第2話 一寸先は闇



 ライラはわいてでた最悪な出来事のせいで早々に寝付くなんてことができるはずもなく、結局寝ようと思ってベッドに入ってから目を瞑ってもいつまで経っても眠れやしなかった。仕方なく寝ようとするのは早々に諦めて、しかし窓口が開く時間は変わりはしないのだから不安を抱えたまま充電コードを挿したままのスマートフォンで漫画や動画を見て時間をつぶすしかなかった。

 それも目が滑って内容なんて全く入ってこないものだからこちらも諦めてスマートフォンをベッドに放った。勢いをつけてベットに転がって何度も寝返りを打って髪の毛をボサボサにしながら普段の何倍にも思える時間をなんとか待った。午前四時三十分に我慢できなくなって着替え始め、無駄に丁寧に時間をかけていつもはあまりしないアイメイクもしっかりやって身だしなみを整え終わった時点で午前六時。

 こんなにしっかりじっくりお化粧をしたのはいつぶりだろうか。普段は単色のアイシャドウを塗ってマスカラは無色のものを使ってアイラインは目尻に少しだけなのであまりハッキリとした目元にはせず、むしろ最近はアイメイクもしていないことが多かったのだが、今日は余計に時間があったせいでとびきりの日に使うことの多かったパレットを引き出しの底から出していつもよりずっと丁寧に目元にラメを仕込んだ。

 鏡の前で自分の姿を見てこれから行くのは警察署だというのにとライラはため息をついた。こういう、別に今日じゃなくてもいいのにという日に限ってバランス良く眉はかけるし、アイシャドウのグラデーションはうまくいってアイラインも綺麗に引けるのだ。

 さて、とまるでこれから楽しい場所に出かけるような顔面に仕上がったわけだが、残念ながらそんな場所じゃない。行ったことはないけれど、ここから最寄りの警察署までは自転車で三十分はかからないはずだから身支度に一時間半かけたがまだ家を出るには早いだろう。

 仕方なしにもうここまできたら朝食に美味しいホットケーキでも焼こうと思ってわざわざホイップバターを用意し、二センチほどの厚みのある一時期ハマった時に極めたホットケーキを食欲はないと主張する胃になんとか詰め込んで片付けを終えてやっと午前七時二十分になった。

 相談窓口とやらが開くのは午前八時三十分かららしいのでどうしたって早すぎるが、ライラはもう我慢できずに家を出て自転車に跨った。夏の近づく朝の、湿った匂いのする風の中をライラは走った。



 かくして朝一番に最寄りのアカモノ警察署に駆け込み、十分ほど早く窓口を開けてくれた警察官に昨日のことをあらかじめまとめておいたメモに沿って語ったライラを待っていたのは、しかし無情な言葉だった。


「現時点で違法かどうかを申し上げることはできないんです」


 担当してくれた、比較的若い女性の警察官は朝一番に必死の形相で駆け込んできたライラを見て何かを察していたのだろう。ロビーの相談窓口目の前のソファーに座り込んで固く手を握りしめていたライラを見て「どうぞ」といって案内してくれたのだ。

 きっとこの警察官は色々な人の色々な相談を受けてきたはずだ。もしかしたらこんな不幸な話はよくあるものかもしれないのに、それでもライラの話を聞くたびに悲痛そうな、申し訳なさそうな色を濃くして、それでも告げられた答えというものはやはり残酷であった。


「じゃあ、今できることはないってことですか……」

「すみません、今の段階では調査をして結果が出てからでないと動けないんです」

「その、調査って、どれくらい……?」

「確約できませんが、最低三日はかかってしまうかと……」


 ライラは目の前が真っ暗になって周りの音も全く耳に入らなくなってしまった。目の前が真っ暗になるなんて物語の比喩表現でしか聞かなかった現象を体験したのは昨日に引き続き二度目、人生でも二度目。父親が亡くなってしまったときだって悲しかったし、辛かったけれど目の前が真っ暗になってしまうことなんてなかった。むしろこれからを強く生きてやると思っていたからこそ、前をしっかりと見据えていた。そのときは目の前に光が差していたはずなのに。ライラは元々シワのよった借用書のコピーにまた新しいシワを作ってしまった。

 とにかくこの借金の支払い責任がライラにあるのかどうかの調査は請け負ってくれるとのことだったのでそれだけをお願いして、ライラは茫然自失のまま担当してくれた警察官の名刺だけをもらって警察署を出た。

 このまま自転車に乗ってはすっ転んでしまいそうだったので、呆けたまま向かいにある公園のベンチに座り込んで何もしない時間を過ごした。調査の依頼のために名前やら住所やらを記入した気もするが、あまり覚えていなかった。

 そういうわけでライラは明後日までに四百万リム、一週間後までにさらに利子含めて五百万リム用意しなくてはいけなくなってしまった。合計九百万リムなんて大学四年間の学費よりもよっぽど高い金額だ。


 昼過ぎになって太陽の日差しがチリチリは肌に刺激を与え、ライラにじんわりと汗をかかせるようになった頃にようやく「いや、ただ頭を抱えている場合ではない」と思えるだけの余裕が少しだけできた。

 あの男が再度ライラの平穏を脅かすために家に訪れるまで時間がないのにもうベンチに座ったままで二時間ほど過ごしてしまった。せっかく父親と親子二人で頑張ってきたのだ。父親はライラのこれからを見守りたかっただろうに、無念にも病気で早逝してしまった。きっと父は今もお空の綺麗なところから自分のことを見守ってくれているはずだ、とライラは気合いを入れるために頬をパチンと一度叩いた。ヒリヒリとする頬で目を覚ましながら、大切なこれまでをこんなことで壊していられるものか、と決意して勢いよくベンチから立ち上がった。

 こんなことになったって変わらないライラのすごいところは、さまざまな感情を一度押さえ付けて冷静になった後で、それらの感情を次に向けて燃やすことができるところだった。




 まずはどうにかしてお金を集めなくてはいけない。何せ明後日にはあの男がまた来るのだ。家も知られてしまっているのだから大学だって知られていておかしくはない。

 今銀行に預け入れているお金でおよそ九百十万リム、支払いを要求された額とほぼ同じだ。つまり身に覚えのない借金の返済自体は可能なわけだが、これにはまだ若干残っている大学の学費と、当面の生活費が全て含まれている。つまり有金全てを借金の返済に使おうものならライラの今後の生活がどうなるか分かったものではないのだ。

 支払いが決まっているのは大学の四年目後期の学費、家賃、それから水道ガス電気代も必要だし、通信費もなくちゃバイトだってまともに出来やしない。九百万リムもなくなったらせっかく頑張ってきた大学の学費すら払えなくなる可能性が高くなってしまうというわけだ。

 ライラは具体的な数字を思い浮かべてお腹が痛くなった。

 なんにしてもこれからライラがしなくてはいけないことは最低限の生活費算出と、少しでもお金の足しになるように何か売れるものを探すことだった。


「だ、めだ……売れそうなものが全然ない」


 家中をひっくり返して何か売れるものがないかを探したが、雑貨や衣類、貴金属で大したものは見つからなかった。ライラそこまで物欲がなかったせいで、衣服はそこそこ最小限だったし、アクセサリーもプチプラのものばかりで売ってお金にできそうなものは持っていなかった。そもそも売れそうなもの、というのは希少価値の高いものだとか、旬のものがほとんどなのだ。たとえばコートなんかは冬よりも秋の頃の方が高く売れる。そして夏では買い取ってすらもらえないこともある。

 家中から売れそうなものを探すだけでもう夜になってしまった。時間がないと昼食をとっていなかったが、さすがに何か口にした方がいいかもしれない。ライラは何を食べようか考えるのすら億劫でキッチンに置いてあった食パンを袋から一枚取り出して焼きもせず、何もつけないままモソモソと口に運んだ。

 ライラは床に座り込んでパンを持っているのと反対の手を床について辺りを見回した。あと売れるとすれば冷蔵庫や電子レンジ、照明などの家電と、父の遺品いくつかくらいのものだった。床についていた手でその辺に放り出していたスマートフォンを拾い上げて家電はどんなものが売れるのか調べて落胆した。家電類はすぐに新しい型のものが販売されてしまうから数年前や十数年前に揃えられたライラの家にある家電は値段がつかないか、ついても高めのランチ一回分と言ったところだろう。

 そもそも今はこれから夏本番というころだから冷蔵庫を売るわけにもいかないし、電気代の方が安いのだから電子レンジや電気ケトルを手放してしまったらむしろマイナスになってしまう。ライラは食パンの最後の一口を放り込んでゆっくりと、しかし雑に咀嚼しながら膝を抱えて丸くなった。



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