三十四話 止むを得ざる停滞

 帝都から王都に飛び、ザーカルト様への書簡をしたためたり、王国の内政についての指示をアルハイン公爵やエングウェイ様に出す。


 アルハイン公爵もエングウェイ様もかなり頭の痛そうな顔をしていた。


「王妃様。流石にやり過ぎでは? スランテル王国、ザクセラン王国の情勢も定まらぬ内に、それ以上の事をしても手が回りますまい」


 私のやる事にはあまり口出しをしないお義父様が珍しく私に苦言を呈した。む、そうかしら? 確かにちょっと張り切り過ぎたし、スランテル王国やザーカルト様の事が上手く行き過ぎて、予定よりも計画が早く進んでいるとは思うけれど。


「でも、まだやりたい事は沢山あるのですよ。ロンバルラン王国やオロックス王国への工作もしたいし、一回トーマの民の所へ行って確認したい事もあるし」


「王妃様、あまり突っ走られても、周囲が付いていけません」


 エングウェイ様も仰る。むー。そこは貴方が頑張りなさいよ。とは言えない。エングウェイ様はイブリア王国の内政やホーラムル様への補給を完璧にこなしてくれている。この人とお義父様、お義母様がイブリア王国の内政をつつがなく運営し、諸侯をガッチリと掌握してくれているから、私が好き勝手に暗躍出来るのだ。


「分かりました。少し自重します」


 私が渋々言うと、アルハイン公爵もエングウェイ様もかなりホッとした顔をなさった。


 私は旧王都に帰ったのだけど、自重すると宣言して気が抜けたのか、離宮に入ると気分が悪くなり、うずくまってしまった。


「大丈夫ですか!? 王妃様!」


 ポーラが慌てて私を支えてくれて、クローヴェル様も飛んできた。私はそのままベッドに運び込まれ、グッタリと寝込んでしまった。


「ごめんなさいクローヴェル様。色々報告しなきゃいけないのに」


「気にする必要はありません。貴女の体調が第一です」


 いつもとは逆に、クローヴェル様が私に濡れ手ぬぐいを載せて下さった。ちょっと恥ずかしかったわね。


 そういえば帝都でも寝込んだのだった。確かに働き過ぎなのかも知れない。少し休養した方が良いのかも知れないわね。


 そう思った私は離宮でゆっくり過ごしたのだが、これが困った事に数日ゴロゴロしても体調不良が収まらない。あれー? どうしたのかしら?


 微熱。吐き気。ダルさ。困ったわね。この旧王都には医者がいない事は無いが、王都にいるような名医はいない。難しい病気だったらここでは治せないだろう。


 私はちょっと焦った。私は自分が健康だと信じていたものだから、思わぬ病気に慌ててしまったのだ。あんまり大きな病気だったら困る。クローヴェル様と私の野望の成就に支障が出る。まぁ、例え寝たきりになっても諦める気はないけどね。


 ポーラが医者を連れて来てくれたので診察を受ける。ちなみに、子供の頃から診てもらっている馴染みの医者だ。もうすっかりお爺さんのその医者は、私を一通り診察すると軽い調子で言った。


「こりゃ、おめでたじゃよ。リュー」


 ・・・。はい?


「お前さん、これで二人目じゃろうに。気がつかなかったのか?」


 ・・・。はい。気が付きませんでした。確かに思い返せば、レイニウスを孕んだ時もこんな風な体調だったような・・・。


 確かに月のものは遅れていたけど、色々飛び回っていたせいだと思い込んでいたのだった。


 飛び回るといえば、ブケファラン神に乗って上空を飛んでいると物凄く寒いのだ。お腹も冷えただろう。よく流れなかったものだ。


 私がどうやら妊娠している、と分かると、クローヴェル様が紺碧色の瞳を輝かせた。


「本当ですか! 素晴らしいです!」


 旦那様は私の手をギュッと握って蕩けるように微笑んだ。


「嬉しいです。今度はどんな子が生まれるのでしょうね? レイニウスに負けないくらい可愛い子が生まれると良いですね」


 クローヴェル様はニコニコしているが、私はちょっと微妙な気分だった。せっかく暗躍が上手く行って、スランテル王国やザクセラン王国を掌中に収めつつあるのだ。ここで更に各方面に畳み掛けて行って、帝国におけるイブリア王国の優位を確定させてしまいたかったのに。


 妊娠して動けない隙にフェルセルム様の暗躍を許せば情勢がどう転ぶか分からないではないか。


「そんな事を気にする必要はありません。子孫繁栄も大事ですよ。リュー」


 確かにその通りなのだ。レイニウスは今は元気だが、子供は意外にあっさり死んでしまうものだ。跡継ぎが一人では心許ない。私は王妃なのだから、子供を産んで王統を繋ぐのは立派なお仕事なのである。


 「王妃は子供だけ産んでれば良いのだ」と言って王妃を政治に関わらせ無かったり、子孫繁栄を言い訳に愛人を沢山作るような王様は世の中に沢山いる。クローヴェル様はそんな男共とは違うので、私が好き放題出来る訳なんだけどね。それでも、クローヴェル様が浮気をしないのなら、彼の子供は私が産むしかないのだ。


 私はとりあえず暗躍は封印して、出産準備のために全力を尽くす事にした。


 前回レイニウスを生んだのは王都だったが、今回はこれから王都に戻る訳にはいかないので旧王都で産むことになるだろう。こちらには侍女は少ないが、近くに親戚や知り合いの女性が沢山いる。彼女たちが私の世話に来てくれる事になった。


 特に母さんは何食わぬ顔でやって来て、私を「王妃様」と呼んで甲斐甲斐しく世話をしてくれた。私も母さんを「シル」と呼び捨てにしなければならなかったが、母さんが近くにいてくれるのは嬉しかったし、頼もしかった。


 レイニウスの乳母のクレアンヌは引き続き王宮でレイニウスの面倒を見てくれているが、レイニウスを連れて離宮にやって来ては私の面倒も見てくれた。そう言えばお腹の子の乳母はどうしようか。産んでから直ぐは私がお乳を上げるしかなさそうだが、王都に帰ってからの乳母は手配しなければなるまい。私は書簡を書き、妊娠してしまったので暗躍は出来なくなった事と乳母の件をアルハイン公爵に頼んでおいた。


 因みにレイニウスは離宮でクレアンヌが私の面倒を見ている間などは、地元の子供達に連れられてその辺りの山の中で遊んでいた。クレアンヌは当初「王子様がそんな事!」と騒いでいたが、レイニウスが楽しそうにしているのを見て黙認するようになった。私は自分がそうやって育ったので最初から何も心配していない。この辺の子供達は親が総出で働いている間は近所の幼子の面倒を見るのが普通なので、慣れているのだ。


 私はレイニウスの時と同じくそれほど大きな悪阻も無く、順調な妊婦生活を送った。しかし流石にブケファラン神に跨って飛んで行くのは無理である。旧王都に謹慎したのは春の初め。妊娠が発覚したのは夏。恐らく出産は来年の年頭くらいだと思われた。まだまだ先だ。それまで私は何も出来ない。


 焦りが募るがどうしようもない。私が嘆いていると、クローヴェル様が優しく仰った。


「貴女が頑張ってくれたおかげで、事態は順調に推移していますよ。後は私や兄達に任せてください」


 よく見ているとクローヴェル様は本を読む間にちょくちょく書簡を書き、それを人に託して送り、逆に届いた書簡を読んでいる事もあった。?? 何をしているのですか。


「私は一般的な方法で暗躍しているだけですよ」


 つまり、謹慎していながら、密書を各方面とやり取りして、情報を得たりそれに基づいて指示を出したりしているようだ。そうですね。いきなり飛んで行って自ら動くなんて事は普通は出来ない。多分、フェルセルム様でも出来ない。つまりフェルセルム様が暗躍する時はクローヴェル様と同じような方法で工作活動を行っているのだと思われる。


「だから、こういう普通の活動をしっかりやっていれば、フェルセルム様にそうそう遅れは取りませんよ。それに我が国には他の国には無い強みがあります」


 クローヴェル様が説明してくれた事によると、普通の国では密書を送るのは結構大変なのだという。ごく一般的なのは商人に託す方法で、この場合は目的地に行く商人を探すところから始めなければならない。これが結構難しいし、商人の都合によっては移動予定が変更になってしまったって、書簡が上手く届かないこともある。


 それを防ぐには使者を仕立てるしかないのだが、これはお金も必要だし、目立つ。密書を送るのには向かない。また、書簡を持っている事がバレやすいので密書を奪われる可能性もある。


 しかしながら、イブリア王国、特にこの旧王都には旅人、つまり大神殿への巡礼者が沢山やって来て行き来している。巡礼者は帝国中、いや、場合によってはガルダリン皇国やその先の国からやってくる場合もあるのだ。ちょっと探せば目的の地まで帰る人、通過する人は簡単に見つかるらしい。そういう人に密書を密かに託すのだ。


 こういう場合、その託した人がちゃんと目的地に届けてくれるかが心配になる所だ。実際、商人に託した場合にちゃんと目的地にまで到達する可能性は七割くらいだと考えるべきなのだそうで、それでも良いように複数の者に同じ密書を託すのは勿論、見られても分からないように暗号を使ったり当たり障りのない事を書くしか無いのが実情である。


 ところが、巡礼者に託す場合は事情が異なる。クローヴェル様が「イブリア王国の『紫色の聖女』が其方にこれを託します」と言えば、巡礼者は感謝感激して、命に代えても届ける、と約束してくれるのだそうだ。なにそれ。


「リューは大神殿ではいまだに物凄く讃えられているようですよ。神殿長が毎日説法でリューを讃えているとか。何でも銅像を造って拝むという話になっているとか」


 ちょっと待ちなさい! アウスヴェール様! 冗談じゃありませんよ! 飛べるようになったら、一回大神殿まで行ってアウスヴェール様を止めてこなければ。


「リューが飛んで行っていなかった間にも、ここにいる事を聞きつけた巡礼者たちが貴女を一目見ようとウロウロしていましたからね。あんまり貴女は巡礼者の前に出ない方がいいですよ」


 気を付けよう。そういう訳で、クローヴェル様としては密書を送るのが楽だし信頼出来るから助かっているらしい。


「急ぐ場合は、トーマの民に頼んでいます」


 これはいつの間にかクローヴェル様が確立したルートで、旧王都に何故かトーマの部族の者が定期的に来るようになっていて、その者に託すのだそうだ。どうやら岩塩の取引名目で来るらしい。確かにトーマの人々の間では塩は貴重品である。イブリア王国とトーマの民との重要取引品で、それを旧王都にまで引き取りに来させている、という事になっているようだ。実際には使者に使うために呼び寄せているのだろう。いつの間にそんなルートを。


「貴女に任せて遊んでいる訳にはいきませんよ。皇帝になるのは私の夢でもあるのですからね」


 私が飛び回っている間に、クローヴェル様も精力的に動いて色々暗躍していたようだ。その結果、クローヴェル様の密書は帝国各地にドンドン出されて、様々な効果を発揮しているようだった。


 私はクローヴェル様が書いていた密書を一通手に取って見た。


『王妃が暴走して大変です。陛下には失礼な事を言ったかと思いますが、けしてそれはイブリア王国の真意ではありません』


 まぁ! 私が目を丸くすると、クローヴェル様は苦笑なさっていた。


「それはクセイノン王国のエルミージュ陛下にあてた書簡ですよ。それを読んだエルミージュ陛下はどう思われるでしょうね?」


 私とクローヴェル様に意見の相違があり、クローヴェル様は私よりも穏当な考え方をしていると考えるだろう。


「それで迷ってくれれば良し。私を与し易しと考えて、私と交渉したがってくれても良しという事です」


 つまり、これはクローヴェル様の仕掛けた罠なのだ。私とクローヴェル様の間に意見の相違があり、私の暴走にクローヴェル様が手を焼いているとエルミージュ陛下が誤解してくれれば、私を避けてクローヴェル様とだけ交渉したがるだろう。イブリア王国内で意見の統一が成されていない、と考えてくれるだけでも良い。それだけ油断してくれるだろうから。


「もちろんですが、私は貴女が暴走しているなんて思っていませんよ。私と貴女は夫婦。運命共同体なんですからね」


 私だってクローヴェル様がそんな事を考えているなんて思っていませんよ。それにしてもクローヴェル様は色々考えていらっしゃるのね。


「貴女がしてくれた事をフォローしたり後押ししたり、状況を固めたりするくらいしか出来ませんけどね。これだけ状況が進行すれば十分な筈です」


 そんな事を仰っているが、クローヴェル様のデスクや本棚には良く見ると、山のような書簡が積まれている。私が飛び回っている間に、これだけの情報を仕入れて、更に工作をしていたのだ。私の暗躍があまりにも順調に進んだのは、クローヴェル様のこの助けがあったからではないかと思えるのよね。


 私は嬉しくなってクローヴェル様に抱き着いた。


「では、私が子供を産むまでは、暗躍はヴェルにお任せしておきますね。お身体に障らない程度にしてくださいませね?」


「拝命いたしました。リューは元気な赤ん坊を産むことに集中して下さいね」



 そんなわけで、私はとりあえず政治の事はほとんど忘れて、出産に集中する事にした。


 王都の王宮なら、沢山いる侍女に任せて私は特に何もする事は無いのだが、この旧王都では侍女は数人しかいないし、みな年嵩の者ばかりだ。なので私も産着やおむつの準備を手伝った。王都で散々母親が準備すべきだと叫んでいたムーラルト様も満足でしょう。出産自体は近所の産婆さんが来てくれる手筈を整えた。実はこの産婆さんは私を取り上げた人でもあり、結構なお年寄りだ。勿論、母さんや出産経験のある近所の奥さんたちも来てくれる。


 出産を離宮でするには少し手狭なので、私は旧王宮に移ろうかと考えていたのだが、それを聞きつけた父さんが近所のおじさんたちとやって来て、あっという間に増築してしまった。どうやら、私の子が生まれたら真っ先に抱きたいと考えているようで、旧王宮に行かれたらそれが叶わなくなると恐れたらしい。


 そういえば一度、帝都から皇帝陛下の使者がやってきた。


 ご機嫌伺いという事だったが、どうやら私達が約束通り謹慎しているかの確認に来たというのが実情だったようだ。何しろ私は帝国各地で目撃され「神出鬼没のイリューテシア」などと呼ばれているらしいのだ。その疑惑の解明のためにわざわざ皇帝陛下が使者を派遣する事態になってしまったらしい。


 ところが、もちろん私もクローヴェル様もちゃんと旧王都にいる。あまつさえ私は妊娠してお腹を大きくしている。という事で、使者の伯爵は驚き呆れ、大変恐縮した呈で私に妊娠の祝賀だけして帰って行った。後でグレイド様が書簡で伝えてきたところでは、帝都では「確かに帝都で会った」と叫んでいたエルミージュ陛下の評判が暴落して大変な事になってしまったらしい。ちょっと申し訳ない気持ちもするわね。


 お腹は順調に大きくなり、私はのんびりと故郷での日々を楽しんでいた。ただ、一つ気がかりなのは冬越しだ。旧王都は冬の間は麓への道が閉ざされてしまう。巡礼路も閉鎖となり、巡礼者もいなくなる。そうなるとクローヴェル様も書簡が出せなくなるだろう。


 クローヴェル様は仰った。


「冬季にはどこの国でも人の移動が減ります。問題はありません。ただ、冬季は帝都における社交シーズンです。来年初頭の竜首会議に向けて帝都に王族が集まり、そこで社交がてら様々な事が話し合われる事でしょう」


 おそらくその社交の場で、フェルセルム様の反撃が始まるとクローヴェル様は見ているようだった。帝都の社交はフェルセルム様の得意分野だ。ここで巻き返しを図り、竜首会議で何らかの動きを見せるだろうとのこと。


 それを聞いて私は心配になった。


「どうしましょう。どう考えても私は帝都には行けませんし・・・」


 すると、クローヴェル様が何でも無いような顔で仰った。


「大丈夫です。私が一人で帝都に行きますから」


 えー!? 私はびっくりして産んでしまうかと思ったわよ。


「仕方が無いでしょう。貴女はここで出産に専念して下さい。大丈夫です。この旧王都からスランテル王国を抜けるルートを使えば、二週間ぐらいで帝都まで行けるようです。道中の安全はホーラムル兄に確保してもらいます」


 確かに、一度王都に寄るルートを使わなければ、帝都はそれだけ近くなる。しかし、クローヴェル様を一人で行かせるのは・・・。


「大丈夫ですよ。ゆっくり行きますし、帝都で十分休めるように手配します」


 うー。心配だ。しかし、クローヴェル様はこういう時結構頑固なのだ。言い出したら聞かない事は前回の出産後の出征を強行した事で分かっている。それにクローヴェル様に帝都に行ってもらえるのが一番良いのは確かなのだ。


「だけど、一人で行って社交をするのは負担が大き過ぎませんか?」


「グレイド兄夫妻にも付いてもらいますから大丈夫ですよ。それと、社交の最終兵器を使おうかと思っています」


 社交の最終兵器? ずいぶんと不穏当な名前が出てきましたけれど、何ですかそれ?


「ムーラルト姉です」


 私は思わず真顔になってしまった。


「・・・酷い事考えますね。ヴェル」


「そこまでですか。まぁ、姉が、しかも王妃代理として帝都の社交に出れば、きっと面白いことになると思いますけどね」


 クローヴェル様はムーラルト様を甘く見ていらっしゃるわよ。あの方が社交に出ると、百戦錬磨の貴婦人方の笑顔が消えるんですからね。相手が誰だろうとお構いなしにあの毒舌を振るうのだもの。多分帝都の社交界でも王族だろうが何だろうがお構い無しに猛威を振るう事でしょう。


 困った事に、あの人には悪意が無いので、相手を侮辱したり貶めるような失言はしないのだ。単に口が悪く無邪気に人の欠点や弱点を口に出してしまうだけなのである。だから言われた方は怒っても責める事が出来ない。嘘も言わないから虚言を追求する事も出来ない。しかもあの人の相手の欠点や弱点を見つける嗅覚は天性のものがあり、的確に相手の弱点を突いて来るのだ。一体誰に似たのやら。


 しかし確かにムーラルト様を出せば、その社交は無茶苦茶になるだろう。帝都の社交界の阿鼻叫喚の様子が目に浮かぶようだ。フェルセルム様が暗躍するどころでは無くなるに違いない。・・・まぁ、私は出ないから構わないか。


 結局私はその計画を了承し、ムーラルト様に王妃代理として帝都でクローヴェル様に付いて欲しいと書簡で依頼する事になった。厳重に、旧王都には来る必要は無い。王都から直に帝都に向かうように、と書いておいたわよ。


 後で聞いた話ではムーラルト様は、憧れの帝都の社交界にまた出られると(公爵令嬢時代に何度も出ていたそうだ)大喜びして、早速準備すると、夫の伯爵を置き去りにして帝都に向かったのだそうな。伯爵にはなんか申し訳ない。


 クローヴェル様も秋が深まる前に帝都に行った方が良いという事で、出発の準備を始めた。帝都の皇帝陛下に、竜首会議出席のために謹慎を終了したいと書簡を出す。皇帝陛下のご許可を待っている間に王都に移動用の馬車送ってもらうように依頼する。それから自分がいない間の離宮の警備計画を警備の責任者と話していた。頼りになる旦那様だ。


 しかし、正直な話、クローヴェル様が心配だし、私は出産を控えて心細いし寂しいしで、本当はクローヴェル様に行って欲しく無かった。何度か涙ぐんで行かないで欲しいと弱音を吐くくらいに。


 しかし、クローヴェル様は優しく私の頬を撫でながらも意志を曲げなかった。


「全ては私達二人の野望のためですよ。私だって貴女が心配ですし、心細いし寂しいです」


 この人は本当に意志が強くて、高い志を下ろさずに掲げ続けられる人だ。この強い人を婿に選んで良かった。夫に迎えられて良かった。そしてこの人こそ皇帝に相応しいと、誇りに思うのだったが、この時ばかりはその強さが少し恨めしかった。


 そうして、皇帝陛下のご許可の書簡が届いたのを確認して、クローヴェル様は帝都へと旅立ったのだった。今回は戦いでは無いが、向かう先は戦場よりも恐ろしい、政治的な魑魅魍魎が跋扈する帝都。正直言って、前回よりも心配なくらいだった。


 私はクローヴェル様を抱き寄せて(お腹が結構大きくなっているからそっとだが)何度も何度も言った。


「ご無理をなさらないで下さいね。くれぐれも御身をご大切に」


 同じくクローヴェル様も何度も何度も仰った。


「貴女こそ気を付けて。頑張って元気な赤ん坊を産んで下さいね」


 そうなのだ。クローヴェル様は春にならないと帰って来ない。という事は私の出産の時にはここにいないという事なのだ。その事に私が気が付いたのは、迂闊にも準備があらかた済んだ後の事だった。私は慌ててクローヴェル様に再考を促したのだが、クローヴェル様は当然最初からその事は覚悟していらっしゃったので、計画は覆らなかった。


 そうしてクローヴェル様は出立していった。私はその日から数日は胸が潰れる気分で落ち込んでしまった。何もかも、クローヴェル様を皇帝にするためだが、こんな心配で寂しくて不安で悲しい気持ちを強いられるなら、そんな野望など抱くのでは無かったとまで思ってしまった。恐らく出産が近付いて神経質になっていたせいもあるのだろう。


 クローヴェル様が出立して程無く、旧王都を囲む山々に薄っすら雪が掛かり、旧王都の周囲の木々は鮮やかに紅葉した。そして、程無く木々の葉は散り、雪がちらつき始める。イブリア王国山間部の長い冬の始まりだ。


 大雪が降ると、山間部から麓に抜ける道は通れなくなる。だからよそ者は入って来られなくなるのだが、警備の兵は大雪の中でも離宮を厳重に警備してくれていた。クローヴェル様からの厳命があったのだという。


 私は大きくなるお腹を抱えながら、離宮の中をえっちらおっちらと歩き回った。歩かないと安産にならないと言われたので。大雪の中、母さんを含めた近所の女性たちは頻繁に様子を見に来てくれた。大雪で王都から連れて来た者はレイニウスや乳母のクレアンヌを含めて旧王宮から出られなくなっていたので、私は遠慮無く母さんに甘えたり弱音を吐いたりして、母さんに子供の頃のように叱られたので、大分気がまぎれた。


 そして年を越して一カ月。そろそろ竜首会議が始まる頃かしら、という頃、私は産気付いた。そして産婆さんや母さんたちの助けを借りて、無事に出産を終えた。出産は今回も安産で軽かったので一安心だ。


 生まれたのは女の子で、髪は私よりもはっきりと紫色。後日判明した瞳は水色だった。水色はイブリア王国の色で、これを見てお父様は吉兆だと殊の外喜んだわね。


 狙い通り、手伝いに来ていた母さんと、駆け付けた父さんは孫を抱いて大喜びしていたわね。大雪をかき分けさせてお父様も無理やり離宮にやって来た。何でもレイニウスはもうかなり大きくなってから旧王都に来たので、生まれたばかりの孫をどうしても抱きたかったとの事。クローヴェル様がいなかったのは残念だが、私の長女は三人の祖父母に物凄く祝福されてこの世に誕生したのだった。


 因みに名前は、用意周到なクローヴェル様は男女両方の名前を決めてから出発なさっていた。お決めになった女の子の名前はフェレスティナ。私に特に異存は無いし、お父様もなかなか良い名前だと仰ったのでそれに決定した。


 お乳は当面私が与える事にし、オムツその他の面倒は私とポーラ他侍女が合同で見る事にした。夜泣きは大変だが、念願の我が子の子育てが出来たせいか、今回は産後の精神不安定状態になる事は無かった。


 しかし、クローヴェル様はどうなったのだろうか。フェレスティナが生まれたのは一月末。山間部への道が通れるようになるのは三月から四月に掛けてだ。まだまだ通れない。私は一カ月もすると身体はかなり回復したので、帝都に飛ぼうかと思ったのだが、ポーラに厳重に禁止された。「クローヴェル様に、絶対に無理をさせないように命ぜられております」と。


 確かにただでさえ寒いブケファラン神での飛行を、冬にやるのは自殺行為だ。どんなに厚着をしても凍死しかねない。しかも出産後の不十分な身体だ。私は諦めざるを得なかった。


 忙しく子育てに励んでいる内に日々は過ぎて、段々と雪が減り空気が温み、遂に山間部の出口が通れるようになると、直ぐにクローヴェル様が帰って来た。その頃には私の身体はすっかり回復していたから、私はフェレスティナを抱えて旧王宮まで走って出迎えに行ったわよ。


 旧王宮の前で待っていると、馬車が入って来た。前回出征した時は馬車の中でクローヴェル様は倒れていたのだ。身構えていたのだが、馬車のドアからクローヴェル様はあっさり降りて来た。流石にお疲れのようではあるが、お元気そうだ。


 私はそれを見て全身が震えて立っていられなくなった。クレアンヌが慌ててフェレスティナを引き受けてくれる。膝を付きそうになる私をクローヴェル様が慌てて支えて下さった。


「大丈夫ですか? リュー。まだ身体が辛いのですか?」


 ああ、クローヴェル様の声だ。それを聞いたらもう我慢が出来なくて、私はクローヴェル様にしがみ付いてひとしきり泣いてしまった。何だかやはり私は色々と無理をしていたようだ。何しろ出産の時だったし、クローヴェル様なら立派にやり遂げるだろうと信じていても心配だったし、何より彼の健康が心配でたまらなかったのだ。クローヴェル様の元気なお姿を見て一気に噴き出してしまったのだろう。


 クローヴェル様は私を泣くに任せながら、何度も私を置いて行った事を詫びて下さった。私はクローヴェル様が何一つ悪くないのに謝って下さる事が申し訳無くて、更に泣いてしまった。


 泣き止んだ私はクローヴェル様にフェレスティナを抱いてもらった。クローヴェル様はそれはもう、これ以上無いほど幸せそうにお笑いになったわね。それを見ながら、私は、クローヴェル様が無事お帰りになって良かった。フェレスティナが無事に生まれて良かった。そう心から思って、また泣いてしまった。


 自分にとって一番大事なものを、この時私は改めて確認し直したのだった。

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