第21話
今朝から降り続いた雨も昼前にはすっかり止んで太陽は雲間から覗いている。ベンチは濡れてはいないが、気持ちしっとりした冷たさがある。念のためにタオルハンカチでふき取り二人座って過ごしていた。
「どうして毎日ここに来るの?」
雨宮さんは地面を見てぽつりとつぶやいた。
「迷惑だった?」
「そ、そんなこと、ないよ…でも…」
「学校より此処の方が楽しいから」
地面に視線をおろしたままである。格好をつけたわけではないが反応がなくて気恥ずかしい。
「俺あまり学校好きじゃないから」
「そ、そうなの?」
「居心地よくないし。誰が何をしたとか、誰々がつきあってる、みたいな噂話ばかりでつまらなくない?」
友達がいないことをしっている前提で話すのはまずいかったかと少し後悔する。クラスメートと話すのは気を遣うと言っても適当に相槌を打って愛想よく笑ってその場をやり過ごせばいいものの彼女はそれが出来ない。彼女との会話は学校での境遇を思うと言葉選びも慎重さを要して心臓がひりひりする。
「渡邊くんでも、そうなんだ」
「あまり会話が得意でもないし」
「そんな風に見えない」
彼女は声に出して笑った。初めて公園に来た時とは違う笑顔だった。
「じゃあどう見える?」
質問が返ってくるとは思わなかったのかまた目を丸くした。そしてじっと目を見てから体を撫でるようにゆっくりと視線を下げていく。俺は身体を固くした。伏せた目には長い睫毛が綺麗に生えそろっている。彼女が目をあげると窪んだ眼の周りは影が出来ている。夕日に照らされた瞳がキラキラと輝いている。
「今まで話したこともなかったし、どう見えるかはわからないけど、今は一緒にいるのが心地よくて、楽しいよ」
はにかんだ顔。照れ隠しに伏せられた目。顔を隠していた乾燥した長い髪の毛は耳にかかってはっきりと輪郭が見える。不健康なかけた頬には影ができている。ずっと不気味だと思っていた。どう見えるか気にする年頃の女子とは思えない不潔さは決して払拭されたわけではない。それでもこの瞬間は誰よりも輝いて見えた。全部夕日のせいだ!
「俺も楽しいよ」と言うべきだと解っていたが、声にならなかった。初めて芽生えた感情が制御出来ない。西日の熱い日差しに照らされた表面の熱さとは違うことだけはわかった。体の中心から血が全身に流れる。心臓を締め付け、足を痺れさせ、気道はせばまり、顔が紅潮する。今この瞬間何かしらの細菌かウイルスが体を侵食している。
もう彼女の声は聞こえない。熱を帯びた体をその場から消し去るように駆けだした。地面に直置きした鞄の砂を掃うこともなくそのまま駆けだした。
息をすることも忘れ、ただ足が前に前に進むままに走った。風がなでる頬は生暖かい。後ろを振り返る余裕はなかった。喉元の苦しさを覚えて初めて足を留める。肩で息をする。全身の脈が波打ち、汗が噴き出す毎に普段の呼吸に戻る。漸く頭がはっきりした頃には後悔の念があふれ出した。
逃げ出した。それは雨宮さんの心を打ち砕くには十分なはずだ。なんとなく訊いた質問に彼女は応えてくれたのにその善意をはねのけてしまった。あっという間に引き汗と共に体の熱は引いていく。
公園からずっと離れた場所。もう家の方がずっと近い。このまま帰って明日謝ろう。今戻っても変な奴だと思われる。
踵はすでに返されていた。息が苦しく体は窮屈だ。こんなに真剣に走ったのは四年生の徒競走以来である。運動会で初めて一等賞をとった時、あまり走るのが得意ではないメンバーに囲まれて、今なら勝てると全力で走った。その日ですら計算だった。しかし今はどうだろうか。恥も外聞もかき捨ててただ彼女のもとに戻りたい。もう一度顔を見たい。青臭いと鼻で笑う。頭の片隅で世界を斜めから眺める思春期の俺を振り切ってただ走った。
日差しは真横から差し込む。あと数分もしないうちに沈みそうな太陽に「沈むな、まだ沈むな」と念じながら走った。道路の脇に設置された電灯が夜を迎える前に明かりをつける。もうすでにいないかもしれない、いなかったらどうしよう。彼女の家を知らない。そんな心配もよそに雨宮さんは別れた時と同じ場所でじっと座っていた。
「雨宮さん!」
最後の息を振り絞るように叫ぶと同時に咳き込んでしまう。息をするたびに酸素が足りないと肺が悲鳴をあげる。咳をするたびに乾いた喉の内側を乱暴に掻き毟られるように痛い。こんな痛み、きっと彼女が感じてきたものに比べたら「痛い」というのもおこがましいのでかもしれない。
必死の叫び声に反応したのか、はたまた異常な咳の音に驚いて振り向いたのかは定かではないが、膝に手を突き今にも蹲りそうな俺に彼女は駆け寄った。
「大丈夫?」
「よかった、まだ居てくれて」
「どうして?」
小首を傾げてきょとんとしている。赤くなった目には涙、頬には涙の痕がなど、ひとつも悲哀の情が見当たらない。体中の血管に酸素を行き渡されるように大きく息を吸って吐く。体の力は抜け仰向けに倒れ込んだ。持て余した感情が渇いた笑いになって噴き出す。
「ごめん。ごめんな」
嗚咽と共に音になる言葉は謝罪だけ。もっと言いたかった。逃げ出してごめん。君の嘘偽りのない純度の高い宝石のような言葉が嬉しくて、同時に傷つきたくないからといって事なかれ主義を通してきた鈍くなった感情や心が浅ましくて恥ずかしい。そんな自分を笑った。
笑いは次第に雨宮さんから流れるはず涙が目の横に痕跡を残しながら止め処なく地面に零れる。彼女が泣かなかったのは苛まれる日々が普通で当たり前で慣れ切ってしまったからだ。本当にそうだったかはわからない。ただ直感的にそう思った。
雨宮さんはただ俺に何か言うでもなく、するでもなく傍にしゃがんで泣き止むのをじっと待っていた。
公園を離れてとぼとぼとゆっくり歩く。出来る限り人気のない場所を選んで、しかし電灯が少なすぎない場所を。団地の公園は丁度帰宅する人の目があり、寝ころんでいると奇異な目で見られそうで離れた。今でもすれ違う人がいないわけではないが、ずっとマシである。
目が痛い。鏡をみたわけではないが恐らく白いネズミの目のように赤いのだろう。顔もむくれてて誰かに見られるのはとても恥ずかしく赤い顔が今までみたことのないような赤さなのだろう。
「ごめん。格好悪いところみせて」
「学校での私ほどじゃないよ」
慰めの言葉にしては自虐が過ぎるが、俺の恥辱に精一杯合わせてくれた優しさがじんと胸に滲んだ。
「あ」と小さな声をあげた。雨宮さんは細い指で鼻の頭をなぞる。俺の頭のてっぺんにも雨が一粒弾けた。朝の雨で濡れて乾ききっていない傘を広げる。濡れた箇所に砂粒があちこちついている。
「そろそろ帰ろうか。送るよ」
「大丈夫。近くだから」
雨宮さんはビニール傘の柄ををくるりと回した。隠したつもりだったんだろうが、後ろ側に回った穴が見えてしまった。
「じゃあ、また明日ね」
軽く頭をさげて踵を返す。
「ねえ何色が好き?」
突如投げられた質問に振り返り、その意図がわからないとでもいうように小首を傾げた。俺はもう一度同じ質問をなげかける。彼女は少し視線を外しじっくり悩み考えていた。
「赤、かな」
「赤、だね」
頭の中でも「雨宮さん赤」と反芻し記憶させた。
「今日のお詫びとお礼させてよ」
「お礼なんてそんな。私なにもしてない」
「俺がしたいだけだから。ちょっと自信はないけど」
「自信?」
「素人の手作りで申し訳ないけど、頑張ってみる」
何を言っているのか全くと言って伝わっていないようで、もう一度首を傾げた。驚かせたい気持ちが先走ってあやふやに誤魔化しているので仕方がないが。
「良かったら楽しみにしてて?」
雨宮さんは戸惑いながらもこくりと頷き手を振って踵を返した。曲がり角を曲がるまでずっと背中を見ていた。
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