2:これでようやく、解放してやれます

第4話

 母を思い出す柔らかな声に目を覚ますと、目の前に大きな蜘蛛がいた。

「お、お静かに」

 思わず悲鳴を上げそうになった私に蜘蛛……ではない、シェイアは前脚を口元にやって「静かに」のジェスチャーをする。

「ごめんなさい、驚いてしまって。おはようございます」

 体を起こしてみれば、シェイアも少し小さく見える。それでもまあ、八十センチはあるだろう。

「おはようございます、鈴様。申し訳ありません、お声がけするにはお傍に寄らねばならず」

 黒々とした八つの単眼は朝から輝き、ふっくらとした体を覆う焦げ茶色の毛も艷やかで健康そうだ。シェイアは、アラクネと呼ばれる種の魔物らしい。

「よくお休みになられましたか」

「はい、ぐっすり眠れました。ベッドも枕も気持ち良くて」

 撫でた真っ白なベッドリネンは、シルクのような手触りだ。与えられたネグリジェも同じ素材なのか、なめらかで心地よい。まさか異世界で、高級ホテル並みの贅沢を味わえるとは思わなかった。

「光栄です。こちらの布は、私共の糸が織り上げたものなのです」

「そうなんですか。すごいですね、こんな美しい布が織れるなんて」

 驚いた私を、シェイアはじっと見据える。

「やはり、不思議な感覚ですね。異世界の方とはいえ人が私のような魔物をお認めくださるのは」

 少し寂しげに聞こえた声に、苦笑する。もちろん私の住んでいた世界にも蜘蛛が苦手な人はいたが、疎まれる彼らの声が聞こえたことはない。

「医療に携わる仕事をしていたせいもありますが、『苦手だから』『嫌いだから』傷つけていいとは思いません。自分と同じであることは、私にとってそれほど大事ではないんです」

 弱視の母は光が分かる程度で、私の顔を視覚で確かめたことはない。でも手と指先で触れて、どんな顔立ちかはちゃんと分かっていた。研ぎ澄まされた指先の感覚で健常の私より遥かに的確な鍼を打ち、多くの人の苦しみを取り除いた。

「と言いつつ、違う考えを受け入れられなくて逃げたんですけどね」

 全ての獣を倒して馬車に戻ったエレは、何を思っただろう。礼ぐらい書き残すべきだったが、そんな余裕はなかった。

 あのあと森の中へ逃げ込み、あてもないままひたすら走った。

 やがて力尽き薄暗い木陰でリンゴにかじりついていた時、甘い匂いに誘われたのか熊が現れた。正直に言えば、その時はエレと離れたことを後悔した。

 迫る恐怖に身動きできず固まっていた時、一閃が熊の頭を貫くのが見えた。崩れ落ちる熊を慌てて避けた先に、小柄な老人が立っていた。

――あんた、死にたいのか。

 私を闇魔法の使い手と誤解した老人に経緯を説明していた時、老人が背後に何かの気配を察した。あれは、多分エレだった。

 「試してもらいたいことがある」と老人は私をコートの内へ引き入れ、呪文を唱えた。主祭の治療魔法とは違い、体を風が包み込んでいくような感覚だった。次に目を開いた時にはもう、凍土にそびえ立つ城にいた。

「あのエレイ……将軍から逃げ切れたなんて、お見事ですよ。さ、朝食の前に、お支度をいたしましょう」

 やはりエレの名前には、聞き取れない音が含まれているらしい。促すシェイアにベッドから下り、敷き詰められた毛足の長い絨毯に立った。

 これは、床だけではない。見回した部屋は、いたるところにたっぷりと布が使ってある。壁は落ち着いた紺色の布が張られ、カーテンは優美なドレープを描いている。ソファにはクッションにひざ掛けまで置かれていた。

 でも別に、この部屋だけではない。昨晩通った廊下も全て絨毯敷きで、壁には象牙色の布が張られていた。ろうそくの灯り揺らめく城内を一言で表すなら、「無音」だろう。不安になるほどの静寂だった。

――できるだけ、お静かにお願いいたします。理由は明朝、ご説明いたしますので。

 老人と共に現れたシェイアは、澄んだ声で願ったあと頭を下げるように体を前に倒した。

「では、お支度をしながら昨晩のお話をいたしましょう」

 シェイアは私に、傍らの籠にある銀色のドレスを勧める。手にとって持ち上げると予想より軽く、タフタのような生地には銀糸が煌めいた。開いた襟ぐりは繊細なレースで縁取られて、見るからに高級そうな一着だ。

「それにはまず、この世界が始まった頃からお話しなければなりません」

 私が背中に並ぶくるみボタンを外している間、シェイアはどこからか木製の脚立を押してくる。

「この地は元々、魔族のものでした。そこへ、人間が『神の子』と崇める初代聖王が降り立ちました。当初は共存共栄していたと、我らの間では伝えられております。しかし人間が増えていくにつれ、多種の集まりである魔族を単一種族である彼らは疎み、嫌うようになっていったのです。自ずと住処は分かたれ、大地を二分する形で棲み分けるようになりました」

 シェイアの話を聞きつつ、ドレスに袖を通す。あそこで用意されたものより小さく、ちょうどよいサイズだ。

 脚立へ上りきったシェイアに、背を向ける。毛に覆われた足には、よく見たら二本の鉤爪があった。

「昔はそれで、大きな問題はなかったようです。ただ南部の土地が崩れ始めて以降は、そうではなくなりました。人間達は今も昔も、魔族より遥かに少ない数しかいないに関わらず、広大な土地を欲しがります。更に魔力の減少に伴い、我らの土地に魔石を求めて侵入するようにもなりました」

 エレの話にもあった内容に頷きながら、少しずつ体に沿うドレスを確かめる。まるで誂えたかのようにぴったりだった。

「魔族も最初は、困った隣人を助けるべく無償で提供していたようです。ただ人間達は、秘密裏に魔族を使役し休む間も与えず魔石の採掘に当たらせていました。それだけでなく捕まえて人間領へ連れて行き、使い捨てていたのです。その怒りに燃えたかつての魔王は兵を挙げ、人間の大半を滅ぼしました。二千万人ほどいた人間は、十分の一になったと聞いております」

 なんとなく、身につまされる話だ。あちらの世界でも、人間とそれ以外の種族を比較すれば圧倒的に後者が多い。彼らが一致団結して人間を滅ぼそうとすれば、為す術なく滅んでしまうだろう。食物連鎖の頂点に立っていようと、素手では熊さえ倒せない。

「しかしその戦いは人間側に大きな遺恨を植えつけ、魔族は人間の敵となりました。以来数千年に渡り剣を交えてまいりましたが、五百年ほど前の聖王が関係回復を望みました。いよいよ領土が狭まり、魔石が枯渇してきたのです」

 上までボタンを留め終えたシェイアは、いかがですか、と着心地を尋ねる。

「ちょうどいいです。腕も動かしやすいし、きつくもありません。それに、すごく素敵です」

 床で少したわむ長さのドレスは、後ろの裾が少し長い。これも、音を立てないためなのだろうか。

「お気に召して何よりです。皆でがんばった甲斐がありました」

 嬉しそうな声に、思わず振り向く。脚立の一番上に乗ったシェイアは、間近で見るとやっぱり迫力のある造作をしていた。

「昨晩ご挨拶したあと、ほかのアラクネ達とどのようなドレスがお似合いになるかと相談して作り上げたのです。お肌が白いので濃い色もお似合いですが、黒髪と合わせると少し重くなってしまうかと。それに、柔和で優しいお顔立ちの印象を損ねないものにしたかったのです」

 凛々しさの欠片もない垂れ目に下がり眉の顔立ちも、いいように解釈すればそうなるらしい。

 さあ、と促されて鏡台の前に座り、器用に櫛を持って髪を梳き始めたシェイアの足を眺める。美しく磨かれた金属の表面には、鏡と変わらないほどはっきりと姿が映り込んでいた。

「話を戻しましょう。聖王が国交回復を望んだところの続きですね。魔王も承諾し、魔石を正当な価格で買い取ること、相互理解と一方的な条約の破棄を防ぐ目的で互いの王子を十年間交換留学させることを条件に、平和条約を結びました。しばらくはそれで、戦争には至りませんでした。ただ、六十年ほど前のことです」

 毛先まで丁寧に梳きつつ、シェイアは流れるように歴史を語る。過不足なく与えられる情報のおかげで、少しのストレスもない。良い語り手だ。

「前聖王がその座に就いた時、交換留学は彼らの代替わりが目安でしたので、これまでのように王子がそれぞれの地へと赴きました。魔族領からは当代様が、人間側からも当代が訪れる予定だったのです。しかしながらこの地へ足を踏み入れたのは、まるで関係のない者でした。彼らは当代様を人質に、再び戦いを挑んできたのです。おそらくはその領土が魔族領を下回ったことが、許せなかったのでしょう」

 エレも、領土が下回ったことに忸怩たるものを抱えていそうだった。生まれた時から差別意識と特権意識の中にいれば、抜け出すのが難しくなるのは仕方のないことかもしれない。

「卑怯なやり口に先代様は憤られ、すぐさま兵を挙げられました。ただ人間側は、秘密裏に魔法障壁の開発を進めていたのです。これまでにない苦戦を強いられ、聖都へ進軍するまで約十年かかりました」

 シェイアは胸下まである私の髪を後ろへまとめると、上四本の足を器用に使って編んでいく。話をしながらでも、鮮やかな足さばきだった。

「そして聖都で、先代様は兵器による攻撃を受けて負傷なさいました。ただ人間側も先代が病に倒れて優位を保つことができず、不可侵条約の締結を以って十年戦争は終結いたしました。それに伴い当代様もお戻りになられ、先代様に代わり魔王となられたのですが」

 編み終えたあと、少し声のトーンを落として間を置く。

「以来ずっと、体調を崩していらっしゃるのです。頭が痛いと仰り、音が響くのをいやがられます。元より物静かな方ですが、自分の声すら響くからと今はあまりお話になられません。政務は休まず執り行ってらっしゃるものの、お窶れになっていく姿がおいたわしく……城に住む皆で少しでも苦痛を和らげられないかと、こうして城内を毛や布で覆い尽くしたのです」

「そうだったんですね。でも、この世界には治療魔法や魔法薬があるのでは?」

 だから私は、役立たずだと言われてあそこを追放されたのだ。

「確かにあります。ただそれが回復効果を示すのは人間のみ、我ら魔族にはあらゆる魔法の中で最も命を削るものなのです。人間が闇魔法を使えないように、魔族は聖魔法が使えません」

 シェイアは脚立を下り、籠の底に入っていた革袋を掴んで再び上った。

「なるほど、性質と相反するのですね。では、回復手段はないんですか」

「魔族領で育った薬草であれば、多少の効果はあります。ゾノ様は薬師として、魔王様のお薬も作ってくださっています。ただ薬草には根本まで治す力はありませんので、ずっと苦しまれているのです」

 いたわしそうに話す姿には、魔王に寄せる情が見える。悪辣な王なら、このように慕われることはないだろう。ゾノと呼ばれたあの老人が私をここへ連れてきた理由も、今は察せた。

「確かにそれなら、お役に立てるかもしれませんね」

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」

 私に託しながら、シェイアは私の頭にレース編みの飾りを下ろす。すっきりと露わにした額に、一際繊細な銀色のレースが垂れた。

「素敵」

 化粧も何もしていないのに、ドレスと髪飾りのおかげでまるで貴婦人のように見える。まじまじと鏡を覗き込んで感嘆の息を吐いた私に、ふふ、と満足そうな笑みが応えた。

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