第3話 忘れられた短剣



 しばらく額を膝に当てて足を抱えて丸く座り込んでいたが、ふと顔を上げたライラの目に止まったのはライラが生まれる前からあるというタンスだった。

 ライラは父が亡くなってから、父と過ごした家を離れるのか悩んだ末に留まることに決めた。二人暮らし以上が想定されている家のため、それだけの家賃がかかってしまうのだが、父と過ごした思い出の残るこの家を離れるにはまだ決心がつかなかった。しかしこのままであればすぐにでもこの家を出てもっと家賃の安いところに引っ越さなくてはいけないかもしれない。

 父が寝室にしていた部屋の隅に置かれた、直立したライラの目線ほどの高さのタンスは父が使っていたもので、下二段には父の服がまだ入ったままだった。父は入院が決まった時に自分でさっさと荷物の整理をしてしまったので、服がなくなって一部引き出しの底が見えてしまっているところがある。

 さらにその上の小さい引き出しには家電の取扱説明書だとかちょっと大事な書類だとかを入れている。父が亡くなってから大事な書類をあらためる必要があったりしてそこは開けたし、ライラは父の服が入っている場所もときどき開けて懐かしむように服を取り出し、その度に服に染み付いた父の匂いに涙を溢れさせていた。

 しかし、小さい引き出しの上、他の段よりも高さが低い細長い引き出しはライラの父が亡くなって以降一度開けたのみだった。

 ライラは何かに導かれるようにゆっくりと伸びのある動きで立ち上がって、前傾姿勢のまま棚の上から三段目、横に三つ小さな引き出しのついているところの右側をかすかに震える手で開けた。

 そこに入っていたのは、紫色の布に包まれた細長いもの。こんなものがあることすらすっかり忘れてしまっていた父の遺品の一つである短剣だった。




 それはライラがまだ公園を走り回って転んだ傷があちらこちらにあった頃、小学校にもう間もなく入るという頃だった。顔も覚えていないので当然だが、この頃にはもうとっくに母はいなかった。

 しかしライラはちょっと変わっていたというか、楽観的だったので、友達にはいる母親とやらが自分にはいないことには気がついていたのだが「まあそんなこともあるか」といった感想を抱いたくらいだった。ライラが反抗期もなく父を心の底から尊敬していると思春期特有の恥ずかしさもなく言えるのは、母がいなくても全く気にならないほど父が自分のことを愛していくれていることが、よくよく身に染みて分かっていたからでもあった。

 ライラが幼稚園生の時、父は職場に相談して、なんとか仕事の折り合いをつけてくれていたおかげで一人ぼっちで家にいるということはほとんどなかった。しかしずっとそうしているわけにもいかず、ライラが小学生になるのに合わせて父は仕事を徐々に以前のように戻していくことにした。

 だからライラは小学校からいわゆる鍵っ子というやつで、家に一人でいる時間がどうしても増えてしまうということもあって、父にここは危ないから触らないで欲しいとお願いされた場所がいくつかあった。そのうちの一つがこのタンスの引き出しだった。

 子供の行動力とは不思議なもので、引っ込み思案な子だと思っていればとんでもない行動力を見せる時もあるし、普段色々なことに興味がひかれるため一見危なっかしい子かと思えばとんでもない危険なんかはきちんと避けられる子もいる。

 小学一年生の子ともなれば大人の想像を遥かに超えて一人でずんずんと進んでいけてしまうものだ。まして女の子というのは大抵幼少期の頃同年代の男の子に比べて成長が早い。しかし「あれをしてはダメ」「これをしてはダメ」と言ったところで興味がひかれてしまうのは大人とて対して変わらない。

 そんなことを知っていたライラの父はその時、ライラに「してはいけない」というのではなく、「どうかしないでほしい」とお願い事をした。ライラはもうこの頃には母がもう帰ってはこないこと、それはライラのせいでもましてや父のせいなどでは絶対にないことを理解していた。その上、母がいないことで父が気負っている面があることもなんとなく感じ取っていた。そんな時の大好きな父からのお願いにライラは一も二もなく頷いたのだ。

 すぐに頷いたライラを見た父は、どうしてこの引き出しを開けて欲しくないのかの説明をしてくれた。ライラはその引き出しの中には刃物が入っていて一人で触るには危ないこと、少しでもライラに怪我をして欲しくないから触らないでほしいこと、自分にとってライラ以上に大切なものなどこの世に存在していないがこの中にしまっているものも大切なものであるということを聞いて、きちんと納得し、家で一人で父の帰りを待つようになってもこの引き出しを開けることはなかった。結局、同様に危ないからキッチンの一部に触らないで欲しいと言われた理由の包丁も火も一人で使うことを認めてもらえるようになってからもその引き出しを開けることはなく、父が亡くなって遺品整理のために一度開けて中を覗いたきりであった。

 その時も引き出しからそっと取り出してどことなく白檀のような香りのする布をそっと開いてみたが、想像よりも遥かに豪奢でビカビカとしていたものだから驚いて、なんだか怖くなってすぐに同じよう布に包みなおして引き出しに戻してしまった。

 今思えば父が亡くなって混乱して、心も自分が思っているよりずっと疲弊していたのにも関わらず、何か大ごとのような予感がして受け入れたくなかったのだろう。それきり、どうしてか今日になるまでライラはこの短剣のことをすっかり忘れていた。



 なぜ父がこの短剣を持っていて、大切にしていたのかをライラは知らない。幼少のライラにとって危険なことがわかっていたのであれば父の部屋の書斎机にある鍵のかかる引き出しにでもしまっておけばよかったのだ。にも関わらず、父はそれをしなかった。

 そもそもこれをどうやって手に入れたのかも知らない。しかし、これが多少歴史のあるものであることくらいは素人目にも何となく分かった。

 しかもこの短剣は装飾品としての意味合いが強いものだったのか、柄の部分が八角柱のおそらく宝石である蜂蜜色の石で、中に虫が入っている。鍔にも鞘にも宝石のようなものが施されていて敷き詰められたその隙間には金色が見えている。さらに鞘には細かい模様が刻まれていてなんだかおどろおどろしさすらある。

 そっと、カチンと小さな音を立てて抜き身にするとその刃はライラの沈んだ顔を写しだした。ライラの父が亡くなって約二年、その間一切の手入れをしていなかったはずなのにどうしてか綺麗なままで、サビのようなものも、曇りすら一切見られない。


 ライラの父は大学の教員だった。病気が発覚した次の年にはやめてしまったのでライラはオープンキャンパスでもその姿を見たことはない。

 当時専任教員でゼミや研究室は持っていなかったらしいが、複数の授業を受け持っていたそうだ。その授業も定員があるものは毎期抽選になる上に倍率もそこそこ高い人気の講義だったらしい。ライラはそれを父のお見舞いに来てくれた人たちから聞いてとても誇らしく思っていた。

 ライラの父は美術史だとか魔法陣における芸術学なんかの研究をしていて、趣味で魔法具についても調べていたそうなのでその関係で手にしたものだろうかという予想は立てていたが、父が亡くなってこのタンスを開けるまでこの短剣の存在を忘れていたせいでついぞ父に真相を聞く機会というものは得られなかったし、父がライラに残した手紙にもこれついては特に触れられていなかった。他のことはこれでもか事細かく書き記していて最初の五枚は手紙というよりも説明書のようであったのに。


 今家にあるものでお金になりそうなものはこれしかなかった。

 これを、売るのか。父がこの短剣を実際に手にしている場面を見たことはなかったけれど、それはおそらくライラに見られないようにしていたのだろう。だってそうでもなきゃこの短剣はあまりにも綺麗すぎる。

 もう一度カチンという音を立ててライラは剣を鞘に収めて、紫の布ごしに、指紋や手のひらの油脂を短剣につけてしまわないように気をつけながら裏面を見たりした。


「……そういえば、骨董品とか美術品の買取をしているところがオダマキ通りの裏にあったっけ」


 あの借金取りが来るのはもう明後日、考えている時間はない。この短剣にどれほどの価値があるのか分からないが、もしお金になるのなら。ひとまず明後日払わなければいけないお金は貯金の中から出せば足りるが、残りの五百万リムを払ってしまってはもうほとんど貯金は残らない。もしこの短剣が売れて、借金の返済には至らずとも生活費の足しになれば。そうしたらあとはいずれ出る警察の調査をもとに謂れのない借金を、名誉のためにも取り戻す算段を立てればいい。


「分からないけど、試してみよう」


 もう、なりふりなど構っていられなかった。



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