二十九話 引き籠る

 イブリア王国がトーマの人々を服属させた事は帝国中を驚愕させたらしい。


 それはそうだ。トーマの民は神以外の何者にも跪かない。それ故。国家が彼らを支配することは不可能だと思われていたのだ。


 だが、トーマの民がイブリア王国に服属する事を認めたのは、あくまでも私が彼らの神であるブケファラン神のお力を借りる事が出来る巫女だと見做された事、その私が上位者であるクローヴェル様に従うように求めた(巫女が告げる神託と見做された)からである。


 それゆえ、頭ごなしに何か命じたりすればたちまち彼らは反抗するだろう。彼らは誇り高い。しかしながら彼らは同時に、厳しい生活をしているから、利に聡く柔軟でもある。イブリア王国に従って生きることが彼らの利になると分かれば、この関係は長く続けられるだろう。


 私はトーマの民族に、各部族から若者を一人以上、まぁ、人質としてイブリア王国に留学させる事を求めた。人質を出さない民族には食糧援助をしないことにしたのである。これには難色を示した部族もあったものの、問題無く留学させた部族も多かった。そういう部族に食料が援助され、冬越しが楽になっているのをみて、難色を示していた部族も渋々若者を留学させるようになった。


 この人質には二つの目的がある。一つは忠誠心を計ること。人質を出せない部族はやはり完全には信用出来ないだろう。そしてもう一つは、トーマの人々にイブリア王国の事を知ってもらう事である。


 私たちがトーマの人々の事をよく知らないのと同じくらい、トーマの民もイブリア王国の事を知らない。知らない同士で相互理解が上手く行く筈がない。それ故、トーマの若者に留学してイブリア王国を知ってもらう。


 彼らは数年イブリア王国で色々な事を学び、草原に帰って行く。そこでイブリア王国での経験を語るだろう。それが相互理解の第一歩になる。


 留学生たちは概ね、王国の軍に加わる事を望んだ。そこでイブリア王国の事を色々学びながら、軽騎兵部隊として編成される事になる。イブリア王国に留学したいと望む若者はだんだん増えて、軽騎兵部隊も増えて行く事になった。


 私はトーマの民の生活を体験して、支援すべきは食糧だけではないな、と考えていた。彼らは夏場に遊牧生活をしている限りにおいては、意外に豊かな生活を送っている。不思議に思った私は彼らに尋ねてみた。この豊かさなら、もっと人口が多くても良いのではないかと。


 しかし、彼らは言った。冬になると、家畜は減らさねばならず、住処も狭いのでそういう訳には行かないのだと。草原地帯の冬は兎に角厳しいらしい。


 そこで私は、イブリア王国に近い丘陵地帯、元々トーマの民の冬の住居が多く建てられていたそこに、イブリア王国の技術で彼らの冬の家を建てる事にした。そうすれば彼らの冬の生活は楽になるし、いざという時に援助も楽になる。ついでに言えば、彼らを農場の早春の労働力として使えないかという考えもある。農民の春には労働力はいくらでも必要なのだ。


 これにはトーマの人々は大喜びして、彼らのイブリア王国への忠誠心は増す事になった。彼らは支配される事は嫌うが、友人仲間に協力する、恩を返す事は当然だと思う民族でもある。イブリア王国が求めれば、特に抵抗も無く軽騎兵を動員してくれるようになったのである。


 そういうトーマの民の統治政策は何年か掛かりで進められたので、服属を約束させたばかりのこの時点ではまだまだ彼らをどう扱うか模索している状況だ。しかしながら、彼らからの襲撃に怯える必要が無くなった事は大きい。最低限の警戒体制は残してはいるが、大きく国境警備を削減出来たのだから。


 トーマの従属は。イブリア王国にとっても大きな意味を持つ出来事だったが、周辺諸国に与える影響も物凄いものだった。


 トーマの民はイブリア王国だけに略奪に来ていた訳ではない。いや、近年イブリア王国が手強くなっていたせいで、神殿領を狙ったりスランテル王国やロンバルラン王国へ向かう部族も多くなっていたのである。


 ここで問題になるのは、トーマの民はイブリア王国には服属したが、帝国の他の王国に服属した訳では無いという事だ。私は一応、イブリア王国に服属した部族には帝国の他の王国や諸侯領への侵攻をしないように通知はした。


 しかしながら、トーマの民が完全にイブリア王国の命令に従うようになるのはまだ先の話だったし、イブリア王国に服属していない部族もいたので、効果は限定的だった。むしろ、イブリア王国には行くわけにはいかないからと隣国に攻め込む例が増えてしまった。


 これはイブリア王国への服属度が高まるうちに、略奪行為をしなくても豊かに冬が越せるようになる事で略奪自体が減って行った事で解決するのだが。それまでは隣国から苦情を言われて私も困ったものである、


 これはつまり、イブリア王国だけがトーマの民の略奪に悩まされなくなっただけで、他国にはトーマ服属の恩恵があまり無かったということだ。スランテル王国やロンバルラン王国が怒るのも当たり前だと言えた。


 いや、私は怒る使者に説明はしたのよ?彼らは自由の民で、イブリア王国に従属したといっても頭ごなしに命令したりしたら直ぐに離反してしまうって。しかしながら、臣従するという事が大女神に誓う神聖な事とされている帝国人には私の言ったことは理解し難いようだった。まぁ、帝国の諸侯や家臣だって、なんやかや理由をつけて裏切るんだけどね。


 しかし、私を妹の娘と思い込んで好意的に接して下さっていたハナバル陛下のスランテル王国や、これまであまり付き合いの無かったロンバルラン王国があからさまに問責の使者を送ってくるようになった事は、各国がイブリア王国への警戒心を高めている証拠だろうと思われた。


 帝都のグレイド様からの書簡でも、各国がトーマの民を服属させた事について、グレイド様に説明を要求したり、懸念を表明したりしたと書かれていた。


 無理もないことだ。イブリア王国はアルハイン公国時代から既に国力が大きくなり過ぎて警戒されていた。それがイブリア王国になり、巡礼路の再開や陶器製造事業、まだ始めたばかりだが翻訳出版事業にも乗り出して儲け始めている。おまけに神殿領とは強固な関係を築き、ガルダリン皇国をザクセラン王国と合同で撃退した。


 そして今度はまつろわぬ民であるトーマの民をどういう訳か味方に付けてしまった。これでイブリア王国は事実上、帝国の外に敵がいなくなった事になる。外に向けていた国力を内に集中出来る。内政を充実させるのは勿論、私が公言しているクローヴェル様を皇帝にするために本腰を入れてくると思われるだろう。


 これまでは、クローヴェル様を皇帝にすると言ってもせいぜい帝都でアピールするのが精々だった。しかも帝都から遠いイブリア王国である。体調問題もあって毎年来る訳でもないクローヴェル様が皇帝を目指すと言っても、各国とも本気に受け取っていたかは怪しい。


 しかし、イブリア王国の国力が飛躍的に増大したといえるトーマの民服属によって、事情が変わってしまった。この時点ではそんな事は出来なかったのだが、イブリア王国がトーマの全部族から軍を徴収し、かつて帝都を囲んだ恐るべき大軍団を編成して帝都に攻め上ったならば、クローヴェル様は実力で皇帝の座を手に入れる事が可能だ、と判断されてもおかしくはない状況になってしまったのである。


 まして私は即位当初から皇帝陛下に反抗的であり、最近にも皇帝陛下のご意向だった東征を潰している。その反抗的態度が、トーマの民服属と結び付けられた時、それは反乱の準備であると思われてもおかしくはない。


 隣国の姿勢の硬化、帝都からの情報で、イブリア王国首脳部は危険性を認識した。特にエングウェイ様は青い顔をして言った。


「とりあえず、遊牧民共に更なる支援を約束して隣国への略奪を止めさせましょう」


 しかし私はそれを却下した。


「ダメです。略奪と引き換えに支援を約束したら、トーマの人々に侮られます。略奪されたくなかったら支援を寄越せと脅される事になります」


 彼らは対等の関係であれば取引が成立するが、下の立場の者からは奪う事しかしない。それが当然だと考えている。イブリア王国が下手に出るのは大変危険なのだ。


「しかし、このままではスランテル王国もロンバルラン王国も態度を硬化させ続けるでしょう。調停に皇帝陛下が乗り出してくるかも知れません」


 七王国の均衡を治世の方針としている皇帝陛下の事だ。ここぞとばかりにイブリア王国の国力を削りに掛かるだろう。何を要求されるか分かったものではない。例えばトーマの民の幾つかの部族を他の王国に分け与えるようになどという、帝国内なら通用するが草原では不可能な提案だった場合、対応に苦慮する事になるだろう。


「とりあえず、両国には、トーマの民が与えたと明らかになった損害に対する補償を金銭か品物ですると伝えましょう」


「遊牧民共のしでかした事に対して王国が補償するのですか?」


 エングウェイ様は驚いたが、トーマの民がイブリア王国国民だと考えるならおかしな措置ではない。ただ、王国民が同じ事をしでかしたなら、犯人は捕まって縛り首だが、トーマの民は不問だという不公平な事になってしまうが。


「王妃様は遊牧民共に優し過ぎませぬか?」


 エングウェイ様が侮蔑気味に言った。私はムッとしつつも反論する。


「ここで対応を誤ればトーマの人々との関係は元の木阿弥です。この先百年の安定を捨てる事になります」


 しかしながら、トーマの民に一方的に支援をする事についてはイブリア王国内からも不満の声が大きかった。特に王国傘下の諸侯は、トーマの民に支援するなら自分たちに支援すべきだと不満の声を上げていた。私がトーマの民に肩入れし過ぎだという声も大きかったのである。


 私がトーマの人々に肩入れし過ぎているのは事実ではあった。しかしそれはここで王国、いや、帝国とトーマの人々の関係をきっちり作っておけば、必ず帝国の将来のためになると考えたからだ。


 アルハイン公爵やクローヴェル様はその事を理解して下さったが、エングウェイ様はここぞとばかりに私を攻撃してきた。エングウェイ様は次期公爵として諸侯達と深い関係を築いてきた方なので、諸侯の代弁者として振舞う傾向がある。


 彼としてはここで私を攻撃して、私の権威と発言力を低下させ、相対的に自分の存在感を大きくしたかったのだろう。何しろ彼は、私とクローヴェル様を王都に迎え入れてから、権力が縮小する一方だったのだ。


 エングウェイ様は次期公爵だ。アルハイン公国が続いていれば次期国主だった。しかしながら、諸侯としては飛び抜けて大きな国力を持ってしまった公国は危険視され、帝国の皇帝陛下や諸国から潰されそうになっていた。それを回避するためのイブリア王国への王都と領土返還だったのだが、その事で彼は国主の座から滑り落ちたのだ。


 彼は名目上の国主の座を失っても、迎える王は病弱な弟でその妃は田舎娘。どうせ自分に頼らずば何も出来まい。自分がそのまま実権を握り、王国を実質的に支配すればいい。と考えていただろう。実際、その考え方は正しく、今でもイブリア王国の運営は彼の手が無ければ立ち行かない。


 しかしながら、そこからイブリア王国は全帝国に向けて私が盛大に名前と影響力を拡大し、国内に限ってもお飾りとはとても言えないくらいの存在感を発揮している。そしてクローヴェル様は病弱さに隠されていた本領を発揮し、アルハイン公爵に認められるくらい内政での有能さを示しているのだ。アルハイン公爵家に限っても、誰がどう見ても一族筆頭は王になったクローヴェル様であり、次期公爵であるエングウェイ様は現アルハイン公爵であるお義父様に次ぐ三番目という事になってしまった。これはエングウェイ様には面白くない事だったろう。


 そういう事もあり、エングウェイ様は王国麾下の諸侯と共に、私やクローヴェル様の意向に度々反対した。反抗とまではいかないが、ちまちまと反対したのだ。健全な異論は国家運営にとって悪いことでは無いが、彼のそれは反対する事が目的のような事が多く、私は辟易とさせられる事が多かった。


 そして今回の問題は、確かに私がトーマの民に肩入れ、贔屓をしていると見られてもおかしくない一方的な支援をしていたので、私には反論が難しかった。そこをエングウェイ様はどんどん突いて来た。私は仕方なく諸侯にもトーマの民にするのと同じような支援をすると約束するしか無かった。そんな大盤振る舞いをしたら、困るのは予算調整をする公爵とエングウェイ様なんだけどね。


 国内国外で私とクローヴェル様への非難と警戒の声は高まるばかりだった。草原から帰って来て半年後。年が明けたあたりにはどうも帝都でもイブリア王国の国王夫妻を呼び出して事情を説明させようという事になったようだ。竜首会議への出席要請が再び届いた。これには困った。年初であるからまだ冬である。冬はトーマの民にとって厳しい季節で、この冬は王国に帰順して最初の冬であり、十分食糧支援を行ったとはいえ、冬越しに失敗したトーマの部族が自暴自棄になって略奪に乗り出す危険があるのだった。ここで対応に失敗してしまうと、トーマの民の離反を招きかねない。


 正直に言って私は一カ月生活を共にした彼らと、もう敵対関係に戻りたくなかったのである。何か変事があっても王都に入れば私が駆け付けて穏便に済ます事が出来るが、帝都なんかに行っていたらそれが出来なくなる。なので私は竜首会議には出られない事をグレイド様に伝え、グレイド様に親族として代理で竜首会議に出てもらった。


 竜首会議が終わると、グレイド様ご夫妻は報告のために一時帰国してきた。報告会のためにアルハイン一族が集まったサロンで、グレイド様は心底疲れ切ったお顔だった。開口一番「王族や皇帝陛下を一度に対応するなんて二度とごめんですね」と仰った。申し訳ない。


 案の定、厳しい意見が出たようだ。まず、竜首会議への召還を国内事情を理由に断ったのは、帝国を支える七つ首の竜の一首として自覚が足りないと言われたそうな。そんな事を言ったって、これまでも散々出て居なかったのだし、出ていない国もあったのに。


 そして、イブリア王国のこのところの急激な軍事力拡充(トーマの民を服属させた事はそう見做された)は危険であると複数の王国と皇帝陛下が強い懸念を表明したそうだ。グレイド様は必死に反論し、トーマの民の服属は自発的であり、けしてイブリア王国が野心をもって彼らを懐柔したわけではないと主張したのだが、聞いてはもらえなかったようだ。


 更に、トーマの民がイブリア王国を避けて、帝国の他の国境を襲っている事を(件数は減っていると思うのに)イブリア王国の侵略行為であると責め立てたそうだ。グレイド様は、トーマのイブリア王国に服属している部族の仕業であると証明してくれれば、補償金を支払うと申し出たのだが、これには何故か各王国に難色を示したようだ。


「イブリア王国から補償金を受け取ってしまうと、イブリア王国を責められなくなるからでしょう。いよいよ、我が王国は警戒されてしまっていますね」


 つまり、トーマの民の略奪行為は口実で、イブリア王国を責めるのが目的なのだという事だ。それはまた何故?


「各王国は、イブリア王国がこのまま勢力を拡大して、自分たちを臣下として、最終的に皇帝を出して永遠にブロードフォード王家が帝国を支配する事を恐れています。今までの王国連合ではなく、ブロードフォード家の元での絶対的な帝国支配です。遊牧民を支配下に置いた事で、イブリア王国はその力を手に入れたと見做されています」


 私もクローヴェル様もそんな事は考えてもいないが、実際問題、それが不可能かと言われれば、不可能ではないと言うしか無かった。トーマの民は全盛期よりもかなり人口は減っているが、その軍事力は強大だ。そもそも強大だったイブリア王国の元々も軍事力を合わせれば、他の王国は単独では対抗出来まい。


 しかも帝国全ての民衆の信仰を集めている大女神アイバーリン信仰の聖地である大神殿。神殿領は筆頭巫女であるアウスヴェール様は、なんでも事ある毎に私を褒め称えており、それが巡礼帰りの人々から伝わって、イブリア王国の「紫色の聖女」だか「紫色の魔女」はいまや帝国中で崇敬を集めている、らしい。その私が大女神様の像でも先頭に立てて進軍すれば、そこら辺の一般民衆がこぞって付き従うだろう。と帝都では噂されていたそうだ。


 そして私が金色の竜の力でフーゼンの街では竜を呼びだし、大神殿では大女神像を動かし、どうも草原で何やらやらかした事も帝都には伝わっていて、やはり尾ひれがついて途方も無い噂になっているようだった。


 これらを総合すれば、イブリア王国、というか私が本気になれば、あっという間に帝国中を蹂躙して竜首の七つの首を一つにして、帝都に絶対的皇帝として君臨する事が、けして不可能では無いと考えられてもおかしくは無い。


 それを考えれば他の竜首の王国がこれほどイブリア王国を警戒し、責め立てるのは当たり前だと言える。グレイド様から帝都の情勢の話を色々聞いて、私はその事を嫌というほど理解した。


 このまま、皇帝陛下や他の竜首の王国からの危険視が続けば、その内に皇帝陛下がイブリア王国に物凄い無理難題を押し付けてくるか、竜首の王国が連合してイブリア王国と決定的に敵対してくる事態になるだろうと思われた。


 イブリア王国の現状では、帝国の他の王国や諸侯が束になって掛って来た時に、これを王国単独で撃ち破るほど国力は絶対的では無い。トーマの民を私が頼んで大々的に動員しても無理だろう。現状ではそこまで悲劇的事態にはまだならないと思うのだが、ここに例のアノ男の暗躍でも加われば、どうなるか全く分からない。


 この時点で私は事態が既に抜き差しならぬ、すぐさま対応が必要な事態に陥っている事を認めるしか無かった。しかし、直ぐに他国を納得させる事が出来る方策が思い付かない。私は唸り、同様にアルハイン公爵もグレイド様もエングウェイ様もホーラムル様も唸ってしまった。


 と、そこでクローヴェル様が妙に明るい声で仰ったのだ。


「こうなれば仕方がありません。私が皇帝に立候補するというのを取り下げましょう」


 え? 私は目を点にし、アルハイン公爵一族も一人残らず目を丸くしていた。


「要するに、私が皇帝の座を目指し、皇帝陛下の地位を脅かしている事が問題になっているのです。ですから、皇帝候補への立候補を取り下げ、皇帝陛下への改めての忠誠を誓う事にしましょう。書簡を作成しますので、グレイド兄。皇帝陛下に持って行って下さい」


「あ、ああ、それは構わぬが・・・」


 グレイド様は戸惑ったような声を出した。私は思わず立ち上がり、慌てて反対した。


「だ、ダメです! クローヴェル様!」


「仕方が無いでしょう。このままでは帝国全体からの圧力で私は退位させられ、レイニウスに位を譲らさせられ、王位も皇帝候補の権利も失う事になると思いますよ。そんな事になればイブリア王国は大きなダメージを負う事になります」


 確かに、皇帝陛下が求めて来そうな条件だと言えた。幼いレイニウスを王位に就け、誰か他の王国の王族を後見人として送り込む。アルハイン一族と私は政権から退く。帝国軍によるイブリア王国征討という事態と引き換えるとすれば妥当な要求だ。


「それを防ぐには、私に皇帝への野心など無いと宣言し、皇帝陛下への服従を明らかにするのが一番です。そうですね。宣言だけでは不足でしょう。謹慎しましょう。一年ぐらい。山の中のイブリア王国旧王都に一年引き籠って謹慎します。勿論、イリューテシアもレイニウスも一緒に」


 驚くべき宣言だった。確かにそれならクローヴェル様が深く反省している、皇帝の野心など無いと示す事が出来るだろう。出来るだろうが。


「そ、それではここ数年、クローヴェル様を皇帝にすべく努力して来た事が全て無駄になってしまいます!」


「リュー? 優先順位を間違えてはいけません。私達にとって一番大事なのはイブリア王国で、王国の土地と民を護る事です。私達の我儘を通して王国を戦火に巻き込む訳にはいかないでしょう?」


 うぐぐ。それはそうだ。少なくともここで大きく引かなければ、皇帝陛下も他の竜首の王国も納得しないだろう。私達が引かずに事態が悪化し続ければ、イブリア王国に単独で対抗出来無い各王国はその内、皇帝陛下の名の元に帝国軍を結成してイブリア王国に攻め寄せるだろう。百年くらい前と同じように。その時にブロードフォード家は山間部に追いやられたのだ。


 それと同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。それは分かる。分かるのだが。


「こ、皇帝になるというのは、クローヴェル様の夢ではありませんか。せっかくその夢に着実に近づいて来ていたのに!」


 すると、クローヴェル様は珍しく笑顔を消して、ふっと冷たいような眼差しで私を見た。私が初めて見る、クローヴェル様の表情だった。


「リュー。それは本当に私の夢ですか?」


「どういう事ですか?」


「私を皇帝にするというのは、貴女の夢なのでは無いのですか?」


 あまりの衝撃に私は立ち尽くした。


 クローヴェル様はジッと私を見ていたが、直ぐに笑顔を取り戻して言った。


「急ぎ書簡は作成します。帝都に直接言ってお詫び出来ぬ事は、グレイド兄の口から皇帝陛下にお詫びしておいて下さい。旧王都で謹慎している間の事はエングウェイ兄に一任します」


「え? いや、それは良いのだが・・・」


 エングウェイ様がクローヴェル様と私を交互に見て戸惑っていた。私はまだ呆然として動けない。グラグラと揺れるような視界の中、クローヴェル様は明るい笑みを浮かべながら言った。


「旧王都のお義父上に、レイニウスを抱かせる良い機会です。私も貴方も忙し過ぎましたからね。一年、何もかも忘れて休むとしましょうよ。リュー」


 そうして、私とクローヴェル様の引き籠りが決定した。政務も社交も外交も全て投げ捨てて引き籠るのである。その無責任にも権力を手放す姿勢が、イブリア王国全体と帝国中に、クローヴェル様の皇帝候補辞退と、皇帝陛下への服従の意を示す事だろう。一度手放して他に委ねた権力を、取り返すのは難しい。イブリア王国の政治はこれから、アルハイン公爵やエングウェイ様にほとんど委ねざるを得なくなるだろう。せっかく頑張って実権を手に入れたのに、お飾りに逆戻りだ。


 お飾りになったクローヴェル様が皇帝候補を主張する事はお笑いでしかなくなる。その妃である私の発言力も必然的に低下する。しかしながらその事が、イブリア王国の危険性の低下に繋がるのだ。そう。イブリア王国最大の危険要素は、王妃である私の権力と影響力と金色の竜の力が大き過ぎる事なのだから。私から権力と影響力が奪われれば、皇帝陛下も隣国も安心するだろう。なるほど。旧王都へ引き籠っての謹慎を決断したクローヴェル様の判断は正しい。正しいのだが・・・。


 クローヴェル様と馬車に乗り込み、お見送りを受けながら王都を出立する。少なくとも一年はここに帰る事は無いのだ。王都が遠ざかって行くと共に、何だかクローヴェル様と出会って以来の事が次々と思い出された。クローヴェル様を皇帝にしようと、そう決意して色々頑張ってきた事が思い出された。


 クローヴェル様が皇帝候補を辞退すると宣言して以来、私はクローヴェル様と口を聞いていない。何か言おうと口を開けば、とんでもないことを言ってしまいそうな気がして声が出せなかったのだ。一緒の馬車にいながら、私達は無言だった。


 クローヴェル様はいつも通りに笑っているが、私は自分がどんな顔をしているのか確信が持てなかった。こんな事は初めてだった。


 馬車はガラガラと音を立てながら、王都から遠ざかって行った。


 


 

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