第4話

 出窓から降り注いでいた熱い日差しはいつの間にか過ぎ去っている。カウンター真上にある小さな金魚鉢を逆さにしたようなガラスの傘の仄明かりが顕著に輝き始めた。三度目のお替りにいただいた水もとっくに氷が溶け切っている。腕時計を確認すると三時を回ろうとしていた。すっかり雨の心配も頭から抜け落ちていた。


「あの、すみません。私そろそろ…」


 ゲンさんは私の断りに釣られて腕時計を確認する。


「もうこんな時間だったか。楽しくて話こんじゃったね。今日は来てくれてありがとう」

「い、いえ!こちらこそごちそうさまでした」

「駅まで送るよ」

「一人で大丈夫だよ」

「いいから、いいから、待ってて」


 断りを振り切きって二階へと駆け上がっていってしまう。


「まあまあそう言わないで。女の子を送るのも男の甲斐性だから。格好つけさせてやってよ」


 ゲンさんはにやにやしながら耳打ちした。正直ゆっくり雨の心配もあるし速足で帰りたい。でもそういわれると断るのも申し訳なく思う。


「それにしても一雨来そうだな」


 ゲンさんは出窓に近づき外を見てぽつりと呟いた。私も雨模様が気になり傍に行く。雲の奥にここにいるよと懸命に主張するような陽光がぼんやりと輝かせている。それも間もなくすっぽりと覆い隠してしまいそうだ。


「風花ちゃん傘持ってる?」

「いえ…」

「良かったらうちの傘持って行って。ちょっと変わってるけど…」


 そう言いながら暖簾を右手の甲であげて奥へ行く、すぐに戻って来たかと思うと、手には目を惹く真っ赤な傘の胴の部分が握られていた。


「これ、よかったら」


 差し出された大振りの傘を受け取った。


「これって和傘、ですか?」

「そう。ちょっと目立っちゃうけど、どうかな」

「これもアンティークなんですか?」

「そんな大層なものではないよ」と首を欲に振った。

「高いものとか古いものではないから気楽に、ね」


 お願いとでもいうように小首を傾げるだから断り辛い。


「じゃあお言葉に甘えて。また明日にでも返しに来ますね」

「それにその傘特に使ってるわけじゃないからあげるよ。風花ちゃんの黒髪にもよく似合うと思うよ」

「でも…」

「物は使ってあげた方がずっといいし。きっとその傘も喜ぶから」


 あまりにも強く押してくるものだから返すタイミングを失ってしまった。理由もなく貰うわけにはいかない。今日は借りるだけにして、帰ったらお母さんに相談してまた返しに来よう。


「おまたせ。行こうか」


 ショルダーバッグをかけて右手にはビニール傘を持って戻って来た。それにあわせてゲンさんが軽やかなカウベルの音を鳴らしてドアを開ける。


「それじゃあ気を付けてね」

「はい。また来ます」

「うん、待ってるよ」


 頭を下げて駅に向かって北条君と歩き出した。話しながら、ちらりと後ろを見る。ゲンさんはまだ私達を見送って手を振っている。もう一度会釈をして足を進めた。

 最寄のバス停を覗いたが帰りのバスも二十分待ちだった。北条君は待とうかと言ったがそれを断った。


「タイミング悪かったね」

「沢山食べたから運動にもなるし丁度いいよ。曇ってるから暑くないし行きよりも楽だよね」


 道路は舗装してあり比較的歩きやすかった。それでも歩きなれない道で躓いたりでもしたら格好悪い。嫌な妄想を現実にしないように念のために気を付けて狭い歩幅でちょこちょこと下っていく。


「ゲンさん楽しい人だね」

「うん、まあね。あんな人だから家の中も賑やかだよ」

「仲良くて良いね。ずっと一緒に暮らしてるの?」

「うん、そうかも。もう九年位かな」

「九年!そりゃ本当の兄弟に見えるわけだ」


 北条君は首の後ろを掻いていた。恥ずかしそうにしながらもわかりやすい嬉し顔を浮かべていた。

 駅が見えるまで他愛のない学校での話を、歩幅に合わせたスピードで時々会話が途切れながらも続けた。


「送ってくれてありがとう。それからゲンさんにも改めてお礼を伝えて。それにこの傘も」


 赤い傘を見せるように胸の前に持ちあげた。北条君はじっと傘を見て何か言いたそうに口を開いたかと思うと、きゅっと固く結ぶ。

 電車の到着を予告するアナウンスが流れる。


「もう行くね。明日また学校でね」

「細井」

「なあに?」

「あ、いや…また明日。気を付けてね」


 今日一日で何度か見た口ごもる彼の様子は気になったものの、この電車に乗り遅れるとまた数十分ほど待たなくてはいけない。出来れば乗り遅れたくなかったので手を振って改札を通って行った。


 ホームへ一段飛ばしで階段を駆けあがる。電車はまだ到着していない。もうすぐ来る電車にいち早く乗ろうと停車位置に立っている人もいれば、のんびり座っている人もいて、めいめいスマホを見たり音楽を聴いたりして待っていた。

 ホームの前方に行くと、さび付いた格子状のフェンス越しに先程北条君と別れた場所が見えた。まだ北条君はそこに立っておりこちらに気付いて手を振ってきた。私も鏡の様に手を振り返す。律儀に見送ってくれるところもゲンさんに似ていると思った。

 黄色い線の内側で待つようにとホームにアナウンスが鳴り響いた。彼方を見るとこちらに向かってくる電車の頭が見えた。座っていた人ものろのろと立ち上がり一番近い停車位置に歩む。もう一度北条君に手を振って停車位置に歩いた。


 きーっと甲高い音と共に電車は止まり扉が開いた。

 一番前の車内はホームで待つ人の数より更に減り先客は一人だけだった。後ろの方を陣取っているので、私はもう少し前の方へと移動する。通路を挟んで向かい合わせの座席の真ん中に腰をかける。電車はすぐに発車した。後ろを振り返り窓の外を見ると北条君が見えたが、まもなく姿は小さくなって見えなくなった。明日になればまた学校で会えるのだから別れが名残惜しいというわけではない。ただ彼の律義さに応えたくなった。


 赤い和傘に目を落とす。ふと疑問が浮かんだ。どうして男所帯彼の家に鮮やかな赤い傘が置いてあるのだろうか。お母さんのもの?お客さんの忘れ物かな。でもゲンさんがお客さんのものを人にあげたりはしないだろう。

 向い側の誰も座っていない席越しに窓の外に視線を移した。周りに人がいないことも有って至って平凡な景色でも独り占めしているようでなんだか気分がいい。


(これで天気が良ければな)


 喫茶店を出る直前まではまだ明るかった薄灰色の空は鈍色に変わっている。電車に乗って一駅が過ぎた頃に横向きの雫が窓をなでるように打った。ひとつ、ふたつ、すぐに数えきれないほどの雨水が窓に映る景色を隠した。

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