魔法もどき(マジックイミテーション)—鑑定士カラット・アルデバランの秘密—

曙ノそら

第一部 鑑定士カラット・アルデバランの秘密

第1話 突然の災厄



 ライラ・リゲルにとってその日は数日にわたって続く不幸の始まりの日でしかなかった。

 しかしながら、この世界の人々が一生かかっても得られないかもしれないような出会いを得た、とても運のいい、幸に溢れた人生の始まりであることに比べれば、ほんの爪の先ほどしかないちっぽけな不幸な日々であった。






「悪いねえ、お嬢チャン。オカネってさア、大事なんだよねえ」


 これっぽっちも悪びれていない顔で、むしろニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて、実に不愉快な顔がライラの目の前に迫っていた。近くに迫ったその男からはその表情と口ぶりに似合わず随分と上品で少し甘い、香水のようなタバコの匂いがしている。少しだけ嗅いだ心当たりのある、名前と見た目だけ知っているシーシャのほとんど想像上の匂いがまさにこれだった。満員電車でたまに隣のおじさんから臭うようなタバコの匂いではない。

 ライラはタバコを吸わないが、この目の前の気味の悪い男がそこそこ、いやだいぶいい暮らしをしていい嗜好品を使っているのは、匂いからも雰囲気からも、雰囲気に似合わない刺繍が至る所に施されたオーダーメイドであろうスリピースのスーツという服装からも分かった。


「キミのママがさア。ボクたちからオカネ借りたのに返さないでいなくなっちゃったんだよ。だからあ、娘であるキミが、しっかりキッチリ耳を揃えて返さなくちゃあいけないわけだ」


 「恨むならママを恨むんだね」と言いながらキャハハと目の前の男は笑っているけれど、顔も覚えていないような蒸発した母親はライラにとってほとんど他人のようなものだった。大変できた父がいてくれたから、産みの母に対してこれまで特に会いたいとか寂しいとかはなかったし、これといって恨んできたわけでもなかったのだ。今まさに変わってしまいそうだけれど。


「分かるよねえ。借りたものは返す、ジョーシキだよねえ! オカネ、大事だもんねえ。」


 お金が大切なんてそれくらい知っている、わざわざ繰り返すんじゃないとライラは思った。伊達に父一人子一人で苦労しながらも生活してきたわけじゃない。お金のゆとりはそこまであったわけではなかったが、父が一生懸命働いてくれていたし、自分も節約を心がけて生活してきた。ライラの父は二年前に病気で他界してしまったが、残してくれた遺産のおかげで、何とか大学の卒業の目処だってたっているのだ。

 そうだ、これは言い返して突き返してやらなくては。ライラは父譲りではないグリーンベリルを嵌め込んだような瞳に力を入れて目の前の男を見返した。


「いや、でも、母親の顔も覚えてませんし……。そもそも十何年も前に家を出て行ったきりですよ。それに、保証人にされたっていう父だって二年前に病気で他界、しました……!」


 それでも強い心持ちとは反対に、相対している強面の男に怯んで何とか声が震えないように絞り出すのが精一杯だった。その声は、いつもハキハキと話す彼女にしては小さく、掠れていた。


「でもねえ、キミのママが何かあった時はキミのパパがお金を払ってくれるってこの紙に書いちゃってるんだよネ。で、だ。キミのパパが死んじゃったならそれは子供であるキミが払わなくっちゃ。ホラ、親に産んでもらって育ててもらった恩を返すときだよ。そういうわけだからとりあえず三日後に半分弱、一週間後までに満額ね」


 相変わらず君の悪い笑みを浮かべて「ホラここだよ、ここ。こーこ、見える?」なんていいながら話し方からは想像もつかない綺麗な所作で胸ポケットから封筒を取り出してライラの眼前に突き出した。

 うるさい、そんなこっここっこニワトリみたいに鳴かないで欲しい。というか顔から四センチのところに持ってこられたら見えるわけがないだろう! 

 文字が読めないほど近づけられた紙はヒラヒラと振られるせいでライラの栗色の前髪にパシパシと当たった。

 その感触に目を細め、眉根をよせながら、こう言っちゃ何だが産んでくれと頼んだわけじゃないとライラは思った。生まれてきたことを後悔したことも死にたいと思ったこともないが、それとこれとは話が別だった。

 父は母がいなくなってしまったことをライラに対して申し訳なく思っている節があったことをライラは知っていた。それに気がついたのは中学生の頃になってからだったが、おそらく、いなくなってからずっとそう思ってきたのだろう。

 確かに母親がいない、しかもその理由が蒸発ということもあってどこからか知った周りのガキ大将のような人たちから絡まれたこともあったが、毅然とした態度で、決して先に手を出すことはなく返り討ちにしてやっていた。ライラの持つ快活さは人を惹きつける魅力のあるもので、そんなことは気にしないでいてくれる友達遊んでいたら、いつの間にかそんな奴らはいなくなっていた。

 そしてライラは変に度胸があるタイプだった。借り物競走で「大人の靴」なんて変な、微妙に頼みにくいお題が出ても一も二もなくこんなお題を用意したのだから当然貸してくれるだろうと教員席に突っ込んでいったこともある。だからこの男が帰ったら、警察に相談しようと思っていたライラに、去り際、男は最悪の置き土産を残してくれた。


「ちなみにねえ、それ、ちゃんと法的にもしっかりした借用書なワケ。んで金借りたキミのママが返せなくて保証人のキミのパパに借金移って、キミのパパは死んじゃったわけだから、遺産相続と一緒にキミに借金も移ってんの」


 弁護士費用払えるんなら相談でもすれば? と言いながら男がまたキャハハと笑う。

 なんだそれは、どう見たってどう考えたって明らかに非合法だろう。ライラはどうしようもなく、冷えきって感覚の無くなった指先で押し付けられた借用書のコピーを握りしめてシワを作った。しかし、父の遺産は受け継いでしまったのは事実だ。男の言い分ではつまり父の借金はライラに受け継がれてしまったということになる。

 ライラが混乱して何も言えなくなっている間に、男は借用書のコピーを握りしめて顔を青くするライラを見てニタニタと笑うと、「じゃあ三日後にね」と言ってさっさと帰って行ってしまった。

 これでライラは三日後に四百万リム、一週間後までにさらに利子含めて五百万リムの、支払い期限つき九百万リムの借金を背負うことになってしまった。

 もうすぐ夏だというのに今日の吹き荒ぶ風は体の熱を奪っていくような冷たさがあった。




「いや、でも……。どこかしらに相談は、できるでしょ、流石に、流石にさ……」


 しばらくしてなんとか足を動かして玄関のドアを閉めると、ライラはスマートフォンを取り出すと慌ててどこに電話をかけたらいいのか調べた。あんなことを言ったって警察とか、市役所には相談口ぐらいあるだろうと思ったのだ。何とか検索で出てきた警察の相談窓口につながる電話番号をを震える手でタップした。

 しかし流れてきたのは無情にも本日の対応は締め切られたので、明日以降の平日にかけ直すように促す自動音声だった。仕方なくそれから色々調べてみたものの、スマートフォンのもう充電が二十パーセントしかありませんという通知にハッとして、気がつけばいつもならもうとっくに入浴を終えている時間になってしまっていた。結局分かったことといえばお金のトラブルに警察が介入するのはなかなか難しいらしいことだけだった。

 それでもこれはきっとおそらく、非常識な借金のはずだから、何かしらの相談を請け負ってくれるだろうと希望的観測で明日の朝早々に警察署に駆け込むことにした。もし警察で対応してくれなくとも、どこにいったらいいのかくらいは教えてくれるだろうとも思っていた。

 ライラは何も食べる気にならず、なんとか歯を磨いて、シャワーをザッと浴びてノロノロとまるでその薄い布で守ってもらおうとしているかのようにタオルケットの中に潜り込んだ。



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