二十二話 出産と出征

 出産予定日が近付いて、私のお腹はいよいよ大きく重くなった。順調なのは良いことだが、重いし腰は痛いし、正直早く出て欲しい。


 ただ、やはり出産経験者の話を聞くと「物凄く痛いわよ」という意見で一致していたので、正直怖い。そう言うとクローヴェル様は「あなたにも怖い物があるのですね?」と不思議がっていた。遺憾である。私を何だと思っているのか。


 クローヴェル様は最初こそお腹の子がグレイド様との不貞の結果では無いかと疑っていたものの、その疑いが晴れてからは私の出産を非常に楽しみにしていた。彼は末子で弟も妹もいないため、小さな子供に馴染みがないのだそうだ。それで自分の子が生まれるのが楽しみらしい。私は故郷で小さな子なんて見慣れていたし、子守を任されて大変な思いをした事もある。自分の子だって立派に育てられるだろう。


 ただ、王妃は普通は自分で子育てなどしないのだそうだ。乳母を雇い、乳母にお乳からオムツから何もかもお任せするのが普通なのだ。王妃は忙しいからね。なので、乳母の候補は色々探した結果、ある無領地貴族の奥様が一歳の自分の子供を抱えて王宮に常駐してくれる事になった。クレアンヌという栗色の髪の女性で、私が面接して気弱そうなのが気に入って選んだ。乳母というのは子供に大きな影響力を与えるし、歴史上乳母とその一族が、育てた王子が王位に着いた時に大きな権力を持ってしまった例が多々あったからだ。


 クレアンヌは夫も善良だし、領地も持っていないから影響力も強くない。これならいざ危ない気配を感じた時にはすぐ追い出せるだろう。という事で、クレアンヌに来てもらう事にしたのだ。クレアンヌの子供で一歳になるアーレクという男の子が可愛くて、我が子の乳兄弟となるその子が私の妊娠期後半の大きな癒しになった。


 出産予定が近付いたころ、帝都のグレイド様から報告の書簡が届いた。グレイド様はご夫婦で帝都の公爵屋敷に住み、社交界に出ながら情報収集をして下さっていた。今年に入って量産が始まり、次第に製品が王都に届き始めている陶器の販促もして下さっているので、かなり忙しいらしい。


 その書簡には少しきな臭い事が書いてあった。どうもガルダリン皇国の動きが不穏なのだという。例のフーゼンの戦いでの補償条約は無事に締結され、捕虜は買い取られたのだが、その後にガルダリン皇国側がなんやかやとゴネたのだとか。恐らくフェルセルム様か皇帝陛下に唆された事に今更気が付いたのではないかと思われる。


 ガルダリン皇国はかなり好戦的な国で、何かというと帝国に攻め込んでくる困った国なのだが、帝国に攻め込む時には大体ザクセラン王国に攻め込んでくる。ザクセラン王国の王子であるザーカルト様はザクセラン王国が弱いからだと嘆いていたが、実はそれだけが理由ではない。


 ザクセラン王国の一部はかつての戦役の結果ガルダリン皇国から割譲された土地なのだそうだ。ガルダリン皇国はその土地の回復を悲願としており、そのためにザクセラン王国に攻め込んで来るのだそうだ。


 なので今回もガルダリン皇国はザクセラン王国に侵攻してくる可能性が高く、その場合は帝国として援軍を出すことになるだろうとの事。そうすると地理的に近いイブリア王国に皇帝陛下から援軍を出すように要請が来ることになるだろう。準備をしておいた方が良い、とグレイド様は書いてきたのだ。


 私が相談すると、ザクセラン王国からの援軍要請はこれまでにも何度もあり、応じて来たので問題は無いだろうとクローヴェル様は仰った。むしろこれまではザクセラン王国から直接、高圧的に援軍を出せという要求が来たそうで、戦費も全てアルハイン公国持ちだったのだそうだ。やはりイブリア王国に戻ったせいで権威を傘に来て命令出来なくなったのだろうとのこと。因みに皇帝陛下からの要請で帝国軍として遠征した場合、戦費は帝国と援軍を要請した国が折半で持ってくれる。


 クローヴェル様はアルハイン公爵と相談して遠征の準備を進めておこうと仰った。どうやら最近はアルハイン公爵もクローヴェル様の国王としての有能さを認識してくれて、親子関係が非常に良くなっているらしい。旦那と舅の関係が良くなったのは嫁としては良かったわ。


 それにしても、ザクセラン王国への援軍はちょっと思案のしどころだった。というのは、以前に仕掛けた名馬十頭のプレゼントが、ザクセラン王国とザーカルト様にどれ位効いているのかによって対応が変わってくると思ったのだ。


 私はクローヴェル様を皇帝にするためには、いつか必ずクローヴェル様を軍隊を伴った形で帝都まで上洛させなければならないと考えていた。クローヴェル様一人で行っても意味は無い。軍隊を引き連れ、力を見せ付ける形で帝都に乗り込まなければ、誰も私たちの言う事を聞かないだろう。


 その上で障害になり得るのが、途上にある王国や諸侯領だった。特に数日に渡って領地を通過するザクセラン王国が私たちが軍隊を率いて通過する事を認めてくれないと、上洛は難しい。


 軍隊を率いて帝都に向かうことを認めるというのは、クローヴェル様が皇帝になる事を認めるというのとほぼ同義である。つまりクローヴェル様を上洛させるには、ザクセラン王国を完全に味方に引き入れなければならないのだ。


 この際に鍵になるのがザーカルト様だと私は考えていた。


 現在のザクセラン王国の国王を味方に引き入れる事は出来ない事では無いと思う。帝都で交流した限りではザクセラン王国はあまり帝位に野心が無い国であるし、イブリア王国との友好はザクセラン王国の国防上重要だからだ。


 しかしながら、それには何らかの代償がいると思う。何しろ我々は足元を見られる立場だ。ザクセラン王国の支持は買ってでも欲しいのだから。あちらだってどれほど高く売りつけられるか、値を出来るだけ釣り上げようとするだろう。何を取られるか分からないし、交渉に無用な時間が掛かる事が想像される。


 故に私はザクセラン王国の現国王とは交渉したくないと考えていた。ではどうするのか。ザクセラン王国の国王を換えればいい。イブリア王国の助力によって。つまりザーカルト様をイブリア王国が支援してザクセラン王国の国王にすれば、ザーカルト様は最初から我が国に借りを作った状態となる。無条件でクローヴェル様に協力してくれる事だろう。


 勿論、ザーカルト様にその気が無く、ザクセラン王国現国王とザーカルト様の関係が強固なのであれば、そんな策は成立しないのだが、ザーカルト様の様子を見るにつけ、十分に付け入る隙があると思えた。それ故の名馬十頭のプレゼントである。


 あのプレゼントがどれほど効いているものか、おそらく今回の戦役で分かるだろう。どうせザクセラン王国の主将はザーカルト様だろうから。そこでどれほどザーカルト様の扱いが悪くなっているかで策の効きっぷりが判断出来るだろう。


 そうなると、今回の戦役にも私が出る必要がありそうね。もうすぐ出産だし、おそらく出撃は来月くらいになるから、それなら行けるでしょう。多分。私は皮算用した。


 それでクローヴェル様に相談してみたのだが、彼は顔色を変えて反対した。


「ダメです!行かせられません!出産から一ヶ月しか経たないで出征など無理に決まっているでしょう!」


 いや、でもですね。私はクローヴェル様に私が行かなければならない理由を懇切丁寧に説明したのだが、彼はもう一切聞く耳を持ってくれなかった。「とにかくダメ!」の一点張りだ。むぅ。困ったな。ここでザーカルト様の扱いからザクセラン王国の状況を推測し、場合によってはザーカルト様に力を使って恩を売っておかなければ今後に差し支えると思うのに。


 説得しようとする私をクローヴェル様は珍しく怖い顔をして睨み、そして物凄く意外な事を言った。


「あなたを行かせるくらいなら私が行きます!」


 えー⁉︎私は仰天した。びっくりし過ぎて生まれるかと思ったわよ。


「そのザーカルト様とザクセラン王国の動きを探るだけなら私にも出来ます。力を使わなくてもイブリア王国軍を適切に使えば恩を売る事は出来るでしょう。あなたが行く必要はありません!」


 いや、でも、クローヴェル様?おそらく戦場までは三日ぐらい野営しつつ行く事になりますよ?クローヴェル様の体力では戦場まで辿り着けないのでは無いかしら?というような事を遠回しに行ってみたのだが。クローヴェル様は聞かなかった。


「産後間もないあなたを行かせるよりマシです!」


 結局クローヴェル様が譲らず、話はまとまらなかった。まぁ、出産が終わってからもう一度話してみましょうか。


 ・・・などと甘い事を言っていた事を、私はしこたま後悔する事になる。


 その日、私はソファーに半ば寝そべりながら本を読んでいた。もうお腹が重くて重くて普通に座っているのも難儀だったのだ。


 もういつ生まれてもおかしくはないと、医者を始め色々な人から言われていたが、呑気な私はいまいち緊張感も無く日々を過ごしていた。まぁ、何とかなるでしょうという感じ。


 最初は、なんか変な感じがするな?という微妙な感触だった。私は本を読み始めるとかなり没頭する方なのだが、この時は集中力が切れてしまい、読み続けられない。


 あれ〜?私が姿勢を変えたり、頭を振ったりしているのを見てポーラが来てくれた。ポーラは子供を一人産んだ経験がある(夫は既に亡くなっていて、息子は独立して旧王都にいる)。経産婦がいてくれると心強い。


「どうしました王妃様?」


「うーん、なんか・・・」


 すると、何だかお腹の変な所が痛くなってきた。あいたたた!何だろうこれ。


 するとポーラが顔色を変えた。


「王妃様。それは陣痛ですよ!誰か!お医者を呼んできて!」


 侍女達が大慌てで走り出した。私は出産用にと部屋に用意された丈の低いベッドに行く。


「生まれるのかしら」


「分かりません。陣痛は収まってしまう事もありますからね。ですが、生まれるつもりでいてくださいませ」


 と、その時、クローヴェル様が部屋に入って来た。クローヴェル様は臨月が近くなってから私の事を物凄く心配して下さって、休憩の時間の度に私の様子を見に来ていたのだ。


 侍女達がバタバタと動いているのと、私が出産用ベッドに油汗をかいて座っているのを見て、クローヴェル様は状況を悟ったようだ。私の所に駆け寄り、手を握って下さった。


「生まれるのですか?」


「まだ分かりませんが、多分」


 クローヴェル様はそれを聞いてグッと目を閉じると、私の手を強く握ったまま祈り始めた。


「大女神アイバーリンと妊娠出産の神であるクグローシュよ。我が妻と我が子を守り給え」


 あら、よく妊娠出産の神様なんて知っていますね。クローヴェル様の事だから私が大神殿から借りてきた本を読んで探して下さったのだろう。私とお腹の子供のために。私はウフフっと笑った。


「ありがとうございますクローヴェル様。きっと無事に立派なお子を産んでみせますわ」


 クローヴェル様は今にも泣きそうなほど悲壮感の溢れる顔をしてただ頷いた。私よりも緊張しているように見える。私が緊張していなさ過ぎなのかもしれないけど。


 侍女に促されクローヴェル様が振り返り振り返り部屋を出て行き、入れ替わりに助産医の女性が入ってくる。と、その瞬間くらいから、私のお腹の痛みは突然増した。いたたたた!痛い!


 ちょっと耐えられない程痛くなり始めた。私が呻いていると、助産医のおばさま医師が「あら?」っと驚いた。


「もう破水して、出てきそうだわ。大変大変」


 といまいち緊迫感の無い言い方で驚いていた。ええ?もう生まれそう?私は驚いたのだが、すぐにもう滅茶苦茶に痛くなり始めたのでそれどころでは無くなった。


 それからはもう記憶も曖昧だ。呻めいて、言われる通りにいきんだり、息を吐いたり吸ったり。もうちょっと死にそう!と思ったその瞬間。


「オギャー!」


 っという動物の鳴き声のような泣き声が部屋中に響き渡ったのだった。


「おめでとうございます!男の子ですよ!」


「おお、お世継ぎです!イブリア王国万歳!」


 という侍女達の華やいだ声が聞こえた。う、生まれた?産んだの?私が?と、私は朦朧とした意識の中でようようそう考えた。


 ぐったりしていると医者のおばさまがやれやれという感じで呟くのが聞こえた。


「いやー、安産安産。初産でこれほど安産なんて珍しいわぁ」


 ・・・安産なの?あれで?確かに陣痛開始からほんの数時間で生まれたようなので、確かに物凄い安産だったのだろう。客観的に評価すれば確かに安産だったというしかない。


 でもね。産んだ私に言わせれば、あれでも十分大変だったからね!本当に痛くて死ぬかと思ったわよ!安産だったのにあの苦しさなら、難産はどうなってしまうのか・・・。想像したくもないわね。


 程なく、赤ん坊がしっかり清められ、清潔な産衣に包まれて、私の手に抱かされた。ほー。こ、これが私の赤ん坊かぁ。


 まだ顔は皺くちゃで真っ赤でよく分からないが、髪は見える。クローヴェル様にそっくりな鈍い色の金髪だ。うん。これなら誰が見てもクローヴェル様の子だと分かるわね。未だにつまらない噂を信じている奴がいるみたいだからね。


 見ている内にジワジワ実感が湧いてきた。や、やったわ!ついに産んだわ!しかも男の子を!何しろ結婚して六年にもなろうとしての初子だ。私たちは子供が出来ない体質なのかしら?とちょっと心配していたから、ホッともしたし、喜びもひとしおだ。


 それから少し休んでから、クローヴェル様に入ってもらった。どうやらクローヴェル様はあれから、ずっとドアの前に張り付いて数時間に渡って私の出産を待っていらっしゃったらしい。あらあら。そんな事するとまた熱が出てしまうわよ?


 部屋にお入りになったクローヴェル様は、早足で私の枕元にやってくると、いきなり私の頭を抱きしめた。私は喜ぶよりびっくりしてしまった。


「どうしたのですか?ヴェル?この通り私は無事ですよ」


「どうしたのかではありませんよリュー!ずっと呻いたり悲鳴を上げたりしていたではありませんか!聞いている私は生きた心地がしませんでした」


 本人は覚えていないんですけどね。


「それはすいませんでした。でも大丈夫ですよ。それより見て下さい、立派な男の子ですよ」


「リュー。あなたは豪胆過ぎる」


 クローヴェル様は呆れたように言った。


 気を取り直してクローヴェル様は我が子と向き合った。小さなベッドに寝かされた息子はよく眠っている。クローヴェル様は震える手で恐る恐る赤ん坊の頬に触り、フワフワの髪の毛を撫でて微笑んだ。やはり自分に似た部分が嬉しかったのだろう。


「これが、私の子か・・・」


 そう呟いて赤ん坊を見詰めているクローヴェル様を私は微笑ましい気持ちで見ていたのだが、不意に、クローヴェル様の紺碧色の瞳からポタっと、涙が零れ落ちたのでびっくりしてしまった。えええ?


 クローヴェル様の涙は止まらず、彼は上を向いて涙を拭うのだが、次々と涙が溢れてきてしまって止まらないようだ。駆け寄りたいのだが、私はまだ動けない。侍女の一人が慌てて布を渡すと、クローヴェル様はそれで目を押さえながらしばらく静かに泣いていた。そしてようやくといった感じでまた呟いた。


「ありがとう。リュー」


 後で聞いた話では、クローヴェル様は身体が弱く、成人出来るかも疑問視されいて、自分でも恐らくは長くは生きられまいと感じていたらしい。自分が子供を持つなど夢のまた夢だ、とさえ思っておられたそうだ。


 結婚してもなかなか子が出来ず、自分には子供を作る能力が無いのではないかと深刻に悩んでいたらしい。私とアルハイン公爵の血筋との間に子供が出来なければ困るから、場合によっては離婚して兄の誰かと再婚してもらった方が良いのではないかとまで思い詰めた事があるようだ。それであんなに私とグレイド様との不貞を気にしたのか。私は生来能天気だから、それほど不妊について深刻には考えていなかったのだが、真面目なクローヴェル様はずいぶんと苦しんでいたのだ。


 それがようやく子供が出来た。生まれた。もう万感の思いが盛り上がって泣くしかなかったのだそうだ。それを聞いた時には私もちょっと涙ぐんだわよね。


 クローヴェル様は息子の名前を用意していたらしく、その日の内に赤ん坊は「レイニウス」という名前になった、大昔の学者の名前だとか。大王の名前とかではなく学者から名前を貰うのが如何にもクローヴェル様らしくて気に入ったわ。




 ・・・さて、無事に出産を終えたし、来月の出征には行けるかしらね・・・?


 って、それどころでは無かった。私は出産したらお腹も軽くなるのだし、直ぐに普通の生活に戻れると思っていたのだ。だって牛もヤギもそうだったもの。・・・いや、牛とかヤギとかって凄いのね。無理だった。とんでもない話だった、


 いやもう、お腹も背中も腰も痛いし、怠いし良く寝られもしないしで、どうにも動けない。立ち上がるとなんだか立ちくらみもするので、結局一週間くらいはベッドで過ごす羽目になった。


 レイニウスは乳母のクレアンヌの元で育てられ始めているから、夜泣きだとか授乳だとか世のお母さんが悩まされる事とは無縁なのだが、それでこの様である。レイニウスにはクレアンヌが連れてきてくれて、私がお乳を飲ませるの事が一日に一回あるのだが、それしか会えない。


 一週間もするとすっかり丸々した赤ん坊になり、紺色の瞳もパッチリしてどうやら顔立ちは私に似ている事も分かって来たレイニウスとはずっと一緒にいたいのに、すぐに子供部屋に戻ってしまうのだ。それがしきたりだと言われれば仕方が無いのだが、何だか物凄く不満だ。イライラする。


 イライラして不安で、漠然とした不安感というか、気分が落ち込むというか、兎に角精神状態が不安定になっていた。そういう状態である事を自覚したのは、クローヴェル様に指摘されたからだった。


「リュー?らしくありませんね?あなたは笑っていた方が美しいですよ?」


 侍女のポーラ曰く、産後の女性は精神的に不安定になり易いらしく、時には完全に気鬱になってしまう人もいるらしい。


 そう言われたってどうにもならないのが精神状態というものだ。放っておけば治るとポーラは言うのだが、私は早く政務に復帰しなければならないのに。出征にも・・・。


 クローヴェル様は私の頭に手を乗せて、優しく仰った。


「そういう風に焦るのが一番良くありませんよ。あなたの今一番大事な仕事は産後の身体と心を癒す事でしょう?二番目はレイニウスの子育てです。それ以外はその次です。順番を間違えてはいけません」


 結局、私は自分で出征する事を諦めるしかなかった。どう考えても後一ヶ月で遠征に同行する体力気力が戻りそうになかったからだ。


 そうなると、事前の話通りクローヴェル様に行ってもらうしかないという事になる。いや、最悪諦めて遠征の主将であるホーラムル様に頼めば良いのだが、事が事だけにあんまり広げたくない。ホーラムル様は武人らしく隠し事が下手な人だし。


 クローヴェル様はやる気で、早々にホーラムル様とも話をして出征の準備を始めてしまっているらしかった。どうやら父親になって色々なやる気に火が付いてしまったらしかった。こうなるとあれでクローヴェル様は強情というか意志の強いところがあるから、止めても聞くまい。


 私はホーラムル様にくれぐれもとクローヴェル様の事をお願いするしかなかった。ホーラムル様はクローヴェル様の同行に困惑して大分止めて下さったが、結局は弟の同行を認め、慎重に護る事を約束して下さった。


 しかしながら、果たして戦場に辿り着くかも怪しいクローヴェル様をポンと戦場に送り出す事は出来なかった。私は考えた。そしてある事を思い出したのだった。私は侍女にイブリア王国の水色の竜の旗を持って来てもらった。


 この竜旗は竜の神器で、金色の竜の力を込める事が出来る。私は竜の旗の前に立って両手を天に指し上げて祈った。


「おお、我が祖でありその源である七つ首の竜よ。我が力に応え我が願いを叶えたまえ。我が夫を守り給え、我が戦士達を助けたまえ。彼らの剣がより鋭く、その鎧が全ての刃を弾きますように」


 私の力が発動し、両手から飛び立った金色の光が、天井を貫いて落下し、竜の旗に吸い込まれる、これで私の力がこの旗に溜め込まれた筈だ。


 はっきり言ってこれがどういう力を発揮するかは良く分からないが、クローヴェル様のお守りくらいにはなるだろう。私はクローヴェル様に旗をお渡しし、旗の力の発動の文言を(クローヴェル様もほんの少しは力をお持ちなので、発動くらいは出来る筈だ)お教えした。


「くれぐれも、くれぐれも気を付けて下さいね。功をはやって無理をしてはダメですからね」


 するとクローヴェル様は真顔で仰った。


「リュー。私の気持ちが分かりましたか?私はあなたが戦場に出る度にそういう気持ちになっていたのですよ?」


 良く理解した。反省である。私はそれから出征の日まで毎日クローヴェル様の事が心配で心配で、彼のために出来る事をああでもないこうでもないと考えていたせいか、すっかり気鬱はどこかに行ってしまった。


 そして正式にザクセラン王国と皇帝陛下より援軍依頼の使者がやってきて、その三日後、クローヴェル様とホーラムル様は七千の軍勢を率いてザクセラン王国とガルダリン皇国の国境に向かわれた。


 流石にクローヴェル様に騎乗での移動は無理なので、馬車が用意された。でも戦地では鎧を着て馬に乗るのだ。一応は子供の頃から練習はしていて、馬には乗れるという事ではあったが・・・。


「クローヴェル様・・・」


 私はレイニウスを抱いて見送りに来たのだが、心配過ぎて言葉にならない。だが、クローヴェル様は普段よりも頼もしい笑顔を浮かべ、私をレイニウスごと抱き締め、私にキスをすると「行ってくる」と言い残してサッサと馬車に乗り込んだ。


 ホーラムル様が号令を掛け、イブリア王国軍は出撃していった。私はレイニウスが馬蹄の響きに驚いて泣くのをあやしながら、それを見送るしかなかった。

 


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