第一部
第1章:異世界の少女
「あっ、あの熊の化け物は? 痛っ……」
先程まで迫っていた脅威を思い出し、悟は身体を起そうと腕を地面につくと鋭い痛みが走った。視線を痛んだ部分に向けると白いワイシャツの袖に血が滲んで汚れた朱に染まっていた。
「ちょっと、大丈夫? さっき転がった時に傷ついたの?」
正体不明の少女が悟の腕を取り、袖を捲り上げる。皮が剥けて血が出ている痛々しい傷口が露出した。
「大丈夫。ちょっと擦り剥いただけだ。それよりさっきの熊みたいな化け物は?」
全力で駆け抜けてきた森の方に視線を向ける悟。小川を挟んで鬱蒼とした森が存在しているその入り口で先ほどの獣が四つん這いでじっとこちら睨んでいた。その右頭部は焼け体毛がなくなり爛れた肉が露出していた。
「あのグリズリーなら大丈夫よ。冥路の森のモンスターはあの小川を越えてこちら側には来ないわ」
少女は悟にそう言うと立ち上がり、掌を広げて腕を突き出した。
『我らが女神よ、力なき我らに炎の導きを』
少女が謎の呪文を呟くとその瞬間彼女の掌中が鋭く光り、小さな火球か飛び出して小川の向こうにいる熊の近くに落ちて爆ぜた。
「グオォォォッッ……」
熊は驚いたように唸り声を上げ、後ろ足で立ち上がり2、3歩後退する。再び四つん這いになると巨体を翻して深く暗い森の中へと消えていった。
「これでもう大丈夫よ。それよりもあなたの怪我は? すごく痛む?」
悟は呆気に取られて何も言葉を発せずにいた。
(マジか……手から火の玉を出したぞ、この子。……魔法ってやつか?)
何も言えずにいながらも悟の頭は何とか現状を把握しようと目まぐるしく動いていた。
--あの熊の鋭い爪が自分に振り下ろされそうになった時に熱を持った何かが自分の近くを通り過ぎて、次には熊の頭部が燃えていたのはこの子の力だったのか--。
--あの森の名前は冥路の森で、あの熊の化け物の名称はグリズリー、グリズリーから俺を助けてくれたのはこの子が放った魔法らしきもの。この子は一体何者だ? 助けてくれた以上俺に対して悪意を持っているわけじゃなさそうだが--。
「ちょっと聞いてる?」
悟が少女の問いに答えず沈思黙考していると、彼女は怒ったように眉を顰めながら詰め寄ってくる。
「あっ、ごめんごめん。いや、あの、取り敢えずありがとう」
「はい? 何が?」
いきなり悟にお礼を言われて首を傾げる少女。
「あの熊の化け物から救ってくれて。あいつが俺に攻撃しようとした時にあの火の玉みたいなのを君が出して助けてくれたんだろ?」
「そうだけど……」
「あれって魔法? どういう原理で出してるの? あの森には他にもあの熊の化け物みたいなモンスターがいるの?」
矢継ぎ早質問を繰り出す悟に少女は少し気圧されながらも悟の腕を掴んだ。
「質問に答える前にまずは怪我の治療ね」
「あ、ああ」
悟の腕に生々しくできた傷口に少女は掌をかざすと深く息をつき
『我らが女神よ…我らに与えられた治癒の能力に手を貸し給え』
そう少女が呟くと火球を放った時と同様に彼女の掌が光ったかと思うと悟は奇妙は感覚を味わった。傷口の部分に心地良い温かさを感じたかと思うとその温かさが熱とむず痒さを持ち、やがてその感覚も落ち着いたかと思うと痛みが無くなり、傷口自体も綺麗に無くなっていた。
「嘘だろ……」
傷口が綺麗になくなった腕を凝視しながら悟はまたしても言葉を失った。
「触ったらダメよ。表面上傷が綺麗に治ったように見えるけど完全に治癒するには少し時間がかかるから」
呆気に取られている悟に指を立てて注意事項を述べる少女、その表情はどこか得意気だ。
「で、質問だけど、あなたは誰? 冥路の森で何をしていたの?」
不思議そうに自分の腕を眺めている悟に少女が詰問する。
「あ、ああ……その前に俺から一つ聞いていい?」
「別にいいけど……何?」
「ここは天国? それとも地獄?」
「……あなた頭、大丈夫?」
目の前の人間が何の意図で何を言っているのかわからないという風に少女は怪訝な表情を浮かべた。眉根を寄せてもその整った容姿が崩れないのを見て悟は「本物の美人だな」と内心で呟いた。
「ああ、どうやら大丈夫じゃないらしい……全く持って信じられないような話なんだけど聞いてもらってもいい?」
周りくどく話すのは相手に不信感を持たせるだけで逆効果だ。ならばストレートに事情を話そうと悟は決心した。
「わかった。どうやら混みいった話みたいね」
少女は花畑の上に座り込み、足元まで丈のあるロングスカートの裾を気にしながら横座りになって話を聞く体勢をとる。悟もボサボサ頭を掻きながら胡座をかいて座り、少女と真っ直ぐ相対して口火を切った。
自分がここではない世界の日本という国にいたこと。大学からの帰り道に事故で命を失ったこと、目を覚ますとあの冥路の森にいたこと、彷徨い歩いてあの熊の化け物--グリズリー--に遭遇したこと。それらをなるべく相手に理解してもらうように話の順序に気をつけながら、丹念に言い聞かせるように語った。
「信じられない……」
悟の話を一通り聞き終えると少女はただでさえ大きな瞳をより一層開いて悟を見つめる。
(信じられないか……無理もない、俺自身が1番信じられないんだから)
悟はため息つき頭をボリボリと掻く。どうすればこの突拍子もない話を信じてもらえるか考えあぐねていると、呆気に取られた表情を浮かべていた少女が突如口を開いた。
「あなた……異界人なのね!」
腰を上げて悟の方に身を乗り出す少女。少女の長い黒髪が揺れて甘い香りが青年の鼻腔をくすぐった。
「い、異界人?」
身を乗り出してきた少女から離れるように後退りする悟。
「そうよ! 信じられない! 本当に実在したなんて」
さらに身を乗り出し悟に詰め寄る少女。少女の整った顔が悟の眼前に近づき彼女の澄んだ瞳がこちらをじっと見ている。
「あ、あのとりあえず……顔が近いんで離れてくれない?」
眼前に迫る整った容姿に気恥ずかしさが込み上げて来て、仰反るようにして顔を背けながら少女に訴える。
「あっ、ご、ごめんなさい……。つい興奮しちゃって」
少女も自分が悟にかなり近距離で詰め寄っていた事に気がついて顔を赤らめてパッと距離をとる。
「いや、別にいいいけど。あの……とりあえず色々聞いていいかな?」
「え、ええ」
気恥ずかしさを誤魔化すように後毛を耳にかけながら少女は返事をする。
「えっと、そうだな、まずは自己紹介が必要か。俺の名前は夢宮悟。君の名前は?」
「ユーノよ。ユーノ・ブランド」
「ユーノ……」
偶然の一致--そんな言葉で片付けられないような符号だった。幼馴染の柏木柚乃に容姿が似た少女の名前がユーノ--名前まで似ているとは。
「何? 人の名前になんか文句があるの?」
ジト目で悟の内心を探るように見るユーノ。悟が自分の名前を聞いて目を丸くしているので気を悪くしたのだろう。
「いや、ごめん。知り合いに君に似ている奴がいて、その上名前もそいつと似てたからさ」
慌てて訳を説明するがその場で思いついた言い訳がましいな、と悟は内心苦笑する。
「知り合いねぇ……別にいいけど……」
口を尖らせジト目をさらに細くするユーノ。やはり悟の説明をその場で取り繕った言い訳だと思っているのだろうか?
「じゃ、じゃあ、次の質問だけど……ここはどこ?」
記憶喪失者か俺は--フィクションの世界での記憶喪失者お決まりの台詞を口にしてあまりにも間が抜けているような気がしてしまった。
「ここはユクラシア大陸にあるルイド帝国の近くにあるルヴィツイラ領よ」
悟は眉を顰めた。聞き慣れない胡乱な単語が飛び出してきた。
「ユクラシア大陸、ルイド帝国、ルヴィツイラ……」
噛んで含めるようにそれらの言葉を唱和する。悟が生きていた世界ではどれも存在しなかった大陸、国、地名だ。いや、世界のどこかにそんな地名が存在していたかもしれないが少なくとも悟は聞いたことがなかった。
「じゃあ、もう一つ質問。さっき言ってた異界人っていうのは……」
悟の言葉を聞いてユーノが再び目を光らせた。
「この大陸に古くからある伝説よ。世界がまだ未発達だった時代にこの世界ではない別の世界で命を落としたという異界人が現れてこの世界に存在しない知をもたらした--そんな伝説があるの。あなたの話に出てきた自動車っていうはこの世界にはないわ。つまりあなたが別の世界で命を落とし、そしてこの世界に来たっていう証拠ってことじゃない!」
段々口調が速くなりついには声を高らかに上げて興奮を隠せない様子のユーノ。一方で悟はようやく自分の置かれたこの現状を表現する的確な言葉を見つけた。
--異世界転生。いやこの場合は正確には異世界「転移」だろうか?
前世の世界で何度か読み、見たフィクションの設定、あるいはジャンルだ。
ある日突然命を落とした主人公が特殊な能力を授かり別の異世界に転生して活躍する系統のファンタジー作品。
(と言っても何かの力に目覚めた感じはしないんだが……)
現時点で身体の感覚は何も前世と変わらない。もしかしたら気づいていないだけで何か力に目醒めているのかもしれないが--それを確認するのはまだいい。それよりもこの世界の情報を手に入れることが先決だ。
「なるほどユーノさんのお蔭で大体自分の現状が把握できてきたよ。で、まだ聞きたいことがあるんだけど」
「ユーノでいいわよ。あたしもあなたのこと悟って呼ぶから、で、聞きたいことって?」
ユーノのフランクな口調で悟は肩の力が抜けたような気がした。
「じゃあ、ユーノ、先の話でここがルヴィツイラってことはわかった。ユーノはルヴィツイラの住人なのか?」
「ええ、ルヴィツイラの住人よ」
「ルヴィツイラの街はここから近い?」
「ええ、歩いて1時間くらい、馬車だと20分くらいかしら」
--近くはないだろ。そこそこの距離だ。と悟は言おうとしたが自動車が存在しないこの世界では移動時間の概念にズレがあるのかもしれない。
「頼みがあるんだが俺をルヴィツイラの街まで連れててってくれないか?」
「それはいいけど……来てどうするの?」
ユーノの問いに悟は苦笑してしまう。そうそれが問題だ。
「それをどうするか考えるために行くのさ。この世界の知識もない、金もない、知り合いもいない。ないないずくしでどうしようもないから取り敢えず街に行って……どうすればいいか考えたい……」
喋りながら改めて自分の置かれた現状を理解して、感情がようやく動き出したのか悟は胸に込み上げてくるものを感じ、だんだんと声が小さくなっていく。
つい先ほどまでいつもと変わらない日常だったのに−−なぜ? どうして? 突如我が身に降りかかった理不尽に悟は思わず叫び出したい衝動をグッと堪える。それができたのは恐らく目の前にいる少女にそんな情けない姿を見せたくないというつまらないプライドがそうさせたのだろう。
「ねぇ……それならとりあえずあたしの家に来ない?」
思わぬ言葉が悟に投げかけられた。
「ふえ?」
「あたしこれでもルヴィツイラでは結構地位のある人間なのよ。って言っても実際に地位のあるのはあたしの父だけど。だから、悟の今後の身の振り方にも力になれると思う」
そこでユーノは言葉を切って、悟に人差し指を突きつけつけると再び続ける。
「その代わりに悟のいた世界の話を聞かせて、創作に役立てたいの」
「そうさく?」
自分の世界の話が一体誰を探す役に立つのだろうかと悟が頭を傾げると。
「ええ、あたし作家なの」
−−捜索じゃなくて創作か。ユーノの言葉で悟は自分の勘違いに気がつく。恥をかかずにすんだ。
「作家……小説家なのか?」
「ええ、最もまだ本を一冊出しただけの新人だけど」
「どんな小説を書いてるんだ?」
読書好きの悟はユーノがどんな作品を書いているのか興味を惹かれた。
「ありふれた騎士物語よ。だから何か新しい物を書きたいと思ってるんだけど中々いいアイデアが思い浮かばなくて……そこに伝説に残る異界人があたしの前に現れた。女神エミリーヌの導きだわ」
「つまり俺の世界の話を聞いて作品のアイデアを得たいと」
女神エミリーヌという聞きなれない単語がまた出たが取り敢えず悟は話を進める。
「そういうこと!」
嬉々としているユーノを尻目に悟はどうかな、と思う。彼女のいう騎士物語が具体的にどういうジャンルのものか正確には解りかねるが、言葉から悟がイメージするジャンルに近いものだと中世を舞台としたファンタジーだろう。だとすれば自分の世界の話が役に立つとは思えないがーー。
「なるほど。わかった……。ユーノ、俺の話でよければいくらでもするから……しばらく厄介になっていいか?」
せっかく寄るべのないこの状況で縋れる糸が悟の前に垂れてきたのだ。ならば余計なことは言わずにただ掴むだけだ。据え膳食わぬは何とやらだ−−いやこの場合は少し違うか?
「じゃあ、取引成立ね。ルヴィツイラの街に案内するわ……ってその前にここに来た本来の用事を済ませないと」
ユーノはそう言うと今まで座っていた場所に咲いている花を摘み始める。
「この花を摘むためにここに来たのか?」
「ええ、ルヴィツイラ領だとこの辺にしか咲いてないのよ」
青紫の小さな花を摘む少女の姿に悟は一枚の絵画に描かれた一場面のようだ。
「何ていう花なんだ?」
「ネモフィラよ。茂みの中の明るい陽だまりによく自生してるの。花言葉はどこでも成功」
「どこでも成功……ね」
「さて、行きましょう」
ネモフィラの花を摘むとユーノは立ち上がり先立って歩いて行く。悟も立ち上がりその後に続く。まだ、若干足が痛んだ。
「大丈夫? まだ足が痛むみたいだけど」
びっこを引きながら歩く悟をユーノは気遣わしげに伺う。
「ああ、大丈夫。少し痛むだけだから……」
悟は目の前に開けた景色を見て思わずで言葉を失った。どうやら自分がいたのは小高い山の上だったようだ。道がぐねぐねと蛇行しながら下の方へ続いている。そして、道を追うように視線を移していくと遥か先に美しい大きな海と街が見えたからだ。街全体は高い城壁に囲まれ海に面したところには港あり、街中には赤褐色のレンガで作られた切妻屋根の家々が立ち並んでいる。
「あそこに見える街がルヴィツイラよ」
ユーノは風になびく髪を片手で抑えながらもう片方の手で悟の視線の先を指差す。
(ドブロブニクみたいだ……)
ルヴィツイラの美しい外観を眺めながら悟は写真でしか見たことのないクロアチアにある都市を思い出していた。
「この先に馬車を待たせてあるから、行きましょ?」
そう言ってユーノは悟を先導するように歩き出す。
「ああ、行こう」
悟は先行くユーノの手の中にあるネモフィラの花を見ながら思った。
(花言葉はどこでも成功……か。俺はこの異世界で上手くやっていけるだろうか?)
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