第16話

 翌朝部屋に現れた先代は黒一色の、風格のある装束を身に着けていた。長衣にガウンは、もちろんだが戦闘向きではない。

 私の方はシェイアが体を清めてくれたあと、アラクネ達が更に二体ほど現れて、私の体をうまく転がしながらドレスを着せてくれた。ゆったりとした柔らかなドレスは、袖口に美しいレースが縫いつけられている。

「支度はできたか」

「もう少し、御髪を」

 もうとっくに梳き終えたはずの髪に、シェイアはまた櫛を通す。私の世話ができるからといって、連れて行けるわけはない。シェイア、と呼ぶ先代の声に、櫛は止まった。

「では、行こうか」

 先代は用意されていた毛布で私を包み込み、抱き上げる。堅牢な胸に頭を預けつつ視線をやると、神妙な表情のゾノとシェイアが見えた。

「店は、うまく畳んでやるから気にするな」

「鈴様……どうか、どうかお元気で」

 堪えきれず泣き出したシェイアに、私も涙が溢れる。幸せだったと言えない口がもどかしい。先代は私の頬を伝う涙を拭ったあと、抱え直した。

 見上げると何かを諦めたような笑みがあって、居た堪れなくなる。選んだはずの道を悔みそうで、目を閉じた。

「お待ちください」

 肩を抱く手が力を込めた時、戸口の方で声がする。力のない平板な声には、聞き覚えがあった。先代が振り向けば、その姿も見える。音もなく近づいてきたのは、魔王だった。

「話はもう済んだはずだが」

「私にはまだ、話していないことがあります」

 少し硬い声を出した先代に、魔王は大人しく返す。昨晩の話し合いは、分かち合えないまま終わったのだろう。いくら先代でも、まだ回復しきっていない状態だ。単身で人間領に乗り込む策を、簡単に受け入れられるわけがない。

「私なら、鈴を救えるかもしれません。時間をもらえませんか」

 少しの間を置いて、魔王が意を決した様子で切り出す。驚いたが、口からでまかせを言っているようではない。先代をじっと見据える視線に、邪なものは感じなかった。

「分かった。しかし長くは待てぬ。救えぬと分かったら、すぐに引くのだ」

「承知しました。では、少し二人きりにしてください」

 先代は私をベッドへ下ろしかけた腕を止め、再び魔王を見た。

――今の先代様と魔王様は、仲睦まじいとは申し上げられません。もちろん憎み合うようなことはありませんが……十年戦争は、多くの傷を残しました。

 シェイアがついた溜め息の理由を、全て察せるわけではない。でも人間に寛容な先代に、魔王は思うところがあるのだろう。

「騙して殺すようなことはしません。人間を憎んでいたとしても、それを鈴にぶつけない分別はあります」

 温度なく伝える魔王に、先代はきちんと私をベッドへ下ろした。労るような笑みを浮かべて私の頬を撫で、体を起こす。

「また、あとで会おう」

 不安にさせない口調で伝え、先代はシェイアとゾノを連れて部屋を出て行った。

 扉が閉まったのを確かめ、魔王はベッド際の椅子に腰を下ろす。

「『なぜ助けるのか』の理由は三つある。一つ目は、父がそなたをエレイディオシウスに託す土産として自分の首を差し出すつもりだからだ。二つ目は、そなたの腕で多くの者達が苦しみから解放されたことへの礼だ。三つ目は、裏切り者の汚名を浴びても曲げぬ矜持は信用に値すると判断した。話したからもう、聞きに来るなよ」

 三つの理由を挙げて、魔王は私を見下ろす。確かに何も言わずに助けられたら聞きに行くだろうから、良い判断だ。でも、あの一幕は口外しないようゴタ達に伝えたはずだった。

「この城の管理をしているのは私だ。どの部屋でどのような会話がなされているか、聞こうとすれば全て耳に入る」

 ということは。

「安心しろ。父とそなたの会話になど興味はない」

 熱に浮かされる表情の変化を正確に読み取って、魔王は答える。一つ長く息を吐き、弾くように指を鳴らした。途端、ゆらりとその頭が揺らぐ。次に現れたのは、何かにがんじがらめにされて変形した、これまで見ていたものよりも小さな角だった。

「これが、本当の我が角だ。十年戦争で人質に取られた際、魔力を抑えるために呪いを掛けられた。人間どもが『祝福』と呼ぶものだ。五十余年経ってもこれほどまでに我が身を痛め続ける呪いだ、そなたの不調くらい消し飛ばすのではないか」

 皮肉っぽく笑うが、とんでもないことだ。見る限りそれは針金のように角に巻きつけられて食い込み、明らかに成長を奪っている。症状は、角の重さのせいではなかったのか。

「魔族領に、これを外せる者はおらぬ。目にするだけで苦しむ者は多いだろうがな」

 だから、誰にも言わずに隠し続けていたのか。

「もう伝えるべきことはないだろう。触れてみろ」

 大きく息をして魔王は体を倒し、私の手元に頭を差し出す。本来なら先代のようにゆったりと円を描くように育つはずの角が、折り畳まれるように潰れていた。

 痛々しい姿に残酷な仕打ちを見て、なんともいえない気持ちになる。少しだけ動く手をもたげ、深く刻まれた溝にそっと触れた。途端、角がびくりと揺れて荒い息が聞こえる。この仕打ちを与えたのは私ではないとはいえ、同じ人間だ。頭では理解していても、心が納得するとは限らない。それでも、私を助けることを選んでくれたのだろう。

 吐き出した息はこれまでより長く伸び、潮が引くように熱が消えていく。体が、息を吹き返すようだった。

 礼を言おうとした瞬間、微かにヒビの入るような音がする。触れた角からだらりと垂れた白い紐に、慌てて反対の角にも触れた。おい、と聞こえたが今は無視だ。予想どおり、反対側の角からも同じ音がして白い紐が垂れる。

「じっとしててください、外します」

 体を起こし、角に食い込んでいた紐を外していく。指先が痺れるような感触は、それだけ強い魔法だからだろう。

「これで、両方とも外れました」

 報告した私の手から離れ、魔王は再び椅子に腰を下ろす。汗を拭う顔は青白く、血の気が失せていた。

「勝手なことをして申し訳ありません。ご気分は、いかがですか」

「最悪だ」

「ですよね」

「だが、体は楽になった」

 深い息を繰り返す魔王の声は、これまでになく力強い。

「俺を虐げた連中は『救われたければ我らにひざまずいて乞え』と言った。何が一番誇りを潰すのか、よく知っている奴らだった。あいつらは、まさか率先して魔族を救おうとする同胞が現れるなんて思いもしなかったのだろうな」

 魔王を虐げたのは、私を放逐した主祭と似たような連中だったのだろう。逃げたところに獣をけしかけて、殺そうとするような。どこにあっても、争いは人間のサガなのかもしれない。

「それはそなたが持っていろ。役に立つだろう」

 頷いて、サイドテーブルの鍼の箱に入れておく。不本意だが、そのとおりだろう。

「呪いが解けたのは、今頃あちらも分かっているはずだ。人間側は本格的に動き始めるだろう。奴らがそなたを始め別の世から人間を召喚し始めたのは、軍事力の増強を図るためだ。異世界の技術や知識を持つ者達を集め、我らを完全に消滅させるつもりでいる」

 それが、召喚の目的だったのか。確かに科学技術や兵器開発に詳しい人が渡ってくれば、人間側の技術は飛躍的に発展するだろう。魔族がいくら数で勝っていても、核を落とされれば終わりだ。ぞわりと肌を這う悪寒に、腕をさする。

 話を終えて腰を上げた魔王は再び指を鳴らし、カモフラージュの角をまとった。

「先代様にも、打ち明けられないのですか」

 踵を返した背に尋ねると、魔王は振り向く。

「息子が呪いを受けたと知って気に病まぬ人ではない。父親としては良い男だが、王としてはあまりに甘すぎる。十年戦争も、私を見捨てれば遥かに速やかに、あれほど多くの同胞を喪わず勝利を以って終結させられていた。この度も」

 口を挟みかけた私を封じるように語気を強め、溜め息をつく。

「そなたのため、躊躇いなく自分の首を差し出そうとした。たとえその座を下りたとしても、かつては王だったのだ。領内にどれほどの影響が及ぶかを知りながら尚その決断をするのは、あまりに浅はかと言うほかない」

 「浅はか」は言い過ぎだが、同意できる部分は少なくない。たかが人間一人のために差し出すには、あまりに重すぎる代償だ。こんなことをしてもらうために、私は施術をしたわけではない。

「父が戦争を起こさぬのは争いを好まぬからだが、私が戦争を起こさぬのは不可侵条約を破る理由がまだないからだ。同じ王と思うな」

 不穏な言葉を残して魔王が部屋を出てしばらく、杖を突いた先代が現れる。

「鈴!」

 起き上がっている私を見るや杖を手放し、まだぎこちなさの残る足取りでベッドへ辿り着く。躊躇いなく手を伸ばして私を掻き抱き、震える声でまた呼んだ。

「先代様」

「名を呼んでくれ。ユスティヌスだ」

「ユスティヌス様。もう、こんなことはなさらないでください。私は、あなたを生かすためにいるんです」

 最後まで聞き取れた名前に安堵しつつ、顔を上げる。先代は腕を解き、額を合わせた。

「誓えぬが、善処はする」

 聞き入れられない願いに、思わず苦笑する。先代も少し笑い、また私を抱き締めた。

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