後藤新平と医学

 それもそのはず……。


 後藤新平は(北里柴三郎と一緒に)ドイツのコッホ研究所で細菌学を学んでいたのである。


 そのころの医学界の最先端は細菌学だった。


 その第一人者、コッホの研究所で大要だけでも学んでおきたいと思った後藤の申し出に、コッホは言った。


「北里が自分の研究室に君を置いて指導するならよろしかろう」


「はい。日本の役所では私が上司ですが、ここでは北里君の弟子になります」


 その答えに、コッホは感心した。北里は、すでに相当の実績を上げていたのである。


 ここでもしもの話だが、北里柴三郎がコッホの信頼を得ていなかったなら、後藤新平が細菌学を学ぶことはなかったかもしれない。

 そうなれば『陸軍検疫部報告書』を書くことはなく、ドイツ皇帝から褒めらることもなかったであろう。


 そもそも後藤新平は、なぜ医者になったのだろう?


「医者という仕事は権力者や金持ちの従僕です。私のやる仕事ではありません」と、後藤少年は江戸時代の御典医を想像していたのだろう。


「君は血気盛んで上の者の言うことを聞かない。そういう人間がはじめから官吏になったらとんでもないことになる。いったんは医者になり、人に膝を屈することを覚え、それから先のことを考えたらどうか」と、恩人の阿川光裕にさとされ、福島洋学校で英語の準備を始めるのだが……。


「私は君に、医学で一生を終われとは言っていない。まず医学を修め、それからさらに高みに登れと言っている。それが理解できないか。君は一生を測量で終わることができるのか」


 後藤も阿川の言いたいことが分かってきた。

 数学者や測量学者になったのでは、その先の展望が広がらないのだ。


「まず、医者になります。それから、医者の世界を直します」


「うん、それから世の中を直せ」


 こうして後藤新平は、福島の県立須賀川医学校に入り猛勉強にあけくれた。


 満19歳で既に医師として通用するようになっていたらしい。


「板垣死すとも、自由は死せず!」


 明治十五年の岐阜事件で、板垣退助が暴漢に襲われた時に叫んだとされているが……。


「私は愛知県医学校の病院長だ」と名乗って手当てをしたのが、当時25歳の後藤新平だった。


  板垣の寝ている部屋に入ると、新平は大声をかけた。


「ご負傷だそうですな。本望でしょう」


 これには板垣も思わず笑みを浮かべた、という話もある。

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