03

「わあ……」

 彼に案内されたのは書庫だ。壁一面が本棚になっていて、沢山の本が丁寧に詰め込まれていた。壁の本棚の他にも、ボックス型の本棚も置いてあり、そこにもちゃんと本が入っている。そこらの本屋より品ぞろえが良いんじゃないだろうか、と思う程の量だ。

 彼の家系の性格なのか、ちゃんとジャンル分けもされている。歴史書や純文学に童話等々……ここまで幅広い本を持っているのは稀ではないだろうか。

「沢山本があるんだね」

「そうだね。ほとんどが父が集めた本なんだけど……面白いんだって、彼曰く」

「え?」

「そうだろうな。本にして書き記すなんて人間にしか出来ない。俺でも面白いと思うよ」

 このりは近くにあった一冊の本をとり、ぱらぱらと捲る。

「本当に器用だよな。物語を綴るのも、本の中に世界を作ることも、写真を撮り、それをまとめる。絵を描いて、見て感銘を受ける。他の生き物では考えられないようなことをする」

 言われてみれば、そうかも?

 他の動物ではできないことを、人間は行っている。偶に絵を描くゾウとか猿とかテレビで見るけれど、それとは違う。自主的に己の表現を見つけて得ている。それはきっと、人間特有のものなのだろう。

「でも、君みたいな神様なら書けるんじゃない?」

「さあ、どうだかな。物好きは書いてるかもしれないけど」

 彼は雫玖くんの方を見て、薄く笑みを浮かべた。彼の視線を追う様に雫玖くんを見てみれば、彼は小さく笑みを浮かべていた。もしかして、アオさん何か書いてるのかな。

 それは、気になるな。神様の書くものってどんな感じなんだろう。ていうか、もしそれが世に出回ったらとんでもない騒ぎになるよね。深く考えるのは辞めよう。


「そうだ、曙美さんに見せたいものが……こっちこっち」

 雫玖くんに案内されたのは、一つの本棚。彼曰く、ここは全部写真集なのだそうだ。へえ、と小さく声を零し、背表紙を眺めていく。日本国内の絶景集から、花々に関する写真集に、一つの観点に絞った風景写真に、旅に関するものまで。風景もあれば、動物の写真もある。種類が豊富なので、背表紙を眺めるだけでも楽しい。

 ぱっと手に取った写真集のタイトルは『死ぬまでに行きたい世界の絶景集』だった。タイトルに小さく吹きだしてしまったのは、バレなかっただろうか。取りあえず開いて、ぱらぱらと捲ってみる。世界遺産を生かす色鮮やかな写真で埋め尽くされ、一つ一つの写真から、正しく命が芽吹いているようで、空気やにおいなどの五感に響くような、綺麗な景色の写真で埋め尽くされている。

「すごいね、こんなに集めて……」

「うん。父はあまり家……領土から出ないからね。こうした写真に自然と惹かれていったらしい」

「成程」

 神様も色々なタイプが居るものだな。私の傍で立っているこのりのように自分の神社から飛び出しているのもいれば、自分の領土からは出ないようなタイプもいるのだろう。

「ていうか、このりは私と一緒にここに居て大丈夫なわけ?」

「ん? ああ、問題ない。本霊は置いてきてるし」

「本霊?」

「フレデリック・マイヤースの類魂説かな?」

 このりの言葉に首をかしげていれば、雫玖くんが写真集を手に取りながらこのりに対して問いかけてきた。

「なんだそれ」

「イギリスの古典文学者、詩人、心霊研究の開拓者のとある一節だよ。ある意味、彼は正解を言い当ててしまったのかもね」

 ふふ、と雫玖くんが小さく笑みを浮かべる。

 完結に彼は説明してくれた。『類魂説』とは、リーダー格である本霊を中心に、数十から数千にもおよぶ分霊が集まっているとされることを言うらしい。本霊と分霊達の意識は二つあり、一つは類魂による大きな意識体で、これは類魂全員がもつ共通した意識である。そしてもう一つはその霊の個性としての意識があるとされる。

 本霊は類魂のリーダー的な役割をはたす霊。分霊は体験した記憶や経験が、グループ(今回で言えばこのりグループとでも言えばいいのか)全体で共有されるとされている。まあ、分霊の霊格は同一とする説と、それぞれ違いがあるという説があるらしいが。

「成程。じゃあ、今のこのりは分裂みたいな状態なんだ」

「簡単に言えばそう。このこのりさんはあとで本霊に吸収されると思うよ」

 このりの方へ顔を向ければ、彼はこくりと頷いた。

 そっか、このこのりとは、そのうち会えなくなってしまうのか。それは、なんだか、寂しいな。


「話がそれたな。竜はどうやってこの沢山の本を集めたんだ?」

 私の表情を読み取ったのか分からないけれど、このりが話題を変える。それを察して雫玖は薄く笑みを浮かべた。

「父にも仲の良い相手はいるよ。その相手達が退屈だろうと沢山持ってきたらしいよ。父が言うには、だけど」

 ああ、でもたまに自分で買いに出かけることもあるみたいだ。と何か思い出したのかくすくすと笑い声を零した。

「小説も多いけれど、風景とか多いんだね」

「ああ、これはね、母の為らしいよ」

「雫玖くんのお母さん?」

「うん」

 そう言えば、未だに一度もお会いしていない。普通の家庭は、父より母の方が先に会う事の方が多そうなイメージなのだけれど。実際に、我が家も実家に帰れば、必ず家に居るのは母親の方だ。父親は遅れてやってくる。今の日本では、このパターンの方が多いと思う。

 まあ、この家に普通は今更通じないか。それに、アオさんはここに住む神様だもんね。神様が居続けるのは普通な事だろう。ていうか、居てもらわないと困ると思う。

 けれど、雫玖くんのお母さんか。確か人間と神のハーフと自身で言っていたから、お母さんは人間なのだろう。

 そんなお母さん……アオさんからすれば奥さんの為に、こうして沢山の写真集を集めるとは、アオさんかなり奥さん溺愛しているタイプ? その遺伝子を継いでいる雫玖くんも……いやいや、関係ないし、彼は関係ないし。

 頭の上に浮かんだ思考を払う様に、手をパタパタと動かした。

「母もね、曙美さんと同じ様に海に落ちてしまって、そこで父と出会ったんだって」

「へえ」

「当時の母も色々と悩みを抱えていたらしくてね、ここで過ごしていくうちに二人は親しくなっていったみたいだ。その時に、父はここの写真集を見せたんだよ」

「どうして?」

「母は、世界が狭かったから」

 とくん、と心臓が小さく跳ねたような気がした。まるで自分の事を言われているような気分がしたのだ。

 私の知っている世界は、今通っている学校の周囲(と言っても海以外本当に何も娯楽は無いが)と寮の自室、実家、それくらいで。漸く、友人の家という世界を知った。友人の家、にしてはインパクトは強かったけれど……。

「あの、お母さんは今は……」

「ん? ああ、トラベルライターをしてるよ」

「ええ!?」

 予想とは違う返答が帰ってきた。もしかしたら、最悪な展開もあり得るかもしれないと思ったから、さらりと返答されたこと、職業の内容の二つを合わせて、間の抜けたような声が零れてしまった。

 トラベルライター。つまり、旅行のガイドブックや雑誌、新聞、インターネットの編集生地を取材してくる仕事だ。日本は勿論、海外にも出向くのだから外国語のスキルも必要だろう。文章能力や人付き合いも大事だし、とても大変な仕事だと思う。

 驚いている私を横目に、雫玖くんは一冊の本を取り出す。

「これが母の初めて任せてもらえた雑誌」

 『夏に行きたい海絶景』というタイトルのトラベル写真集。ゆっくりと捲ってみれば、そこに広がるのは様々な表情を見せる青い海。夏の海って、濃い青のイメージがあったのだけれど、場所によって本当に違うんだ。

 パラパラと捲っていく。日本だけでなく、世界まで記載されている。これを、世界を知らない女性が、きっかけを得て沢山の世界を知り、作り上げたんだ。

「凄いね……」

「うん。母は本が出来たら自分の本を持って帰ってくるんだけど、父はその時は外に出て自分で買いに行くんだ」

 頬を人差し指で掻きながら、雫玖くんは少し照れくさそうに言う。

「けれど、そっか。アオさんは雫玖くんのお母さんにとっては、先生でもあり、父でもあり、旦那さんでもあるんだね」

 海に落ちてしまった、狭い世界しか知らない女の子。そんな彼女に色々な世界があることを、写真を見せる事で教えてあげた。そして彼の事だ、彼女に対しては一等優しく、丁寧に、大切に接していたに違いない。

 そして、彼女は世界を知る為に、自ら道を選んだ。きっと簡単なことではなかっただろう。勉学に、就活に、仕事に就けたからと言ってもすぐに仕事が出来るわけでも、己の意見を通した事を任されるわけでもない。それでも、この人は、アオさんに救われて、そして己の世界を見つけたのだ。

 正直な話、恥ずかしいことだが、もしかして、アオさんは奥さんと私をどこか重ねて見ている節があるんじゃないだろうか。そう思っていた。

 だけど、烏滸がましいな。私と奥さんは、全然違うと思う。

 私は今だに沢山のモノに怯えて、自分に自信が無くて、高校2年生なのに夢という夢も無くて、それなのに将来の選択肢を選べるほどの手札を手にすることも出来ていなくて。


「だから、今度どこか遊びに行こうよ」

 顔を伏せて、眠れない夜のような心地でいた私に向けて掛けられた彼の言葉は、まるで朝日が昇ってくるかのようだった。

 ゆっくりと顔を上げてみれば、優しい表情をした、愛しい物を見つめるような、淡く蕩けるような瞳で私の方を見つめていた。

「別に一つにこだわらないで良いよ。沢山見つけてほしい。それで、やってみたいことでも探してみても良いかもしれない」

「……でも、ちはるの誘いは断ったんじゃ」

「俺はね、曙美さんと一緒に思い出を作って、一緒に過ごしてみたいんだ」

「……私なんかで、良いの? 選べないよ、こんなに……」

 ぽつり、と一つの雫が写真の上に落ちた。そのまま、私の瞳から粒は零れて、ぽつりぽつりと、写真の海の上に水たまりを作っていく。

 そんな私の涙が浮かぶ目元を彼は優しく拭いながら、変わらず優しい表情を向けてくれる。

「これは受け売りなんだけどね。好きな物が一つだけだなんて、それだけじゃあ勿体ない。この世の中には、面白いものが沢山あるのだから」

 彼は小さく笑みを浮かべて、人差し指を立てながら柔らかい声色でそう言い、言葉を続ける。

 何でも良い。綺麗な風景を見るでも良い、美味しい物を食べるでも良い、思いっ切り体を動かすでも良い。歴史を辿るでも良い。冒険をするでも良い。やってみないと面白さってのは分からない。

 彼の言葉を聞きながら、写真集の方へ目を向けた。

 数々の綺麗な景色が、写真に収められていた。こんなに綺麗な景色を、私は知らない。死ぬまでに見たい景色、夏に行きたい海絶景、成程、言い得て妙である。

「好きな物は沢山あって良いのかな?」

「勿論だよ。まあ、俺も多い方ではないから、説得力はないかもしれないけれど……」

「はっ、意外と自分にハマってしまってそのまま深みに……なんて人間よくある話だ。好きも嫌いも、続けるも続けないも、上を目指すも目指さないも、決めるのはそこからだ。例え好きにならなくとも、得たものに無駄は無い」

 ずっと話を聞いていたらしいこのりが、尻尾で私の頬を優しく撫でながらそう言った。背中を向けて、少し捻くれたような口調の癖に、尻尾は優しさが隠せていないのだからズルい。彼の言葉は、神様だからだろうか。胸にストンと入ってくる。

「マイナスな事を考えるより、行ってみたいところ、やりたいこと、好きを見つけて、わくわくする方が楽しくないか?」

「……確かに」

 このりの言う通りかもしれない。

 写真集を今一度眺めてから、雫玖くんの方へ顔を向ける。彼は私の視線に気が付いて、優しく笑みを浮かべる。

 優しい友達である彼は、こうして、私を守って、そして送り出そうとしてくれる。それがなんだか、胸が温かくなるような気分がしたのだ。

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