意味
「なんで書いてるんですか?」
俺は無表情でパソコンに向かう一人の中年の独身女性に訊いた。
「私の書く物語を読むと言ってくれた人がいた。」
俺は社会人になってもその女のことがある意味忘れられない存在になっていた。
———・・・
学校からの帰り。リュックを傘代わりにして駅まで走っていた。けど、リュックから水滴が垂れてきて使い物にならなくなっているのに気付いて丁度近くにあったマンションを屋根替わりにして雨宿りをしていた。リュックの中身は言わずもがな全滅だった。
「・・・。」
もう言葉も出てこない。これで中学から続けてきたリュックを傘代わりにするのをやめた。
「こんなところでどうしたの?大学生の人?」
「あ、はい。」
これが女との出会い。女は俺が見せたリュックを見ると驚愕した。きっと誰が見ても表情に出るだろう。自分でも雨宿りを選んだぐらいなのだから。女は自分の住んでる場所まで案内した。お風呂を貸してくれるというのだ。
「どうしてこんなことまでしてくれるんですか?」
女は俺の「着替えを買ってくる。」と言って玄関に手をかけていたときに訊いた。
「そんなずぶ濡れの学生をほっとけるほど私はいい人間じゃないのよ。」
と言って玄関のガチャンッという音がした後、静寂に飲まれた。
「普通逆でしょ。」
シャワーから出るとパソコンに向かう女の姿があった。
「ココアでも飲む?」
「あ、はい。」
ココアを飲む俺と女の間に会話はなく沈黙が流れる。普段騒がしい中で生きている俺にとっては雑音が雨音だけというのは生気がそがれる行為である。
「普段は何をしてらっしゃるんですか?」
「会社に行って働いてるわ。」
「ご結婚は?」
「独身よ。」
「・・・。」
「・・・。」
どうしても会話が続かずまた黙りこくってしまった。同年代の人ならともかく年上となればいい質問さえ見当たらない。
「将来なりたい職業はあるの?」
「正直、あまり...。」
「そう。」
女はどうしてそんなこと訊いたのだろう。ただただ今日はこの会話が最後でココアを飲んだら傘を渡されてそのまま帰らされた。本当になんだったんだろう。
一週間後にまた雨が降った。傘はあの女に「次からはその傘で帰ってね。」と言われ、つまり貰い物なので返していない。バサッと傘を開いて俺の足は駅へ...ではなくまたマンションへ来てしまっていた。
「また傘忘れたの?」
女は驚いていた。俺は慌てて言い訳を探した。
「来る気はなかったのですが、なんのお礼もしていないなと思い当たって...あはは。」
女は少し沈黙した後に、「私の邪魔はしないでね。」と言って家に上がらせてもらった。俺はまたココアを出してもらい静かに飲んでいたが心の中では大パニックになっていた。
(やべぇー、どうしよう。どうしよう。あんなこと言っておいて何をすればいいんだよ。あの人パソコンにずっと向かってて話しかけられる雰囲気じゃねぇし。そういえば何をしているんだろう。でも、邪魔するなと言ってたしなー。うーん。)
「何か言いたいことあるならいいなよ。」
いきなり話しかけられるものだからビクッと肩を震わせた。
「はい、ええと。今何をしてるんですか?」
「見る?」
女は画面を俺に見せるしぐさをしたので「おじゃまします。」と言いながら覗き見するように見た。
「…小説家なんですか?」
「いいや。」
女は首を振った。じゃあ、なんで。
「今なんでかと思ったでしょ。」
心を見透かされたようでまたビクッと肩を震わせた。
「表に出す必要がないからよ。」
「誰かに読んでもらっているんですか?」
女は首だけ横に振った。率直に不思議な人だと思った。
「そういえばお礼に何かしようとか言ってたわよね?これ読んでくれる?」
「そんなことで良ければ。」
俺はそれを印刷したものを貰って家に帰った。
「どうだった?」
「良かったですよ。」
「そう。」
また家に遊びに来てとても短い感想を述べた。けど、女はそれだけだった。
「読まれない物語をなんで書いてるんですか?」
「読まれなきゃいけないの?」
「そういうわけではないですけど。」
「ただ...そうね。」
女は少しだけ沈黙して言った。
「私の書く物語を読むと言ってくれた人がいた。」
「読んでくれているんですか?」
「いいや。」
「それって意味あるんですか?」
「いつか読んでくれるよ。芥川賞をとった時にね。」
女はそのときカーテンをシャッと開けた。いっきに光が入ってくるので思わず目を細めた。この日は晴れていた。窓の片隅に羊雲が見える。
「あの人なら読んでくれる。そういう人だから。」
芥川賞がなんなのかはわからないからそのことについては訊かなかった。だから。
「応援してます。」
俺がそういうと、女の目は驚いて数秒静止していた。そして、
「ありがとう。」
そう言った女は初めて俺の前で頬を上げて微笑んだ。
翌年に本屋で芥川賞受賞の帯で飾られた本が売っているのを見た。間違いない。あの女のペンネームだ。あの女の読んでほしい人に読んでもらっているだろうか。なんとなく、俺もそれを望んでいることに気づきくすっと笑って今日も学校まで足を運んだのだった。
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