エピローグ ここからまた

 お父様がご危篤だとの報が届いたのは、私が帝都に帰還して半年くらい過ぎてからの事だった。季節は秋に差し掛かっていた。


 私は驚き取り乱した。何しろお父様のいらっしゃるイブリア王国旧王都は遠いのだ。馬車で行けば二週間くらい掛かってしまう。早馬でも多分十日は掛かっている。つまりお父様がご危篤になられたのは十日も前のお話なのだ。


 もう亡くなっているかも知れない。私は呆然とし、涙が止まらなくなってしまう。


「落ち着きなさいませ皇妃様」


 侍女のポーラが厳しい顔で言う。


「王都を旅立った時に、こういう事態は想定しておられたでしょう? 仕方が無いことです。マクリーン様も覚悟なさっていたことでしょう」


 確かに、王都移転の時に覚悟はした。あの時はお父様には二度と会えないかも知れないと思ったのだ。しかし、想定と実際は別だ。私はまだお父様に、自分が皇妃になった事の報告もしていない。お父様のおかげでクローヴェル様と結婚出来て、自分が皇妃になれたのだというお礼もしていない。それなのにお別れの覚悟なんて全然出来ない。


「貴女は皇妃ではありませんか。しっかりなさいませ。そんな事ではマクリーン様ががっかりなさいますよ」


 ポーラは元々、お父様の侍女だ。そこから私の教育係になり、私付きになり、遂にはこの帝都まで自分の子供達と分かれてまで付いてきてくれた。それこそ彼女も、自分の家族親族に何かあっても駆ける事は出来ない。とっくに覚悟は出来ているのだろう。


 だが私はこれまでまだ、親しい人の死に立ち会ったことが幸運にも無かった。実家の家族兄弟は健康だし、今回の内戦でも私に近しい人は誰も死ななかったのだ。だから今回のお父様とのお別れが私にとって親しい人との初めての死別なのである。無理だ。覚悟なんて全然出来ない。


 涙をボタボタと垂らす私を見て、クローヴェル様は私の肩を抱いて仰った。


「まだ間に合わぬとは限りません。お義父上は強いお方です。急げば間に合います」


 だけど、ブケファラン神のお力で飛んで行ける範囲はせいぜいスランテル王国とイブリア王国の国境位までで、旧王都まで一気には飛べない。旧王都から暗躍していた時は帝都に向かうには、イブリア王国王都に一回降りてそこで力を溜めてからまた飛んだのだ。だから都合四日か五日も掛かってしまう。それでは奇跡が起こっても間に合わないだろう。


「リュー。クーラルガ王国征伐で、七つ首の竜を吸収し損ねた時に、どうも金色の力が増えた気がすると言っていたではありませんか」


 確かに、クーラルガ王都での戦いの時、フェルセルム様の策略で七つ首の竜を吸収しきれなくなって破裂し掛かったのが効いたのか、あれ以来私の金色の力は多くなっていると思う。無理に詰め込もうとして身体が膨らんだのかしらね。


「だからもしかしたら、一気には無理でも旧王都の側くらいまでは飛べるかも知れないではありませんか。そこから馬で走れば良いのです。リュー行きなさい。動かないで後悔するより、行って後悔するのが貴女流でしょう?」


 そうだ。クローヴェル様の言う通りだ。動きもせずにメソメソしているのは私の流儀じゃ無い。私はクローヴェル様の瞳を見つめて、しっかりと頷いた。


 大急ぎで旅装を整える。防寒のために重ね着をしてトーマの人々が被る頭巾を被って顔に布を巻き付ける。そして帝宮の庭園に引き出した私の馬にまたがると、両手を天に掲げた。


「大草原の守護者にして馬を統べる神であるブケファランよ!我が力に応え、我が馬にお力を貸したまえ。我が馬に何物にも負けぬ脚と翼と気高さを与えたまえ!」


 たちまち馬が燃え上がる。ブケファラン神は機嫌が良さそうな赤く輝く目で私を見る。


「お願いします。ブケファラン様! 旧王都に。出来るだけ急いで!」


 私が言うと、ブケファラン神は大きなお声で嘶いた。そして前脚で一回空を掻くと、一気に天空へと舞い上がった。帝都の町並みがドンドン小さくなる。かなりの上空に出ると、ブケファラン神はチラッと私を見上げた。「本当に良いのか?」と聞いているようだ。切羽詰まった私の様子を見て、本気で駆けようとしてくれているのだろう。否や無い。私は覚悟を決めて頷いた。


 ブケファラン神は嬉しそうに嘶きを轟かすと、空を蹴って一気に宙を駆け出した。


「う、うひゃぁあああああああああ!」


 もの凄い速度だ。そして風圧だ。寒い! 私はブケファラン神の首に必死でしがみつくことしか出来ないまま、遙かな高空を一直線に南へと飛んだ。



 やはり私の金色の力の総量は多くなっているようだ。本気を出したブケファラン神は一晩飛び続け、翌日の昼前には旧王都のある山間部への入り口へと到着した。前の日の昼過ぎに出たのだからほぼ丸一日だ。これは凄い。もっとも、寒さと疲労で私はもうヘロヘロだったので、これ以上飛べると言われても無理だったけどね。


 峠の入り口でブケファラン神はお帰りになり、私の馬は地面に降りた。そこから馬を走らせれば程無く旧王都だ。だけど私はもうボロボロだったので、馬を走らせるなんてとても無理だった。裸馬だし、落馬しないようにするだけで精一杯。幸い私の馬は賢いので、ぐったりと首に伏せる私を乗せて山道をトコトコ登ってくれた。


 山道の途中には関所がある。昔は簡素な木の柵だったが、今では石造りの砦みたいなものが建っている。衛兵も三十人くらいいたわね。その彼らが登ってきた単騎の女を見て不審に思い、馬を止めて誰何して、私に気が付いたらしい。まだ私のことが一目で分かる人が旧王都にいるんだなぁと、ちょっと嬉しくなったわよね。


 慌てて一人が旧王都に馬を走らせ、旧王宮から馬車が差し向けられた。乗っていたのは懐かしのお父様の侍従長ザルズだ。彼ももう五十歳は超えた筈だ。彼は御者席から飛び降りると走り寄ってきた。


「姫様!」


「ザルズ! お父様は!」


 私はそう叫んでしまってから、内心震えた。もうお亡くなりになっていると言われたら泣かない自信が無い。


 しかしザルズは厳しい表情だったがしっかり頷いた。


「大丈夫です。よくおいで下さいました。さぁ、乗って下さい」


 ま、間に合った! 私は歓喜しながら馬車に飛び乗り、旧王宮へと向かった。


 少しはきれいになっているが、相変わらず小さな、そして懐かしい王宮。しかし感慨に耽るのは後だ。私は馬車を飛び降り、王宮の中に駆け込んだ。なじみのある侍女達は私の姿を見て感極まってみんな泣き出した。私も涙を堪えながら、お父様の寝室に向かった。


 昔、何度も来たお父様の寝室。大事な本はお父様が寝室の本棚に仕舞っていたのだ。それを借りにきてそのまま本を読みふける私を楽しそうに眺めていたわね。私はドアをノックし、侍女に開かれたドアから静かに中に入った。


 お父様は寝ていらっしゃるようだった。あるいはもう意識が無いのかも知れない。医者のおじいさんがそっと場所を譲ってくれる。フェレスティナを産んだ時に私を診てくれたお医者だ。


「おう、王様。リューがきてくれたぞ!」


 医者のおじいさんが太い声でお父様を起こす。ちょっと! 起こさなくても良いわよ!


「どうせ眠らせておいてもこのまま死んじまう。最期にリューと話せた方が王様にも良いじゃろうよ」


 死んでしまう、という言葉に私が息を呑んだその時、お父様が小さく唸って苦しそうに息を吐いた。


「お父様!」


 私はお父様の手を握って呼び掛けた。お父様の容姿は相変わらず髭と白髪で覆われてよく見えない。だが、確かに目が開いて、私の事を見た。驚きの声が上がる。


「リューではないか……。いつ来たのじゃ?」


「今です! 会いたかったです。お父様」


 とうとう我慢出来なくなって、私は涙を零した。それで、お父様は私がなぜ来たのか察したようだった。なぜか不機嫌そうに顔を顰めた。


「ザルズめ。知らせぬようにとあれほど言ったのに……。リュー。お前は忙しい身ではないか今すぐ帰りなさい」


 え?私は慌てた。せっかく来たのに。しかしお父様は小さなお声ながら、しっかりとした口調で仰った。


「其方は念願叶って皇妃になったのじゃろうが。皇妃は帝国に責任を持つ立場では無いか。こんな老いぼれにかまっている暇は無いはずじゃ。帰って其方の本分を尽くしなさい」


 私は呆然とした。私は当然、お父様が来たことを喜んでくれると思ったのだ。がっかりするよりびっくりしてしまったのだ。すると、医者のおじいさんが咳払いをした。


「コラ、王様よ。そんな強がりを言うておると、先日まで『リューに会いたいのう』と泣いていたことをバラしてしまうぞ」


「余計な事を言うなノクターン」


 お父様は私の手をすっかり薄くなってしまった手で包むように握った。


「来てくれたのは嬉しいが、其方の時間は儂などの為に使ってはいかんものぞ。王族の命は統治する民の為にある。国を幸せにするために命を賭けるのが王ぞ。まして皇帝においておやじゃ。分かったら、すぐに帝都に帰りなさい」


 むむむ。私は少し腹を立てた。お父様? お父様だってお若い頃は毎年の半分も帝都にいたおかげでイブリア王国の国庫はそれまで溜めていた分も使い果たして大変な事になったと聞きますけれど? そんなに立派な王様でしたか? お父様は?


 そう思いながら、私はお父様の当時のお気持ちもよく分かってもいた。


 お父様はイブリア王国がこのままではじり貧であるという事がよく分かっていらっしゃったのだ。だから頑張って帝都まで出て工作して名を上げて、他国の王族の妻を何回も強引な手段を使ってまで娶って、なんとか王国をこの山間部から脱出させようとしたのだろう。


 しかし、結局失敗した。しかしそれは結果論だ。誰でも成功より失敗の方が多いのだから。お父様は王国のために最善を尽くした。それは私も家臣達も知っている。だからおかげでその後何年も国庫が苦しくなろうとも、誰もお父様を責めはしない。


 責めはしないが、私には腹を立てる権利はある。なぜならば。


「嫌です! 帰りません!」


 私が思わず大きな声で言うと、お父様は目を丸くした。


「なぜなら私はお父様の娘だからです! 娘であれば父親の危篤に何もかも投げ捨てて駆け付けるのは当たり前では無いですか!」


 王として皇妃として、国家と国民を何より大事にしなければならないことは分かっている。当然よね。でもね。それとお父様を心配する気持ちは別問題じゃ無い!


「帝国を支える人はクローヴェル様を筆頭に沢山いらっしゃいます! でも! お父様の娘は私一人ではないですか!」


 もう私は涙が抑えられなかった。お父様。大事なお父様。ガルダリン皇国のエメイラ猊下のお育ちを聞けば、お父様がどれほど私を養女に迎えるに当たって細やかに神経を使って下さったかが分かる。大事に扱って下さり、婿を好きに選ばせて下さり、王都を移転する時にはクローヴェル様に譲位までして送り出して下さった。


 お父様がいなければクローヴェル様が皇帝になり、私が皇妃になることは無かった。新生して進み始めた今の帝国が生まれたのは全てお父様のおかげなのだ。いわば帝国の父だと言える。


 涙を落とす私を見て、お父様は表情を和らげた。


「儂を、まだ父と呼んでくれるのか?」


「何を馬鹿なことを仰るのですか! 今までも、そしてこれからも、私の父はお父様ただお一人ですよ!」


 お父様は満足そうに頷くと、ゆっくりと呟いた。


「そうか。すまなかった。では、側にいてくれるか? 我が娘……」


「はい。お父様……」


 私はお父様の手に涙で濡れた頬を擦り付けたのだった。




 お父様は二日後にお亡くなりになった。最期は私に手を握られ、長く仕えたザルズを含めた家臣達に見守られて安らかに眠るように身罷られた。


 城の礼拝堂。私が結婚式をやった小さなそこで簡素なお葬式が行われ、旧王都や周辺の実家を含めた元貴族の農家が総出で出席して弔ってくれた。私は聖女としてお父様に大女神アイバーリンと七つ首の竜と、冥府の神ゴルンゾーラの導きを願って祈りを捧げた。


「我が父の死出への旅立ちにこの世界の母なる大女神アイバーリンと我が王家の祖たる七つ首の竜とのご加護あれ。畏るべき神なるゴルンゾーラよ、我が父を寛大に迎え入れたまえ。我が父は良き人であり良き親であり良き王であったと我が祈りによって証明す」


 私は金色の光を天に向けて放った。力をゴルンゾーラに奉納しこの光に乗ってお父様の魂が冥府に向かうのだ。古式の王族の葬式の作法である。何もしてあげられない不甲斐ない娘であったけど、これくらいはと思って全力で奉納した。きっと無事に冥府に導いてくれるだろう。


 お父様は少し高台にある王族の墓地に葬られた。ブロードフォード家はこれからは帝室になるから、ここには帰って来ない。ここに葬られるブロードフォード家の者はお父様で最後になるだろう。


 そう。何も出来なかった。クローヴェル様を皇帝にするために邁進していた私は、この旧王都の事を、お父様の事を、ほとんど思い出しもしなかったのだ。アルハイン公爵が気を遣っていろいろしてくれていたみたいだけど、お父様は多少の援助以外は「大丈夫だ」と断ったと聞いている。


 帝国が安定したら、一度帝都にお招きして感謝の気持ちを伝えたいとは思っていたけれど、その暇も無かった。不甲斐ない。何という親不孝者だろう。後悔しかない。


 父さん母さん、そして兄達は私を慰めてくれた。でも、これから更に忙しくなる私にはもうこの旧王都に来る暇が全く無くなるだろうと、私はみんなに言うしか無かった。まだ父さんも母さんもそれほどの歳ではないとはいえ、庶民の生活は厳しいから寿命は貴族よりも短いらしい。父さん母さんにもしもの事があっても私は今回のように駆け付けられないだろう。庶民の危篤に皇妃が駆け付ける訳にはいかないというのもある。養女である事は内緒なのだから。


 父さん母さんはとっくに覚悟の上だ、と笑っていたわね。そうなんだろうな。それは寂しいけど、少しホッとする事ではあった。


 お葬式が終わり、私はザルズを呼んでこの旧王都を含む山間部の領地の統治を命じた。それに従って彼は伯爵となる。ザルズは驚いたが、元々彼は山間部に王家が閉じ込められた時に付き従った王族の末裔で、血筋は良い。長い事お父様に仕えてこの山間部の統治に詳しいし適任だろう。子供もすでに成人した者がいて、跡継ぎも問題無い。


 それらの手続きと(皇妃である私がいるのだから爵位や領地を与えるなど手続きは私のサインで済ませられる)陶器製造や巡礼路の整備。例の古帝国の桟道の修理の見込みが付いたというのでその諸々を手配して、一ヶ月後、私は旧王都から帝都への帰路へ就いた。


 皆に見送られて、私はブケファラン神を空に舞い上がらせた。故郷の、小さな小さな王都、王宮の上を旋回する。すると、亡くなるほんの少し前にお父様と交わした会話を思い出したのだ。


「其方を養女に貰う前にな。ワシは其方の事を見て知っておったのじゃ」


「あら、どこで見たのですか?」


「市場を視察していたら、其方がしゃがんで露天の商品を見ておった。するとな。遠くの方でギードが『リュー』と呼んだのじゃ」


 すると私はパッと商品に未練無く立ち上がり、父さんの事目掛けて一目散に駆けていったのだという。


「その脇目も振らず、目標に向かって一直線に走ってゆく姿が、美しくてな」


 当時、お父様は王国の今後について、他国の王族を養子にもらおうか、アルハイン一族に国を譲ろうか迷っていたのだそうだ。


 しかし、私の事を見て考えが変わったらしい。


「ギードの娘なら歳も合う。其方に王国を賭けてみよう。と思ったのじゃ。ふふふ。ワシの目に狂いは無かったであろう?」


 ふふふ。そうですね。さすがはお父様。


「じゃからな。リュー。其方はあの時のままでいて欲しいのじゃ。目標に向かって真っ直ぐに。脇目も振らず、一目散に美しく駆けて言って欲しい。それがワシの最期の願いじゃ……」


 ……私は溢れてきてしまった涙を拭った。


 分かったわ。お父様。私はもう振り返りません。


 全力で脇目も振らず、誰も見た事の無い未来へ突っ走って見せますわ! 見ていて下さいませ。絶対に、クローヴェル様と共に世界を制覇して、神の座に昇って見せますからね!


 私はブケファラン神を促して、高空へと駆け上がり、光の軌跡を浮かべながら北へ、帝都へと飛び去ったのだった。




 第一部完

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スクウェア・エニックス様のSQEXノベルより、二月七日書籍版発売です!大幅加筆しております。よろしくお願いいたします!

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