波の綾

01

 朝からどうもアオさんが浮足立っている。

 決して目障りだとかそんな事はないのだけれど、見るからにソワソワとしているのが丸分かりと言うか。けれど本人は必死に隠せている、と思っているようだ。

 私が起きて自室から出て身支度している時、朝食の準備をしているアオさんが鼻歌を歌っているのを背中姿だけど見ちゃったし。朝食の時も、ご飯を口に運ぶ度にいつも以上に口元が緩んでいたし。片付けの時も少し浮ついているのか、片付けの時間が圧倒言う間に過ぎ去った。

 分かりやすい神様だ。

「今日は何かある日なのか?」

 当然、彼の変化を察したのは私だけではなかった。このりが勉強中の私と雫玖くんに問うてきた。私達に、というよりは雫玖くん単体に対してだろうけれど。

 つまりということになるが、誰から見ても彼は浮ついている、ということである。私も察しているとばかりに雫玖くんに目を向ければ、彼もばれているのを察していたのだろう、顔を少し赤くして、片手で顔を覆いながら苦笑いを浮かべた。

「まあ、そうだね」

「アオさんがあそこまでソワソワしているもんね」

 いつも落ち着いていて、私達の様子を温かく見守ってくれている神様。わくわくしている、という表情は最初の対面の時に数回見たけれど、今回の様な、まるで人間のようなアオさんは初めて見た。

「今日は……」

 雫玖くんが口にしようとして、このりと一緒に興味津々と言わんばかりに彼の方へ目を向けた瞬間、――リィン……と鈴の音が屋敷の中に響いた。

 思わず天井を見上げたけれど、案の定鈴はそこに存在していない。けれど、この鈴の音は聞き覚えがある。

 私がこの屋敷にはじめて訪れた時、そしてこうして屋敷に泊まることが決まって雫玖くんがドアに向けて鈴を差し出した時。

 つまり、この屋敷に訪れようとしたときに響く音だ。

 それに気づいて玄関のある方へ目を向けると同時に、バタバタと駆け足が縁側から聞こえた。シルエットで分かった……アオさんだ。

「今から来る人を、アオさんはずっと待ってて、楽しみにしてたって事……?」

「そういう、ことだね」

 雫玖くんは未だに顔を赤くして、片手で顔を覆っている。思わず首を傾げた。

 そりゃあ、ここは神様の家だけれど、私みたいな人間やこのりみたいな別の神様だってこの家に入れている。きっとアオさんに用のある神様だって、きっと存在しているのだろうし、そんな神様達が家を訪れる事もあるのかもしれない。まあ、まだ一回も出会ったことはないけれど。

「大歓迎な様子だな。友人でも来たのか?」

「あ、それだともしかして、私達邪魔になるかな。自室とかに戻っといた方が良い?」

「あ、待って、大丈夫だから……」

 雫玖くんの静止の声も聞かずに、このりが障子戸を開ける。私もつられて立ち上がって、彼と同じく玄関の方へ顔を出して覗き見た。

 玄関には、スッポリと覆い隠すように何かを力強く抱きしめているアオさんと、そんな彼に抱きしめられて少し苦しそうに彼の背中をトントンと叩いている手が見えた。

「ああ、ナツ久しぶり。会いたかったよ……!」

「ちょ、ちょっとアオさん苦しいんですけど!」

 声が聞こえて、相手は女性だと分かった。つまり男女の強い抱擁を目にしてしまって、思わず頬が熱くなった気がして、両手で口元を多い雫玖くんの方へ顔を向けた。

 彼は未だに座ったままで、額に数本の指を添えて、苦笑いを浮かべていた。

「雫玖くん、ナツさん……って」

「ああ、母だよ」

 先日聞いた、トラベルライターのお母さんだ。アオさんという神様と結婚して、雫玖くんというハーフの子を産んだお母さん。

 今一度覗き見てみると、未だにアオさんの抱擁は続いていた。相手はもう諦めたのか、訴えの背中叩きを止めてアオさんの背中を撫でていた。

 どうやら、神様から一等愛されている人が帰ってきたようだ。



「どうも初めまして、雫玖の母の希龍ナツです。アオさんから曙美ちゃんのことは聞いてたよ」

「え、えっと、狐坂曙美です……。雫玖くんとアオさんには本当にお世話になっていて」

 アオさんから解放された雫玖くんのお母さんことナツさん。居間の座卓を挟んで立ちながら向き合って、彼女はにこにこと笑みを浮かべながら話してくれた。私はと言えば、ぺこぺこと何度も何度も頭を下げているのだけど。

 結局アオさんの抱擁から解放されたのはあの後少ししてからで、彼女は苦笑い浮かべながらアオさんから離れた所で、覗いていた私達に気が付いた。

 やば、とこのりと共に声を零したけれど、彼女は怒ることも無く、アオさんと少し話してから私達に手を振って、そのまま二人で其々洗面所や台所などに移動して行った。

 そして、大きなキャリーバックを部屋の片隅に置いた彼女は、私達と改めて対面し、笑顔で挨拶をしてくれたのだった。

 ていうか、アオさんからどこまで聞いてるんだろう。家で私を預かる、というのは聞いたんだと思うけど、なんだか恥ずかしいな。

「えっと、この子は私についてきちゃったこのりで……」

「世話になってる」

 もう少し言葉使い気を付けて! と小声でささやきながら、彼の脇腹をつつく。

 そんな私達の様子を見ても、ナツさんは笑みをこぼすだけで、怒る素振りも気分を害している雰囲気も感じない。

「す、すみませんこの子ちょっと生意気で……」

「おい」

「全然大丈夫。寧ろ可愛いと思うよ」

 口元に手を添えて、あははと笑い声を零した。

 このりの頭を下げさせようと頭に手を乗せて力を込めて、逆に彼から反発の力が来て、二人で力比べのように戦っている私達を、微笑まし気に、そして少し面白そうに見ていた。

「まあいつまでも立ってないで、座って座って。ゆっくり話もしたいし」

 ほらほら、と私達に座ることを促してきたナツさん。家に勝手にお泊りしてる息子と同い年の女子高生を見ても、私だったらちょっと気圧されそうなこのりの生意気な雰囲気を見ても、相手は全然気にしない。懐が広いのか、それとも、深く考えないのか……。

 ちらり、と横目で雫玖くんの方へ目を向ければ、彼は苦笑いを浮かべているけれど。

「えっと、まあ、神の妻になっちゃったから……色々と縁があるんだよね」

「そうそう。それに比べたら、全然気にならないよ」

 ああ、きっと感覚がマヒしたんだ。

 あまりにもスケールのデカい内容に眩暈がしそうだった。そうだよね、神様……それもきっと上位格だろうアオさんの奥さんとなれば、同じような神様と会ったり話したり、縁もあるだろう。私では想像できないような凄い出来事も、きっと経験しているだろう。

 そもそも、彼女も私と同じ様に海に落ちてアオさんと出会ったと雫玖くんは言っていた。だから、この家に居る理由も多少は理解できているのかもしれないし。

「……悪かったな、生まれたばっかりの雑魚で」

「このり、そんな事……」

 機嫌を損ねたのか、口を尖らせながら、ぷいっとそっぽを向いた。

 そんな事ないと言いたかったのだが、思わず言葉が詰まる。彼の話を聞く限り、彼は私の実家の隣の稲荷神社の神様(狐)だから、見目は少年くらいだけれど、神様としての年齢としては、アオさん達からすれば赤ん坊くらいなのかもしれない。だから、アオさんはこのりの発言に一々怒ったりしない。だって、相手は赤ん坊だからね。

 でも、私からしたら、人間からしたら神様という存在はそれだけで充分凄いことではあって。だけど、彼はそんな言葉を求めてはいないんだろう。当然の事実なのだから。

 なんて声を掛ければいいのだろうと言葉に詰まっていれば、ぽん、とこのりの頭に手が乗った。

 彼も驚いたのか尻尾が立って、もふっと私の顔面にあたったし。案外痛い。その尻尾をどけながら手の主に目を向ければ、どうやらナツさんだったらしい。

 このりも最初は驚いて目を開いていたが、慌てて手を振り払おうとするが、その前にナツさんは頭を優しく撫でていた。

「ごめんね、言葉が悪かったかな。君達神様はやっぱり難しいね」

「何だよ」

「確かに貴方は神様としては若いのだろうけれど、その分未来があるのよ。それは人間も同じだけど」

 彼女はこのりの頭を撫でながら、私と雫玖くんの方へも顔を向けて、にこりと笑みを浮かべた。

「若い子の特権は未来や希望で溢れている事。何かを成す為への時間がある事」

「何かを成すための時間……」

「そうだよ。先人達はその時間は過ぎてしまった。時間は戻らない。だから、先人達を超えるチャンスを後輩たちは持っているわけよ」

 ナツさんは手を離して、ぐっと両手を握って笑みを浮かべた。

「勿論、先人達はその過去の時間で得た物がある。それは素直に認めた方が良いのかもしれない。けれど時代はどんどん進化している。考え方だって力の得る方法だって容量が良くなったりして来ている。自分達だって負けないぞ、って気持ちも大切よ」

 ナツさんの言葉を聞いて、最初は呆けていたこのりだったけれど、次第にその口元は緩んでいき、笑みへと完全に変わった。

「まーね。じじい達とは違って成長の見込みしかないし? 向こうは衰えるばかりだもんな」

「失礼だなあ」

 台所の方から声がして皆で目を向ければ、アオさんが笑って立っていた。お盆を手にして、そこには人数分の湯呑と急須が置かれていて、彼はナツさんの隣に腰かけると、私達其々にお茶を配り始めた。

 いつから聞いてたんだろう、なんて考えちゃいけないかもしれない。

「ナツさん、ありがとうございます」

 ぺこり、と頭を下げれば気にしないでと彼女は優しい笑みを浮かべた。

 やっぱり、お母さん、なんだなあ。それも、神様に選ばれた。

「ナツも立派になったよね。昔はずっとマイナス思考だったのに」

「恥ずかしいからやめて下さいよ」

 目の前で夫婦のじゃれ合いを目にしてしまった。思わず目線を逸らしながら、湯呑に入っているお茶を啜った。雫玖くんは慣れているのか、それとも「また始まった」と言わんばかりの表情なのか、少し判断が難しいけれど、ジトリとした目で私と同じ様にお茶を啜っていた。彼にしてはお行儀悪く、少し音を立てながら。


 だけど、私の知らない光景だ。私の両親は、いつも言い合いをしていたような気がする。目の前の仲の良い掛け合いではなくて、声を荒げての掛け合いが多かった気がする。その時の大体の理由は、私が多かったと思う。

 私の成績が悪いのはどうしてだ。そんなの知らないわよ。

 そんな感じの討論が、聞こえる事が多かった。直接怒られているわけではないけれど、自分を否定されている気がして、私はいつもすぐにその場から離れていた。

 そもそも、私の母親は、あんな風に、私に優しい言葉を掛けてくれたことは無かった。このりを見て、何だから羨ましいと感じてしまった。

 雫玖くんがどうして優しくて、私(他人)を気に掛けられるのか、言葉を選べるのかが分かった気がする。人間が好きで優しく見守る神様のアオさんと、相手の話を聞いて更にほしい言葉をくれるナツさんの子供だからだ。

 学校で孤立してしまったとしても、彼には、最大の味方が居たのだ。

「良いなあ」

 ぽつり、と無意識に言葉が零れた。

 ハッと意識を戻せば、どうやら隣に居た雫玖くんにもこのりにも聞こえていなかったようで、ホッと安堵の息を零した。

 こんな言葉、聞かれたくない。聞かれるわけにはいかない。だって雫玖くんは私を善意で助けてくれた人なのに。

 なのにどうして、謎のもやもやがあるのだろう。神様の注いでくれお茶を飲んで喉から身体の中に通って行ったけれど、もやもやは一緒に流れて行ってくれなかった。それがひどく悔しくて惨めで、こっそりと唇を噛みしめた。

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