第5話

 駅に着いたころには雨は弱くなっていた。それでも傘がないと制服はびしょびしょになりそうである。改めて傘を渡してくれたゲンさんに感謝した。

 見慣れた駅構内を足早に抜け改札を過ぎる。外に出る前に学校指定のボストンバッグを肩から落ちないようにかけ直す。紙でできていると思うと破れやしないかと心配になり手元ろくろをゆっくりと前に突き出す。パリパリと音を立てて閉じた紙がピンと親骨に沿って開いた。閉じているときよりも一層華やかな朱色が眼前広がった。普段使っている傘よりずっと大きい。二人なら十分入れそうな大きさである。所々端っこが破れているが、雨をしのぐには全く問題がない。

 一緒に降りてきた人々がちらちらと横目で私を見ていることに気付いた。いや、私ではなく和傘を見ている。普段使いには珍しいのだろう。私自身和傘を実際に間近で見ることも、勿論手にすることも生まれて初めてのことだった。人の目が少し恥ずかしくなった。その場を立ち去ろうと傘を真上に向け一歩踏み出した。

 パラパラと傘を打つ雨音が心地よい。


「そんなに早歩きしないで」


 雨音に紛れて少女の声が聞こえた気がした。デートでもしている誰かが彼氏に向かって言ってるのかと思い気にせず歩いているとまた声がする。


「もう、待っててば」


 余程早歩きの彼氏さんなのか、彼女さんの方がゆっくりすぎるのか確認するのも馬鹿らしいが妙に好奇心がくすぐられた。どの方向からの声か判断できずきょろきょろとあたりを見回した。しかし声の主らしい人は見当たらない。傘を持たないスーツを着た男性が走って行く姿、パンパンに膨れたエコバッグを肩から下げ傘を差した中年の主婦、幼稚園の子ども連れた若いお母さん、その子供は水色のスモッグを着て、汚れるのもお構いなしに小さな傘を振り回しているのを窘められている。あのお母さんの声だったのかなと思ったが、子供は駆け回っているわけではない。

 空耳だろうか。しかしあんなにはっきり言葉が聞こえるとは妙だと首を傾げた。


「風花、私よ」


 今度ははっきりと私の名前を呼ぶ。気のせいなんかじゃない!返事をするべきか悩む以前に、姿の見えない声の主が怖くて声が喉に引っかかる。


「風花、ねえ聞こえてるんでしょう」

「だ、誰?」


 首を隠すように肩をあげて、絞り出すように返事をした。すると目の前に米粒位の小さな光がぼんやりと現れる。ひっと声ならぬ声をあげるとそれは野球ボールくらいの大きさになり、更に風船のように膨らんでいく。次第に光を纏った人影が形作られた。信じられない光景に膝はがくがくと震え、空気を求める金魚のように口をパクパクさせた。


「久しぶりね、風花」


 ぼんやりとした光を全身に纏い、ストレートの長い黒髪を靡かせた少女が上目遣いで見上げた。

 テレビの女優はどうしてあんなに大きな声を出せるんだろうかとずっと疑問だった。もし自分が殺人現場に立ち会ったら、凶悪犯を目前にしたら、あんなに立派な金切り声をあげるのだろうか。自分なら声すら出ないだろうと思っていた。しかしこの瞬間、人生で一番の叫び声が雨音を切裂いた。


 通り過ぎる人々がぎょっとして一斉に私に視線が向けられた。何が起こったのか誰にもわからなかっただろう。そこには凶悪犯は存在せず、放り投げられた傘と、反射的に退き雨に濡れたコンクリートに足を滑らせ尻もちをついた女子中学生の姿しか目に入らない。ただ滑って転んだだけかと、何人かは我関せずと通り過ぎた。


「あなた、大丈夫?」


 茫然とする私に恐々と声をかけてくれたのは幼稚園の子供を連れた若いお母さんだ。その声ではっとした。女性は万が一のことを考えてか子供に危害が加えられないようにと自身の後ろに隠すようにして近づいてきた。

 あたりを見回した。少女の姿は見えなくなっていた。背筋が凍り付いた。もし今ここで姿が見えれば、それは生きた人間だと安心できたはずだ。しかしこの場には親切に声をかけてくれたお母さんと訳も分からずお母さんの足元でこちらをまじまじと見る幼子だけである。


「体調が悪いの?救急車呼びましょうか?」


 すっかり青ざめてしまった私を案じて鞄からスマホを取り出そうとした。後ろに隠れていた子供も「おねえちゃん」「ぽんぽんいたい?」と大人の真似をするように話しかけた。


「さっきの声きこえましたか?」


 女性に向かって必死に訊ねた。女性は怪訝な顔をした。


「あなたの叫び声のこと?本当に大丈夫?」


 あからさまに不審な目を向けられる。頭がおかしいと思われているとすぐに察した。


「だ、大丈夫です!お、お騒がせしました」


 鞄を拾い上げ放り出した傘を閉じて慌ててその場を離れた。大股で走る。さっき見えたのは幻影だったのか?弱まっていたと思われた雨がまた強く地面を打ち付け始めた。しかし傘をさすことはできなかった。足が地面に着くたびに跳ねる汚れた雨水に気にする余裕もなく、ただ必死に走った。


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