第21話 リゲル家の前の人影
コンコンコン。
取調室に軽いノック音が響き、部屋に入ってきたのは今日初めて会う警察官だった。彼女はライラたちに軽く黙礼をして、共に取調室に残っていたテリーに耳打ちをするとすぐにどこかへ行ってしまった。
「ライラ・リゲルさん、本日はもう帰っていただいて大丈夫です、お疲れ様でした。また借金のことなども含めて事情聴取をさせていただきたいのですが、ご都合はいかがですか?」
「あ、えっとちょっと待ってください」
ライラは部屋の入り口近くにある棚に置いてあるカバンからスケジュール帳を取り出して明日以降の予定を確認した。
「えっと、明日は大学とバイトがあるので難しくて……、明後日は一日空いてます。その次の日はえっと、夕方からなら……」
「そうですか、それでは明後日にしましょう。時間はまたご連絡させていただきます」
「分かりました。よろしくお願いします……あの、借金、のことなんですけど……」
先ほどカラットが訪ねていてくれたが、もし取り立てが来た場合にどこに連絡すればいいのかを聞いていないことをライラは思い出した。
「ああ、そうでしたね。もし取り立てが来ましたらこちらの私個人の電話番号にかけてください。もし繋がらない場合は一つ下の番号へ。また時間の連絡も明日の午後にこの電話番号からかけます」
そう言ってテリーはテリー・メルローと書かれた名刺をライラに渡した。
「そうだ。それから、今日のことはまだ誰にも話さないようにお願いします」
「分かりました。ありがとうございます」
ライラはその名刺を間違ってもなくしてしまわないように、スマートフォンの手帳カバーのポケットに深く差し込んだ。
「それでは、出口までお送りします。すみません、ご自宅までお送りできればよかったのですが、この後忙しくて難しく……」
「あ、大丈夫です! 歩いて帰れる距離なので!」
ライラは数時間ぶりにカバンの紐を握りしめた。
テリーに見送られて警察署を出たライラは思いっきり伸びをした。まだ不安なことは少し残っているが、今日は、今日こそはちゃんと眠れそうだった。ライラは後ろを振り返ってまた頭を下げる。
「ありがとうございました。あの、タクシー呼びますからよければそれで帰ってください」
ライラは一度警察署を出たらしいのにわざわざ戻ってきてもらったのが申し訳なかったので、タクシー代くらいは払おうと申し出た。
「ああ、いやいいよ。私たちも歩いて帰るさ」
「でも……」
しかしカラットとて大学生の女の子からタクシー代を貰うほどがめついやつではない。それに……。
「いいかい、君は今回なにも悪いことはしていない。運悪く巻き込まれてしまっただけだ。そして私たちは自分の意志で首を突っ込んだ。君は気にしなくていいことだよ」
「……はい」
ライラはそれでも自分のせいで、という思いがあったが、ここまで言ってくれているのだからとその言葉は飲み込むことにした。
「うん、それでいい。ライラさん。これは私の勘だが、この件はきっとすぐに解決するだろう。そうしたら鑑定所においで。今度は三人でティータイムにしよう」
「っはい!」
ライラの家がある方向とアルデバラン鑑定所は方向が違ったのでアカモノ警察署の前で三人は別れた。
ライラはそのまま真っ直ぐ家に帰ろうかと思ったが、グーと腹の虫が鳴るのに気がついた。
今日は結局朝しっかり甘くしたココアとビスケット三枚を食べて、アルデバラン鑑定所で出してもらった焼き菓子を食べただけだ。そんな妖精さんのような食事しかしていなかったら腹の虫も低く訴えてくるのもしかたない。それでもこのタイミングで腹の虫が鳴るということはやはり安心したというのが大きいのだろう。
「よし、さっさと帰ってから好きなものデリバリーしちゃおう!」
ライラは帰ってからきっと夕ご飯を作るのは嫌になるだろうと思って、今日くらいは好きなものを好きなだけ注文することに決めた。それでも外食にしないのは今は家にいたいと思ったからだった。
「あれ、誰かいる……」
ライラは自宅が見えるところまで来て家の前に誰か人影があるのに気がついた。ちょうど夕方近くで日が傾いてきており、逆光になっていて家の前にずっといる人物が誰かは分からない。
「まさか、闇金業者の……」
ライラは慌てて道の角を曲がって身を隠し、スマートフォンを取り出して電話アプリを開いて先ほどテリーにもらった名刺の番号を打ち込むと後は発信ボタンを押すだけという状態にしてゆっくり歩き始めた。
「きっと、きっと人違い……」
ライラは自分を律するように呟きながら歩いた。そしてうわさの怪異の近くにくればばなるほど黒一色でしかなかった人影に濃淡がついて見えてくる。あ、気づかれた。
人影がこっちに向かってくる。ただ、大きく手を振っている。
「あ、」
ライラは握りしめていたスマートフォンの番号を消して電話アプリを落とした。
「ライラちゃーん!」
ライラはまた涙が溢れそうになった。スマートフォンを適当にポケットに押し込んで走り出す。
「ミゲルおばさん!」
ライラに父はもういない。二年前に病気で亡くなってしまったからだ。ライラは父が死んですぐは泣けなかった。父の葬式で煙が高く立ち昇るのを見てやっと泣くことができた。その時、何も言わずにずっと背中を撫でてくれていたのが向かいのお家に住んでいるミゲルおばさんだった。
「ライラちゃん、大丈夫かい!? 警察の人が調査だって、ドライブレコーダーとか防犯カメラの映像くれないかって言われるし……ライラちゃんのことについても聞かれるし、ライラちゃんは家にいないし!」
「はい、はい……! ちょっとまだ話しちゃだめって言われてるんですけど、そのカメラの映像のおかげで、私、私……!」
もう言葉にならなかった。ライラに家族はもういない、でもライラを心配してくれて手を差し伸べてくれる人はいるのだ。
ライラは今日はもう泣かないと思っていた。それこそ警察署のあの取調室で、カラットとユーリエの前で、一、二年分くらいはゆうに号泣してきたというのに。
ライラの言葉にならない言葉と嗚咽を聞いてもミゲルおばさんはまた、あの日のように何も言わずに背中をさすってくれた。
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