第3話

「お疲れ様。ついたよ」


 両脇を民家に挟まれた木造二階建ての家の前で立ち止まった。雑誌で見たものよりシンプルな造りの建物だが、艶やかな濃い色の木材の壁はレトロさがを際立たせる。一階の二つの出窓に挟まれたドアには色ガラスがはめ込んであった。一輪の赤いバラを模している。扉の上部にはアーチ状の深緑色のビニールには、店の名前であると思われる『喫茶アンティコ』と印刷されている。片方の出窓から中の様子を伺うと観葉植物の植木鉢が三つ並んでいる。霧吹きされたばかりなのか葉っぱが瑞々しく潤い喜んでいるように見えた。奥には、顔は良く見えないが背の高い男性がカップを拭いている。

 まだ陽が高いが扉の取っ手には「close」の札が掛けられている。それに構わず北条君は扉を開くとカランカランとカウベルが軽やかな音色をたてた。中からコーヒーの香りがふわりと風とともに漂った。


「ただいま」

「おかえりぃ、草介」


 間延びした声にカウンターに立っている男性が拭き終えたカップを棚に仕舞いながら応える。北条君の後ろから伺うようにおずおずと入ってくる私を見て男性はにっこりとほほ笑む。


「いらっしゃい」

「えっとあの、ほ、細井風花です。北条くんのクラスメートで…えっとその…今日は突然おしかけてすみません」


 勢いをつけて思いっきり頭を下げると男性は軽快に笑った。


「ご丁寧にありがとう。こちらこそ来てくれて嬉しいよ。それにしても草介に女友達がいるなんて初めてじゃないか。しかもこんなに可愛い子」

「ゲンさん!からかうのはやめてよ」


 北条君の耳が赤くなっているのを横目で見て笑みがこぼれた。学校とは違う表情を見るとなんだか自分が特別な気分になる。


「先に着替えてくるから、先に座って待ってて」


 そう言うと喫茶店と住居を隔てるモスグリーンの暖簾をくぐり、そそくさと奥に引っ込む。トントンと階段を駆け上がる音がする。ばたんとドアを閉めた後、彼の悲痛な声と共に何かしら倒れる音が天井から微かに聞こえてきた。恐らく積み上げた本が雪崩れる音である。私にも覚えがある音だ。


「あちゃ、からかいすぎたかな」


 ゲンさんと呼ばれた男性はまた「ははは」と笑いながらグラスを手に取り氷水をピッチャーで注いだ。


「ささ、カウンターにどうぞ。荷物は隣の席にでも置いてね」


 グラスをカウンターに置くと水に浮かんだ氷が崩れカランと涼し気な音を奏でた。音に誘われるように背の高いカウンターチェアに腰をかける。ニスが塗られた艶やかなカウンターをなでると指先にざらりとした感触がした。細かな傷から年季が入っていることがわかった。


「あいつ学校ではどう?委員会一緒なんだって?真面目すぎるところあるけど迷惑かけたりしてない?」

「い、いいえ!色々助けられてます。本の整理が丁寧だって司書の先生も言ってました。間違って仕舞われちゃう本も見つけ出すのが得意だって感心してました。それに誰にでも優しいし」

「そっか。うまくやってるならよかった」


 ポットに水を注いぎながらゲンさんは優し気に目を細めて笑った。ガスコンロに火をつけて換気扇を回す。


「風花ちゃんも良い子だよね」

「え!?」思わぬ言葉に喉に引っかかる声が裏返る。

「草介のことよく見てくれてありがとうな」


 突然投げられた誉め言葉と感謝が照れくさくて、さっき見た北条君の耳よりも赤くなっているのではないかと思う程、火照った顔を俯かせた。


「ゲンさん、ちゃん付けは流石に馴れ馴れしいと思うよ。今の時代セクハラにあたるんじゃないの」


 呆れたような声がした。デニムのパンツに白いTシャツに着替えた北条君が奥から出てきた。Tシャツからすらっと伸びる細い腕をあげ首の後ろを掻く。


「え?まずかった?」

「い、いえ!?」

「嫌なことは嫌って言わないと、この人調子乗るよ」

「嫌じゃないから大丈夫」


 驚きはしたものの嫌な気持ちにはならなかった。小学生の頃はちゃん付けで呼ばれることも少なくはなかったが、最近は家族も級友も「風花」と呼び捨てにされることが多い。懐かしい響きが嬉しかった。


「さて、何が食べたい?オムライス、チキン南蛮、カレーライス、ホットケーキ。名物はナポリタンかな。なんでも遠慮なく言ってくれ。今日は記念日だからご馳走するよ」

「記念日?お祝い事ですか?」

「草介が女友達を連れてきた祝い」


 意地悪く笑うゲンさんを北条君の冷たい視線で貫く。「怖い怖い」と言いつつも悪びれることもない様子である。かわされた北条君はむくれて頬杖をついた。


「それでどうする?」


 並べられたメニューはどれも好物ばかりで悩んでしまう。名物という言葉は迷って選びきれない私には救いの言葉だった。


「じゃ、じゃあナポリタンをお願いします」

「お、嬉しいねぇ。お任せください」


 わざとらしく胸に手を当て軽くお辞儀をしてみせた。それなのに厭味ったらしくもなく不思議と気障な仕草が妙に馴染んでいる。


 名物ナポリタンの出来上がりを待っている間、鼻歌交じりで料理を始めるゲンさんを背中に向け、カウンターの反対側にある雑貨で目を楽しませた。見たこともない外国の玩具や、ぱっと見はなんの変哲もないお皿など統一感のないものが置かれている。しかしそれらがどれも古いものばかりだ。これがアンティークと呼ばれるものなんだろう。値段を見る限りどれも高価なものには違いないが、頑張れば手が届く位の絶妙な値段がついている。勿論中学生のお小遣いでは買うのは無理なものばかりではある。


「喫茶店にアンティークを売ってるなんてちょっと不思議だね」

「こっちは母さんの管轄なんだ。外国に行って買い付けてるんだよ」


 北条君のお母さんはアンティーク品を買い付けては店に置いたり、時にはデパートのイベントに参加して販売したりしているという。外国を飛び回っているので家で過ごす時間は多くはないらしい。店長の肩書はあるものの店を仕切っているのはゲンさんだそうだ。そんなゲンとの三人暮らしが何年も続いているのだが、小学校高学年くらいからはお母さんよりもゲンさんと二人で過ごす時間の方がずっと長くなったと笑って言った。それでも彼のお母さんは北条君を完全にゲンさんに任せているわけではなく、学校の行事は出来るだけ参加してくれるし、学校を休ませて仕入れに同行させてくれることもある。母親なりに自分との時間を出来る限り多く作ってくれているんだと恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに話す彼は幼さを残した笑顔を向けた。


「マザコンっぽいかな?」

「そ、そんなことないよ」


 確かに同じ年ごろの男子がお母さんのことを喋るなんて少し珍しいような気がした。それでも北条君を恥ずかしいとも変だとも思わなかった。寧ろ彼の素直さが無垢なほど輝かしくみえた。時折意味もなくイラついて悪態をついてしまう自分の方がよっぽど恥ずかしい。保健体育の授業で思春期ならではのものなんだと学んではいるものの自分の感情を制御できないことは虚しさすらも感じていた。


「でもそんなにお母さんと離れて暮らしている時間が長いと寂しくなったりしない?」

「流石にそこまで子供じゃないよ。怒られない分だけ伸び伸びしているくらいかも」

「それにゲン兄さんがいるしなー」


 じゃっじゃっと油で炒める音と共にからかう声がカウンターからする。


「あんなのでもいると寂しいなんて思う時間もないよ」北条君は負けじと対抗した。

「まっ!そんな悪態つく悪い子にはデザートのプリンは出してあげないんだからね!」


 まるで母親のような口調で場を賑やかにする。


「プリンになんかつられないよ」

「あら大人」


 ゲンさんは手際よくお皿にナポリタンを盛り付ける。トマトケチャップの酸味と甘みのいい匂いが漂ってくる。口の中で唾液がじゅわっと湧き出た。匂いに誘われ椅子に座った。すでに紙ナプキンの上にフォークとスプーンが添えてある隣に皿が置かれる。温かみのある薄灰色のお皿に鮮やかな赤いナポリタンが湯気をたてていた。制服が汚れないようにと紙の前掛けを渡された。ケチャップが制服にとんだらどうしようと悩んでいた私の心を読んだかのようなゲンさんの心遣いが有難い。


「おまたせしました。ごゆっくり召し上がれ」


 手を合わせて「いただきます」と共に軽く頭をさげる。フォークでくるくるっとからませて口に運ぶ。大きく目を見開き咀嚼した。


「美味しい!」


 家で食べるナポリタンはもっと淡泊な味である。美味しくないというわけではないけど、今までのナポリタンのイメージを覆される旨味が口いっぱいに広がる。見た限り材料も同じなのにどうして?外で食べるからかだろうか?もしかしたら凄く特別なケチャップなのかもしれない。いやベーコンの方かも?色んな疑問がどんどん湧き出てきながらも食べる手は止まらない。ともかく名物という言葉に偽りはない。


「美味しそうに食べてくれて嬉しいよ」

 流しに遣ったお鍋や包丁など、油気のないものから洗い始める。

「本当に美味しいです。こんなの食べたことないです。ナポリタンってこんなに美味しいなんて知りませんでした。なんて言ったらいいかわからないけど…とにかく美味しいです」


 美味しさの表現方法に言葉が詰まる。どんなに美味しくともテレビのリポーターみたいにはなかなか言えないものだ。


「うん、そういう顔してる」


 顔が綻んでいると言われた。


「そういえば細井さん、駅の南に住んでたんだよね」

 ナポリタンを堪能していると、不意に駅に着いたときの話を北条君が口にした。

「へえ…そうなんだ」


 違和感を覚えた。それはにこやかなゲンさんの目が少し見開いたからである。そんなに驚くことを言った覚えはない。


「どこに住んでたの?」

「駅の南にある団地に住んでいました」

「何棟か並んでる大き目の団地かな。小さな公園があるでしょう」

「ええ。その公園があるすぐ傍の団地に両親と三人暮らしをしていたんです。あまり覚えてないんですけどね。小学校上がる前には今の家に引っ越したので」

「でも思い出とかあるでしょう」

「それがあまり。あまり記憶力が良くないみたい。友達の顔も記憶に少ないんですよね」


 覚えていることといえば、保育園に通っていたこと、家でも留守番が多かったこと位である。一人遊びが得意だったのか、友達と外で遊んだ記憶も殆どない。子供の頃の思い出がないのはなんとも寂しいものがある。しかしそれが不満だとか感じたことはなかった。その頃はお母さんも働いていたこともあって子供から見ても忙しいことを知っていた。家にある玩具で十分だったのだろう。ただしこれは記憶の少ない私の勝手な想像である。そう思うのは今も特に不幸せだと思っていないからだ。家族から充分に愛されている自覚はある。


「それって記憶喪失、とか?」


 北条君の言葉は現実味が沸かなかった。本の中やテレビの中でしかきかないような言葉は、手に馴染まない道具のようである。


「そんなんじゃないと思う。ぼんやりはしてるけど全然覚えてないわけじゃないし」


 沈黙が流れる。どう返答するか悩んでいるように見えた。自分の記憶力の悪さから、本気で悩まれると思ってはいなかった。


「ご、ごめんなさい。本当にそんな深刻な話じゃないんです。ただ私の物覚えが悪いだけですから」

「こちらこそ変なこと訊いて悪かったね。子供の時の記憶なんて薄れるもんだよ。俺に至っては子供の頃どころか昨日の晩御飯すらも思い出せないおじさんだ」


 ゲンさんはけらけら笑った。彼の冗談は場を和ませる力があると思う。


「おじさんだなんて、そんな」

「お、若く見える?」

「はい。とても」


 お世辞でもなんでもなかった。実際学校の一番若い三十代の先生と比べても若く見えた。


「そんな風花ちゃんに草介のプリンをあげようね」

「自分のじゃないのかよ」

「だって草介はプリンに釣られない『大人』でしょう。俺はプリン譲れないから」

「そのネタ引っ張るのかよ」


 かがんで恐らくカウンター下にある冷蔵庫から型に入ったプリンを取り出し、一緒に冷やしてあったワイングラスのような、少し太めの一本足のデザートガラスに型から移した。生クリームと赤赤としたサクランボをプリンの傍らに添えて私の前に置いた。絵に描いたようなプリンに自然と顔が緩む。そして冗談で言ったはずのプリンがもう一皿置かれた。


「遠慮せず、どうぞ」


 明らかにふざけているとはわかっていてもどう返事すればいいか躊躇った。


「み、皆で食べた方が美味しいから、これは北条君に」


 グラスのベースを指で押さえて北条君の前にスライドさせた。


「風花ちゃんは本当に良い子だねえ」

「ゲンさんは細井を困らせすぎ」


 グラスを受け取って、即座にスプーンですくい取り口に運ぶ。北条君は「うま」と零すとゲンさんはにやにやといたずらっぽく笑って見ていた。

 北条君が認めるプリンに舌鼓を打ちながら楽しい時間は刻刻と過ぎていた。厚い雲が近づいていることに私は全く気付いていなかった。

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