第32話 彼の希望と彼女の本
指定された時間まで、まだ少し時間がある。
今のうちにヴァロージャと会って、ゆっくり話をしたい。彼の声を聞きたい。
ラディウはそう思いたち、ヴァロージャを探して部隊のオフィススペースにあてがわれている部屋を覗いた。
そこではヴァロージャがハッチに背を向けて、熱心に手元の何かを観ている。よくは聞き取れないが、スポーツの実況音声が流れていた。
「何をしているの?」
ラディウの問いかけに、ヴァロージャは動画を一時停止させて振り返ると、手提げ鞄をもち、片腕にフライトジャケットとアンダースーツを抱えた彼女が立っていた。
「ここへ来る前にダウンロードしておいた、ホビーの最終戦を観てる。一緒に観る?」
「うん」
ラディウは嬉しそうに頷くと、手にしていた荷物を近くの椅子の上に置いて、ヴァロージャの隣に腰かけた。
「ちょうど今からロナウドなんだ」
ヴァロージャは動画の再生を再開する。
ラス・エステラルで見たロナウドの美しいマシンが、クルクルと機体を翻し、滑るように飛んでいる。
あの日ラグナス1のブリッジで見たような、それは見事な飛行だった。
『ゼッケン4番! ロナウド選手! ラストの直線を駆け抜ける! 今フィニッシュ!! ベストタイム更新ー!!』
実況アナウンサーの絶叫に、ヴァロージャは「よし!!」と言ってグっと拳を握る。
ラディウはホビートライアルのルールはよくわかっていないが、ホビー機が飛んでいる姿は美しくて彼女の興味を引いた。だからそのまま成績上位のゼッケン3、2、1と続くレースを、ヴァロージャの興奮を隣で感じながら、映像を眺めている。
レースの結果は、ロナウドはコンマ2秒差で敗れて2位。結果、シリーズ優勝を1ポイント差で逃し、ヴァロージャは自分の事のように悔しがった。
そんな彼の横顔を、ラディウは眩しそうに見つめて、再び画面に目を戻す。
ちょうどシーズンの最終成績が確定したときのラグナス1の船内の様子も映し出され、メンバーが映った時にラディウは「あ、ヤマダさんたち!」と、彼らの元気そうな姿を見て嬉しそうに声をあげた。
「ユキさんやヤマダさんに、また会いたいな……」
視聴を終えて、ラディウが頬杖をついて呟くと、そのままヴァロージャの方に顔をむけた。ついさっきシャワーでも浴びたのだろうか、彼女が動く度に微かに石鹸の香りと、さらりとした艶やかな髪から、優しげな甘い花の香りがした。
「ヴァロージャは? ラス・エステラルに行きたい?」
「そりゃあね。もし行けるチャンスがあったら……」
ヴァロージャは隣で微笑む少女と目を合わせた。
「もしその時があったら、一緒に行こうか?」
柔らかい笑顔を湛えてヴァロージャが尋ねると、ラディウの瞳が嬉しそうにキラキラと輝いた。
「うん。行く! 実はね、またラス・エステラルに……ラグナスに行けたら、ホビーのシミュレーターをやらせて欲しいって思っていたの」
「本当に、飛ぶことが好きなんだな」
ラディウは嬉しそうに「うん」と頷き、以前メテルキシィのシミュレーターで、ホビー機の操縦を再現しようとして失敗した話をヴァロージャに聞かせた。
「同じにはならないけど、設定にコツがあるんだ。データを持っているから、帰ったらそれもやろう」
「ありがとう。嬉しい! やりたい事が増えた」
心底嬉しそうに彼女は笑い、それから二人で色々な話をした。
好きな映画、最近読んだ本の話。おすすめの食堂のメニュー。
大切にしている物の話になった時、ヴァロージャは右腕の時計をそっと撫ぜた。
「士官学校の卒業祝いに、ジムから貰ったんだ」
普段、艦内では左手首の端末で時間の確認やスケジュール管理もできるので、腕時計を別で身に着けている者は少ない。
「普段は置いてくるんだけど、今回は持ってきたんだ」
ヴァロージャはわざわざ外してラディウに手渡すと、彼女は両手でそれを受け取り、彼の温もりが残る時計をじっと見つめた。
「そっか。宝物だね」
堅牢なアヴィエイターモデルの時計のケースをそっと撫でてから「ありがとう」とヴァロージャに礼を言って時計を返す。
その時、ラディウの手首の端末がバイブレーションの、低い唸りを上げて時間を知らせた。彼女はちらりとそれを確認すると「あ、もう行かなきゃ。またね」と言って立ち上がる。
「あれ? 今日はまだ何か仕事があった?」
「うん、ちょっとね。会えてよかった。それじゃ」
ドア近くの椅子の上に置いた荷物を抱えて、彼女は慌ただしく部屋を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、ヴァロージャは微かに心がざわつくのを感じた。
「ねぇトーマス、ラディウ知らない?」
トムが居住区の通路を歩いている時、背後からルゥリシアが呼び止めた。
「ラディウ? いや、見てないけど?」
昼に皆と食事をした後、てんでバラバラに別れてしまった。
ラディウは部屋に戻るといい、ヴァロージャとスコットはメリナに呼ばれてハンガーデッキへ行ってしまった。その後、彼女が何をしていたかは男女別のエリアでは知りようがない。
「部屋に居なかったのよねぇ。私、この後シフトだから、この本をあの子に渡してくれる?」
ルゥリシアはトムに一冊の文庫本を手渡した。
今どきデジタルではなく、紙の本を愛好して貸し借りをする者は稀だが、好む者は一定数いる。ルゥリシアとラディウもそっち側だ。
「最新巻をあの子、まだ読んでないって言っていたから」
「わかった。預かるよ」
「お願いね」
ルゥリシアは手を振って立ち去る。
トムは彼女を見送ると、預かった本のタイトルを見て、パラパラとページをめくった。
「冒険ファンタジー? ラド、こんなの読むんだ」
紙の本と言えば、ラディウがよく捲っているのは飛行マニュアルだったり、テキストだったりとFAに関するものが多いが、そういえば彼女が12の頃からずっと手元に置いて、よく持ち歩いている本があったのをトムは思い出した。
トムがまだアーストルダムで暮らしていた頃、彼女の愛読書の表紙が擦り切れて、ボロボロになっているの見たティーズが、彼女に革のブックカバーを買い与えていた。
その当時、中尉だったティーズからそれを貰った日に、彼女が紅い革で覆われた本を嬉しそうに見せに来た事を、トムは覚えている。
いつだったか、実験か何かでの待機中、それを読んでいたラディウに、同じ本ばかり読んで飽きないのか聞いた時、彼女は「これが一番好きだから」と言っていた。
「ここにきた時、セルフォンとかゲーム機は没収されちゃったけど、この本は没収されなかったし」
12歳の7月。ラボに連れてこられたあの日。
情報管理の一貫で、トムも自分のセルフォンと、攻略中の大好きなゲームが入っていた携帯ゲーム機は、その場で没収されて親元に返却された。
彼らが一般社会から隔離された瞬間だった。
その時、ラディウの手元に残ったのが文庫本一冊なら、彼の手元に残ったのは誕生日に貰ったテディベアのぬいぐるみ一個だ。
トムの自室のテディベアも、ラディウの文庫本も、何も知らない普通の子供として生きていた時間の象徴だ。
――彼女は今回もあの本を持ってきているのだろうか。
トムは本の表紙をそっと撫でる。
今日会えなくても、朝のミーティングの時に渡せば、その後の待機時間中に読めるだろうとトムは考え、今から彼女を探すことはしなかった。
この本を渡すと、きっと嬉しそうに
「……俺もこのシリーズ読んだら、彼女ともっと話が合うかな?」
――そうだ艦のライブラリーを調べてみよう。
トムは文庫本を片手に急いで自室へ戻っていった。
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