第18話

 獣達を倒して湖に出る頃には、夜になっていた。青い月を、湖面が美しく映す。

「魔法で渡れば気づかれるから、歩いて水際を進む」

 荒い息の間に汗を拭うエレの体には、いくつも傷が刻まれていた。私は守られていたから分からなかったが、凄まじい声と音はまだ耳に残っている。ハンカチでその頬にできた傷を押さえると、エレはふと笑んだ。しかしすぐに、険しい表情で私を隠すように前へ立つ。厳つい肩の向こうで空間がぐにゃりと歪み、次には隊列を組んだ兵士と馬に乗った主祭が姿を現した。やっぱり、罠だったのだろう。

「エレイディオシウス。女と共に投降すれば命までは取らぬ。神の御前に、これ以上罪を重ねるな」

「それは、誰よりも神を愚弄している傲慢な己と聖王に言うべきだろう。いくら神に似せた像を作らせたところで、お前達は神にはなれぬ」

 厳しい声で言い返したエレに、月明かりに照らされた主祭の表情が引きつる。

「私だけでなく聖王様まで愚弄するとは。慈悲など要らぬ、殺せ!」

 聖職者の欠片も見えない言葉が響くやいなや、兵士達は一斉に剣を抜く。

「お前は、生き延びろ」

 エレはぼそりと零して私を手放すと、湖へと突き飛ばす。そんな、と伸ばした手は何もつかめず宙を掻く。ダメだ、そんな。

 ただ次に背が触れたのは、湖面ではなかった。固いこれは、胸当てか。

「すまぬ、鈴。遅くなった」

 見上げた先に先代の笑みを見て、ふつりと張り詰めていたものが途切れる。

「ゾノ、頼む。私は先に礼をせねばならぬ」

 崩れ落ちそうになった私を抱き止め、先代はゾノを呼ぶ。傍に現れたゾノの腕に私を託し、明らかに惑った様子の戦況へと乗り込んでいく。長い髪はまとめて結ばれ、上半身は胸当てのみの裸だ。傷の多い背は、筋肉で盛り上がっている。手には、重そうなハンマーが握られていた。

「鈴、大丈夫か」

「喉が封じられている」

 窺うゾノに私が手振りで知らせるより早く、エレが伝える。振り向いた先代が何かを唱え指を鳴らした瞬間、詰まっていたものが消えた。

「……先代様」

 名前を伏せた私に笑んで向き直ると、先代はハンマーで地面を突く。途端に走った地響きに、森から一斉に鳥が飛び立った。

「まさかそなたと共に戦う日が来るとは思わなかったが、愛しき者が世話になった。義理は果たそう」

「甘んじて受けよう。俺にはまだ、為すべきことがある」

 武器を構えた二人にゾノは退き、私を連れて湖へ浮く。全隊現れよ、と叫ぶ主祭の声が、水際に新たな兵士と矢を番えた弓兵を呼んだ。これは、まるで。

「この私が、これを予想していなかったと思うか? その女は餌だ。裏切り者と穢らわしい魔族をまとめて始末するためのな」

「聖職者が聞いて呆れるな」

「放て!」

 ゾノが悪態をつくと同時に、弓兵が矢を放つ。

「シェイア!」

 先代の声に視界を覆ったのは、矢の雨ではなく無数の糸だった。放たれた矢は一つ残らず絡め取られて、私のところまで届かず落ちていく。驚いて右の水際を見ると、シェイアとアラクネ達がいた。鈴様、と前脚を振りながら弓兵達を締め上げる光景はシュールだが、嬉しそうなシェイアに応えて手を振り返す。鈴、と聞こえて左側を見るとフィラとハーピー達、狩りの声で動けなくなったらしい兵士達を拘束するボーとドワーフ達がいた。その手元を照らすように火を吐くのは、ルーガンとサラマンダー達だろう。みんな、助けに来てくれたのか。

「人に予想できるものが我らにできぬと思ったのであれば、驕りにほかならぬ。誰の怒りに触れたのか、今際の際で思い知るが良い。かかれ!」

 先代の声に雄叫びのような声が上がり、両者が激しくぶつかり始める。映画でもドラマでもない、初めて目の当たりにする本物の戦いに、思わず俯いた。

「鈴、ちゃんと見ろ。この世界で生きるとは、これを受け入れるということだ。救う前に何があるのか、知っておけ」

 厳しく響くゾノの声に、ぎこちなく再び視線をもたげる。平和ボケした私は、戦争の傷を前にするといつも戸惑ってしまう。選ぶ言葉が見つけられないからと避けていたのだ。口にしたら、巻き込まれてしまいそうで。そこだけは、「平和な日本人」で逃げようとしていた。

 知らず伝う涙を拭いながら、先代のハンマーが兵士達を薙ぎ倒していく様子を見る。彼らはもう、助からないだろう。それでも、先代が無傷で戻って来ることだけを祈っている。胸にある矛盾を噛み締めながら、ただじっと、戦況を見守った。


 やがて逃げた主祭以外は戦闘不能となり、戦いは終わる。

「先代様!」

 駆け寄って抱きついた体は生々しくぬめり、鼻を突くような血の臭いがした。

「鈴、ならぬ。血で汚れてしまう」

「構いません、私は……私は、お傍にいます」

 もう絶対に、離れない。少しの間を置いて、応えた先代の腕が私を抱き締める。温かい熱に、ようやく深く息が吸えた。

「先代様、そろそろ参りませんと」

 背後から聞こえたゾノの声に、先代は体を起こし私を手放す。

「将軍、そなたはこれからどうするのだ」

 尋ねる先代に、倒れた兵士から剣を引き抜きながらエレが振り向いた。

「心配は無用だ。俺はこれより聖王に反旗を翻す。奴らに鉄槌をくださねばならん。神の御名を愚弄する数々の所業、最早許すに罷りならぬ」

 「為すべきこと」とは、反乱だったのか。エレは再び、兵士達の処理を始めた。ここに置いていけば、獣の餌になるだろう。生きながら食われる悲劇を味わうよりは、まだ。

「しばらくは魔族領に攻め込む余裕などないが、隙を縫うような真似をすれば容赦はせぬぞ」

「多くを望むのは、常に人だ。次は、そなたを迎え撃つことになるだろうな」

 大人しい声で返し、先代は先に踵を返す。ああ、と気づいて視線をやると、血の滴る剣を片手にエレが私を見つめていた。

「こちらに居場所がないのなら、作れば良い。助力は惜しまぬ」

「ありがとうございます。でも私はもう、あちらに作っているんです」

 苦笑した私に応えて、息を吐く。

「そうか。やはり惜しいが、仕方あるまい」

 受け入れてくれた結論に頭を下げて、踵を返す。

「死ぬなよ、鈴」

「エレ、あなたも」

 振り向いて返したあと、皆の待つ湖岸へと走る。辿り着くやいなや、鈴様、と飛びついてきたシェイアを抱き締める。端から見たら魔物に襲われているようにしか見えないが、そうではない。

「あとにしろ、シェイア。重いし障壁解除の刻限が近い」

「まあ、失礼ですよ」

 口を挟んだゾノに言い返しつつも、シェイアは大人しく私から下りた。

「では皆、戻ろうか」

 先代の声に、皆が頷く。フィラにルーガン、ボーと多くの仲間が安堵したように私を見た。中には負傷している者もいる。この先は、私にもできることがあるはずだ。

 先代が宙に手を伸ばすと、空間が大きく裂けるように開く。その先に、同じように手を伸ばす魔王の姿が見えた。

「魔法障壁に穴を開けていたのは息子だ。わがままな父のせいで苦労が尽きぬな」

 苦笑しつつ私の肩を抱き、幕をくぐるように空間を超えた。

 向こう側には魔王だけでなく護衛役のウェアウルフ達もいて、ゴタは私を見るなり膝を突いた。

「お守りできず申し訳ありませんでした! どうか、私に罰をお与えください!」

「不要だと言っても聞かぬのだ。木の枝でも投げて取ってこさせろ」

 うんざりしたように言う魔王を無言で見据えると、鼻で笑って手を払った。

 今も本当の角は隠しているが、体調はすっかり良くなり音への過敏さも消えた。魔族の間では私の施術のおかげとなっていて、おそらく私が人間側の脅威となったのもそれが決め手だろうが、本人は「施術を受けた」と思われるのが癪に障るらしい。

 一方の私は、魔王が人間領から持ち帰っていた「聖物」で回復したことにされている。まあ、聖物には違いはない。

「ゴタさん、気にしないでください。皆さんに助けられて、私はこのとおり無事です」

「しかし、しかし……鈴様の大事なお店も」

 項垂れるゴタに驚き、振り向いてゾノを見る。

「あんたが拐われたあと、連中に火をつけられた。俺はこのとおり無事だし店の壁は残ったが、あとは完全に燃えた」

「ごめんなさい、私のせいで」

 また、私のせいで店が。両親の店に続いてゾノの店まで、私は。

「そうではない、鈴」

 青ざめた私に、諭すような先代の声がした。

「店に火をつけたのは奴らであって、そなたではない。そなたも大切に守っていたものを奪われた側だろう。背負う必要のないものまで負ってはならぬ」

 穏やかな表情と口調に、ふと脳裏に記憶が蘇る。

――鈴、もし私達に何かあったら、店は売るんだよ。責任なんて感じなくていい。鈴の命より大切なものなんてないんだから。

 晩酌の傍ら、父が告げた。私は確か、縁起でもないこと言わないでよ、と苦笑で返したはずだ。二人が私を遺していったのは、それからしばらく経った頃だった。

 それでも私は、手放せなかった。

 溢れ出した涙に顔を覆った私を、先代の手が抱き寄せる。

「店に欠かせぬそなたは、こうして戻ってきたのだ。また一から始めれば良い。そうだな、今度の店は城壁の内に建ててはどうだ?」

 突然降って湧いたお膝元への建設計画に、涙を拭いながら笑う。

「そういたしましょう。城壁の内なら、いつでもおいしいお食事をお届けにあがれます」

「昼は俺のまかないでいいんだよ、十分旨い」

 賛成するシェイアにゾノは軽口を叩き、誰ともなしに新店舗の構想を口にしながらぞろぞろと歩き始める。涙の残る目で見上げた先代は、いつもの穏やかな眼差しで応えた。

 私はこんなに受け入れられて、守られている。ここでなら、また始められるはずだ。

 胸の内にある両親の笑みを確かめて、小さく頷く。肩を抱く愛しい手を握った。

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