6:死ぬなよ、鈴

第17話

 不意の痛みを頬に感じて目を覚ますと、以前と似たような白い部屋で目の前にあの主祭がいた。でも私は仕事を終えてゾノに挨拶し、護衛役のゴタと共に城へ帰っているところだったはずだ。何があったのか、まるで思い出せない。とはいえ拘束されても驚かないほど、もうこちらの世界に馴染んでいる。手荒く私を引き起こしたのは兵士だが、エレではなかった。

「放逐した私に、まだ何か用ですか」

 侮蔑するように見下ろす冷ややかな視線は、久しぶりだ。

「口を慎め、裏切り者が。魔族どもを助け魔王の封印を解くなど、神を愚弄するにもほどがある」

 主祭は忌々しそうに断罪し、顔を歪めた。相変わらず、自分の正義以外は全て悪らしい。

「だが殺しはせぬ。お前には、晒し者になってもらわねばならぬのでな」

 主祭が何かを唱えた途端、喉が凍りつくのが分かった。声が、出せない。

「お前の世界から役に立つ者らを召喚したものの、扱いが面倒なのだ。お前は逃亡して魔族に襲われたところを、我が慈悲により救い出したことにする。愚弄を為したその手を切り落とせば、魔族どもがお前を求める理由もなくなりちょうど良い。その後は、エレイディオシウスにくれてやろう。連れて行け」

 手を払う主祭に、兵士は無理やり私を立ち上がらせる。こんなことが、と言いたくても何一つ声にならない。抵抗も虚しく引きずられるままに連れて行かれ、ほどなく小さな採光窓一つの部屋に放り込まれてしまった。

 鍵の掛かる音を背後に、縄の痕をさすりつつ上の方にある採光窓を眺める。磨かれた岩壁は登れそうにないし、登ったところであのサイズは出られない。

 あれからどれくらい時間が経っているのかは分からないが、城には情報が届いているだろう。先代も知ったはずだ。私のために首を差し出そうとした人が、大人しくしているわけはない。ゾノの話では、聖都の魔法障壁は厳重だが聖都近くまでは移動魔法で一瞬らしい。もしかしたら、近くまで来ている可能性はある。

 主祭がいつ私の手を切り落とすつもりかは分からないが、何日も放ったらかしとは考えにくい。最短なら今日中、長くても明日明後日。主祭の口ぶりでは、エレには処置が終わるまで会わせるつもりはなさそうだった。

 なんとか隙を見て、逃げ出さなくては。ただ体調が悪いふりをして兵士を呼び出したとしても、その場で治療魔法を掛けられたら意味がない。

 いや、と気づいてローブのポケットを探る。取り出した小さなケースは、短かったり歪んだりで規格外の鍼を入れておくケースだ。ここの人間達は鍼を知らないから、使えるかもしれない。逃げるにはまだリスクが高いが、夜まで猶予があるとは限らない。やるなら今だ。

 取り出した十本の鍼を全て顔のツボに刺し、ドアを数度叩いたあと傍の壁に凭れる。自殺を図った風に見えるように、ぐたりとして目を閉じた。

 重い音がしてドアが開いたあとは、予想どおりの反応だった。慌てた様子で私の腕を掴んで揺らし、急いで治療魔法を掛ける。それでも反応しない私に、この「得体の知れない何か」を刺しているせいだと思い至る。そして、私を残して急いで報告へ行くのだ。

 遠ざかる気配を確かめて目を開け、急いで鍼を抜きケースに戻す。鍼だらけの顔で彷徨っていると思われた方がいい。

 あまりにうまく行きすぎて逆に不安になったが、未知のものと対峙すればそんなものか。ケースをポケットに戻してワンピースの裾を膝辺りで結び、ローブのフードを被る。急いで部屋をあとにした。

 前回と同じ場所なのか、通路の向こうにはすぐ庭が広がっている。ただ、目指すは魔族領だとしても、そんなことはあちらだって分かっているはずだ。慌てて逃げるよりは、安全な場所で夜までじっとしていた方がいいのだろうか。

 通路の向こうから聞こえた足音に慌てて角を戻り、植栽の陰に身を隠す。私の逃亡に関わっていなさそうな声は、呑気に祭りの話をしながら私の傍を通り過ぎて行った。

 少し顔を上げて姿が部屋に消えたのを確かめ、陰から出る。逃亡者としてはこのまま隠れやすそうな庭へ飛び込みたいが、正しい選択かどうか分からない。こんな風に逃亡するのなんて、もちろん初めてだ。とはいえ、そろそろ私が逃げたのもバレる頃だろう。裏を掻こうとしたところでその策がないのだから、仕方ない。諦めて、庭へ向かった。

 無事に庭へ入ったあとは、姿勢を低くして庭木の陰を伝っていく。どこへ向かえばいいのかは分からないが、森に入ればかつてのゾノのように、誰かが見つけてくれる気がした。

 やがて庭の向こうに森が迫った時、背後が騒がしくなる。近づく人の気配に、植栽の下へ腹ばいで隠れた。森を探せ、逃がすな、と先を塞ぐ声に続いて、砂埃を立てて走って行く数人の足が見える。これまで映画やドラマでしか観たことのない場面が間近に迫って、急に恐ろしくなった。馬車から逃げ出した時とは違う、「殺される」恐怖感だ。でも逃げなければ、ここに寝そべっていても必ずバレる。少しでもここから離れて、助けやすい場所に向かうしかない。

 途絶えた流れに震える手で汗を拭い、体を起こす。再び聞こえ始めた足音と声に、新たな植栽の陰へと潜り込んでやり過ごす。どくどくと打つ胸を押さえ、荒い息が漏れないように唇を噛んだ。早く行って、早く。祈るように繰り返しながら、消えるのを待つ。少し遠ざかった音に安堵しつつ植栽から出た時、フードが木の枝に引っ掛かった。

 しまった。

 ぺき、と軽い音を立てた枝から慌ててフードを外し、傍にあった岩の陰に隠れる。どこかへ移りたかったが、もう間に合わない。震える手でローブのポケットを探り、あのケースを取り出す。こんなことに使うべきものではないが、死ぬよりはマシだ。全ての鍼を出して握り、傍らに近づいてきた影を見る。噴き出す汗を拭うこともなく、異様に長いその瞬間を待った。

 やがて岩陰から現れた誰かに、鍼の腕を振り上げる。でも腕は振り下ろす前に掴まれ、攻撃は阻まれた。

「鈴、俺だ」

 抑えた声で告げたのは、険しい表情のエレだった。驚きはしたが、攻撃する理由はひとまず消えた。

「魔法は感知される。腰を低くして、俺のあとについて来い」

 エレは私の腕を離し、周辺を確認して前を歩き出す。でもこれは、罠ではないのか。主祭は、エレが私と会えば助けると「知っている」。声が出れば伝えられるが、今は無理だ。ついて行くしかない。鍼を捨て、砂埃に翻るマントの後を追った。

 それから五分ほど、エレの指示に従いつつ中腰で庭を抜ける。許可されてようやく痛む腰を伸ばし、一息ついた。鬱蒼と茂る暗い森は、どう見ても平穏な感じではない。

「神殿周辺では最も危険な森だ。ここへ逃げ込めば死ぬから探されない」

 頷いた私に、エレは気づく。

「喉を封じられたか」

 また頷くと、舌打ちが応えた。主祭のやり方と相容れないのは、変わっていないらしい。

「一日で森を抜けるのは難しいが、匿える場所がある。ひとまずそこへ向かう」

 剣を抜いたエレは私の手を掴み、枝を打ち払いながら奥へと進む。

「魔族領で魔物の治療をしているそうだな」

 切り出された話にびくりとした私の手を、逃さないように固く握り直した。

「我らにとってお前が脅威となったのは、致し方ないことだ。己に崩せぬ矜持があるのに、他者に崩せと言うのでは筋が通らぬ。相容れぬのなら、道は飲むかぶつかるかしかない」

 さすが先代が認めるだけあって、真っ当な考えを持っている。ただ妥協をしないエレの選択は、正々堂々と「戦争をする」ことに繋がってしまう。

「ならば、この度は俺が飲もう。お前は切れぬ」

 ざわめく木々の間から飛び掛かってきた猿を即座に切り捨て、エレは剣を払う。けたたましく響き渡る獣の声に、私をマントの内に抱いて剣を構えた。

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