第20話

 中学時代はかさついた毎日だった。

 十一年前の春、あの頃は少し大人になったようで浮足立っていた。どんな青春が待っているんだろう。勉強も部活動も、そして恋愛も、想像以上に輝かしい日々がやってくると疑いもしなかった。希望は一か月、二か月と経つにつれ薄れていく。夏休みにくるまでには打ち砕かれていた。


 小学校を卒業したばかりの生徒たちはまだ顔つきも子供っぽさが残っていた。

そんな中人間の醜さを目の当たりにした。ただ同じクラスになっただけの集まり。それでも子供にとって学校は社会の縮図である。一人目立つ存在がいると出た杭を打つ。打つと言うよりその杭をなかったことにしたと言った方が正しい。俺を含めクラスメートはそれを迷わず実践したのである。

 掌にかかるほど長い袖、男子の足首はすっぽり隠れて、女子はひざ下十センチ。成長期にあわせて買われた制服は揃って皆ぶかぶかで、制服に着せられたともいえる。

そのなかでも雨宮露子は特にスレンダーな少女だった。スレンダーというよりもガリガリと言っても過言ではない。少し頬がかけたやせ細った顔、大きな目をぎょろりとさせて、長い髪の毛はぱさついていた。健康的とは到底言えない。重苦しい黒髪は目を隠すようにだらりと前に流してた。それが一層不気味さを増していた。


 初めは少し敬遠されるくらいだった。本人も人目を避けていたように思う。だから誰も気にしなかった。俺自身も自分の平和を守ることで精一杯で雨宮さんを気にする余裕はない。いや、それは言い訳で面倒事に巻き込まれたくなかっただけだった。

彼女がどのように困っていたか、一年目はよくわかっていなかった。嫌がらせはあったのだろう。陰で「ぎょろめ」だの「妖怪」だの悪口を言われていたことを知っていた。とはいえ特に目立ったいじめはなかったので、教師も見逃していたし俺も同じであった。いじめの瞬間は確かにみたことがなかった。それでもなかったと胸を張っては言えなかった。

 気付けば暗かった雨宮さんの表情は、希望も絶望も通り越した暗闇に身を置いていたように目から光は消えていた。それくらい目立たず、そして誰よりも目立つ存在になっていた。


 二年の春、また同じクラスになる。正直辟易していた。彼女のみすぼらしい姿は変らず、周囲の人は奇異の視線が注がれるか、出来る限り視野に入らないように距離を置く。俺は後者を選んだ。とにかく自分の生活範囲内に関わって欲しくないとそればかり願っていた。

 とはいえ排他的なクラスで仲のいい友達を作る気にはなれなかった。恐らく罪悪感のような気持ちを感じていたのだろう。雨宮さんに関わらないことで平穏を守る代わりに俺は友達も作らない。それが唯一自分に出来る誰も得をしない身勝手なルールを科した。

 クラスで浮かない程度に距離感を保ちながら、クラスメートと適度に仲良く、しかし仲良くなりすぎないように気を付けた。あと二年の中学生活を無事に過ごす、それだけが目標だった。

 彼女誰よりも遅くクラスに駆け込んで、授業が終わると同時に誰よりも早く帰っていった。学校は勉強をするところだと厳しくストイックな教師は俺たちにそう講釈を垂れるが、雨宮さんは部活も遊びもせずそれを実行しているようだった。


 とある夕暮れの日だった。父親の遣いでお客さんの家に和傘を届けに行った帰りに、団地の公園で雨宮さんをみかけた。遠目で見ても他の同級生よりずっと小さい体で彼女だとわかった。いつものように見て見ぬ振りが出来なかったのは眼前に広がる光景が信じられなかったからである。ありきたりな光景だが、それがあの『雨宮露子』だとすると彼女を知る誰もがあまりのギャップに足を止めただろう。同一人物とは思えないほど、彼女を纏う空気は花が舞うように明るく穏やかであった。ブランコにのった小さな女の子の背中を押してあげていた。幼女はきゃあきゃあと全身ではしゃぎ、つられるように雨宮さんの聞いたこともない朗らかな笑い声が耳をうった。


「雨宮、さん?」


 本当に彼女本人かどうか確認したくて堪らず声をかけた。普段あれだけ避けているにも関わらず自分でもむしが良いと思う。それでも好奇は抑えられなかった。

 急に声をかけられた雨宮さんは俺を見て、大きい目が見開かれる。恐怖と怯えた学校での彼女に戻ってしまう。声をかけた俺も次の言葉が出なかった。夕方の柔らかな日差しがやけに熱く感じた。


「露子ちゃん、だいじょうぶ?」


 ブランコではしゃいでた幼女は雨宮さんの後ろに隠れて手をぎゅっと握っている。


「あ、ごめんね。なんでもないのよ」


 目線にあわせるようにしゃがみ込み、日差しをあびて金色に染まった髪の毛を優しく撫でてあげていた。


「その子は?」

「き、近所の、子供…」


 か細い声で俺を見ずに呟く。それを聴いて「そうなんだ」としか答えられなかった。ただそこに居たから尋ねただけにすぎない。他意はなかった。


「お願い、誰にも言わないで!」


 雨宮さんは俺を見据えて必死に懇願した。意味がわからなかった。驚きはしたが特に他言するようなことでもない。


「言わないよ」

「ぜ、絶対よ?」


 初めて視線が一秒以上交わされた疑いの眼はどこか輝いて見えた。夕暮れの日差しのせいだと思った。


 雨宮さんとベンチに並んで座った。こんなに近くにいるのは初めてである。見た目の不潔さより臭いはそれほどでもなかった。汗のにおいはするものの、それくらいだったら余程俺たち男の方がずっと臭い。

 すっかり帰るタイミングも逃してしまい、何を話すでもなくただ二人で座って時間を過ごした。話題を探しても共通の話題もない。

無聊をかこつ俺とは反対に幼女は楽しそうにブランコを懸命に漕いでいる。ブランコを漕ぐだけだと言うのに何がそんなに楽しいのか俺にはわからない。


「あの子は、近所の子なの」

「そうなんだ」


 はっとした時には遅かった。雨宮さんがせっかく気を利かせて話しかけてくれたのにつまらない返答をしてしまう。小さい彼女を更に小さくして地面に目を落とした。


「えっと、その、そうじゃなくて…」


 フォローの言葉も思いつかずまごまごした。何か気の利いた言葉をかけなきゃと必死に言葉を探す。配慮が足りない俺のせいで彼女は変らず顔をあげず肩をぎゅっとあげていた。心なしか震えている。


「えっと…いつもここで、あの子と遊んであげているの?」


 話しかけるのは勇気がいることだ。俺が必死に掘り起こそうとしていたのと同じように彼女もそうだったに違いない。それに応えるように会話をつないでいく。


「うん」

「他の子供たちとも遊んでるの?」

「あの子だけ」

「そうなんだ、仲がいいんだね」

「うん、多分…」


 尋問のような単調で温度のない言葉を交わす。


「どうして内緒にしたいの?」

「へ、変だから…」

「変?」

「ど、同級生と遊ばないのに、ち、小さな子供と遊ぶのって変でしょう?」


 クラスメートなら放課後部活したり、教師に隠れて遊びに行ったりするのが同級生の常識だ。同級生の常識からすると変かもしれない。


「変かどうかはわからないけど、ちょっと安心した。外にはそういう友達?がいるってわかっただけでも。学校では、その…」


 友達がいなさそうだからと頭でははっきりと言葉が浮かぶ。口にしないように唇をぎゅっと噛んだ。


「本当に言わないでね」

「わかった」


 童謡と共に録音したアナウンスが流れる。子供たちに家に帰るように促している。彼女は立ち上がり散々ブランコを漕いだ幼女に駆け寄った。着いていくように俺もゆっくりと近づいた。


「もう帰ろう。おうちの鍵は?」

「もってる」


 大柄のキーホルダーがついた鍵をワンピースのポケットから取り出して彼女に見せつけた。


「この子を送ってくるから」


 それは俺に向けられた言葉だと一瞬理解が出来なかった。彼女は幼女の手を引いて、ゆっくりと団地の階段を上っていく。

 俺は座ったままなんとなく団地を見上げる。暫くすると三階の窓が開いて、肩から上がひょこっと現れる。こちらにむかって一生懸命小さな手を振っているのが見える。つま先立ちをしているのか、指でつっついた起き上がり小法師のように頭がふらふらと何度も傾いては戻る。危なっかしくて見ているだけでハラハラする。俺は手を振る幼女に、ぎこちなく振り返した。

雨宮さんが戻ってくる。手を振ってる俺を見て、視線を三階に移した。


「バイバイ!窓してめてね!」


 初めて聞く彼女の大きな声。幼女に向かう高くて瑞々しい声は団地に響いた。


「ばいばーい!」


 幼女もありったけの大きな声を出した。窓を閉まるのを確認すると、俺は漸くほっと胸をなでおろす。雨宮さんもふうと息を吐いた。


「大きな声初めて聞いた。」


 何も悪いことをしたわけではないのに彼女は罰が悪そうにまたうつむいた。俺も悪い気がしたので会話をかえようと続けて言った。


「放課後いつも此処にいるの?」

「あ、あの子がいるときは…」

「また来てもいい?」

「え?」

「学校の皆には内緒にするから、ね」


 弱みとまでは思っていないが、嫌がってる姿を見ていい材料だと思ったのは確かである。どうしてまた来てもいいなんて言ったのか、この時は解らなかったが、学校では見ない雨宮さんが新鮮で面白かった。もっと見てみたいと思った。


「誰にも、話さないなら…」

「約束する。指切りでもする?」


 冗談めいて小指を差し出すと、彼女は震える小指でそっと触れた。俺は構わず細い小指に絡める。

 翌日の放課後も雨宮さんは終業の鐘と共に教室を後にする。俺は引き留める言葉が出なかった。共に学校の門を出る勇気がなかった。クラスメートと取るに足らないお喋りに付き合った後、遅くならないように切り上げて校舎を出た。

 昨日の公園に彼女は独りベンチに座っていた。


「あの子いないの?」

「いつもいるわけじゃないから」


 鞄を地面に置いて隣に座る。彼女はびくっと肩を震わした。


「どうしてあの子と遊んでるの?」

「いつも親御さんから頼まれているから…」

「優しいんだ」

「そ、そんなんじゃ、ないけど…」


 声をかける度に肩も声も震わせている。強い口調をしているつもりはないが、怖がらせていると思うと次の言葉がなかなか出なかった。


「俺のこと怖い?」


 思い切って聞いてみた。同級生の中でも背は高い方で、時々チビな男子からは「ずるいから身長をわけろ」と無茶な要求をされ、女子からは「渡邊君って喋らないから余計怖いよね」と聞こえるように影口を叩かれることもしばしばあった。最近新入生からは今の雨宮ほど露骨ではないが、すれ違っただけで怯えられたのは流石に傷ついた。


「そ、そんなんじゃ…」


 今にも泣きだしそうな声になる。いじめているようで居た堪れない。

 その日幼女は来なかった。特に多く会話もせずに一時間ただベンチに並んで座って過ごした。

 次の日も雨宮さんはすぐに学校を出た。俺も早々につまらない会話を切り上げて、彼女を追い学校を出る。公園には前日と同じようにベンチに座っていた。声をかけると、また目を丸くしている。

 更に次の日も同じように公園に足を運ぶ。幼女と遊んでる彼女を眺めて過ごした。特に何かを得られるような時間ではなかったが、機嫌をとるような気を遣う会話を繰り広げる学校よりも穏やかな時間が心地よくなっていた。


 連日公園に通った。会話はぎこちないものばかりだった。俺が適当な質問をなげかけると、答えることもあったが言い淀むことが多かった。言葉のキャッチボールには程遠く、二歳児の子供とボールのやり取りをするような拙い会話を交わした。

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