「耳をふさげ」①

 ラジオから流れる怪音波を避けながら移動するのに大事な心得は国道を避けることだ。

 国道は必ず人が住んでいた街に繋がる。街はラジオがある危険地帯だ。何よりも、中の死体ごと放置されたままの車が散乱しているのが厄介だ。カーラジが密集しているせいで、まるで地雷原のような地獄道になっている。

 だから、移動の際は車と民家に気を付けること。

 ああ、当然のことだが。イヤーカフか耳栓をして音を遮断することは前提としている。


 この二つが怪音波から生き残るために必要な心得なのだ。


                ――――


 こんな世界になったのは、夏に差し掛かったある日。日中が暑くなり始めた頃。

 突如、あらゆるラジオ放送から怪音波が流れた。その音を聞いた人間が『何かに襲われているように騒ぎ出して脳が溶けて死ぬ』事件が全国で同時に発生した。

 『何に』襲われているのか、怪音波はどんな音がするのか。それらは謎である。

 何故なら、犠牲者の中に生存している人間は誰も居ないのだ。


 【音を聞けば死ぬ】


 それが世界のルールになった。

 必然、射撃で使うような防音のイヤーカフや耳栓が生存の必需品となった。音を遮断する物を巡って争いも起きた。政府は耳栓を独占する猶予もなく、沢山の通信機器が仇となって壊滅。


 生き残りたちの間ではジェスチャーが基本の会話方法となり、聴覚を奪われたせいで他の感覚を鋭くしないと咄嗟のトラブルに気付けなくなった。


 心得を守ると電波の届かない森や山が移動の中心になる。音がわからない状態での山がどれほど危険か。危険な動物や急な段差の存在に気を配っていても、音を聞けないだけで危険度は格段に跳ね上がる。

 それでも、生き残りは自然の中を選んで進む。今の人間に残された最後の『楽園』を目指して。


『楽園』――人の手が届かない完全なる自然。電波の届かない土地。それこそが最終目的地、富士の樹海。

 かつては自殺の名所とされた樹海が、今や生き残りが自由に生きられる希望の場所だった。


              ――――


 イヤーカフが蒸れて暑い。昨日、確認したら汗疹あせもで耳周りがひどいことになっていた。きっと悪化している。

 足をゆっくり踏み出して、しっかりと落ち葉の下に地面があると確かめてから身体を前に持ってくる。そして、周囲を目視で確認する。木が近くにあれば、それを掴んで身体を支える。

 たった一歩にこれだけの工程。だが、この工程を怠ればそれだけで怪我をする可能性が高まる。牛歩の以下速度でもこれは必要なことだ。


 歩数を数えるのも大事だ。口で数えてもイヤーカフのおかげで聞こえないので、口を動かしながら頭で数える。

 歩数が三桁を越えたら一度休憩して、水分補給をしてから自分の体調を検査する。呼吸の音が聞こえないので、自分が疲れていたるか息が上がっているかどうかもわからない。だから、歩数を数える方法を使っている。


 全部、イヤーカフをくれた大学生グループの人達が教えてくれた。

 彼らはもう死んでいるだろう。

 イヤーカフと共に、「生き残って樹海に辿り着いて」と託された。だから、自分は彼らの無念を引き継いでいる。


 そうだ。自分は生き残らなければ。辿り着かなければ。

 願いを受け取ったのだから。


 ――百歩。


 休憩だ。近くに大きな木がある。あそこの根元に座ろう。座る前に、足で落ち葉を踏んだり蹴ったりする。石だったり虫だったり、危険な物がないか探るためだ。

 よし、ない。座ろう。

 腰にぶら下げた水筒から水を飲む。前の拠点で作っていた浄水には余裕がある。脈を計ろう。

 

 ――正常。


 見上げれば、木の葉の間に覗く空は日が傾いている。今日の進行はここまでだ。今日の拠点を探さなくては。拠点は水場の近くが望ましい。岩場や大きな木など、身を隠せる物が近くにあれば尚よし。これも教わったことだ。

 夜が来る前に拠点に出来る場所を見つけよう。


 …………


 ………


 キャンプ用の保温シートに身を包み、非常食の固いパンを水でふやかして食べる。味らしい味がしない。正直、不味いとかの感想もない。ただ、表がふやけていて中が固い固形物を食べているという感想だけ。

 ああ、耳がかゆい。だが、かけない。かゆいぃ。


 食事を終えて、枝を使ってシートを小さなテントみたいに固定する。少し気が楽になった。腕時計を確認しよう。


 そろそろ、深夜十二時だ。

 ……よし。


 時計の針が十二時を回ったことを確認してからイヤーカフを取る。一日中蒸されていた耳が解放されて、外の空気に触れただけ涼しく感じる。

 草木が蠢うごめく音、虫の音、動物の音。色んな音を一日越しに聞いた。夜は結構うるさい。


「ふぅ。今日も疲れた……」


 どういう訳か、怪音波は深夜十二時から一時間の間は流れない。だから、この一時間だけは音を聞くことができる。


「……はぁ」


 少しの間、じっとして音を楽しむ。こんな贅沢な気分になれるのだ、今を楽しまなければ。次は一日後だ。

 十分に音を堪能した後、バックパックを漁って銀色の物体を取り出す。

 それはアルミホイルで包んだ携帯ラジオ・・・・・。


「……。毎度、これを開ける時だけは緊張する」


 これを解いた瞬間にセオリーを無視して怪音波が流れ出したら?


 意を決して、アルミホイルを解く。中から使い込まれた携帯ラジオが出てくる。それをチューニングして、いつものチャンネルに繋げる。


『――ちら――――こちら、ジガ。聞こえていますか?』


 ラジオから届いたのは女の声。この時間帯を狙って、生存者に向けた情報提供や情報交換を目的とした放送を毎日している。


『私は川村・ジガ。どうか、生き残りたちに通じていることを願います』


 ジガの声は、こんな世界になってから自分の心の支えになっている。こうして一人になってからは特に。


『私は静岡のラジオ局の電波を利用して放送しています。皆さんが樹海に到着するまで、この放送は続けます。どうか、富士の樹海を目指してください。助け合って、生き残ってください。では、各地の情報から安全な進行ルートの予測を放送します』


「……うん、絶対に辿り着いてやる」


 ジガはいくつなんだろうか? 自分と同じで高校生だろうか? どんな顔をしているんだろう。いい声だ、きっとどんな顔でも自分は会った瞬間に感謝を述べるだろう。


『もし今、通信が可能な方は〇〇〇までに電話をかけてください。私たちは皆さんの持つ情報を他の生存者に伝えられます。今日の情報を伝えます。国道〇〇で音楽が流れ続けている車を発見、日中は怪音波発生の可能性大。〇〇市でカフ強盗団が横行、ルートから外してください』


 ジガが沢山の有益な情報を発信している。無機質な内容に耳を傾けつつ、必死に読み上げる彼女の声を聞く。


「……ふあ。と、ダメだダメだ。寝るなよ、寝るな」


 メモを取り出して、必要な情報はメモを取る。少しでも眠気を飛ばすために。


『――深夜一時まで、残り一〇分です。放送はここで終わりとなります。最後に、どうか生き残って』


 ジガの放送が終わった。名残惜しさもあるが、自分もラジオの電源を切ってからまたアルミホイルを巻いていく。意味があるかは不明だが、少しでも安心するためにやっている。


 イヤーカフをしてから、地図を開いて明日のルートを確かめる。さて、どう行こうか。


 音が聞こえない生活に慣れたせいで独り思考が癖になっている。もう自分の声のイメージも薄れているが頭の中だけは饒舌で、何となく相手にジガの声をイメージしながら会話を妄想したりして、気付けば眠りにつくのだ。

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