第7話 身の上話
それから少しの間、カラットが戻ってくるまでライラはユーリエとの雑談を楽しんだ。実際にはほんの十分ほどだったのだろうが、ライラの体感ではもう少し短く四、五分といったところだった。カツンカツンという足音が聞こえて二人が店の奥の方に視線をやると、カラットがトレーの上にティーポットとティーカップ、それからシュガーポットとミルクピッチャーも一緒に乗せて戻ってきた。
「いや、お待たせして申し訳ないね。さ、アールグレイだ。砂糖とミルクはお好みでどうぞ。ユーリの分は奥に置いてあるよ」
カラットは最後の部分をユーリエの方を向いて言った。ユーリエはそれに言葉は発さずに頷きだけ返すと、ライラに会釈をして店の奥に戻っていってしまった。ライラはそれを名残惜しく見ていたが、ユーリエが奥まで進んで曲がって壁の裏に行って見えなくなる手前でライラの方を見てヒラヒラと小さく手を振ってくれた。ライラはユーリエに面倒な相手をさせてしまったかもしれないと少し思っていたのだが、どうやら彼女はそんなことを思わないでいてくれたらしい。ライラはユーリエが壁の裏に隠れて完全に見えなくなってしまっても数秒の間手を振り続けた。
ユーリエが奥に引っ込んでしまったのは残念なことだったが、この数分の時間はここ三日でライラが一番肩の力を抜くことができた時間になった。ライラはずっとぐちゃぐちゃで荒ぶっていた気分と気持ちが少しだけ落ち着いたような気がしていた。
カラットはティーポットからカップに紅茶を注ぐためにテーブルに向かっていて店の奥の方に背を向けていたものだからユーリエが手を振っていたことには気が付かなかったようだったが、手を振り返していたライラには気がついてびっくりした様子で振り返っていた。その時にはもうユーリエは壁の後ろに消えてしまっていたが、カラットは驚きで目を見張ったままライラの方に視線を戻して言った。
「ユーリ……、ユーリエと何か話をしていたのかい?」
「あ、はい。その、アルデバランさんが戻ってくるまでここにいてくださったので、ずっと黙っているのもあれだったし、ちょっとだけ……」
「そう、か。ユーリエは手を振っていた?」
「え? はい。ほとんど私が勝手に話しちゃってただけなんですけど、ユーリエさん、とっても髪が綺麗だからシャンプーを何使ってるのか聞いてみたんです。そうしたら違うバージョンのやつなんですけど、同じブランドの使ってて嬉しくなっちゃってお話しさせてもらってました」
カラットはライラの言葉にも驚いたのか目を見張っていたが、少ししてゆったりと瞬きをすると「そうか」と小さくつぶやくと、どうしてかどこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「いや、少し驚いたけど、楽しかったようなら何よりだ。ユーリエはあまり感情が表情として出てこないけれど、きっとライラさんとお話ししたのは楽しかったんだと思うよ」
「それなら、よかったです」
「それじゃあ私はしばらくあの短剣を見るから、その間紅茶とお茶菓子を楽しんでいて」
「はい。よろしくお願いします」
ライラはカラットの表情に違和感を抱いたが、とても追求できるような雰囲気でもなければそれに突っ込めるほど親しい関係では決してなかった。カラットはライラの「よろしくお願いします」という言葉に頷きを返すと、踵を返して短剣の置いたままのテーブルまで戻った。
「本当は、眼鏡をかけて見るのが作品保護の観点でもいいんだけど、眼鏡があるとマジックイミテーションの力がうまく使えないから、はずさせてね」
カラットはそうあらかじめ断って眼鏡を外した。遠目に見ているせいとメガネの反射がなくなったせいかもしれないが、ライラには確かにカラットの桔梗色の瞳がより濃くなったように見えた。
そんなことよりも、カラットは今マジカルイミテーションの力を使うと言ったか。ライラは思ったよりも凄いことになっているかもしれないと冷や汗をかいてちゃんと自分のカバンの中に先ほど書いてもらった念書が入っているかどうかをチラリと横目で確認した。次にカラットの方に視線を戻した時には、もうすでに彼はすっかり集中しきっている様子だった。
気になることは色々とあるものの、ひどく集中している様子のカラットの邪魔をするわけにもいかず、とりあえずせっかく淹れてくれた目の前のお茶を冷める前にいただこうとライラは無意識のうちに組んでいた手を解いた。
先ほどカラットは目に特別な力――マジックイミテーションがあると言っていた。普通の鑑定にその力が必要なのであれば最初から眼鏡を外すはずだし、彼の目に宿る力とは一体なんなのだろうか。そしてその力を使って見るということはあの短剣には特別な何かがあるということなのだろうか。それを、父は知っていたのだろうか。
そんなことが頭の中をぐるぐるしていたライラだったが、紅茶を一口含んだ瞬間、びっくりしてそんな考えは頭の隅っこまで吹っ飛んでしまった。
おいしい、今まで飲んできた紅茶の中でも一番かもしれない。
食道を伝ってお腹の奥から胸の辺りまで温まるの感じながらライラはほっと息を漏らしてもう一口紅茶を口に含んだ。
ライラはコーヒーよりも紅茶が好きだったし、ファミレスなんかでドリンクバーに紅茶があれば絶対にそれを選ぶくらいには紅茶が好きだが、一方で強いこだわりのようなものはそれほど持っていなかった。高い茶葉は高いなりの味と香りがあって美味しくて好きだが、それはそれとしてスーパーでよく買う安価な、百袋入り六百リムほどのティーバックのものでも、これにはこれの美味しさがあるなと思うタイプだった。
そんなわけで高い安いに関わらず、美味しいものは美味しいと強いこだわりもなかったのだが、これは違う。今までライラが飲んできたどの紅茶よりもおいしい気がした。こんな最低の憂鬱な気分の時でなければもっとおいしく感じられただろうに。
実のところライラはフレーバーティー、特にアールグレイのバリエーションの一つであるレディグレイが苦手なくせに一番好きな紅茶はフレーバーティーのアールグレイというちょっとチグハグな人間なのだが、それを抜きにしたってカラットが淹れてくれた紅茶は今までできっと一番だった。ちなみにライラが一番好きな茶葉はミルクティーが好きなことからアッサムである。
このアルデバラン鑑定所があることを知るきっかけになった同じ通りの茶葉の店はどうしてかどうしても引かれるものがあって足を踏み入れたし、そこで買った茶葉で自分で淹れた紅茶は自分史上最もおいしく淹れられた紅茶だったのだが、カラットの淹れてくれたこれは間違いなくその時以上の味だった。
今日多少無理して口にしたココアは糖分を摂取するためという目的があったおかげでいつもより小さじ二杯も砂糖を多く入れたにも関わらずいつもより味が薄かったのに、この紅茶は香りも味も十分すぎるほどライラを満たしてくれている。
そして今気がついたが、カップはちゃんと紅茶を入れる前から温められていたようだし、添えられているミルクのピッチャーも温かく、中のミルクがスチームミルクであることにも気がついた。
ライラは一度カップをソーサーに戻してユーリエが運んできてくれた焼き菓子を口にする。これもおいしい。市松模様のプレーンとココアのクッキーと、チョコチップのクッキーが数枚ずつ、それからマドレーヌとフィナンシェが二つずつ。クッキーのサクッとしてほろっとした食感が、マドレーヌとフィナンシェのしっとりとした甘さが紅茶によくあった。
一杯目の紅茶ストレートのまま飲みきったライラは二杯目の紅茶には砂糖とミルクを入れてティースプーンで手前から奥、奥から手前にゆっくりと静かに混ぜた。これは茶葉のお店の人が教えてくれたのだが、紅茶などはぐるぐると丸く混ぜるのではなく、縦に混ぜたほうがよく混ざるのだそうだ。ライラはこれを教えてもらって以来紅茶でもたまに飲むコーヒーでも縦に混ぜるようにしていた。
カラットが短剣を鑑定している間という少しの時間だけだったが、ライラはティータイムを楽しんだ。この時間はどうしてか最低で最悪なことも片隅に追いやることができて一昨日の十六時ぶりに落ち着くことができた。
じっくりゆっくり紅茶とお茶菓子を堪能して、ライラは焼き菓子全部とポットに入った紅茶をすっかり平らげてしまった。最初に持ってきてもらったとき、たっぷりあるお茶菓子は残るだろうなと思っていたのに、そんなことはなかった。
「ふう」
無意識のうちに口から息を漏らして、手を合わせるとライラは空間の静けさを思い出して小さくごちそうさまでしたと呟いた。一応カラットのことを気遣ったつもりなのだが、ティータイムに没入している間に邪魔をしてしまってはいないだろうかとそろそろとカラットの方に視線をやった。
するとカラットはもうすでに眼鏡をかけており、そんなに時間がたってしまったのかと思って慌てるのと同時に紅茶と焼き菓子を心置きなく堪能していたところを見られていたのかと思うと恥ずかしさが込み上げてきてライラは頬を少し赤くした。
「ふふ、美味しかったかな」
「あっ、はい、今までで一番美味しい紅茶でした。焼き菓子も美味しくて……。すみません、すっかり堪能してしまいました」
「いいや、こちらこそそう言ってもらえて嬉しいよ。……さて、この短剣だけど」
カラットは柔らかくしていた目尻を鋭くして机の上の、紫の布の上に置かれた短剣についと視線を移した。
すっかりティータイムを楽しんだライラだったが、忘れていたわけではなかった。美味しい紅茶と焼き菓子でほんの少し現実逃避をしていただけであって、忘れられるほどの出来ことである訳がなかった。
「この短剣、本当に売ってしまうのかい? これはきっと、君を守ってくれるものだろう」
「……でも、今の私を守ってくれるのはこの短剣じゃなくてお金なんです」
カラットは目を見張って、パチパチと瞬きをすると首を軽く撫でてからライラの向かいにある椅子を引いてそっと腰を下ろした。
「話を、聞いても?」
ライラは黙り込んだ。血のつながっただけの母に背負わされたきっと非合法の借金は自分にとって恥だった。ライラとしてはもはや赤の他人のような人だが、血の上でも戸籍の上でもそんなことは許してくれないし、周りの人たちだってきっと肯定してはくれない。こんな一応母の不始末を、短剣を無償で見てくれたとはいえ、今日初めて会った鑑定士にとてもじゃないが話せないと思った。
「話しにくいかい? 私はこれでも君よりは大人だから、何かアドバイスできることがあるかもしれないよ」
カラットはライラに出した紅茶のようにまろやかに、優しく語りかけた。ライラは口をつぐんだままだったが、カラットは彼女が先ほど念書を確かめた時に借金をこれ以上増やせないと口を滑らせていたのを忘れてはいなかった。ただ、このまだ学生に見える彼女が、少女というサナギを脱いで一人のレディとして今まさに羽ばたこうという頃の彼女が、何を背負っているのか分からなかった。
カラットはそれ以上は何も言わなかった。そして二人の間には沈黙が訪れたが、やがてライラがその思い口を開いた。
「……別に、大したことじゃありません。子供の時に蒸発した顔も知らない母親の借金が突然判明して、それがアブナイとこから借りたもので、失踪した母親が亡くなった父を保証人にしていたから、その父の遺産を継いだ私が代わりに払わなくちゃいけなくなっただけです」
「そ、れは、十分大したことだろう。……警察に相談は?」
「もちろんしました! でも……でも、この借金が違法かどうか調査をしてからでないと動けないと言われてしまったんです」
ライラはまた視線を下に落として、尻すぼみになりながら訴えた。もうライラにはひとまずお金を用意して、それから警察の調査をもとに後でお金を取り返す方法を探すくらいしか思いつかなかった。むしろ余裕のない中で、よくこんなにも頭を働かせられたと自分を褒めてやりたいくらいだった。諦めるつもりはこれっぽっちもないけれど、無茶をして対抗手段もないまま、今までを棒に振るなんてことをしたくなかった。
「その借金はいつ返さないといけないんだい?」
「……明日です。明日には、四百万リム、その後追加で五百万リムの支払いが待っています」
「それは……」
この少女というサナギを脱いでいる途中の彼女にはあまりにも酷な額だった。この辺りのアルバイトの時給の平均額はおよそ千五百リムなので、これで換算するとアルバイトで買えそうものならおよそ六千時間も働かなくては九百万リムには到達できない計算となる。
「とりあえず、明日だけ逃げてどこかに身を隠して警察の調査結果を待つ、というのは?」
「そんなこと、できません。もうすでに家を知られているんです。逃げて、明日予定通りにあの借金取りが来てしまった場合私の家に無理矢理にでも押し入られたら? ご近所さんに迷惑をかけてしまったら? その可能性がある限り私は逃げられません」
ライラは父が亡くなった時、どうしたらいいのか分からなくなった。父の死因は病気だったので、事故のように突然の別れとなった訳ではないが、覚悟をしていたつもりでも実際、命の灯火が掻き消えた瞬間を見てしまったら何も考えられなくなってしまったのだった。そのときのことでやけに鮮明に記憶に残っているのがぼんやりと自分の手足の先から血の引いていく感覚と、変に不規則なテンポではねる心臓の音だった。
しかし父は自分が治癒の難しい病であることが判明してから自分が死んだ後にライラがどうすればいいのかをノートに書き起こしてくれていた。ライラは自分が死んだことによって出さなければいけない届出だとか、踏まなければならない手続きだとかを生前にノートにまとめていた父になんとも言えない気持ちを抱いて苦虫を噛み潰したような顔になったが、それは初めて近親者を見送ったライラにとってとてもありがたいものであることは間違いなかった。
ライラが二週間手続き他に奔走して、父の遺言通り通夜のない告別式だけの葬式をあげて、父が火葬場に入れられてやっと、涙が溢れてきた。重厚な扉の奥に消えた棺を見送ったままボロボロと嗚咽もあげずに涙をこぼすライラのその背中を撫でてくれたのは、ご近所の人たちだった。ライラは頼れる親戚など誰もいなかったが、ご近所の人たちはライラが行わなくてはいけない手続き以外の、たとえば食事だとかそういったところをこの二週間の間気にかけて面倒を見てくれていた。ライラは後で知ったことだが、それも父が生前に手紙を出して「娘を気にかけてやってほしい」とお願いしていたらしい。
ライラは父が葬式はやるなとは言わないでいてくれて助かったと思った。準備は大変でしんどかったし、そりゃ多少はお金がかかったがこれがなくちゃ涙を流す自分の背中を撫でてくれるあたたかい手も、話を聞いてくれる人もいなかったかもしれない。何より、立ちのぼる煙を見れなかったら泣くことすら出来なかったかもしれなかった。
ライラはその後、一人暮らしになった自分のことをずっと、ずっと気にかけてくれているご近所の人たちに絶対に迷惑をかけたくなかった。だから、ライラに逃げるという選択肢ははなから存在していなかった。
「そう、か。そうか。何も力になれなくて申し訳ない」
「いえ、そんな! 無償で鑑定を請け負ってくださったのに、そんなことおっしゃらないでください」
少々無理に聞き出した割に、アドバイスどころか気の利いた言葉すらかけられない自分をカラットは反省した。ただライラの言葉に自分が今できることを最大限してやらなくてはと、鑑定結果を話すために席を立ち、ティーセットはそのままで構わないのでライラも短剣が置かれたままの机の横のスツールに移動するように言った。
ライラはカバンを足元のカゴから出して、足を引っ掛けないようにカゴを椅子の下に収めてからスツールに移動した。
カラットはライラが腰掛けたのを確認してから口を開く。
「それじゃあ、この短剣の鑑定結果をお話ししようか」
「……はい、お願いします」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます