず息を呑む。

 泣いているのかと思った。僕なんかよりよっぽど生気のある目元も、死人とは到底思えない瑞々しい口元も、間違いなく笑顔のかたちなのに。遺影に選ばれたそれっぽい写真なんかよりもずっと哀しく儚げに、しかし小湊は途方もなく笑っている。

 ふと、疑問が頭をよぎる。

 例えば彼女が泣いたとして、その涙はどこに落ちていくのだろう。

 幽霊は涙を流すことができるのか。

「あるんだよね。未練ってやつ」


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