02

 料亭にも引けを取らないであろう、美味しい朝食を無事に完食し、アオさんと共に食器を片付ける。

 食器洗いなどはアオさんがすると言っていたが良いんだろうか。そう悩んでいると「二人で勉強の準備でもしてきたら?」と笑顔で提案された。ついでに、飲み物の用意もしてくれるというサービス付きである。

 頭を下げて礼を述べて、座卓を丁度拭きおわったらしい雫玖くんと目がぱっちりと合った。

「終わった?」

「申し訳ないことに、アオさんがやってくれるって」

「大丈夫。いつもやっていることだから気にしないで」

 彼はテーブル用の消毒スプレーと、それを使って拭いたらしい布巾をもってキッチンの方へ向かって行った。

「このりは何してたの?」

「ん? ぼうっとしてた」

「想像通り」

 今度からは、一緒に食器を片そうね。そう告げれば、彼はこくりと首を縦に振る。

「曙美の言葉だもんな」

「全く……」

「曙美さんお待たせ。一緒に道具取りに行こうか」

「うん」

 彼に誘われるようにして、ぞろぞろ連れだって縁側にでた。海の中の、ひんやりとした空気が朝ご飯を食べすぎの身にこころよかった。

「夏休み明けのテストは、夏休みに勉強をしていたかの確認も含め、今までのまとめだからね……今までのテストとかある?」

「……あります」

 きっと使うだろうと思って、今年度分のテスト用紙は一応全部持ってきた。トランクの中に入っている。見られたら恥ずか死まっしぐらである。

「それじゃあ、それの復習から始めようか」

「本当に、えげつない点数なので、どうか、どうかお願いします」

 あと見限らないでくださいお願いします。そんな思いを込めて腰を90度に曲げてお辞儀すれば、彼は慌てて、大丈夫だとフォローしてくれた。

 どうやら、彼の部屋は客間(私がお世話になるお部屋)の隣だったらしく、丁度二部屋の間の辺りで一旦別れた。

 部屋の中に入ってから、キャリーを開ける。

 教科書、ノート、筆箱、電子辞書、過去の答案用紙。それらを、一つ一つ手に取っていく。

 少しでも点数が上がれば、私は、実家の、あの裁判のような目を浴びないで済むのだろうか。

 ふと、考える。だけれど、きっと、私が良い成績を取ったって、両親はまた別の目を向けてくるに違いない。そんなの当然だと。逆になぜ今までそんなに酷かったのかと。もっともっと上目指せと、満足するなと。

 お前は、自分たちの誇りなんだから、しっかりしてもらわないと。

 中学時代に言われたこの言葉が、呪いのように心を蝕む。どう足掻いたって、私に対する裁判は終わらないのだろう。

 それこそ、私が死ぬか、両親が死ぬまで。

「曙美さん大丈夫?」

「あ、うん! 今行きます!」

 思ったより呆けていた時間があったらしい。慌てて立ち上がって、障子戸の向こうに居る彼に向かって返事をして、小走りで向かう。

 やっぱり、扉の向こうに水、青、そう言ったものが広がっているのはなかなか慣れないものだ。

 どうかしたのかと雫玖くんに問われたけれど、何でもないと首を振って、再度今の方へ戻る。食事をとったのも居間だけれど、勉強をするのも居間だ。

 簡単に言えば、二人が向き合う、もしくは隣り合うテーブルがそこしかないからである。


 彼とぽつりぽつりと会話をしながら戻ってくるころには、温かいお茶が、人数分、座卓の上に置かれていた。紅茶とは違う、茶色のお茶。多分、ほうじ茶だ。少しだけ香ばしい香りと、ゆらゆらと揺れる薄く白い湯気。それを感じるだけで、少しだけ心が落ち着くような気分がする。

 座卓で向き合うような位置にそれぞれが腰を下ろせば、このりが興味津々な表情で私の横に腰かけてきた。

「えっと……これが……テストです」

 頭を深く下げながら彼に差し出した。

「そんなに頭を下げなくても……」

「いえ、本当に、酷いので……」

 彼はあくまで私と同等の立場である学生、子供だ。いくら成績が優れていようと、教師ではないのだ。本来であれば、勉強を見てもらうべき相手は学校の先生、塾の先生や家庭教師などとなるだろう。けれど、今回はあくまで学生という身分の彼に教えを乞うのだ。実際に、彼だって勉強をしないといけない身分なのに、彼の時間を奪ってしまう事にもつながるわけだし。大変申し訳ない。それと同時に感謝の気持ちで頭が上がらない。

 それに、己の不甲斐なさに顔を上げられない、というのもある。

 幼いころからの癖だ。親に説教されたり、色々苦言を浴びる際に、逃げるように視線を下げて、微かに頭を下げる。

 彼はゆっくりと私の手元からテストを受け取って、用紙を眺めているようだ。ふむ、と声を零しているのが分かる。そんな彼の一つ一つの動作に緊張が走る。

 評価されている。そう考えると、ばくんばくん、と体全体が心臓になってしまったんじゃないかって、そう思ってしまう程緊張していた。

「成程、曙美さ……曙美さん? どうしたの?」

「え? あ、ごめん」

 私がずっと顔を伏せていたのを疑問に思ったらしい。慌てて顔をあげれば、彼はきょとんとした表情で私を見ていた。

 怒ってない。あと、呆れられてない。

 それだけが分かるだけで、安堵の気持ちでいっぱいになる。アオさんに用意してもらった、温かいほうじ茶を一口含んだ。思った以上に、身体はからからに乾いていたらしい。口に、喉に、優しい温かみが染みわたった。

「もしかして、怒られるとか色々思った?」

「え!? そ、そんなこと……」

「はは、そんな怒らないよ」

 眉を下げながら、本心であろう笑みを零して彼は言う。

「曙美さん、少し公式を間違えて使っちゃったりしてるところあるから、そこを直すだけで点数はうんと上がるよ」

 公式から間違っているぼろくそ状態だと言われたような物だ。もう私の残りヒットポイントが限界に近い。くらりと眩暈がしたような気がしたが、謎の意地で何とか持ち堪えた。

 ということで、まずは求められている問題に応える公式を選び取る知識を身につけるところから、勉強会はスタートだ。

「この数式の答えを求めるには、これじゃなくてこの公式を使う」

 彼は数学の教科書をパラパラと捲って、とあるページに辿り着いて、固定するようにぐっと教科書を押し付けて見せてきた。

 問題を見て、どの公式が正しいかが分かって、教科書のどこに書かれているかも分かる。たまに居る器用な人が、その場限りでも大丈夫な用に覚えておく、という手段のレベルではない。彼は完全に理解してその素晴らしい頭脳に埋め込んでいるのだ。流石、順位のトップ争いに固定されているだけある。

「こうやって選択するのも難しいよね」

「おっしゃる通りで……」

「それで、今回の場合なんだけれど……」

 彼は教科書に書かれている公式を彼のノートに写し、そのまま丁寧に説明していく。

 例文で出てきた数式を利用して、数字を代入していく。彼の言葉を聞きながらも、彼の素早く動くシャーペンの動きに目が回りそうだ。

「どう? 出来そう?」

「う、うん……!」

 折角説明してくれたのだ。少しでも、理解しないと!

 そう思ってシャーペンを握る。小さい頃から鉛筆の持ち方が悪いと怒られていた。ぎゅう、と手に力をおめると手の腹に指の爪が食い込んでいたい。じくじくと突き刺さる痛みに、更に焦りが湧き上がる。

 何とかしないといけないのに。そう思っているのにそれに反するように、一向に私のシャーペンは動かない。

 「うぅ……」と小さな唸り声が自然と零れてしまった。すると、雫玖くんは、さりげなくアドバイスをしてくれる。そして、また一から説明をしてくれる。それなのに、理解力の低い私は、シャーペンを動かすことが出来なかった。

 きっと、分かる人にしてみれば簡単で、理解できて分かる問題なんだろうけれど。私はそれ以前の問題だ。

 頭の中に沢山のモノがぐるぐると回って、何が正しいのか、と自分で答えを選び取ることが出来ない。

 図書館で、目的の本を探せないでうろうろと彷徨っているような感覚だ。選べる人は、ジャンルとか作者とかで目星がつくのだろうが、私はその目星が全くつかない。ただ、うそうろと彷徨って本を探す。そして、求めている本を取り逃す。

「……やっぱり駄目だね、私。何回説明してくれても、理解できなくて」

 ごめんね。

 顔を伏せながら謝ると、ぎゅうとシャーペンと握る手に力が更に籠る。爪が更に食い込んできて痛い。

 彼の教え方はとても丁寧だ。普通より『分かりやすい』分類だろう。けれど、私は完璧に理解することが出来ないでいる。私は、彼の好意を無駄にしてしまっているのではないか。

 こんな出来損ない、両親、先生達のように品定めをしてくるように、見下ろしているんじゃないかって。

 彼では絶対にありえないはずなのに、つい考えてしまう。頭の中に過ってしまう。

「……曙美さん、ちょっと力を抜いて」

 私の右手に、雫玖くんの手が重なった。驚いて顔をあげると、彼は少し眉を下げながら、少しだけ寂しそうな表情で、けれど私を安心させるためにだろうか、必死に笑みを浮かべてくれている。

 優しい力強さで、ぎゅう、と握られた手は、じんわりと手から力が抜けていく。まるで、彼に余計な力を吸い取られたかのような不思議な気分だ。完全に手のひらが開くと、手の腹に私の爪が食い込んだ跡がくっきりと見える。彼はそんな痕をなぞる様に、優しく手を撫でてくれた。

「お茶も飲んで、少し余計な力でも抜こうか」

 そう彼が言うと同時に、このりが私の前にお茶を置いてくる。彼の方へ目を向ければ、このりは頬杖をつきながら、私の方をじっと見ていた。

「お前は、必要の無いような、余計な事を考える癖があるんだな」

「え?」

「俺は人間の勉学に関して詳しくなんかないが、たった一つの問題で、まるで追い詰められた被害者みたいな顔をするのは、普通ではないことくらいは分かる」

 ほら飲め、と言わんばかりに湯呑を頬に向けて押し付けてくる。ぐりぐりしないで、痛いから。

 いてて、と声を零すと同時に、湯呑がまだ温かいことに驚きと共に、心がホッとした。人間、温かい物に触れると、心が落ち着くようにでもできているのだろうか。

 押し付けられている湯呑を受け取って、お茶をゆっくりと口に含んだ。やっぱり温かい。

 彼の方へ向けば、彼は小さく笑みを浮かべていた。

「竜に教わりながらお茶を入れ直したんだぞ。だから飲め」

「わざわざ私なんかの為に?」

「なんかと言うな。お前は俺の価値観にケチつけるのか」

 むす、と口先をとがらせてきたので慌てて謝罪の言葉と共に、手を左右に振って、彼の価値観を否定したわけではないことを主張した。

「違う違う! そんなつもりはなかった、けど、ごめん……。お茶、美味しいです」

「もう一声」

「あ、ありがとう」

「ああ」

 ふふん、と腕を組みながら、彼は満足そうな表情で笑みを浮かべた。

 そんな私達の様子を見て、雫玖くんは小さく吹きだした。彼の方へ顔を向ければ、何回か小さく咳をして、吹きだしたのを必死に誤魔化しているようで、顔が少し赤い。何だか可愛い。

「このりさんの言う通りだよ。俺が自分から言いだしたことなんだし、曙美さんは余計な事とか考えないでいいんだ」

「え、あ……ごめん」

「責めてるわけじゃないよ。もっと気楽に構えていいんだよ」

「気楽に……」

 湯呑をテーブルの上に置いて、手を開いたり閉じたり、小さく手の運動をして、物理的な余計な力を抜こうとする。もう片方の手は、まだ雫玖くんに握られたままだ。

「さっきの問題だって、少しずつ理解できてる。答えがまだ出てないだけだ」

「……」

「一緒にもう少し頑張ってみよう。大丈夫、出来るようになる。自信持って」

 彼の手に力が込められて、さっきとは逆にぎゅうと力を分けてもらえたような気がした。

 大丈夫。私なら出来る。自信を持って。

 そんな言葉、どれくらい久しぶりに聞いただろう。ずっと、ずっと駄目だと否定な言葉ばかり聞いて、期待もされず、自信などとうにどこかへ捨て去ってしまった。

 彼の言葉の意味は、なにも現在解いている数学の問題に関する事だけではない気がした。他にも何か、私の心の奥底でずっと存在しているものに、少しずつ届いてきたような気がするのだ。

 雫玖くんの思いに、このりの心に、少しでも応えたい。

「同じところ、もう一度説明お願いします」

「任せて」

 最後にぎゅうと優しく手に力を込めてから、彼はゆっくりと握っている手を解いた。

「お願いをするのって、難しいよね」

「……うん」

「僕もあまり得意ではないから。一緒に頑張っていこう」

 にこり、と綺麗な笑みを浮かべて、私もつられるように頬が緩んで自然と笑みがこぼれた。


 雫玖くんは本当に諦めずに、最後まで私に教えてくれた。間違っていれば正しい方法を教えてくれる。気が付ければ、私は自分一人の力で、どんどんとシャーペンを動かしていた。

 何とか問題を自力で解き終えて、彼が確認のために目を配らせて、赤ペンを手に持っている姿を見ている時、心臓はバクバクと騒がしかった。まるで祈る様に、丁度隠れる座卓の下、膝の上で両手を合わせて握っていた。

「うん、すごい! 最後まで解けてる」

 雫玖くんがまるで自分の事のように嬉しそうな声で言って、笑みを浮かべる物だから。私の顔も自然とパアッと輝いたのが自分でも分かった。

「雫玖くん本当にありがとう!」

「ううん。曙美さんが頑張ったからだよ。それに、これからが本番だからね」

 そうだった。今日は公式を覚える、そして選択する。という初歩の初歩だったのだ。頑張らねば……!

 ぐ、と拳を握っていれば、隣でもそもそと動くこのりが目に入った。どうやら途中で寝ていたらしい。ゆっくりと上半身を起こし、そのまま腕を伸ばして大きな欠伸を零す。

「終わったのか?」

「ぐっすりでしたねえ」

 ちょっとした嫌味も含めて、ツンと少しだけ力強く彼の額を指で小突いた。

 そんな私達の様子を見て、今度は隠しもせず、くすくすと雫玖くんは笑い声を零した。

「まるで姉弟みたいだね」

「じゃあ俺が兄ちゃんか」

「どう見ても私がお姉ちゃんでしょ!」

 私にはきょうだいが居ないからどういうものなのか分からないけれど、でも、確かにこんな感じなのかもしれない。このりは少し不服そうだけれど。

「そうだ。休憩も兼ねて、案内したいところがあるんだ」

 雫玖くんはそう言いながら立ち上がる。疑問に思いながらも彼につられるように立ち上がり、案内したいところとは? と首をかしげる。

「うちは両親とも本が好きだからね。書斎があるんだ。そこに案内するよ」

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