二十八話 再び空を飛ぶイリューテシア

 油断するにも程がある。反省しかない。


 三騎で交渉と聞いた時点でもっと警戒すべきだった。こちらで向こうの言ったのと違う場所を指定するとか。事前にその場所を調べさせるとか。何も考えず罠を仕掛けられている所にノコノコ入って行くとは間抜け過ぎではないか。


 やはり私に遊牧民に対する侮りの気持ちと、あちらが助けを求めて来ているのだからという油断があったのだろう。クローヴェル様に申し訳ない。


 馬で運ばれている内に気を失っていたらしく、気が付いたらここにいた。どうも天幕の中らしい。遊牧民は天幕生活らしいからね。どこかに建てられた天幕の中なんだろう。別に縛られるでも無く、柔らかなマットに毛皮を敷いた低いベッドに丁重に寝かされていた。重要な人質として扱われてる事は理解出来た。


 結構広い天幕だと思うのだが、他に人はいない。中にいて私の行動を見張っている人がいても良いと思うのだが、いない。まぁ、例えここから逃げ出しても、ここがどこかも分からないし、馬もいないのでは王国に帰る事など出来やしない。無駄だ。そういう余裕なのだろう。


 私はベッドを下りて身体を確かめた。あちこちぶつけて痛いし、痣になっている所もあるが、骨折や酷い打ち身のような大きなケガはない。飛んだり跳ねたりしても大丈夫ね。


 私は身体の具合を確認すると、入り口に近付いて呼び掛けた。


「ねぇ、ちょっと!目が覚めたから、話が出来る人呼んできて!」


 しばらくすると、天幕の中に三人の男が入って来た。その内の一人の初老の男は間違い無く先ほど交渉に出て来ていた族長だ。


 私は彼の顔を見ると開口一番こう叫んだ。


「お腹が空いたから、食べ物を持って来て!」


 族長は呆れ果てたような顔をした。しかしながら彼が何か言うと、横にいた若い男性が一度外に出て、何やら食べ物を持って来た。どうやらお粥のような食べ物と、干し肉とチーズとお茶みたいな飲み物だ。ほうほう、これが遊牧民の食べ物か。床に並べられたので、地面に座って頂く。乗馬服のままなのではしたなく下着が見えてしまう事も無いから良いでしょう。地面に座って食べるなんてことは農作業中によくやったから抵抗は無い。


 お粥かと思ったのはどうもヤギか何かの乳で肉と良く分からない穀物を煮たものらしかった。後で聞いたら自生している穀物類が草原にはたまに生えているので、それを採取して保管しているとの事だった。干し肉は固くて食べるのが大変。チーズは美味しいが、やはりパンが欲しいわね。ご先祖様が小麦を欲しがった理由が良く分かるわ。暖かい飲み物はお茶みたいな何かで鼻に抜ける変な香りがした。


 私がお作法など投げ捨ててバクバクむしゃむしゃ食べていると、族長が呆然としながら言った。


「お前は王妃ではなかったか?偽者か?」


 一瞬、偽者だから帰してくれと言おうかと思ったが、逆に帰してくれなくなる可能性が高かったので止めた。


「失礼な。私は間違い無くイブリア王国王妃、イリューテシアです!」


 大きな声で宣言すると、族長は安心したような懐疑的なような微妙な顔をした。


 私は食べ終えると、族長にお礼を言い、それから居住まいを正して彼に言った。


「愚かな事は止めなさい。私が攫われたらイブリア王国は地の果てまで追って来て私を取り返します。多くの者が死ぬことになりますよ」


 今度こそ族長は完全に呆れた顔をしていた。


「お前、自分の立場が分かっているのか? お前は囚われの身なんだぞ? 命が惜しく無いのか?なんだその態度は?」


「分かっていないのは貴方です。私を殺しなんかすれば、夫である国王クローヴェル様は絶対に貴方達を許しません。この平原を焼き尽くしてでも貴方達を狩り出して火あぶりにするでしょう」


 クローヴェル様ならどんな手段を使ってもやるわね絶対。


「だけどそんな事は貴方にも分かっているでしょう? 無駄な脅しは止めなさい」


 族長は額に汗をかき始めた。どうやら私に命乞いをさせ、私から有利な講和条約を引き出そうとしたようだ。しかしながら私が平気な顔をしているので随分と予定が狂ったらしい。


「お、お前が我が民族への食糧援助を約束するまで、お前は帰さぬ。それでも良いのか?」


「食料援助せぬとは言っていないではありませんか。貴方達が国王陛下に跪いて忠誠を誓約すれば、ちゃんと援助しますよ。民には施しをするのが王の役目ですからね」


「そ、そんな事は出来ぬ。我が民族は自由の民だ。神以外に膝を屈する事などせぬ」


「ならばその誇り高き魂を持って自由に生きれば良いではありませんか。王国に頼ることなく」


 族長は屈辱に顔を歪めた。それが出来れば苦労しないと言う感じである。遊牧民の「産業」には交易や略奪も含まれている。その交易や略奪をイブリア王国がイカナの戦い以来断ってしまって、遊牧民達は本当に困っているようだった。最近は友好民族からの馬の輸入すらほとんどしていないらしいしね。


「と、兎に角、お前と食糧の供与を交換条件に王国と交渉する。交渉がまとまるまではお前は国に帰さぬ」


 私はもう少し食べたいな、と思いながらお茶の残りを飲み、言った。


「どうぞ。ただ、交渉がまとまって国に帰ったら、私は軍勢を率いて取って返してあなた達を滅ぼしますけどね」


 族長が驚愕した。


「だってそうでしょう? 王妃たる私が虜囚の屈辱を受けて、それを晴らさずにいられましょうか。必ず屈辱は晴らします。この手で」


 私が睨むと、族長は顔を真っ赤にして怒った。


「ならばそのような事が出来ないようにこの場で殺してやる!」


「それでも王国軍がやって来てあなた達は火あぶりにされますよ! 同じ事です!」


 私と族長はぐぬぬぬ、っと睨み合う。だが、結局はお互いに決め手が無いのだ。私は自分一人ではここから帰る事も出来ないし、族長も私を交渉材料にどうにか王国からの援助を引き出すしかない。私は王国との交渉が終わるまでは拘留される事になった。


 まぁ、仕方が無い。私は諦めた。どうも一日二日で片付くような感じでは無い。天幕にゴロゴロしていても暇なので、せっかくだからと私は天幕を出て、遊牧民達の生活を見て歩くことにした。見張りをしていた若者には止められたが(言葉が分からないので多分)大丈夫だから、と言ってさっさと出てしまう。結局若者は私を護衛してくれるような形となった。


 その遊牧民の部族はどうやら三十人くらいの集まりであるようだ。全員血族だとの事で、協力して生活をしていた。天幕は家族単位。私がいる天幕は特別に建ててくれたようだ。一つの箇所にはせいぜい二ヶ月くらいしか留まらないらしい。季節に応じて馬や羊、ヤギが好む草を求めて草原を大きく移動するのだという。


 草原は草の海という感じで、海を見た時も驚いたが、地平線がぐるっと全周見えるこの風景にもかなりびっくりした。世界にはまだまだ驚きの景色が沢山あるだろうなぁ、と私は思った。海と違って変な匂いはしない。草の香りは農民だった私には心地良いものだったし。


 放牧に出ると聞いて、私は馬を貸してもらってついて行く事にした。流石に馬を貸す事には難色を示されたが、こんなどこかも分からない所で逃げられる筈も無いから、絶対に逃げないと約束して馬を貸してもらい、放牧について行った。羊やヤギというのは途方も無い量の草を食べるので、毎日同じ場所で餌を食べさせると草を根まで喰い尽くしてしまい、その場所に草が生えなくなってしまう。なので毎日餌場を天幕を置いた場所から円周上に順繰りに移動し、一回りしたら大きく移動して別の場所に行く。部族毎に大体今年はこの辺と決まっているそうで、そういう取り決めは部族合同会議で決められるのだそうだ。


 羊やヤギは結構ジッとしておらず、油断するとドンドン明後日の方角に行ってしまう。それを馬で駆け付けて止めたり、方向を誘導したりする。私もやらせてもらったが、なかなかこれが難しくて笑われながら何日か掛けて練習した。これが馬だと突然走り出したり、機嫌を損ねた襲ってくる事もあるそうだ。だから馬の放牧にはベテランの遊牧民が当たるのだとの事。


 遊牧民の食事はほとんどがチーズと乳粥で、干し肉が出たのは最初だけだった。あれは本来冬用の保存食なんだとか。女性は雑穀や薬草を探すのも仕事で、私はそっちにも同行した。私は薬草探しは故郷でもやっていたからすぐに慣れて女性たちに褒められた。服も貸してもらったので今の私はすっかり遊牧民にしか見えないだろう。私の髪は彼らと同じように黒に近いし。彼らの髪は赤っぽく、私の髪は紫に近いのだけど。


 因みに遊牧民は自分達の事を「トーマ」と呼ぶ。家とか人とかいう意味らしい。


 一週間もすると私はすっかりトーマの生活に慣れてしまい、率先して放牧に出て、草原を馬で走り回っていた。言葉も何となく分かるようになったから、みんなと楽しく生活していた。その様子を見て族長は完全に呆れ果ててしまい、何度も「本当に王妃なのか?」と言っていたわね。


 どうやらイブリア王国との交渉は思わしく無いようで、その事も私を疑う理由になっていたようだ。王妃を取り戻したいにしては王国が強気過ぎると思っているらしい。私は言った。


「貴方達は足元を見られているのですよ。私に危害を加えたらあなた達の破滅ですからね。私は無事に決まっていると安心されているのですよ」


「王妃が怖い思いや心細い思いをしていると心配しないのか?」


 どうやらそう言って王国を脅しているらしい。


「私がそんな女じゃない事は、王国の皆様はとうに承知なんですよ」


 説得力があり過ぎる意見だったようで、族長は頭を抱えてしまった。


 拘留されてから一カ月後くらいに、私は族長に「部族長会議に出てもらう」と言われ、族長と共に部族を離れる事になった。仲良くなったみんなは嘆いて、私に「ここにいろ。ここで仲間になれ」と言って引き止めてくれた。まぁ、それも悪く無いけど、私はやはりクローヴェル様の所に帰らなければならない。宴会が開かれ、みんなと別れを惜しんだ後、私は自分で馬を駆って部族長会議が行われるという場所へ向かった。


 ずっと馬を駆って東へ進み、三日も掛ったので、かなり帝国からは遠ざかった筈だ。こんな所まで来た帝国人は稀だろうし、王妃はいないだろうね。山裾に大昔にどこかの民族が作った壊れた砦があり、そこに沢山の天幕が並んでいた。


 会議が行われる大天幕があって、そこへ族長と共に入って行く。するとそこには物凄く大勢の男たちが車座になって座っていた。そして入り口から向かって奥にはなにやら光り輝く像が立っていた。


 それは黄金色に輝く立派な馬の像だった。本物の馬と同じくらいの大きさだ。しかも何故か翼が付いている。有翼の馬なのだ。これがトーマの人々が信仰しているという馬の神だろう。


 私が入って行くと一斉に全員が睨んできた。しかしながら私はニッコリ笑うだけだ。格好はトーマの人がくれた服であるし、このところの遊牧生活ですっかり顔は日焼けしている。どこからどう見ても単なるトーマの女にしか見えないので、どうも「なんでこの場に女が入って来るのだ?」と睨まれたようだ。トーマでは男の方が女よりも立場が強いから。


「この女が捕えた王妃だ」


 と私を連れて来た族長が言うと、全員が目を剥いた。私は堂々と大きな声で名乗った。


「イブリア王国王妃!イリューテシアです!控えなさい!」


 まぁ、誰も恐れ入ったりはしなかったけどね。族長たちの一部は帝国語を解するようだった。羊やヤギの毛を使った毛織物や乳製品と塩や穀物の交換取引などで、なんだかんだ言って帝国の商人と付き合いがあるからだろう。


「これのどこが王妃だ。ボーム。お前は騙されている」


「いや、本当に王妃なのだ。実際に王国はこの女を取り戻したがっている」


 族長、ボームっていうのね。部族では族長として言われていなかったから知らなかったわ。私は席を与えられてそこに胡坐で座った。あんまり堂々としているので癪に障ったのか、ある族長が言った。


「こんな女が王妃であるものか。本当に王妃かどうか、ブケファラン神に問うてみてはどうか!心臓をえぐり出して捧げれば神がお答えくださるだろう!」


 ほうほう。あの馬の神様の名前はブケファランと言うのね。なるほどなるほど。


「だめだ。この女は人質だ。それに王国からは王妃に何か危害を加えた場合は、草原を焼き尽くすと脅された」


「そんな事は出来まいが」


「いや、かつて古の帝国は本当にそれをやったと聞いている」


 そんな話を本で読んだことが確かにあるわね。確か、秋の西風に乗せて草原に火を放ち、草原は何か月にも渡って燃え続けたとか。実話かは知らないけど、伝説の大王がやらかした話だった筈。トーマの人たちが知っているのだから、あながちただの伝説では無いのかもね。


 そこからは私の取り扱いと、王国への対応が話し合いの焦点となった。どうやらここにいる部族の幾つかが結託して私を誘拐したのだが、王国への帰順を考えていたその他の部族はそれを承知しておらず、おまけに王国に帰順する事を願わぬ部族もいて、なかなか情勢は混乱を極めているようだった。


 そんな女は面倒だから殺してしまえ!と叫ぶ族長もいれば、王国を怒らせると大変だから早く王国に帰せという族長もいて、更には帝国に敵対する国に贈れば引き換えに食糧が手に入るのではないかなどという中々知恵者の族長もいた。それにしても、どうしてこうも私の扱いが決まっていないのか。そういう事は誘拐する前に考えておくべきでしょうに。


 私がそう言うと、ボームはふてくされたように言った。


「あの時は良い考えだと思ったのだ。お前を誘拐すれば王国と有利に交渉出来ると帝国の商人に言われて、考え付いたのだが・・・」


 その帝国の商人は怪しいわね。聞けば臣従の概念もその商人から聞いたのだという。どうもアノ男の影がちらつくが、またしても尻尾は掴めなそうだ。


 色々議論は白熱したが、そもそも彼らには上下関係が無く、まとめ役がいない。つまりなかなか結論が出ない。結局はその日では議論に決着が着かず、翌日に議論が行われる事になった。


 私は天幕を張ってもらい、そこで寝る事になった。一応は部族から来てくれた人が護衛をしてくれる。ただ、私はどうも危険を感じていたので、いつでも動ける格好で寝る事にした。


 すると、夜半過ぎ、天幕の外の騒ぎで目が覚めた。どうも押し問答をしているようだ。通せ、通さないと。私は跳ね起き、身支度を整えた。とはいっても、武器は流石に持たされていない。あっても使えないけどね。


 やがて騒ぎは大きくなり、天幕の入り口が乱暴に開かれて男たちが入って来た。私は即座に叫んだ。


「無礼者!」


 男たちが思わず足を止める。私は彼らを睨み付けて更に大音声を上げた。


「女の部屋に押し込むとは何事ですか!恥を知りなさい!」


 男たちの手にはナイフが光っている。どうも乱暴よりも酷いことを企んでいる事は明白だった。男たちの一人はどうやらさっき族長会議で私を殺して面倒事を終わらせる事を主張していた頭の悪い族長のようだった。どうやら実力行使にきたようだ。


 男たちは鼻白んだが、族長が何やら怒鳴ると気を取り直したようにナイフを握り直し、私ににじり寄った。・・・これはどうも本格的にまずいわね。


 私は活発だが、戦いの訓練をした事は無いし、ナイフを防ぐ方法など無い。複数の男に襲われたら抵抗する事すら出来ずに女神様の元に召される事になるだろう。とりあえず気合で負けぬよう、男たちを睨みつけて牽制する。


 仕方が無い。あれをやろう。私の身に金色の竜の力を籠めるか、女神様を我が身に宿らせても良いのだが、せっかくだからここの神にお願いしよう。さっき御名とお姿は確認したし。


 私は両手を掲げた。私の意外な動きに男たちは警戒したようだ。動かない。私はここぞと朗々と祈りの言葉を唱えた。


「大草原の守護者にして馬を統べる神であるブケファランよ!我が力に応え、我が馬にお力を貸したまえ。我が馬に何物にも負けぬ脚と翼と気高さを与えたまえ!」


 途端に私の両手から光が迸った。男たちが族長を含めて驚いて後退する。そして光が天幕の天井を突き抜けて全て上り切ると、天幕の外で物凄い光の渦が発生した。よしよし。狙い通り力が発動したようだ。目標は私が借りていて、天幕の外に繋いでいた馬。部族の人たちが餞別にと貸してくれた名馬である。


 この世のモノとは思えない馬の嘶きが轟いた。空気が震え、地面が振動する。そして、私いる天幕にバッと火が付いた。「うわ!」男たちは慌てて入り口から逃げて行く。天幕に着いた火はすぐに消えて、燃えて出来た天幕の穴から光り輝く、というか全身を炎に包んだ一頭の馬が現れた。


 私の馬。そしてその馬に私の力を使って宿ったブケファラン神である。御名とお姿を知り、その神を信ずる心があれば、金色の力を使って神の力をお借りすることが出来る。私は部族の所で生活している際に、みんなと一緒に彼らの神に祈っていたからね。


 馬は私に首を摺り寄せて来た。元々賢いし良く懐いている馬だ。燃える炎が私を燃やすような事は無い。私はよしよしと馬の首を撫で、背中に回ってヒョイと飛び乗った。鞍も鐙も手綱も無いが、鬣を掴んで身体を安定させることが出来た。遊牧生活のたまものである。


 その頃には私の周りにはトーマの人々が大勢集まって来ていた。ボームもやって来て驚愕に顎を外さんばかりだ。炎を纏う馬にまたがっている私は明らかに普通ではない。私は馬の背中をポンポンと叩いた。すると、馬は心得たように、背中から翼を大きく出して広げた。それも炎に包まれているので眩しい。


 トーマの人々なら翼を持つ馬といえばブケファラン神だと分かる。全員が驚倒し、武器を投げ捨てて平伏した。両膝を揃えて座り、額を地面に付けるのがトーマの人々の謝罪と服従の印なのだという。一人残らず平伏したのを見届けると、私は叫んだ。


「全員!良く聞きなさい!私には見たように其方達の神!ブケファラン神のご加護があります!」


 正確には力を奉納すればお力をお借り出来るだけなのだけど、そんな事は説明しても仕方が無い。


「私とブケファラン神のお力があれば、この草原を焼き尽くすなど簡単な事です! 古の大王はそうして其方達の先祖を焼き尽くしたのですからね!」


 そんな事をする気は無いが、ブケファラン神の力を持ってすれば出来るというのは本当だ。ただし、私の力を何度も何度も使う必要はあるだろうが。草原は広過ぎるからね。


「お許しを!お許しください!」


 ボームが叫んで、それを皮切りにその場に平伏する者達が口々に謝罪の言葉を叫ぶ。どうやら逆らう者はいないようね。私は頷くと、更に叫ぶ。大きな声が尊重されるのは広い大草原で遊牧生活をする際に意志の伝達のために必要だからだ。私は遠慮なく大音声を放った。


「このイブリア王国王妃イリューテシアに逆らう者は、ブケファラン神のご意思に背くことになる事を頭に刻み付けなさい!分かりましたか!」


「わ、分かりました!ブケファラン神の巫女よ!我々をお許しください!」


 誰かの声に私はフフン、と笑った。


「私は巫女ではありません!」


 私が合図をすると馬は歩き始める。人々は慌ててその前から逃げて行った。馬を次第に加速させながら、私は高らかに叫んだ。


「私は魔女です!イブリア王国の紫色の魔女、イリューテシアです!その名を忘れぬようにしなさい!」


 私が馬腹を蹴ると、馬は翼を羽ばたかせてフワリと宙に舞い上がった。どよめきが上がる。私は上空で大きく一周させた後、馬を上がり始めた太陽の反対方向、西の方角へと飛び立たせた。




 ・・・のだったが、格好良く飛び去ったのは良いものの、この場所は帝国から遥かに遠い草原の東部のどこか。ブケファラン神のお力を受けて飛ぶ馬の飛行速度は流石に駆けさせるよりも早かったが、一体全体これで方向が合っているのかすら分からない。しかも半日程飛ぶと、お力が薄れてしまい、馬を着陸させざるを得なくなった。そうなると馬は名馬とはいえ、手綱も鞍も鐙も無い裸馬だ。賢い馬なのでそのまままたがって歩かせる事は出来るが、駆けさせるのは無理である。


 食糧無し、水無し。近くに人影どころか木や岩さえ見当たらない。全く方向さえ怪しい大草原である。私は正直途方に暮れてしまった。こんな事ならあの場所から離れるのでは無かった。後悔先に立たずである。


 しかし、そうしてトボトボ馬を進めて数時間。地平線の彼方に土煙が上がるのが見えた。目を凝らしてみると、それはどうやらこちらに走って来る騎馬の一団のようだった。おお、助かったかも!あの場所にいなかったトーマの人々だろうから、説明が面倒だが、私はトーマの人の服を着ているから、放牧中にはぐれたとでも言えば助けてくれるでしょう。


 そんな事を思いながら、接近してくる騎馬を見ていたのだが、どうも銀色の輝きがキラキラするのが見える。あれ?どうやら鎧の反射光では?トーマの人たちは鎧など着ない。という事は帝国の騎兵だろう。多分、イブリア王国の私を助けに来た騎兵だ!


 私は喜んで大きく手を振って「おーい!」と叫んだ。


 どうやら気が付かれたらしく、先行していた二十騎程が私の所に走り寄り、私の所に駆け寄ると、有無を言わさず飛び掛かって馬から引きずり下ろし、私を縛り上げてしまった。えー!私は驚き「私はイリューテシアです!」と叫んだのだが聞いてもらえなかった。冷静に考えればそれはそうだ。私は縛られて引っ張られた。


「捕虜を捕えました!」


 そう叫んだ兵士に連れられて、私は兵団の中央、どうやら司令官が居る辺りに引き出された。まったくもう。私は立腹したが、金色の力は使ったばっかりだ。三日は使えない。どうしようも無いのだ。


「捕虜? 連れてこい!尋問する!」


 あら、この声は?私は背中を押されてその人物の前に出された。騎乗で銀色の全身鎧に身を包み、金髪はぼさぼさ、頬はこけ、目の下にはクマ。それなりに端正なお顔は見る影も無く憔悴している。


 ホーラムル様は私を睨むと叫んだ。


「女! 包み隠さず話せ! 族長会議が行われていると聞いた。それはどこでやっているのだ!」


 やっぱり私を救出するために来てくれたようだ。族長会議を急襲するつもりなのだろう。私は思わずうふふっと笑った。それを見てホーラムル様が吠えた。


「何がおかしい!」


「もう大丈夫ですよ。ホーラムル様。よくご覧ください。私です。イリューテシアですよ」


 と私が言ってもホーラムル様は何を言われたのか分からない様子だった。目を眇めている。私はトーマの人々の服装である頭巾を外して髪色を見せた。


「ほら、トーマの人たちと違って紫でしょう?」


 その瞬間、ホーラムル様は目を丸くし、馬から飛び降りた。そして私の肩を掴み、食い入る様に私を正面から見た。私がちょっと引くくらい真剣に。そして突然呻くような叫び声を上げた。


「お、おおおお!・・・・!」


 ホーラムル様は絶句し、涙を両目から溢れさせると、私の足元に崩れ落ちたのだった。




 私はそこから三日掛けてイカナの街まで戻った。驚いた事に、イカナにはクローヴェル様がいた。


 流石の私も「どうしたのですか?」とは言わなかった。空気を読んだ。もしも逆の立場になったなら、私ならホーラムル様と同行して草原を探し回っていた事だろうから。クローヴェル様にはイカナに来るのが精一杯だったのだろう。十分だ。本当に申し訳ない。


 クローヴェル様は私を見てその紺碧色の瞳から涙を流しながら無言で長い間私を抱き締めて下さるだけで、一言も私を責めず、叱らなかった。その方が私には堪えた。私は何度もクローヴェル様に謝った。


 イカナの街に一カ月ほど滞在し、私は草原に使者を派遣した。ホーラムル様は本気で怒っており、遊牧民を全員根絶やしにせんと叫んでいたが、私は事情を説明してその必要は無いことを伝えた。私は一カ月も共に生活したトーマの人々へ情が移っていたし、ブケファラン神の姿を目にしたトーマの族長たちがどういう反応をするかも大体分かっていたから。


 案の定、数週間後、トーマの族長のほとんどが全員、イカナの街まで来て馬を下りて私の前に平伏した。クローヴェル様もホーラムル様も仰天していたが、私は当然ですよ、という顔をしていた。


「ブケファラン神の巫女であり、イブリア王国の王妃『紫色の魔女』イリューテシア様に我々は従いまする」


 巫女じゃないって言ったのに。それに私に忠誠を誓われても困る。


「それではダメです。イブリア王国と国王クローヴェル様に忠誠を誓いなさい!」


 族長たちは私の言葉に従い、クローヴェル様に平伏して忠誠を誓った。トーマの人々の中では妻より旦那の方が偉い。私の夫なら私より更に上位なのだから、従う事に抵抗が無かったのだろう。こうして、トーマの民族百近くがイブリア王国の傘下に収まる事になったのである。大草原は事実上、イブリア王国の国土になる事になった。勿論だが、実効支配は難しいし、実情はそのままだが、トーマからの略奪や侵攻に怯える必要が無くなり、トーマの人たちと安定して交易が出来るようになった。草原を安全に通行出来れば、草原の向こうにある国との交易も可能になる。何より有事にはトーマの騎馬隊を動員出来るようになり、イブリア王国の軍事力は跳ね上がることになった。


 予想外の大アクシデントから始まった事態だったが、予想以上に良い結果をもたらしたのだった。良かった良かった。と私は満足しながら王都に帰った。のだが、私はアルハイン公爵に叱られ、コーデリア様に叱られ、エングウェイ様に叱られ、ムーラルト様に叱られと色んな人に叱られまくったのだった。貴女は王妃でクローヴェル様の夫でレイニウスの母ではないですか!大事な身であるのに自分の身を大事にし無さ過ぎです!自覚が足りな過ぎます!と。ぐうの音も出ない。


 特に一番怒ったのは侍女のポーラだった。ずっとイカナで心配しながら待っていてくれた彼女は、他の人と同じように私の無茶を叱った後、遊牧生活で思う存分日焼けした事に対しても「こんな色した肌でどうやって社交に出る気ですか!」と大いに怒ったのだった。


 

 


 


 

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