第2話

 この図書室でのやり取りを忘れてはいない。それどころかテスト勉強に集中するのも困難なほど胸がどきどきしていた一週間だった。勢いでとりつけた約束とは言え、異性の友人、いや、偶々同じクラスになり、偶々前後の席で、偶々同じ委員会に所属することになった異性のクラスメートと学校の外で会うことになった。それも彼の家である。これはまるでデートではないのか。意識をすればするほど胸の高鳴りは抑えられなかった。特に異性として好意を抱いているわけではない。それどころか友達ともいえるかわからない。北条君との関係性も定まっていないのに『異性の家に遊びに行く』ことが胸をざわつかせた。決して嫌な気持ちではない。考えると頬が紅潮しそうになる。恋愛とは言えないごっこ遊びのようなものでも確かに心はときめいていた。


「勿論覚えているよ」

「よかった。もし予定がないなら今からでも来ない?今日は昼までだし、お昼ご飯奢るよ」

「え?今日?」

 すぐに誘われるとは思っていなかったので戸惑う。

「用事ある?」

「ないけど」


 朝のお母さんとのやり取りを思い出す。天気予報で夕方から雨だって言ってるから傘持っていきなさいねと強く勧められたが、昼前に終わるから必要ないと突っぱねた。

 しかしここで傘を持っていないことを理由に断ると、遠回しに行きたくないと解釈されてしまいそうだ。断っても角が立たない言い訳が思い浮かばず了承してしまった。


(夕方までに帰れば大丈夫だよね)


 それじゃあと学校が終わると同時に共に教室を出て彼の家に行くこととなった。

傘のことは気にかかったが、私の心は久しぶりに弾んでいた。上辺だけの興味だったが、普段外食をあまりしない私には喫茶店の料理は素直に楽しみだった。


 しかし徐々に不安が大きく膨らみ心の大半を占めている。それは電車での無言の時間が長かったことである。昼間の電車は人が少ない。碌に会話もできず電車特融の揺れと音が体に響くばかりだった。不安を強く感じているのは会話がないだけではなかった。今までも特に会話しなくても息苦しいと思ったことはない。北条君が放つ穏やかな空気は好きだった。しかしこの電車の中では例外であった。彼からは不穏な空気が漂っている。


(もしかしたら自分が何かしたかな)


 思い当たることは特にないと思うが、知らぬ間にしでかしたことがあるのかもしれない。そう思うと心臓は圧がかかるように締め付けられ息苦しさを感じた。


「あ、あの!」


 あまりの緊張で口も喉もからからになっている。沈黙に耐え切れず発した声も乾いていた。口を押えて小さく咳をする。


「きょ、今日お邪魔しても本当に大丈夫?」

「え?」

「急に行ってご家族さんとかご迷惑にならないかな?なにか困ってるみたいだし、別の日でいいよ」


 きょとんとした顔で私を見た。そして少し考えた後に、あっと声をあげて慌てて否定する。


「いやいや!そんなことないよ。心配させたかな。ちょっと考え事していたんだ。その少し言いにくいんだけど、うちの店の住み込みの従業員のことでね」

「従業員?」

「殆ど店を任されている人で、悪い人じゃないけど強引なところがあるから、嫌な思いさせないかなーって」


 北条君は目線を空中に泳がせた。迷惑をかけているのではないかと思っていただけに呆気にとられた。それにしても温厚な彼が頭を悩ませる人間は一体どんな人なのだろうか。不安の種は除かれたものの新たな不安が生まれる。しかし機嫌が悪いわけではないと知るとほっとした。先まであった張り詰めた緊張感はもうすでに消えており、図書室で感じる穏やかな空気が戻って来たように思えた。


 普段私が下りる駅の三つ先の駅が方向くんの家の最寄駅である。駅を降ると郷愁の風を感じる。ここは幼い頃に住んでいた町である。今の家に引っ越したのは私がまだ小学校に上がる前のことだ。この町の出来事は殆ど記憶にはない。頭に浮かぶ幼き日の風景は霧がかかったようにぼんやりとしており、具体的なことは何も思い出せなかった。それでも肌で感じる懐かしさは確かに存在していた。

 北条君は家が並ぶ丘を指さして家の方向を示した。坂が多いのを申し訳なさそうに言う。


「大丈夫だよ。陸上部だし足腰には自信があるんだから」


 最寄りのバスの停留場で時刻を確認すると次のバスが到着するまでにあと二十分と表示されていた。歩いても二十分位の距離だと言うので、運動にもなるしバスを待つ時間も勿体ないので歩こうと提案した。

 最初はなだらかな広い道を歩いた。余裕で会話も出来るくらい緩やかな坂だった。


「子供の時この町に住んでいたんだよ」

「え、本当?」

「子供のころだけどね。それも住んでいたのは駅の南側なんだけど」


 薄ら残る記憶を辿ると確か駅の南側は北側と以外平坦な道が多い。駅の北は歩いた記憶すらなかった。陸上部に所属しているプライドもあったので坂道といってもそれほど辛いものではないだろうとタカを括っていた。日々鍛えているので平気だと思っていた。しかし十分程過ぎると息が上がってくる。自分の体力を過信していた。梅雨前の蒸し暑さも考慮していなかったのが敗因である。


「ごめんね。やっぱりバスに乗った方が良かったね」


 会話が減っていくのと反対に息が上がっていた。頬を伝って流れる汗を見て同情したのか、申し訳なさそうに言った。

 己の浅慮を恨むしかない。自分の家は比較的に駅から近い場所に住んでいる。そこも平らかで足腰にくるような土地ではないのである。陸上部でも運動場でしか行わない。つまり坂道とは縁のない生活しかしていない。


「だ、大丈夫。汗かきなだけだから」


 額から溢れ流れる汗が恥ずかしい。手提げかばんからキャラクターが描かれたタオルハンカチを取り出しポンポンと軽く叩いてふき取った。


「もうすぐ着くから頑張って。あのカーブ道の先にあるんだ」


 緩やかに曲がった道の両脇には家が立ち並ぶ。私は念入りに額を叩き拭きハンカチをぎゅっと握る。あと少しあと少しと滑り止めの丸い溝が施されたコンクリートを一歩一歩踏みしめながら登った。



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