異界の賢人

九本九音

序章:森にて

 夢宮悟ゆめみやさとるは足元に生い茂る草木を踏みつけながら森を彷徨い歩いていた。頭上を仰ぎ見ると木々から枝葉が互いに手を伸ばすようにひしめき合い、太陽の光を遮っているせいで森の中は日中にも関わらず薄暗い。


 辺りは息が詰まるほど重い空気が立ち込めて静寂に包まれているが、時折その静寂を破るようにどこからか何かの動物と思われる鳴き声、木々から飛び立つ鳥の羽ばたきが響き渡り、その度に悟は反射的に身を固くして歩みを止め、しばらく様子を見るようにじっと耳を澄まして異常がないことを確認してからまた一歩歩き出すという動きを繰り返していた。


(どれだけ歩いた?)

 行き先のない薄闇の森の中を歩いてどれだけ経っただろうと考えた。1時間だろうか? 2時間だろうか? あてどない放浪が精神力ばかりではなく時間感覚をも奪っている事に気がつく。

(ここは一体どこなんだ……そもそも俺は……死んだはずじゃなかったか?)

 そう−−夢宮悟はあの時に20年余りの生涯を終えたはずだった。

 

 いつものように同じ大学に通う幼馴染の柏木柚乃かしわぎゆのと大学からの帰途の途中だった。悟と柚乃は大学から東の方角にある学生向けのアパートを借りていた。お互いの住むアパートの距離は歩いて5分程度だったのでスケジュールが合えば大学の行き帰りは一緒だった。その日の最後の講義を終えた後、肩を並べて2人で談笑しながら家路に着いていた。陽は傾きアスファルトに人、建物、車、様々な影を映して1日の幕引きのノスタルジックな場面を演出していた。そんなよくある夕暮れの情景を破った場所は街中の横断歩道だった。

 

 アパートへの帰途の途中、横断歩道で前方から沈みかけた夕陽のオレンジ色が降り注ぐのに目を細めながら悟は信号が青に変わったのを確認して渡ろうとした。その時、道路交通法を無視して大型のトラックが突っ込んできたのだ。

「悟っ……! 危ないっ……!」

 横断歩道を渡ろうとした時に彼女のそんな声が聞こえたような気がする。その次の瞬間、猛烈な勢いで体当たりされたような衝撃が全身を襲った。目の前が暗転し、天と地もわからなくなって意識が霧散した。

 身体全体に走る痛みで意識を取り戻した悟は気づくと茜色に染まる空を仰ぎ見ていた。アスファルトの固い感触から察するにどうやら公道に己が身を仰臥ぎょうがしているらしい。

 渡ろうとした横断歩道の向こう側の空から今まさに沈まんとする夕陽が悟に降り注いでいた。

(あぁ……これはヤバいな。死ぬ……)

 

 朦朧もうろうとする意識の中で悟はぼんやりと考えた。人間は死が迫る時に案外冷静でいられるものなのだ。脳がまるで他人の事のように「それ」を認識して客観的になれる。あるいはそれは自身の生命の危機から逃避しようとする脳の無意識の働きがそうなさしめているのかもしれない。

 極めて冷静に理不尽に訪れた己の死を感じながら、夢宮悟は幼かった時の事を思い出していた。彼と柚乃が小さかった頃、悟は柚乃を引き連れて近所探検と称して街中を遊び回っていた。

 

 柚乃は幼い頃極度の人見知りで誰とも外で遊ばず、家にこもりずっと絵本を読んでいるような少女だった。家にこもりがちだったため色白で、生まれついた容姿の良さと相まって近所では美少女として評判だったが、極端に内向的な柚乃を彼女の両親は心配して同い年の子を持つ近所の夫婦に相談したのだ。それが悟の両親だった。


「悟、柏木さんのところの柚乃ちゃんよ。仲良くしてあげなさいね」

 母にそう紹介されて柚乃に初めて会った時に悟は何も言わず俯き、こちらを見ようともしない少女を見て変な奴だ、と眉をひそめた。

「ほら、柚乃。悟君にご挨拶なさい」

 少女は母親に促されて不承不承頷くと一歩前に出て顔を上げた。

「ゆのっていいます。よろしく……」

 悟はこちらを窺うように視線を送る少女の白磁機のような白い肌と肩まで伸びた美しい黒髪−−可愛らしくハーフアップブレイドに纏めている−−を見て思わず言葉を失った。可憐で、尚且つ触れたら壊れてしまいそうな儚さがそこにあったからだ。

「ゆめみやさとる……よろしく」

 何やらわからぬ気恥ずかしさを感じながら悟はそう自己紹介をした。それが2人の出会いだった。最初の出会いこそ噛み合わぬ歯車のようなぎこちなさがあったが、共に過ごす時間が潤滑油じゅんかつゆとなり2人の歯車は次第に噛み合い回り出した。そうなってからはいつも一緒に遊ぶようになるまでに時間は掛からなかった。

 そんな幼少期の幸せな記憶の中、悟は自我と生命を薙ぎ止める意識の綱を手の内からするりと手放してしまい目が覚めると薄暗い森の中にいたのだった。


「ふぅ……」

 歩きつかれて悟は大地から大きく突き出した巨木の根に腰を下ろした。すると尻に妙な感触を感じた。腰を浮かして履いているジーンズの尻ポケットに手を伸ばす。

「ははっ……死んでもこいつは手放せないってか……」

 ポケットから取り出したのは煙草の箱だった。中を開けると数本の煙草とライター。悟は迷わず一本咥えて火をつけた。肺まで大きく煙を吸い込むと

「ふぅー」

 先ほどの疲労によるため息とは違う満足感が混じった息を紫煙しえんと共に吐き出した。

 

 −−吸いすぎはよくないよ。


 紫煙を燻らしながら柚乃の言葉を幻聴のように思い出していた。遵法精神に基づいて20歳を迎えてから吸い始めた煙草だったが柚乃はいい顔をせず口癖のようにそう言っていた。柚乃自身が煙草の煙が好きではなかったので悟は彼女の前では極力吸わないようにしていたのだが、柚乃はそれとは別に本心から悟の健康を気づかって進言していた。

(あぁ……参ったなぁ……)

 

 悟は目を閉じた。涙腺が緩み、視界が滲んだからだ。それが煙が目に染みたからではないことは身の内から込み上げ、心を締め付け、思わず叫びたくなるような衝動から明らかだった。

 満ちた潮が引くように込み上げた思いが落ち着くのを待ってから悟はゆっくり目を開いた。

(しかし、妙なもんだ)

 気持ちの昂りがかえすのを避けるように悟は別の事に思考を向けた。彼は自身のことを純粋論理を信奉し、感情的になることを抑えられる人間だと思っていた。

(死んだはずなのに、視覚、聴覚、嗅覚といった感覚も生前と変わらないように感じる。いや、死後の感覚についての経験がないから生前と死後の感覚に違いがあるのかどうか知らんが……)

 それを抜きにしてもおかしいのはこの煙草だ−−と考えながら悟は紫煙を吐き出す。

 この煙草は間違いなく生前、それも死ぬ直前に自分が持っていた煙草だ。銘柄も同じキャスターだ。死後の世界に現世のものがついてくるのは明らかにおかしい。ひょっとするとそのもの自体ではなく死んだ自らの意識が作り出している幻なのだろうか?


「あほらしっ……」

 短くなった煙草をもみ消して悟は立ち上がる。考えたところで論理的に結論が出せるような問題ではない。ならばまずやるべきはこの森を彷徨っている状況をなんとかすべきだろう。

(といっても何とかなるもんなのかね……)

 ひょっとしたらここは地獄で自分は永遠にこの森を彷徨い続けるのかもしれない。夢宮悟は20歳で亡くなり、地獄にある森の中を永遠彷徨うことになった−−そう考えた方がよっぽどこの状況に説明がつく。

(地獄の森で目を覚まして彷徨うとはまるで神曲のダンテだな。いや、ダンテは死んだわけじゃなくて、生きながらにして死後の世界を旅するんだったけか?)

 

 益体もないことを考えながら悟は再び歩み始める。

 疲労と共に空腹も覚え始めた。死んでも空腹になるとは理不尽だ。死ねば魂が肉体から離れて、疲労や空腹といった苦しみから解放されるのではないのか?

 ならばやはり自分は死んだわけではないのか? いや、確かに自分は死んだはずだ。根拠はないがなぜかその感覚と確信がある。

 とめどない思考を続けながら歩き続けていた時だった。悟の背後から「バキッ……」という音が聞こえた気がした。重量のある何者かが木々を踏みつけるような音だ。

 びくっ、として歩みを止める。息を潜めて悟は耳を澄ました。程なくしてその音が今度ははっきり聞こえた。


 バキッ……ガサッ……ガサッ……バキッ……

 

 木々を踏みつける音、葉をかき分ける音、それらが徐々に大きくなって悟に何か近づいて来ていることを知らせていた。

 音が途切れた。全身に緊張が走り、嫌な汗が背中を伝った。悟は意を決して恐る恐る後ろを振り向いた。振り向いた彼の瞳に巨大な熊のような生き物が四つん這いの体勢でじっと自分を睨みつけているのが映った。

(嘘だろ……おい……)

 どれだけの全長があるのだろうか? 黒と茶の混じった体毛に包まれた自分よりもずっと大きい巨体を僅かに上下させながら低く息をしている。

 悟は熊から視線を外さないようにして震える脚を慎重に動かして、後退りする。相手も警戒しているのか動かずじっとしている。

 

 一歩、一歩、熊を刺激しないように後退している時だった。「バキッ」と悟の足が枝を踏み抜いた。「しまった」と思うと同時だった。

「グオオォォォッッ!」

 音に反応したのか巨大な獣が咆哮を上げた。悟は全身が怖気立った。次の瞬間には踵を返して何かに弾かれたように走り出した。

「はぁ……はぁ……」

 薄暗い森の中を全力で駆け抜ける。背後から荒い息と低い唸り声が聞こえ、獣が追って来ているのをひしひしと感じる。足場が悪く地面に転がる枝や石に足を取られそうになりながら、死に物狂いで走る。幸いなことにスピードは悟の方が上なのか、距離を詰められてはいないようだ。

 

 巨木の上から垂れ下がっていた枝か蔓かが頬に当たって傷がついた。構わず走る。全力疾走のせいで心臓が早鐘を打っている。再び背後から「グォォォォ」という唸り声、重い足音が聞こえるが後ろを確認している余裕はなかった。呼吸が途切れがちになり、喉が乾いて焼きつくようだ。

 そんな死に物狂いの疾走の甲斐があったのか薄暗い森の景色に変化が現れた。前方が森の中と比べて明るい。生い茂る木々が途切れ、太陽の光が降り注いでいるのだ。


(森の出口か?)

 森から出れば熊ももう追ってこないのではという希望を持ち、悟は荒々しく呼吸をしながら必死に光差すその場所を目指す。

 森と外の境の辺りまで来た。もう少しだ−−そう思った瞬間、悟は大地から大きく出っ張った木の根につまずいた。

(しまっ……)

 目の前が暗転して2、3回地を転がった。身体中に痛みが走る。上半身を起こすとどうやら森の外に出たことがわかった。目の前にはちろちろと小川が流れており、その先には青紫の花が咲き誇る花畑があった。


「はぁ……はぁ……」

 悟が未だに乱れる呼吸をゆっくり整えていると背後に気配を感じた。

「グォォォッッ!」

 振り返ると森の中で追走劇を繰り広げた獣が後ろの二足で立ち上がって咆哮を上げた。その全長はゆうに悟の2倍はあった。反射的に逃げようとしたが転んだせいか足に痛みが走り、すぐには動けない。その隙を獣は見逃さなかった。前足を大きく振り上げてその先についている鋭い爪を悟に向かって振り下ろした。

(クソッタレ……!)

 悟は観念し、思わず眼を瞑った。しかし、獣の爪が悟に届くことはなかった。その瞬間何が起こったか分からなかった。「ゴオオォ」という低い音と熱量のある何かが自分の近くを通り過ぎたかと思ったら獣が「グゴゴォッォンッ!?」という絶叫を上げた。悟が眼を開くと獣の頭部が燃え、必死に頭を振って苦しんでいた。


(何だ? 何が起きた?)

 突然の展開に驚きと戸惑っていると

「そこのあなた!」

 今度は小川の向こうの花畑から声がした。悟が振り向くと1人の少女が立って彼を呼んでいる。

「小川を越えてこっちに来て! 早くっ!」

 少女の声に従って悟は痛む全身に鞭を打って走り出した。足元が濡れることも厭わず小川をざぶざぶと突っ切り花畑の上に転がるように倒れ込んだ。

 仰臥した悟の視線の先にはまばゆいばかりの太陽と息を呑むほど美しい碧空が広がっていた。

(助かったのか……)

 半ば放心しながら自らの身の安全を感じていると倒れている悟を覗き込む顔が現れた。


「大丈夫?」

 美しい少女だった。大きな目に筋の通った高い鼻と小さな口。肩まで伸ばした黒髪の先を青いリボンで纏めて右肩から垂らしている。清廉で知的な面立ちは深窓の令嬢という形容を悟に想起させるとともにある驚きを彼にもたらした。

(柚乃? −−に似ている……) 

 目の前に現れた深窓の令嬢は現世で死に別れた幼馴染の柏木柚乃に似ていたのである−−。

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