3:私の本懐です
第7話
ゾノの頼みを受けてから約十日、訪れたのは先代の居室だ。
――戦争中に負ったケガが原因なのか、目眩がして起き上がることすらできないんだ。あらゆる薬草を試してみたが、効果がない。
内科的な要因なら、薬草で少しくらい改善していてもいいだろう。目眩なら、骨格の歪みが神経に問題を起こしている可能性はある。まあまずは、触れてみなければ分からない。今日はひとまず、鍼の試作品も持ってきた。皆のおかげで使い捨てにできるほど手に入れ、ゾノは使えるらしい聖魔法で消毒代わりの浄化を行った、キリア・シエナ専用鍼だ。
オオマヤマアラシの下毛が〇.二三、キラービーの針が〇.一八、ナガケムシの毛が〇.一四ミリ程度の太さで、しなりはどれも申し分ない。ただ刺し場所のガイドとなる
「主な症状は目眩だと伺いました。ぐるぐると周囲が回るような感じ、ふわふわと浮いて落ち着かない感じ、体を起こすとくらっとして血の気が引く感じ、この三つの中にありますか」
「周囲が回るようなものだな。景色が舞って、動けなくなる」
「目眩の時は、吐き気や動悸がありますか」
「ああ、ある。動悸は大したことはないが」
「耳鳴りは?」
「ない」
心地よさそうな枕に埋もれたまま、先代は落ち着いた声で私の問いに答えていく。
身長は多分二メートルほど、エレを一回り大きくした筋骨隆々の体だ。それでも五十年に渡る寝たきりで、かなり痩せたらしい。それは骨の目立つ顔にも見て取れる。魔王ほどではないが、やはり窶れていた。艶のない顔色は白く、やや黄色みが強い。瞳は淀んでいないものの力がなくて、少し暗い。白髪勝ちの長髪は緩くうねり、顎は長い髭に覆われている。王族の象徴である立派な角と相俟って、威厳を感じさせた。
確かに健康状態は良くないが、ゾノが惚れ込んだのも分かる。傍にいるだけで包み込まれるような、なんともいえない魅力を持つ人だった。
「寝返りは問題なく打てますか? 起きる時より横になった時の方がひどい、ということは」
「いや。寝返りは打てるし、寝ている分には問題はない。起きた途端に始まる」
カルテに症状を書き込みつつ、頭にある候補を一つ外す。
「物が二重に見える、ろれつが回らない、頭や首が痛む、手足が痺れるなどの症状はありますか」
「手の痺れはある。ほかのものはないな」
手の痺れのみを挙げた先代にベッドへ上がり、一本立てた人差し指を視線で追ってもらう。ちゃんとついてくるのを確認して、再び下りた。
「痺れはどちらの手の、どの辺りですか。痛みますか?」
「左手の、下の方だな。薬指と小指の辺りが少し痺れて、時折冷えるような感覚がある。痛みはない」
左の
続いて手を取り、脈を確かめる。母が最も得意だったのはこの脈診で、しばらく触れるだけで精密なスキャナのように体の状態を把握していた。
父も鍼灸師だったが、ここ数年は経営者や町内会役員として立ち回ることが増えていた。それもこれも、ある財閥系企業が駅前に複合施設を建設したいからとあの一帯に売却を求めてきたせいだ。利便性も思い入れも手放せと言う割に提示された金額は相場より安く、複合施設にテナントとして入る案は賃料がバカみたいに高くて、家族全員が拒否をした。何より担当者の態度があまりに横柄で、傲慢だったのだ。これまで声を荒らげたことのない父が「出て行け」と怒鳴るほどに私達を、特に母を侮辱した。
両親を喪っていやがらせは一層ひどくなったが、屈したくなかった。でも私が死んで、全てが終わってしまった。悔しさがないわけではない。
沈みそうな胸を切り替え、脈診に集中する。先代の脈は遅めで細く、一定ではない。顔色や症状と合わせれば、足りないものは明らかだ。心臓と胃腸も少し弱っていた。
「では、まず首を触らせてくださいね」
一通りのカウンセリングとテストを終えてベッドへ上がり、首から確かめることにした。頭の先に腰を下ろし、まず首と肩を観察する。重く太い角を支える首は野太く、付け根の筋肉は木の根のように盛り上がって発達している。十キロ以上はあるこの頭部を支えるには、本来これくらいの筋肉が必要なのだ。華奢で細長い魔王の首を思い出しつつ、頸椎の流れと動きを指先で慎重に確認する。
「触れられて、痛みはありますか?」
「いや、痛むどころか心地よい……ああ、今少し手が痺れたな」
やはり、七番か。
先代の反応は予想どおり、頸椎は一番下にある七番が大きく右に捻れて固まっていた。六番から上も、複雑な歪み方をしている。過去に触った、交通事故の後遺症に似ていた。頭の中に浮かぶ病名との関連性を確かめつつ、指先に伝わる情報を読み取っていく。過去の例はレントゲンやCTを含めた全ての治療を終えたあとでの来訪だったが、今回は違う。科学のない世界では、この指だけが頼りだ。
「そなたの世界には、この仕事をする人間がどれほどいるのだ」
「私の国では、五十万人ほどでしょうか。人口が約一億二千万人なので、それほど多くはありません」
鍼灸師や柔道整復師、あんまマッサージ指圧師の資格所持者はそれくらいだが、無資格の整体師も含めればもう少し増えるだろう。
「一国で、一億二千万人もの人間がいるのか」
「はい。世界では約八十億の人間がいます。ほかに動植物がいますが、魔物はいません」
「排除したのか」
「いえ、最初からいないのです」
「では、平和なのだろうな。羨ましいことだ」
低く太い声は穏やかに、この世界を嘆く。でも、人間だけしかいなくても同じことだ。
「いえ、平和ではないんです。人間しかいなくても、正義の違いによる争いは絶えません」
「そうか。単一種族であってもやはり、難しいものなのだな」
情けない実情を伝えた私に、先代も溜め息をつく。しんみりしてしまった雰囲気を変えるように表情を作り直し、カルテに写し取ったばかりの骨格図を眺めた。
「事故に遭った状況についてですが、右を向いて右手で何かを掲げているところに、左から何かが突っ込んできましたか。こういう感じで」
カルテを置いて立ち上がり、読み取った姿勢を取ってみる。
「もう昔のことだから詳しくは覚えていないが、戦車を繰り、右手にハンマーを持ち戦っている時だった。突然横から、何かに激突されたのだ。投石機による攻撃だったと聞いた。おそらくは、そのような格好だったのだろう。その衝撃を受けて倒れた次にはもう、目眩が凄まじくて立ち上がれなくなっていたのだ。以来このとおり、情けないが横になっていることしかできぬ。生きるも、かといって死ぬもままならぬ歯がゆい身だ」
不穏な言葉は聞き流せないが、咎めることもできない。私にそれを吐露したのは、ちょうどよい距離があるからだろう。王の偉大さを、私は知らない。
「事故もケガも、誰の身にも起こりうることです。ですが、思うように動けない歯がゆさを抱えていらっしゃるお気持ちは、少しですが分かります」
当事者ではないから「よく分かる」とは言えない。でも私には、母がいた。
「私の両親は半年ほど前に亡くなりましたが、母は生まれつき目が殆ど見えませんでした。芯の強い女性で素晴らしい腕を持つ私の師でしたが、母親としてはつらい思いをしたことがあったようです。子供の頃、私が階段から落ちて顔を縫うケガをした時は何度も『ごめんね』と。母が泣くのを見たのは、あれが最初で最後でしたね」
「子として、親を不甲斐なく思ったことはあったか」
大人しい声で尋ねる先代に、カルテから視線を上げる。不甲斐なく、か。ここには私のことを知る相手は誰もいないのだから、全て美談にもできる。でも現実は、美しいことばかりではなかった。
「ありました。幼い頃は友達が母親に服を選んでもらったとか一緒に遊んだとか聞く度に、胸がざわついて。『私には聞かないで』と願ってましたね。母は私に似合う服を選ぶどころか、赤も青も『知ることができなかった』ので。もう少し大きくなってからは、母の目になるのがいやだった時期もありました。友達は遊びに行ってるのに、私は母の用事に付き添わなきゃいけなかったんです。母にぶつけるのは理不尽だと分かっていたから言えませんでしたが、『どうして』は何度も胸に浮かびました」
振り返れば、母のことを好きだと言えない時期は何度かあった。でも子供としてではなく人として、治療家として関わるようになってからは好きになったし、それ以上に尊敬していた。
「ゾノが自分の時とは周りの反応がまるで違うと愚痴っておったが、そうであろうな。アラクネ達は、近頃そなたの話ばかり聞かせる」
先代は頷き、機嫌良さそうに笑う。
「皆さんが私を受け入れてくださったのは、ゾノさんが五十年掛けて『人間にもいい人はいる』と地道に示し続けてくださったからです。そうでなければ、この短期間で必要なものを揃えることはもちろん、こうして施術を行うことなんて不可能でした。私は、おいしいところだけをいただいてしまいましたね」
応えて笑うと、先代は少し目を細めた。戦場に立てば鬼となったのだろうが、それ以外では穏やかで情の深い王だったはずだ。
「施術の流れですが、まず鍼で血行を促し全身の筋肉を緩めて、骨を動きやすくします。そのあと、手を使って骨格の歪みを取っていきます。今日はひとまず、鍼を打ちたいのですが」
好奇心旺盛な魔物達のおかげで既にそれなりの数を打ってきたが、王族に打つのは初めてだ。鍼の安全性に問題はなくても、施術を受けるかどうかは別の話だ。
「構わぬ、やってくれ」
迷いのない答えに、安堵と共に感謝を抱く。信用してもらえたのだろう。
「承知いたしました。では、上に着ているものを脱いで、うつ伏せになってください」
私の指示に先代は上のシャツを脱ぎ、うつ伏せになった。サイドテーブルの箱を開け、鍼のトレイを出す。
「刺す時に少しだけ痛むかもしれません。あと、重くずんと響いたり少し痺れたりする感じがあるかもしれませんが、問題はありません。先代様は少し気と血の流れが滞っているので、それを鍼で巡らせていきます。気は、体の中を巡る魔力のようなものだと思っていただければ」
先代は傷だらけの背を晒しながら、うむ、と短く返す。
この世界でしか通用しない説明だが、あちらの住人より遥かにピンと来るらしい。当たり前のように目に見えない力がある世界では、受け入れられやすいのだろう。
「では、失礼いたします」
手を清め、鍼のトレイを手にベッドへ上がる。長い髪を片方にまとめて避け、背中を清める。いつものように深呼吸を一つして、施術に入った。
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