第6話 ワダツミのシャンプー
カラットは先ほどファイルか何かを置いた机のところまで戻ると店のさらに奥に向かって声をかけた。
「ユーリ! ごめんね、カルク紙を取ってくれるかい?」
すると少しの間の後、店の奥から髪の長い少女のような雰囲気を持った女性が出てきてライラは思わず息を呑んだ。彼女は一枚の紙をカラットに手渡すとすぐに裏に引っ込んでしまったが、ライラは彼女が消えた方をじっと見たままだった。
カラットだって不思議な雰囲気のこの店に十分すぎるほどあっていたが、ライラには彼女の方がずっとこの店にあっているように見えた。それこそ彼女がこの店にいても微動だにしなければ溶け込んでしまってきっとずっと気づくことができないだろうくらいに。彼女はそう、まるで教科書の絵画で見た魔法族の魔女のような妖しい雰囲気がある。
「あの、今の方は……」
「ああ、彼女は私の助手だよ。……さ、どうぞそこに座って」
どこか早口に助手だという女性の話を切り上げたカラットは書斎机の横にスツールを寄せた。ライラは勧められるがままそのスツールに浅く腰掛けて、手持ち無沙汰に今度は持っているカバンの持ち手のところを固く握りしめた。
カラットは重量感のあるローズウッドのような赤みのある深いブラウンの書斎机に、厚みのある少しざらついた手触りのカルク紙を置いてデスクチェアに腰掛けた。続いてカラットはジャケットの内ポケットから万年筆を取り出して、くるくるキャップを外してからカルク紙の右上の方にまず日付と、「アルデバラン鑑定所 カラット・アルデバラン」と文字を綴ると、続けて少し大きな字で念書と書いた。
ライラはもちろん、周りの友人や教授も普通ボールペンかシャープペンシルを使うので、万年筆を使っている人など初めて見たものだから思わずカラットの右手をまじまじと見てしまった。カラットが使っている万年筆はボールペンなんかより二センチくらい短く、深い青色の大理石のような模様の軸に、ペン先はゴールドのもので普段それほど物欲がないライラは久しぶりにこんなものだったら欲しいと思うようなものに出会った。
続けて履行する内容について書いていたカラットは一度手を止めて一度顔を上げてライラに問いかけた。
「お嬢さん、名前は何というかな」
「あ、ライラ・リゲルと申します」
「ん、ありがとう」
ライラの返答にそう返すとカラットはまた紙に続きを書き始めた。しばらくカラットの万年筆のペン先が紙の上を滑る音が響いていたが、やがてカラットは最後にサインを書いてトンとピリオドを打つように紙に小さな点を打ってからざっと読み直すと、うんと頷いて小さな鍵を取り出し机の鍵のかかる引き出しを開けて中から取り出した判を紙に押してからライラの方に差し出した。
「よし書けたよ。手書きなんだけど、サインと店の判を押してあるから」
ライラは差し出された紙を両手で持って、もうこれ以上お金がらみのことに巻き込まれないように端から端まで目で追い始めた。カラットはライラの真剣な、むしろ鬼気迫る様子を見ながら万年筆をジャケットの内ポケットに戻して思わず、といったように言った。
「きみ、何と言うか、随分としっかりしているんだね……」
「そうですね、これ以上借金を増やすわけにはいかないんで」
ライラは紙から目を離さず、自分が借金を負わされたことを隠すことすら思いつかないまま反射で返した。何が悲しいって明日には理不尽で、きっとおそらく不当な借金と思っていながらお金を払わなくちゃいけないところだろう。ライラはしっかりと履行の内容と日付、相手と自分の名前、この店の住所、カラットのサイン、判子までを確認してからようやく顔を上げた。
「はい、確認させていただきました。――それでは、よろしくお願いします」
「はい、お願いされました。それじゃあ、早速だけど見せてもらえるかな」
ライラは膝に置いていたカバンの底からタオルを取り出した。短剣は鞘に収まって布に包まれているとはいえ、そのまま持ってくるのは何だか怖かったので、さらにフェイスタオルでくるくると巻いて持ってきたのだ。ライラはタオルを解いてカバンの中に少し雑に突っ込むと、紫の布をそっと開いて中の短剣が見えるようにしてからカラットの目の前の机にそっと置いた。
カラットはいつの間にか取り出したマスクと白手袋をつけると拝見します、と言って一度礼をするとそっと鞘に入ったままの短剣の柄の部分右手で、鞘の部分を左手で支えるようにしてあまり持ち上げないまま見始めた。
ライラがアルデバラン鑑定所に持ち込んだのは、どうしてか忘れていた父の形見である短剣で、柄の部分が丸々宝石のような蜂蜜色の虫の入った石で構成されており、鞘や鍔のところにも宝石らしき装飾があしらわれているものだ。
ライラはもしこれが価値のあるものだとしたら、短剣そのものよりもこの宝石のような部分に価値があるのではないか推察していた。宝石は安価で小さい人工石くらいしか手に取ったことがないライラにはこれが宝石なのか、宝石だとしたらどれくらいの価値があるのものなのかてんで分からなかったが、これほどの大きさのものが本当に宝石であるのならば、そこそこの価格で売れたりしないかと期待せずにはいられなかった。
カラットは、しばらくの間何も言わずに表、裏とを見ていたが、そのまま何も言わずに続いてそうっと短剣を鞘から抜いて目を見張った後少しだけ眉を顰めた。
その表情から何か気になるものがあるのだろうなということはライラにも分かったが、カラットが何も言わないのに何かを聞けるような雰囲気でもなく、黙って耐えるしかなかった。
カラットは次に一度鞘の部分を布の上に置いて、柄の部分を両手で持つと掲げるようにして目線の高さに近いところまで持ち上げた。そうしてカラットはまたしばらく見た後本体部分を布の上に置き、今度は鞘に持ち替えてじっくりと見た。それから少ししてカラットは丁寧な手つきでほとんど音も立てずに短剣を鞘に収めなおすと短剣を紫の布の上に置き、ふうと息をついた。
「お待たせして申し訳ない。これから眼鏡を外してもう一度じっくりと見させてほしい。――そうだ、時間かかるから何か飲み物を出そうか、紅茶は飲めるかな」
カラットはそう言いながら短剣に優しく紫の布で
「え、あ、はい」
「よし。……ユーリ、お茶淹れるけど飲むかい」
店の奥の空間にそう声をかけたカラットに、ライラはカラットが助手に任せずに自分で紅茶を淹れるんだなと思ったが、そんなことよりもこの短剣に価値があるのかどうかの方がよっぽど気になっていた。どうだろう、これからさらにじっくり見てくれるということは何かしら価値の見出せるものということなのだろうか。ライラはカラットが奥に行ってしまったことで疑問を投げかける相手もいないため、視線を机の上や店の中を行ったり来たりさせながら、ソワソワと彼が戻ってくるのを待つしかなかった。
カタン。ふと耳に届いた音にライラは自分の手元とカラットの机の辺りをふらふらさせていた視線を音のした右後ろの方にやると、いつまにか出てきたカラットの助手でユーリエというらしい女性が少し離れた月を模したランプの近くにあるカフェテーブルにお茶菓子を置いていた。ユーリエはお茶菓子を乗せていたお盆を両手で抱えるように持つとライラの方を向いた。
「ただいまアルデバランがお茶を淹れておりますので少々お待ちください。そちらですと万が一依頼品に飲食物がかかってしまうと大変ですから、お手数ですがこちらにご移動をお願いします」
その薄く開いた唇から紡がれる声は見た目の印象から想像していたものより少し低い声だったな、と言葉もなく頷いたライラは思った。先ほど店主であるカラットよりもこの店の雰囲気にあっていると感じたこの女性は近くで見るとその不思議さの正体が少しだけ分かった気がした。
少し低めの落ち着いた声と、深い、宇宙の奥底のような緑の黒髪に、肌は透き通るような白さだが頬は薔薇色で血色がいい。先ほど遠目にチラリと見えた時、瞳は黒曜石のような黒だと思ったが、近づくとそれは青みがかったダークブルーだったと分かる。その雰囲気がどことなく魔法族を題材にした映画なんかに出てくるとびっきり素敵な、女性が憧れる女性のような魔女に似ている気がした。あまり表情は動かないものの、その瞳にたたえた感情と声音から決して冷たく扱われているような感じは少しもしない。
ユーリエはライラの方を少しの間じっと見てからカフェテーブルとセットの椅子の背ををひいてくれた。
「あ、ありがとうございます」
ライラは張り付いたような喉から何とか礼を絞り出してカバンを抱えてユーリエがひいてくれた椅子に座り直したが、その後をどうすればいいのか分からなかった。先ほどのようにどこかを見やる余裕もなく、カバンを両腕で抱え込んで俯いていると、床にカゴが置かれたのが視界に入ってライラは顔を上げた。
わ、と溢れそうになった声は何とか口の中にとどめた。ユーリエがカゴを置くためだろう、思ったよりもずっと近くに立っている。さらりと揺れたユーリエの髪からはどこか知っているような匂いがした。
「カバン」
「……へ?」
「カバン、よろしければ置いておくのにこちらのカゴをお使いください」
何とも間抜けな声を出してしまったものだとライラは他人事のように思った。またありがとうございますと何とか絞り出した声で小さく返して、ライラはスマートフォンをカバンから半分取り出した状態でロック画面でさっと時間と通知だけ確認してから戻してカバンを足元に置かれたカゴに入れた。
ユーリエは多少離れたものの近くに立ったままどうしてか奥に戻らなかったので、ライラは緊張から肩をこわばらせた姿勢ままカラットと彼が淹れてくれているという紅茶を待つしかなかった。さっきまでは手の中にあった握るものも今は床に置かれたカゴの中なので、仕方なく手を握ったり開いたりしながらときどき爪の甘皮をいじっているフリをした。
しかしさすがに沈黙に耐えられなくなって、ライラはユーリエに世間話の延長のような質問を投げかけてみることにした。
「その、お姉さんは……」
「――私はユーリエ、どうぞユーリエと呼んで」
ライラはこの人の持つ雰囲気からなんとなくパーソナルスペースが広い人なのかなと思ってあえてカラットから聞いていた名前を呼ばなかったのだが、ひとまず名前を呼ぶのは問題がないらしい。
「あ、ライラ・リゲルといいます……。その、じゃあユーリエさん。ユーリエさんはえっと、シャンプーどこの使ってらっしゃいますか?」
ライラの言葉にユーリエはきょとんとした顔をした。ライラの質問が予想外だったのだろう。
ライラはユーリエに聞きたいこととして真っ先に思いついたのはどうしてカラットの助手をしているのかということだったのだが、さすがにそれを聞くのは会って数分で踏み込みすぎだろうと思って、それならばとユーリエがさらさらのあんまりに癖のない綺麗な黒髪をしているから、どんなシャンプーを使っているのか聞いてみたいと思ったのだ。それに知っているような気がするのに、出てきてくれない先ほど香った匂いの正体も分かるのではないかとも思った。
「シャンプー、はワダツミの真珠と
「えっ、ワダツミの使ってるんですか!? 私も、私もワダツミの使ってるんです!」
ライラはおそらく当たり障りのない、かつ自分が彼女のことで特に興味のあることを質問として投げかけたのだが、まさかユーリエが自分と同じブランドのシャンプーとトリートメントを使っていると知ってつい興奮してしまった。
「私は髪の毛太めだから珊瑚と星の砂使ってるんです! わ、嬉しい、私の周りでワダツミ使っている人なかなかいないんですけど、あれコンセプトがすっごく素敵ですよね!」
そうだ、ユーリエの髪からしている匂いはお試しの時に珊瑚と星の砂だけでなく真珠と螺鈿も買って試した時の匂いだ。ライラの髪質にあっていたのは珊瑚と星の砂だったので真珠と螺鈿は最初のお試し以来使っていないが、確かにこんな匂いだったとライラは謎が解けて少しスッキリした。
ワダツミのシャンプーとトリートメントのシリーズは「海からの恵み」をコンセプトにして作られたもので、無添加かつ天然の素材にこだわっているものだった。
ライラが使っている「珊瑚と星の砂」はどちらかといえばしっかりとした髪質の人向けでしっとり艶やかにまとまるタイプ。ユーリエが使っているという「真珠と螺鈿」はどちらかといえば細めの髪質の人向けで、さらさらきらきらと指通りが滑らかな仕上がりになるタイプだ。
ワダツミはその売り上げの一部を海の環境保護、改善に寄附するなどの活動をしているブランドで、ライラは最初パッケージが可愛くてトライアルパウチを買ってみたのだが、数回使ってみたら髪質にもあっていたしコンセプトや海への取り組みも気に入ったのでずっと使っている。しかしドラックストアでは売っていない上にインターネットなどでもなかなか話題になっていないのでせっかくいい商品なのに残念だなとライラは思っていたのだった。
ライラはこの数日をあの悪夢に支配されていたせいで、こういった雑談をする相手もする暇も余裕もなかった。だから勢いの強い話を方をしてはユーリエが困ってしまうかもしれないとは思いつつも、止められなかった。ただこれはライラの一つの防衛本能のようなものだったのだろう。一昨日の夜からライラの頭を埋め尽くしたのは顔も分からない母親のこと、借金や生活費を含めたお金のこと、そして父のことだった。その中で、少しでもそれらを頭の片隅に追いやることができる隙を本能が見逃してはくれなかった。
「あ、すみません。捲し立てちゃって……」
「……ううん、ちょっと驚いたけど、平気。私も、あれは言葉もデザインも好き」
ライラはパッと顔を明るくして、テーブルに向けて揃えていた足をずらしてユーリエの方を向いて座り直した。
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