第14話

 ぼんやりと目を開くと、久しく見覚えのない近代的な建物が立っていた。道路には車が走り、遠くに電車が行くのが見える。振り向いた先には、『塩原しおはら印刷』の看板。陽太の職場だ。

 状況が飲み込めないまま歩を進め、正面ドアに触れようとする。するりとすり抜けてしまった手を、思わず凝視した。こちらの世界では、幽霊か。

 改めて伸ばした手は、予想どおり簡単にガラスを抜けていく。まるで水の膜をくぐるかのように、簡単に不法侵入ができてしまった。

 すごい、と呟いたあと慌てたが、誰にも聞こえている様子はない。おじゃまします、と控えめに挨拶をして、ひとまず陽太の姿を探すことにした。

 まずはオフィスを覗いたが、それらしき姿はない。ふと確かめた壁の日めくりカレンダーは、十一月十五日を示していた。私が、死んだ日だ。

 どくん、と強く打つ胸を押さえ、深呼吸をする。もしかして、ここでうまく陽太に伝えられたら事故を「なかったこと」にできるのか。でも今はもう、そんなことは。

「おい、山村やまむらは何してんだ!」

 オフィスの奥から聞こえた声に、思わず振り向く。山村は陽太の名字だ。

「まだ倉庫で紙探してんじゃないですかね」

 答えた誰かに、奥のデスクにいる上司らしき男性はしかめっ面で舌打ちをした。言葉にはしなくても「使えない」と思っているのが伝わる。陽太はサボっているわけではないが、とにかく効率よく仕事を捌くことが苦手なのだ。

 居た堪れないものを抱えながら、オフィスを出て倉庫を探す。建物内を一通り探してもなかったそれを窓外に見つけた時、景色は雨に濡れていた。そうだ。あの日は、午後から雨だった。

 外に出て、雨の通過する不思議な体で倉庫へ向かう。社屋の隣に立てられた大きな倉庫に入ると、奥で話す声が聞こえた。陽太だろうか。

 声を頼りに少し進むと、金属製の棚に挟まれた通路に通話中の陽太がいた。久しぶりの姿には安堵と、懐かしさが湧く。もう少し、近づいた。

「本当に、今日、するんですか」

 困惑の声を出す陽太に、足を止める。

「いえ、そういうわけじゃないですが……分かってます、はい、はい。忘れてません」

 何か深刻そうな会話だが、取引先だろうか。また叱責を受けているのかもしれない。

「言われなくても大丈夫です。分かってます、できます」

 私にもさんざん返した台詞だ。でも言わなければ大丈夫じゃなかったし、分かってもいなかった。できる限り陽太の意志を尊重し続けてはいたが、うまくいかない方が多かった。それでも、私と違い明るくて屈託のない陽太といると。

「だから今日の夜、鈴に電話をするんですよね、仕事が終わる頃に」

 突然登場した自分の名前に驚き、うんざりしたような表情の陽太を見据える。

「それで迎えに行くと言って、暗い道ではねればいいんでしょ」

 信じられない言葉に、表情が凍りつくのが分かった。何を……何?

「警察が来たら、雨でよく見えなかったと言って、ええと、それで?」

 呆然とする私の前で、陽太は誰かと私を殺す計画を確認しあっている。まさか、地上げ屋の連中か。でもどうして陽太が、とは言い切れない疑いが、一つだけある。

 陽太には、子供の頃から一つのことに熱中するとほかのことがどうでもよくなるほどのめり込む癖がある。時間も金も費やして、際限なくハマるのだ。

 小学生の頃は、あるマンガだった。全巻揃えてアニメも抜かりなく鑑賞し、グッズ類を買い集めてイベントにも出掛け、独自の考察を延々とノートに書き続けた。陽太の家は裕福だったから、おそらく子供の趣味には多すぎる金額を注ぎ込めたはずだ。ただその時は、両親が許しているのだから別に私が口を出す必要はなかった。

 問題は、大学時代にできた新たな趣味だった。先輩に連れられ足を踏み入れたパチンコに、どっぷりハマってしまったのだ。結果、消費者金融に手を出すほどの借金と大学をサボったことが親にバレ、借金を肩代わりしてもらって大学は二年留年した。親との誓約書に『二度とパチンコはしません』と書いたと話していた。

 最近はトレーディングカードにハマって集めていたが、まさか。

「警察でその心身なんとかみたいなの主張したら、ほんとに無罪になるんですよね? 大丈夫なんですよね? あと、ほんとに俺の借金、チャラにしてくれるんですよね?」

 予想どおりの展開に、思わず顔を覆った。

 おそらく心神喪失状態だったと主張するつもりなのだろうが、認められる訳がない。たとえ精神面に何か問題があったとしても、そんなことは関係ない。私を殺したのは「陽太自身」の人格の問題だ。短絡的ですぐに問題から逃げようと、後先を考えようとしない、その浅はかさが私を殺したのだ。

 おそらく地上げ屋は、両親が死んでも院を売らない私に業を煮やして周りに駒を探したのだろう。そして、借金で首が回らなくなって追い詰められていた陽太を見つけた。あとは口八丁手八丁で、どうとでもなったはずだ。

「頼みますよ。親にももう、金出してもらえないんです。はい。じゃあ、また夜に」

 通話を終えた携帯をポケットに入れたあと、陽太はダンボールを乗せた台車を押して私をすり抜け、倉庫を出て行く。

――ごめん、やっぱりやめれば良かった、こんな。

 ようやく思い出した最後の光景と悔いの台詞に、視線を落とした。

 ……そうか。私は、陽太に「殺された」のか。

 陽太はあのあと悔い改めて全て話したのか、計画どおり黙ったのか。どちらにしろ、初犯だから親が保釈金を積んですぐ保釈になるだろう。でもその審判を待つ間に、多分。陽太の性格が秘密保持には向かないことくらい、あの連中は分かっているはずだ。陽太が助かるには、洗い浚い警察に話すしかない。

――鈴ちゃんは、笑ってる方がかわいいよ。俺が面白いことして、これからもたくさん笑わせてあげる。

 小学生の頃に私をときめかせた台詞など、もう覚えていないのだろう。私にとってあのプロポーズは、初恋が実った瞬間だったのに。

 せめて、全てを話していてくれたら。

 目を閉じてどこかに祈りを託した時、暗がりに吸い込まれるように体が沈んでいった。

「……鈴、分かるか? 鈴」

 馴染みのある声に、重い瞼を開く。息は荒く、熱い体は節々が痛む。発熱か。どれくらい眠っていたのだろう。

「先代、様」

 思ったより弱々しく響いた声に、ベッド際で先代は頷く。安堵はしたが、こんなところにいて良い人ではない。

「お部屋に、お戻りください。うつしてしまうかもしれません」

「うつるならもう、とっくにうつっている。そなたは三日も眠り続けていたのだ」

 荒い息の間に伝えた私に、先代は長い眠りを知らせる。そんなに経っていたのか。

「ずっと、傍にいてくださったのですか」

「当たり前だ。ほかの者になど任せられるわけがない」

 穏やかな声で答え、熱い頬を撫でる。初めて知る、優しい手だった。

「少しだけ、あちらの世界に戻っていました。私が、死ぬ日に。未練を断つために、戻されたかのようでした」

 熱に浮かれているせいか、理性の働かない口が受けたばかりの衝撃を垂れ流していく。

「……事故では、なかったんです。彼は、自分の借金を帳消しにしてもらう代わりに、事故に見せかけて、私を」

 最後まで口にすれば折れそうで、熱い息でごまかす。

「そんな人でも、初恋の人だったんです。向こうはもう、覚えてなかったでしょうけど。好きだったのは、私だけだったのかもしれません」

 「初恋は実らない方がいい」とか「惚れた方が負け」とか、世の中にはためになる言葉が山のようにあるのに、自分に当てはまると思ったことは一度もなかった。

「弱っている時には、惑わす言葉を選ぶべきではない。つけ込むのは、本望ではないからな」

 先代は私の手を取り、包むように握る。

「私が今歩んでいるのは、そなたに救われた人生だ。この先は、そなたのために在りたいと願っている」

 穏やかな声が、穿たれたばかりの胸に染み込む。元気になれば頭も働いて、何かをうまく伝えられるのだろう。でもまるで働かない今はただ、その言葉に縋っていたかった。

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