第2話

 聞き慣れない声と揺れに、薄く目を開く。滑り込む光の眩しさに思わず目を閉じた時、勢いよく体を引き起こされた。驚いて再び目を開くと筋骨隆々の男がいて、有無を言わさず私の顔を掴む。開かせた口に苦い液体を流し込んで、飲めと言わんばかりに口を塞いだ。何が起きているのか、落ち着いて整理する暇もない。

 動揺の中で確かめた男は金髪で緑の瞳をして、無精髭を蓄えている。四十代くらいか、まるで見覚えのない外国人だ。私は確か事故に遭ったはずなのに、何をしているのだろう。これは、夢だろうか。

 でも夢にしては流し込まれた苦味は鮮やかに舌を刺激するし、鼻先に触れている指からは生々しい鉄の臭いがする。そして、息苦しい。気づけば、手足が拘束されていて全く動かせなかった。

 飲むしかなさそうな状況に、意を決して従う。苦味は喉を流れて腹へ落ち、舌には灰汁のようなきしみが残った。手を離した男に、ようやく深く息が吸えた。

「……えるか、こちらの言葉が分かれば教えてくれ」

 呪文のように流れていた男の声が、突然意味を持った言葉へと変わる。顔を上げると、男は安堵したように頷いた。

「今飲ませたのは、我らとお前の間に存在するズレを調整するための薬だ。この世界で聞こえる言葉や名称、環境は、お前の知る最も近い表現や単語に変換されて」

「説明はよい、縄を切って下がれ」

 男の背後から、棘のある声が響く。男が振り向いて一瞥した先には、白いガウンのような装束を身に着けた男が立っていた。被っている縦長の帽子は、司教冠の類か。装束と併せて金糸の刺繍が豪奢にきらめく。そこから垂れる、緩いカーブを描く長髪は白とも灰とも見える色だ。野性味溢れる目の前の男に比べると端整で洗練された顔立ちだが、青白い肌に似合う青い瞳はぞっとするほど冷ややかで、私を侮蔑している。図らずも収まった混乱に感謝すべきか、驚くほど冷静さを取り戻していた。とりあえず、今は観察するしかない。

 男は向き直り嘆息して、腰の辺りから短剣を取り出す。こちらは軍人なのか、両肩に留められたマントや金属の胸当ては世界史の資料で見たものに似ている。彫り込まれたモチーフは、鷲か。

「攻撃性は見えないから縄を切るが、暴れるなよ。主祭しゅさいの指示があれば殺さねばならん」

 男は後ろへ回ったあと、小声で伝えつつ縄を切る。手荒ではあるが、右も左も分からない今は信用するしかないだろう。

 視界を覆い尽くしていた男が退いて、ようやく見渡せるようになった周りに視線をやる。石造りと思しき白い部屋は光に満ちて、窓からは心地よい風が吹き込んでくる。木の窓枠の向こうには、風に揺れるよろい戸が見えた。床も壁も美しく磨かれているが、窓ガラスは存在していないのかもしれない。

 主祭の背後には、簡素な机に着いた従者が控えている。机の端には、積み上げられた巻物。製本技術もなし、か。まあ時代考証で答え合わせをしても、仕方ないのかもしれない。さっき、男は「この世界」と言った。

 少なくとも地下室で悪巧みをしているようではないが、聞かなければ始まらない。

「あの」

「国と名、年齢、職業を答えよ」

 主祭は私の言葉を遮り、要求を投げる。机に向かう背後の男が、手元の細長い棒を小さな壺に浸すのが見えた。

「国は日本、名前は篠鞍しのくら鈴。三十一歳の鍼灸師です」

「シンキュウシ、とは?」

 一定の位置から見下すように問い返す主祭を、じっと見返す。顔立ちだけで判断すれば、私と変わらない年頃に見える。でも尊大な態度を裏打ちするこの威圧感は、もっと年上のものではないだろうか。

「鍼やお灸と呼ばれる治療具を用いて、体の不調を和らげたり取り除いたりする仕事です。私はほかに、手技を使った整体も」

「一瞬で傷を消し、病を癒すことは可能か。不死を与えることは」

「そんな、魔法みたいなことは」

 鍼灸でも、一度の施術で痛みが消えることはある。でも傷を消す、ましてや不死なんて、医者だって不可能だ。

「もうよい、魔力を計測せよ」

 あからさまな溜め息をついて、主祭は面倒くさそうに手を払う。背後に控えていたらしい別の従者が回り込んで長い衣の前を捌き、膝を突いた。

「こちらの上に、手を置いてください」

「あの、『魔力』とは、どういう」

「余計な口を利くな。早く手を置け」

 答えかけた従者を威圧するように、主祭は相変わらずの口で命じる。さすがに苛立ちはしたが、困ったような従者の表情に黙って手を差し出した。見た目にはただの白い素焼きの陶板だが、やっぱり私の知っている世界とは何かが違うらしい。

 おそるおそる陶板の上に手を置くと、涼しい風が全身を吹き抜けていくような感覚が走った。

「魔力はございません。所持技能は……『骨格透視』とはなんでしょうか、初めて見るものですが」

 従者の報告に、主祭は再びあからさまな溜め息をついて眉間を揉む。さっきから、なんなのだ。

「追放せよ。このような役立たずを喚ぶために我が力を尽くしたわけではない。腹立たしい」

「そのような、神がお召しになられた方を」

「神ではない、私が喚んだのだ!」

 窘める従者をはねつける一際傲慢な台詞に、思わず私まで固まってしまった。すり合わされた「神」の概念はともかく、それに仕える立場で今のは失言ではないのか。

「とにかく、このマルティヴァに必要なのは『シンキュウシ』なるものではない」

 静まり返った周囲に失敗を悟ったらしく、主祭は声のトーンを落とす。

 マルティヴァ……どこだろうか。聞いたことはないが、検索すればどこかにありそうな都市ではある。でもそれとなく探ったトレンチコートのポケットに、携帯はなかった。持っていなかったのか、奪われたのか。

 知りたいことは山ほどあるが、懇切丁寧に教えてくれる相手ではないだろう。それなら、一番知りたいことから尋ねるべきだ。

「私がなぜ役立たずなのか、教えていただけませんか。技術を確かめることもなくそのように」

「ここには、治療魔法と魔法薬があるのだ。一瞬で傷をなかったことにし、病を癒す術がな。死だけはどうにもならぬが」

 主祭は苦々しげに答え、何かを唱えつつ私に手のひらを向ける。陶板に触れた時のような感覚が体の中を巡った途端、体が明らかに軽く、楽になった。しつこく残っていた疲労感まで、全て洗い流されたかのようだ。気づいて確かめた手首にも、縄が残した擦り傷どころか赤みすら残っていなかった。

 これが、魔法か。私達の世界では絵本や映画の中にしか存在しない、空想の産物でしかないものだ。

「確かに、こんな素晴らしい術があるのなら必要ありませんね。鍼灸も整体も、魔法を持たない世界の中で生まれたものですから」

 私にもこんな力があれば、どれだけ多くの人を助けられるか。この世界の人は、守られているのだろう。

「では、私を元の場所へ返してください。あそこには、この技術を必要とされる方がいらっしゃるんです」

 正当な対処を求めた私を主祭は憐れむように見下ろして、笑った。

「召喚には不文律があり、生ある者の魂は呼び出せぬようになっている。死者の魂を送り返すことはできぬし、受け入れる肉の器も既にない」

 聞き慣れない単語よりも、一瞬で散った希望が堪える。やっぱり、あのまま。

「私は、死んだと?」

 胸の一点が急に冷え、息苦しさが湧く。

――鈴、ごめん! ごめん、俺のせいで。

 脳裏に蘇る情けない声に、顔を覆った。

 陽太がどうにか免許を取得したのは二年前、取得後は不注意で何度となく自損事故を起こしていた。いつか人身事故を起こしそうで公共交通を使うよう勧めた私を、陽太は心配性だと笑った。だから、気をつけるようにと。

 陽太の顔を思い浮かべた途端、胸がざわつく。これまでにない違和感に惑い、手を下ろした。なんだ……ではない、陽太にはねられたのだから、やり切れないのは当然だ。まだやりたいことも、叶えたい夢もたくさんあった。陽太が少しでも私の話を真剣に聞いてくれていたら、私は全てを失わずに済んだのに。

「この者に食料と金を与え、早急に放逐せよ。場を清め、次の召喚を行う」

 この上なく理不尽な通達に戸惑う。こんな得体の知れない場所に、何も知らないまま放り出されるのか。

 来い、とうろたえる私の腕を掴み引き起こしたのは、さっきのむくつけき男だ。間近で見ると迫力のある上背は、二メートル近くあるのではないだろうか。

 引かれるままに進むと、戸口には男と似たような格好の兵士が二人立っていた。二人は私を一瞥することもなく観音開きの扉を開き、私達を外へと送り出した。

 廊下は屋外を突っ切るもので、両側には緑の庭園が広がっていた。あれは、オリーブの木だろうか。裏白の細かな葉が美しくて、院でも育てている。屋外で育っているのなら、気候は温暖なのだろう。白っぽく乾いた土と澄んだ青空の対比を眺めつつ、腕を引かれるまま廊下の角を曲がった。

 一歩が大きくて半ば引きずられてはいるものの、男に構う様子はない。紺色のマントがたまに風に揺らめいて触れた。強引なのは今更だが、多分悪い人ではない。

「私に何が起きたのか、話していただけませんか」

「今は無理だが、あとで話す。身柄も悪いようにはしない」

 一転して保証されたらしき身の安全に、半信半疑ながらも安堵する。ここの常識すら分からない今は、目の前にある藁を掴むしかなかった。

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