和傘をさす少女

桝克人

第1話

 やるだけはやったと自分に言い聞かせている。心臓は今にも破裂しそうな程痛い。五月下旬、一週間前に終わった中間テストの結果が教師から手渡される日だ。目の前にいる数学の先生はロボットの様に無駄がなく淡々と授業をこなすことである意味評判だ。面白みのない授業は生徒からの人気はあまりない。とはいえ授業が分かりにくいということではない。本人も至って真面目でテストの返却もどの教科の先生よりも早い。


 一週間はテストも終わって開放感に包まれていた。天国にいると言っても過言ではないほど平和な一週間だった。今は頭台に立たされる気分である。呼ばれる名前は囚人の名前の様に聞こえる。特にロボット先生は事務的に読み上げるので猶のこと警務官のように見える。己の勉学が反映されるテスト用紙を手渡される姿は赦免、もしくは死刑宣告を受けているようだ。ある人は口角があがり、ある人は眉を顰めさせる。一喜一憂する様子を見ているだけでも気持ち悪くなったので、窓際の席から外を眺めては「興味がない振り」をしていた。


「細井」


 この世とさよならする瞬間がきた。心なしか教師の低い声はまるで怒りを必死に抑えているようである。きっと目の前に立ち、目を合わせた瞬間にロボット先生の顔はみるみる赤くなり罵倒されるに違いない。想像するだけで恐ろしい。「はい」と絞り出すような声で返事をする。予想以上に声が震えていて、隠しきれない動揺に耳が赤くなった。手渡される時に一体何を言われるのだろうか。「授業を聴いていなかったのか?」「テスト勉強せずに部屋の片付けとかしていたんだろう」「こんな点数で恥ずかしくないのか」きっと皆の前で暴言を浴びせられる。窓際の後ろから二番目の席から教卓までの道はゴルゴダの丘への道の如く、またおどおどした私を見るクラスメートの目線は石礫の様である。


 教卓の傍に着いてもロボット先生の目はまともに見られなかった。先生は軽く「はい」とだけ相槌をうち、テスト用紙を渡した。想像していたような責められる言葉は続かなかった。もう言葉もないくらい酷い結果だったのだろうか。それとも青ざめた顔を見て、ぶつけたい言葉を飲み込んだのだろうか。消しゴムかけた時によれて皺ができたテスト用紙を直ぐに二つに畳んでそそくさと自分の席に戻る。席について深く息を吸って吐くと生きている実感がわいた気がした。周りの様子を伺って慎重に点数が書かれている右上を少しだけ捲ってみってみよう。特に真後ろに座る北条君には気を付けなければならない。覗き見るような人ではないと思うが、たまたま前を向くタイミングで見えてしまうかもしれない。息を飲んで捲ると六十七点と赤ペンで書かれていた。返却前に聞かされた平均点より五点低い。想像していた点数よりはずっと良い点数であるものの、平均点に一歩届かない結果にため息が出る。


 自分が極度の心配性だと自覚はしている。実際はきちんと授業を聞いて、宿題も欠かさず提出していた。テスト期間中はいつもより机に向かう時間を長くとっていた。自分なりに頑張ったのは確かである。赤点でなかったことに安堵はしたが、真面目に取り組んだ割りに結果が伴わない現実は、胃にかかる負担がより増した。

 私は私が嫌いである。テストに限らず目に見える結果は満足いくものに到達することが殆どない。所属している陸上部の大会でも練習時は記録を伸ばせるのに、大会になると周りはもっと速い人が山ほどいる上、自己記録も悪く結果がでない。かけた時間に見合う結果を手に出来ない自分が嫌いだった。他人との勝負ではなく自分との闘いだと親や先生に言われる。解っているつもりでも手ごたえが欲しくてたまらないのである。


 チャイムが鳴り授業が終える号令を合図に周りは一層賑やかになる。先程まで漂っていた緊張感はすでに教室には存在しなかった。クラスメートはテスト用紙を鞄に押し込んで、友達と談笑している。和らいだ空気の中、私はもう一度返されたテスト用紙を、今度は堂々と開いて目を落とす。改めて実力を示した点数に殴られる。これがお前の実力だと落胆させるのに十分だった。


「細井さん」


 後ろから声を掛けられテスト用紙を慌てて裏返して机に叩きつける。勢い余ってまたよれてしまった。


「ごめん。驚かせた?」

「大丈夫、ちょっとびっくりしただけ」


 北条くんは申し訳なさそうに眉を下げ首の後ろをさすった。私はよれたテスト用紙を無理矢理机の中に押し込み冷静を装い、意識して口角をあげてみせた。


「あの約束覚えてる?」


 すぐに図書室でのことを思い出した。

 私たちが通う中高一貫の私立学校は三学期制である。新学年にあがったばかりの始業式。一年生の頃に仲良くなった友達とは皆違うクラスになったとはいえ右も左もわからないような新一年生と違い中学校生活二年目である。不安はあった。なんとか心を落ち着かせて、必要以上に動揺をみせないように、努めて平静を装った。おかげで友達はあまりできていない。同じ部活に所属している量子ちゃんと今年クラスが一緒になったことが幸いし、なんとかクラスに溶け込むことが出来たのは唯一の救いである。


 クラスメートの問題は時の運なので考えても仕方がなかった。しかし問題はもう一つある。それは委員会だ。去年は学校の決め事なんて何も解っていなかったから、流されるままに人気のない風紀委員会に任命された。朝の校門に立つ当番が苦痛でたまらなかった。早起きすることは特に問題ではなかったが、校則を無視した生徒に指摘することが苦痛だった。せめて同級生ならともかく先輩を呼び止めて校則違反を指摘することは、事なかれ主義でただでさえ人に指図することが苦手な私には苦杯の他なかった。


 その教訓を胸に面倒事は一学期の間に終わらせようと決めていた。一年のうちに一学期分だけ所属することが決められている。一番気楽に出来そうな委員会を絞り込んだ結果、図書委員が良いと思った。クラスメートは出来る限り気の知れる相手と組みたがっていたが、誰と組んでも私には大きな問題ではなかった。勿論仲良くなれたら儲けものだが、そうでなくても元々一人でいることも苦ではない。とにかく面倒事は早く片付けたい性格なので、いの一番に手を挙げて立候補したのである。


 黒板に書かれた図書委員の下に細井風花と書かれた。一人手を挙げると、僕も私もとパラパラと上げる手が増え、私と同じような目論見をしているのか、やることが少なそうな委員会の下に名前が埋まった。

図書委員は誰も立候補することはなく暫く空欄が続いた。意外と図書委員会の仕事が多いのか、自分と組むのが躊躇われているのかと心は穏やかではなかった。胸がぎゅーっと痛んだ時、「はい」と優し気な声が後ろから聞こえた。北条君が図書委員に立候補したのである。私の名前の隣に北条草介と名前が書かれた。すると不思議と痛みはすぐに消えた。


 委員会の仕事は、一週間に二回、昼休みと放課後の一回ずつ図書当番と、月に一度の張り紙の記事を作成することである。当番は回数が思ったより多かった。道理で立候補をするまでに時間がかかったわけだ。友達と過ごす貴重な昼休みと部活など青春を謳歌する放課後が委員会で潰れることは敬遠される要因のひとつなのだろう。


 しかし初めて見ると思ったより大変ではない。紙の匂い、ぺらぺらと捲る紙ずれの音、時折クラスメートが図書室にやってきては、言葉の代わりに笑顔を交わすこと、図書室独特の雰囲気と穏やかな時間とても好きになった。図書委員のする仕事も貸し出しの手続きや返却された本の整理くらいで、空いた時間は宿題や予習にあてたり本を読んだりと有意義な時間を過ごせる。


 委員会の相方になった北条君も同じように過ごしていた。席が近い割りに教室で話したことはなく、委員会中も図書室ではお喋りは厳禁ということもあって必要以上に会話をすることはなかった。それでも彼は愛想がよかった。四月は目があうと会釈をしてくれた。ゴールデンウィークを過ぎる頃にはにこりと笑いかけてくれた。会話はなくとも居心地のよさを感じていた。


「喫茶店が好きなの?」


 テストが始まる一週間前のことだった。その日何冊か定期的に取り寄せている雑誌の表紙が目に入った。《人気上昇!レトロな喫茶店特集》表紙のキャッチコピーに惹かれて手に取ってみる。木造の薄暗いカウンター、低い椅子に狭いテーブル、実験道具のようなサイフォン。流行りのスタイリッシュなカフェとは違い異世界のような不思議な光景だった。すっかり魅入ってしまって受付のカウンター越しに立つ草介が声をかけるまで委員会中だということをすっかり忘れてしまった。


「ごめん。委員会中なのに」

「大丈夫、貸出も多くないし」


 火曜日の放課後、試験勉強のために図書館を利用する生徒は多いものの、本の貸し出しは比例しなかった。返却もまばらである。特にやることもないので試験勉強をするつもりで鞄ごと図書室に持ち込んだ。頭で描いていた予定とは裏腹にその鞄から筆記具も出されることなく図書室の受付カウンター下の足元に無造作に置かれていた。そして入荷されたばかりの雑誌に心を奪われてしまっていた。テスト勉強期間は普段気にならないものが目に入る不思議な時間である。


「それでどう?凄く熱心に見てたけど」

「特に好きってわけじゃないけど、ちょっと珍しくて見てただけ。コーヒーも殆ど飲んだことないし」


 コーヒーのカフェインは強すぎるとお母さんが強く言うのでまだ飲ませてもらえていない。彼女が言うには体がしっかりできてからの方が良いとのことだ。だから大学に入るまでコーヒーは禁止なのである。情報の出どころは恐らくテレビとかネットの記事だろう。それが正しいかどうかは私には判断がつかない。飲んでみたいと強い願望があるわけでもないので気にしたことがなかった。それでも同級生が勉強の合間にコーヒーを飲んだと言うのを聞いたり、自動販売機でジュースを買う私の隣で小さいコーヒー缶を持つ姿を見たりすると、彼らは少し大人びて見える。

 答えが思ったものではなかったのか北条君は「そうなんだ…」と小さく呟いた。笑顔は絶やさないが少し眉が下がり残念そうである。


「でもレトロなものってどう言えばいいのかわからないけど、現実世界のものじゃない感覚がして面白いかな」


 彼を喜ばせたいわけではなかったけど、つまらない答えで引かせてしまったことが恥ずかしくて慌てて付け足すように言った。しかし口にしたことを直ぐに後悔した。とってつけたような言い方は余計に気を悪くさせてしまったのではないかと心中は穏やかではなかった。一抹の不安は柔らかい春風の様にあっという間に消える。彼は満面の笑顔を私に向けた。今までに見たこともない子供っぽくあどけない笑顔であった。


「も、もし良かったらうちに来ない?家が喫茶店なんだ。ちょっと変わってるけどアンティーク品も置いてあるんだ。古いものとか好きだといいんだけど」


 どんぐり目が一層大きく見開き前のめりで熱弁する。食い気味にこられてたじろぐ。そんな私に気付いたのかはっとして咳をひとつ落とした。乗り出した身をゆっくりと元の位置に戻し興奮を落ち着かせるように首筋を撫でた。


「いや、えっと迷惑じゃなければ、だけど…ごめん。急に誘うなんてキモかったかな」

「そ、そんなことないよ。北条くんさえ良ければ遊びに行ってもいいかな。でも本当にコーヒーにも詳しくないし、カフェだってあまり行ったこともないし何も知らないド素人だからね」

「そんなに気負わなくて平気だよ。気楽に来てくれると嬉しいから」

「わかった。それじゃあテスト明けにでもまた」


 北条君は照れながら微笑みまた首筋を掻いた。そして返却されていた一冊の本を手に取りそそくさと天井まで伸びる本棚の壁に姿を隠した。


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