魔族領のシンキュウシ
魚崎 依知子
1:魔力はございません
第1話
正面玄関の施錠を済ませ、携帯のアプリから防犯モードを切り替える。斜め上に設置したばかりの防犯カメラを確かめて、一息ついた。
目覚めたばかりの街の灯りが、薄く張った水たまりに派手な色を落とす。地方都市の歓楽街に佇む小さな鍼灸整体院、それが私の職場だ。半年ほど前までは私と両親の、だったが。
縁石の隅に溜まる落ち葉を一瞥して、結んでいた髪を梳く。雨の夜は、やっぱりいろいろと思い出してしまう。冷えた空気にトレンチコートの前を閉じて、傘を差した。
弱視の母と健常の父、専門学校で共に学んだ二人がこの場所に開院したのは約三十年前、その頃は小さな商店が立ち並ぶだけの寂れた場所だったらしい。二人の予算に合う場所を探したら、そんなところしかなかったのだろう。開業して数年は、幼い私を抱えていたこともあって生活は大変だったと聞いた。ただ二十年ほど前に町がベッドタウンの役割を担うようになってからは集客に成功し、経営は安定した。その環境が更に大きく変わったのは十年ほど前、私鉄の駅がすぐ近くにできてからだ。開発を受けて駅周辺は様変わりし、駅から徒歩五分ほどのこの辺りはきらびやかな歓楽街へと姿を変えた。
客層が変わり施術内容もバリエーション豊かになったものの、腕が求められている理由は変わらない。施術後の安堵した表情を見るためだけに働いている。
ふと鳴り始めた携帯に、裏通りへ入ったところで足を止める。表示された『
「どうしたの?」
「えっと、ちょうど車で近くを走ってるから、送ろうかと思って」
少しぎこちなく答えた声に笑む。陽太は昔近所に住んでいた地主の息子だ。幼馴染みとして世話を焼き続けた期間は長いが、付き合い始めてからの歴史は浅い。
――こんな時にって思うかもしれないけど、まあそうなのかもしれないけど、結婚しない?
恋愛関係をすっとばしたプロポーズは、精進落としのあとだった。
「ありがとう。今、裏通りに入って歩いてるとこだから」
「分かった。じゃあ……うん、行くよ」
置かれた間と声のトーンになんとなく不穏なものを察知したが、ひとまず流して通話を終える。またやらかしたのかもしれない。今の会社をクビになったら、何社目だろう。学生時代までは気質の良さに助けられてどうにかなったが、仕事となれば「仕方ないなあ」で許される範囲はぐっと狭まる。
まあ、「心配なの」を免罪符にうるさく言いすぎなのは分かっている。陽太だって、反省はしているはずだ。同じことを繰り返し言われすぎていい加減、と代わり映えしない反省に行き着いた時、背後から白い光が溢れた。陽太だろう。蕭々と降りしきる雨の筋を眺めつつ足を止め、振り向いた。
途端、きつい光量に目を刺されて手を翳す。唸るようなエンジンの音が、やけに近くで水たまりを踏んだ。
あ、ダメかも。
何かが危険を察知した瞬間、衝撃に襲われる。視界は再び、白い光に覆われた。
あの夜もきっと、こんな状況だったのだろう。両親は今年の四月、横断歩道を渡っているところを左折してきたトラックに跳ねられて死亡した。
「
響いた声に、ぼんやりと意識が戻る。眩しい視界に影が揺れた。どくどくと全身が脈打ち熱くてたまらないが、不思議と痛みはなかった。
落ち着きたいのに息は荒く、体中が震え出す。不意に抱え起こされた途端、全身に痛みが走った。痛い、とうまく言えなくて呻き、荒い咳を刻む。こんなことをする前に、救急車を呼んで欲しい。
「……陽、太……救急、車」
自分の声が、酔った時のように遠くで聞こえる。雨の音が耳を刺した。
「ごめん、やっぱりやめれば良かった、こんな」
「やめれば良かった」? 光を背負う陽太の顔は暗く、揺らぐ視界では表情すら読み取れない。どういう、ことだ。持ち上げようとした手はびくともせず、震えているのに体は熱い。ぐわん、と大きな目眩がするやいなや、頭の中で何かを唱えるような声が響き始める。初めて実感した死に不安と恐怖が膨れ上がり、汗が噴き出す。
声にしたかった何かは音にならず、喘ぐように息をする。何かもっと考えたいことはあったはずなのに、割れんばかりに響く声に邪魔されて少しの余裕もない。
死にたくない、こんなところで、こんな。
もう開けていられない重い瞼を閉じると、少しの未練も許さないかのように声の鎖が私に巻きつく。そのまま、どこかへ引きずり込まれていくのが分かった。
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