十六話 初めての海

 フェルセルム様は事情を説明して下さった。


 このところ、フーゼンなど港町に海賊国の襲撃が甚だしいのだという。おかげで貿易は滞り、クーラルガ王国は大きな損害を被っているのだとか。


 クーラルガ王国はその状況を打開するために、海賊国への懲罰的侵攻を計画しているのだそうだ。クーラルガ王国から東の小国を抜けてその先に海賊国はある。そこへフェルセルム様が軍を率いて攻撃を仕掛けるのだとか。軍を通過させる小国の許可は取ってあるのだそうだ。


 海賊国の強さは海上での強さと、神出鬼没の機動力にあるので、根拠地を攻撃してしまえばそれほど手強くは無いそうだ。海賊があまりに横行した時には歴史上何度も行われてきた事だ。


 しかし問題が一つあって、大体そうやって根拠地を攻撃すると、船団が抜けだしてクーラルガ王国へ襲い掛かって来る事で、海賊国を攻撃するために軍を出してしまっているクーラルガ王国はそれで毎回手痛いダメージを負っているのだそうだ。


 それで今回、フェルセルム様が海賊国に侵攻している間、クーラルガ本国を帝国から派遣された他の王国の軍隊が護る事になるのだが、それに金色の竜の力を持つ私にも加わって欲しいとの事なのだ。聞いてみればこの場に居る他の王国の王子も軍を率いてクーラルガで海賊国の備えをする事になっているのだそうだから、話は嘘ではないのだろう。


「あくまで念のためですが、イブリア王国の戦女神と名高いイリューテシア様が来て下されば心強いのです。もちろん、ダメであれば仕方がありませんが・・・」


 むむむむ。私は笑顔の下で困った。このにやけ王子め。やってくれたわね。


 こんな他の王族に囲まれた状態で、しかもクーラルガ王国に要請されて援軍として行く王族もいる状態で、私がこの要請を断ったら「イリューテシアは臆した」とか「イリューテシアは自国にしか金色の竜の力を使わない」とかいう噂が立ってしまうだろう。


 私がただの王妃なら女性が戦場に向かうのはあまり無い事なので断っても問題にならない筈だが、何しろ私は金色の竜の力の使い手でイブリア王国の戦女神とか言われてしまっている。私に戦場経験がある事は当たり前に帝都の皆様も知ってらした。これでは女性である事は言い訳にならない。


 金色の竜の力が戦場で役立つ力であることは皆様ご存じだ。それなのに私がこれを断ったら、私は戦地に向かう方々を軽視したと見られはしないかという懸念がある。そして実際に戦場に行くここにいる王族たちやその関係者は私に良い感情は抱かないに違い無い。


「なに、本当に侵攻があるかどうかも分かりませんし、イリューテシア様に力を使って頂くかも分かりません。ご出馬頂ければ今までのお詫びと今回の報酬に、好きなだけ本を差し上げましょう」


 随分気前の良い話だが、裏を返せばそんな大盤振る舞いをしてでも私を引っ張り出したいという事ではないか。これは困ったね。


「私が行くとなると、イブリア王国軍が帝国軍として援軍に向かうという事になります。私としては国王陛下のご許可も無しにお返事出来かねますわ」


 私はそう言って逃げたのだが、フェルセルム様はニコニコ笑いながら頷いた。


「イリューテシア様のお立場ならそうでありましょう。もちろん本国とのお話がついてからで結構ですよ。私の出陣は来月ですし」


 フェルセルム様が海賊国に向かうのが来月で、おそらく海賊国で戦端が開かれるのはその一週間後くらいだろうという。それまでにイブリア王国から許可をもらって来てくれれば良い、と。・・・断らせる気がないわね。結局私はイブリア王国本国の許可があればという条件付きで了承するしか無かった。


 フェルセルム様に上手く嵌められた形ではあるが、私のフーゼン行きには私にメリットが無い訳では無い。いや、本を貰えるというだけではなく。


 まず、私はクーラルガ王国に行った事が無い。そのため、今回クーラルガ王国に行ってその実情を見て、国力や軍事力を推察出来る事には大きな意味がある。私は、金色の竜の力の持ち主であり、クーラルガ王国の次期王であり、どう見ても帝都で若い王族に大きな影響力を持っているフェルセルム様が、クローヴェル様が皇帝の座を目指す上で最大のライバルであり障害になる事を、この時点で確信していた。そのフェルセルム様の国であるクーラルガ王国の国情の把握は大事だ。


 そしてクーラルガ王国への援軍には各国の王族や有力諸侯が加わる。これは皇帝陛下への忠誠を表すという以上にクーラルガ王国、事に次期皇帝と噂されるフェルセルム様へ恩を売りたいという意図があると思われる。だから行くのがフェルセルム様と仲が良く(この夜会に出ているくらいだから悪くは無いだろう)若い方が多いのだ。その援軍に加わるという事は、私もその中に加わってフェルセルム様に恩が売れるという事になる。後々この売った恩というカードは大事な所で効いて来る筈だ。


 更に、援軍の王族の方々を私が金色の竜の力で助ける事が出来れば、その王族の方々にも恩が売れるし、彼らに私の強烈な印象を残す事が出来るだろう。これまでの社交で大分彼らにはインパクトを与えたと思うが、更に竜の力でダメ押しすれば、彼らの中で私を皇帝候補(正確には皇妃候補)としてフェルセルム様に並ぶくらいの存在感を持たせられるだろう。


 そう私は皮算用した訳であるが、そんな事は公言する訳にはいかない。私は戦場に向かう事を心配してくれるメリーアン様に少し困った風な笑顔を向けて、断り切れずに仕方無く受けた風を装っていた。


「一曲踊りませんか?イリューテシア様」


 フェルセルム様がニコッと笑いながら私に手を差し伸べた。うむむ。この胡散臭い何考えているのか分からない男と踊るのは気が進まないが、私は主賓で彼は主催だ。仕方が無かろうと私は彼に手を預けた。


 フェルセルム様のダンスは流石に流麗華麗完璧で、まぁ、おそらくはその地位に相応しくあろうと努力したんだろうな、と思える出来だった。ダンスというのはセンスよりも努力だもの。絶え間ない反復練習と人から見られている事をしっかり意識して美しく振舞い、踊るのが大事なのだ。そして相手との呼吸を合わせ、常にパートナーの状態に気を配る。これが完璧に出来るという事は、フェルセルム様が如何に相手をよく見てそれに対応出来るのかを示す。


 ダンスを共にすればその人の本質は大体分かってしまう。だから貴族の男女交際はダンスから始まるのだ。フェルセルム様と踊って感じるのは、彼が才能に溺れずきちんと努力出来る人である事、ちゃんと他人を見極める事が出来る人だという事だ。


「・・・あなたは恐ろしい人ですね」


 フェルセルム様がゆったりと踊りながら呟いた。


「こうして踊るだけで何もかも、隠し事まで暴かれる気がする。ただ踊っているだけなのに油断が出来ません」


 私はステップを合わせながら首を傾げる。


「そうでしょうか?そこまでは分かりませんよ」


「私をここまで怖れさせる女性は初めてです。どうでしょう。イリューテシア様。やはりあなたは皇妃となるべき人だと思います。夫を捨てて私の所に来ませんか?」


 ・・・なんという諦めの悪い事を言うのかこの人は。私はもう既婚だし、というかあなただって結婚しているでしょうに。


「あなたが来てくれれば私は離婚してあなたと結婚しましょう。必ずあなたを皇妃にして見せましょう。どうです?」


 フェルセルム様は微笑みながら真剣な目つきをしていた。どうも本気ではあるらしい。私は軽く溜息を吐いた。


「お断り致します。皇妃にはなりますが、それはクローヴェル様を皇帝にすることでなります。あなたには頼りません」


「あの病弱な王では皇帝は無理ですよ。高みに達する事が出来るのは身体も心も優れた者です。私と、あなたのような」


 はぁ。何というか、確かにこの人は優れた人物なのだろう。その自信に相応しいだけの努力と実績を積み重ねているのだろう事も分かる。


 しかしながら、どうもいけ好かない。好みの問題だと言えばそれまでだが、彼には何だか欠けた部分があると思う。それは・・・。


「フェルセルム様、私はあなたに以前に忠告致しましたわよね?」


「なんでしょう?」


「プロポーズをするならロマンチックにやった方が良いと。そうでないと女性を射止める事は出来ないと」


 どうもこの人は相手の人の考えている事を感じ取る事は出来ても、感情に寄り添う事は出来ない人だという気がする。この人の嫁は大変そうだなぁという感想しか出ない。つまり彼の妻などごめん被る。


「・・・そうですか。残念です・・・」


 フェルセルム様は本当に残念そうにおっしゃって、フッと少し暗い感じのする微笑みを私に向けたのだった。



 そうして私はフーゼンに行く事になってしまった。私は屋敷に帰ると大急ぎでイブリア王国本国に事情を説明する書簡を送った。帝都から王都までは早馬で、早くて二日半、遅くて四日で着くらしい。アルハイン公爵の構築したリレー早馬システムは優秀だった。私が書簡を送って僅か六日後、返事が届いた。曰く。


「大至急援軍を送るから、到着まで動かないように」


 との事だった。クローヴェル様の直筆でわざわざ書いて来た所に、絶対に勝手な行動はするなという強い意志を感じる。私は大人しく、社交をしたり帝宮の大図書館に行ったりして時間を潰していた。


 この間にフェルセルム様や帝国軍として援軍に向かう王族たちは先に出陣してしまっていた。まぁ、本国の許可が無ければ行かれないと強調しておいたから、このまま行かれなくても仕方が無いでしょう。そう思いつつ本を読んだり社交に出たりしてのんびり暮らしていたら、返事が来てぴったり七日後。公爵邸に数名の騎兵が駆け込んで来た。


「一体何をどうしたら、王妃様が援軍を率いてクーラルガ王国を支援するという話になるのですか?」


 くたびれ果てた表情で私を詰問したのはグレイド様だった。焦げ茶色の髪にも艶が無い。


「あら、グレイド様が来て下さったのですか?」


「来て下さったのかじゃありませんよ!クローヴェルとホーラムル兄が来たがるのを父とエングウェイ兄と私でどうにか押し留めて、結局私が来る羽目になったんですよ!」


 そりゃ、クローヴェル様が来れる筈は無いし、ホーラムル様は王国の守備の要だから来ちゃダメよね。で、いつも便利使いされるグレイド様がいつものごとく貧乏くじを引いたと。この人は三男だし愛妾の子でどうしても立場が弱いので、どうも私のやらかしで引き回される運命にあるらしい。


「まぁ、諦めて下さい。グレイド様が来て下さって助かりましたわ」


「とっくに諦めていますが文句の一つも言わせてくださいよ」


 私はグレイド様に今回の事情を話した。断り難かった理由と、断らなかった理由も含めて。グレイド様はうーん、と唸って天を見上げてしまった。


「断ってしまえば良かったのに、と言いたいところですが、王妃様がこの僅かな間に帝都でやらかした色々を考えれば断らなくて正解でしたね」


 私は意外な意見に目を瞬いた。


「それはどういう意味なのですか?」


「王妃様が帝都で何をやっているかは毎日のように公爵家の手の者から報告が来ていましたから、大体分かっています。本当に色々やって下さったそうで・・・」


 そうかしらね。最初の帝宮での夜会くらいじゃない?ちょっと羽目を外したのは。


「いやいや、その後の社交でも各国の王様や王妃様と深くご交流なさったでしょう。おかげでこのところイブリア王国本国にはお礼状やら贈り物をもった使者が毎日のようにやって来てですね。父や母は大わらわなのです」


 あらま。それは知らなかった。確かにこの公爵邸にも色々贈り物は来ているわね。


「それと、イブリア王国の陶器を大分宣伝なさったでしょう?王国や有力諸侯から早速沢山注文が届いています。結構質が良いと評判になっています。それと、やはり王妃様と繋がりを作りたいと思ったのでしょうね」


 ???ちょっと待って?どうして私と繋がりを作りたいという事になるの?


「王妃様が皇帝陛下に大変厚遇されたからでしょうね。王妃様は皇帝陛下のお気に入りと見做されたのですよ」


 ・・・それは困ったね。そういう評判になっている以上、皇帝陛下の意向に逆らう事を私がすると「皇帝陛下のご厚意を裏切った」と見做され、責められてしまうだろう。


「なるほど、皇帝陛下のご厚意を受け、お気に入られたと考えられている状態で、息子であるフェルセルム様の要請を、しかも帝国軍に加わって欲しいという要請を断れば、皇帝陛下を裏切ったと思われてしまう訳ですね」


「だいたいそういう事です。それにあまりに急激に社交で名を上げ過ぎましたから、金色の竜の力の持ち主としては戦場での働きも期待されている事でしょう。ここで断ったら皆さまの期待を裏切る事にもなって、良くはありませんね」


 そんな期待をされても困るのだが。私の戦場経験は一回、しかも後方から戦場を遠望していた経験しか無いのだ。


「あなた達が『イブリア王国の戦女神』だとか誇大な二つ名を付けるから・・・」


「あれはホーラムル兄ですよ。私は言っていません」


 グレイド様は二千の騎兵を率いて来ていた。帝都には兵を入れられ無いので、帝都外の町に泊まらせてあるのだという。私とグレイド様は打ち合わせをして、三日後にフーゼンに向けて出発する事にした。グレイド様はフーゼンにも行った事があるそうで、道順や現地の様子は大体分かると仰った。優秀な家臣がいると楽よね。


 私はすっかり安心して三日間のんびり本など読み、ゆったり準備して馬車に乗り込んだのでグレイド様は流石にキレ掛けたらしい。なにしろその間グレイド様は帝国軍に加わるのに必要な手続きに忙殺され、必要物資の購入や運ぶ人足の手配もしなければならず大変だったらしいのだ。全然知らなかった。なによ、言ってくれれば手伝ったわよ。


 私が最初に護衛として率いていた兵を含めて騎兵が二千二百、歩兵が百。話によれば帝国軍として各国が送り込んだ軍勢も大体同じくらいだそうなので、少ないと文句を言われる事は無いだろう。


 フーゼンまでは馬車でゆっくり行っても二日で着く。クーラルガ王国の王都にも同じくらいの時間で着くそうだ。帝都にこれほど近い事と、貿易で儲けている事が、クーラルガ王国が頻繁に皇帝を出している理由なのだろう。ただ、帝都で社交をしている中で思った事は、竜首の七王国の王や次期王の全てが皇帝を目指している訳では無さそうだ、という事だった。


 それというのも、皇帝という地位があまり豊ではない皇帝領を領有出来る以外のメリットが少ないからだと思う。各王国に対する強制力は無く、それなのに人口莫大な帝都の内政やガルダリン皇国その他との外交を担わなければならない。恐らく自国からの持ち出しが多く掛かるのではないかと思う。だから裕福ではない王国や帝都から遠い王国は皇帝を出す事に積極的では無いのだろう。その意味でいって帝都から遠いイブリア王国のクローヴェル様が皇帝を目指すのは珍しい事なのではなかろうか。


 フーゼンは港と、それを取り巻く丘の上の街からなる。街を海側に半円形に囲む街の城壁を潜って丘の上の街に入り、港が一望出来るところに出た。


 ・・・流石に私もびっくりした。何にって、海にだ。山奥育ちの私はこの時に初めて海を見たのだった。


 港の向こうに延々と広がり、遥か彼方で空と接するまで続く海。時刻は夕暮れに近く、空も海も茜色に染まっている。吹き付ける嗅いだことの無い湿った香りに息が詰まりそうになる。


 帝都を見た時も驚いたが、海を見た衝撃はその比では無かった。たまげたわよ。私はここまでイブリア王国の山の中の最南端から帝国を縦断してきて、世界の広さを実感していたつもりだったのだが、海の大きさ、広さはそんな実感を吹き飛ばすものだった。


 私が呆れているのを見てグレイド様は面白そうに笑った。


「私も海を初めて見た時は同じ顔になりましたよ」


「この海の向こうにも国があるのですよね?」


 本では腕が四本あったり、尻尾が生えていたり、身長が私の倍もあるような人の国もあると読んだことがある。そんな人間がいる筈ない、読んだ時は笑ったものだが、この海の大きさを見ると、一概に笑い飛ばせないものを感じる。


 私達はフーゼンにあるクーラルガ王国の公邸に入った。ここはクーラルガ王家の代官が入っているお屋敷だ。そこには既に援軍としてやってきていた他の王国の王族が滞在していた。各王国の兵はフーゼンの宿に入っている。今回援軍を出したのはイブリア王国、スランテル王国、クセイノン王国、ロンバルラン王国と、帝都周辺の公爵侯爵で、兵力は合計で七千程度。フーゼンには外国の船団が入る事も多いらしく宿屋の数も多いから、このくらいの人数は軽く収容出来るそうだ。


 私は兵達に一時金を与え、羽目を外し過ぎない事を念押しして休暇も与えた。長旅をしてきた兵達は大喜びだ。港町だから遊び場も多い事だろう。


「私も休暇が欲しいんですがね」


 と、グレイド様はボヤいたが、彼には社交に付き合って貰わなければならない。滞在するお屋敷には私以外にも三人の王族がいて、恐らく暇を持て余している。多分社交三昧になるだろう。


 予想は当たってその日から毎日夜会が開かれ、私も出席を余儀無くされた。一人で三人の王族の相手は大変だからグレイド様がいて助かった。グレイド様は格上の王族を相手にするので大変そうだったが。


 他の王国もイブリア王国と同じように、王族は名目的な総大将で、その下に実務的な指揮官がいて、その者が実際には指揮を執るようだ。グレイド様はそういう現場指揮官と打ち合わせもしてくれた。ほんと、グレイド様様々だ。


 グレイド様いわく、作戦としては、海賊国は海から攻めてくるから、陸上への上陸を阻止し、追い返すというものになるだろうという。七千もの兵がいれば海岸線全体を守備出来る。万が一他の海岸沿いにある町や村を襲われた場合は直ぐに移動して対応する予定だが、フーゼンはこのクーラルガ王国で最も栄えている港町だから、復讐心に燃える海賊国がここに来ない事はまず有り得ないだろうという。


 各王国との連合軍、つまり帝国軍は周辺の海岸を警戒する斥候を出しつつフーゼンで待機し、私はその間フーゼンに集積されている本を物色して読んでいた。公邸には見本として献上された本がもの凄い数収まっていて、なるほどフェルセルム様の言葉に嘘は無かったな、と思った。


 フーゼンにあった本の中には、ガルダリン皇国や遥かに遠いバーデレン帝国から届いた本があり、多少言葉が分かる私はそれらも喜んで読んだ。案内してくれたフーゼンの代官はびっくりしていたわね。夜会の時にその話をしたら、他の王族の方々にも外国語が分かる人は居なかった。私に外国語の教育をしてくれたのはお父様の侍従長だったザルズなんだけど、彼はなかなかタダモノでは無かったらしい。今は旧王都にいるけど。元気にしているかしらね。


 待機している間、私は読書三昧で楽しかったが、他の王族の方々は退屈だったらしく、斥候に出ると仰って城外に狩りに出掛けたり、船を用意させて遊んだりしていた。私も一度だけ招待されて船に乗ったが、いや、怖いし気持ち悪くなるしでほうほうの体で引き上げた。あんまり積極的に乗りたいものじゃないわね。


 そんな感じで半月が過ぎた。海賊国では既に戦闘が起こっている筈だが、フーゼンは平和そのもので、貿易船も普通に出入りし、商魂たくましい商人は私達王族や諸侯に商品の売り込みにやってきた。珍しく品物の数々に目を見張る。本で知っていたものも、実際に見るとまるで違う印象を受けたりして面白かった。私は逆にイブリア王国の陶器を売り込んだ。興味を示す商人は少なく無かったわね。国に戻ったら陶器職人のケールに発破を掛けておかなきゃ。


 つまり私を含め帝国軍の面々は長期に渡る平和な駐留で、ここまで何をしに来たかった忘れ始めており、この感じだと何も起こらないのではないか?とまで思い始めていた。上層部がそう考えていれば、兵達にもそれは伝わる。兵達も船乗り向けの歓楽街の多いフーゼンの街を満喫し、綱紀は緩みまくり規律は乱れまくっていた。


 恐らく、フェルセルム様はそこまで読んでいたのではないかと思う。根が呑気な田舎者の私には、フェルセルム様の冷血で冷徹に人を陥れ罠に嵌める考え方を読むのは難しい。だからあっさりと彼の仕掛けた罠に嵌まってしまったのである。


 その日の早朝。まだ暗い時間だった。私はけたたましい鐘の音で目を覚ました。どう考えても目覚めの鐘には時間が早い。


 !一瞬で覚醒する。時間外の鐘の音は異常事態の合図だ。これはどこでも同じだろう。私は慌ててベッドを飛び出して、室内履きを突っかけて部屋から駆け出そうとした。


「王妃様!そんな格好で出てはなりません!」


 途端に侍女のポーラに制止される。確かに私の格好は寝間着だ。人前に出て良い格好ではない。しかし、時間が惜しい。


「急ぐのです!」


 ポーラは悠長な着替えを諦めてくれて、私にガウンを着せ掛け、しっかり前を閉じて帯を結んでくれた。


 私は部屋を飛び出し、公邸の見張りの塔へ向かった。このところ何度も海を見物するのに訪れていたから場所も道順も分かる。私はお作法も投げ捨てて走り、塔への階段を駆け上がった。


 塔の最上階は屋根の無い吹き曝しだ。私は一気にそこへ飛び込むと叫んだ。


「何事ですか!」


 見張りの兵士は三人。一人が吊り下げられている鐘を木槌で叩き続けている。残りの二人は私を見て驚いた顔をしていたが、どうやら私が何者か分かったのだろう。報告してくれた。


「正体不明の軍勢が接近中です!」


 来たか!私は塔の上に出て、海の方向が見える側の塔の淵に駆け寄った。・・・が、海には何も無いように見える。右の方から薄明るくなってきたフーゼンの港には特に異常は無いように見えた。


「どこですか?」


 私が拍子抜けした思いで見張りに尋ねると、見張りの兵士が鐘の音に負けないような大声で叫んだ。


「そっちではありません!陸側です!」


 は?陸側?私は慌てて反対側に駆け寄る。


 フーゼンの街を半円形に囲む城壁。この公邸は丘の上なので城壁の外側も良く見える。南側に当たるので朝日が昇るのは左側だ。その朝日に照らされて浮かび上がるのは、右の方から接近しつつある、銀色に輝く鎧姿の兵士の群れだった。


 その時、見張りの塔に数人の者達が駆け上がってきた。フーゼンの守備部隊の隊長他の面々だった。彼らは貴族風のガウン姿の私を見て驚いた様だったが、それどころでは無いと思い直して塔の南側に駆け寄り、近付く兵士に目を凝らした。


「どこの部隊だ?」


「海賊国が来るとすれば海からだろう。味方の援軍がまた来たのでは無いか?」


 などと話している。確かに警戒すべきは海賊国で、海賊国が上陸して陸から攻めてくる可能性は殆ど無い。


 しかしながら、私は山育ちで鍛えた目の良さでその兵士たちの姿をはっきり捉えていた。帝国の兵士よりも軽装な鎧姿。あまり騎兵はおらず、歩兵が主体の軍編成。そして何より虎を象った図案の旗。あれは!


「大至急門を閉ざし、城壁に兵を上げなさい!」


 私は叫んだ。守備隊の隊長たちは驚きに目を見張った。


「な、なぜですか?」


 私は彼等を睨んで更に叫ぶ。


「あれは海賊国でも味方の援軍でもありません!」


 私は彼の国の者に会った事も無いし、その軍隊に出くわした事も無い。しかしながら、私は本で読んで知っていたし、帝都に来てから実際に彼の国の軍勢と戦った方々の武勇伝を伺っていた。だから分かる。


 帝国より軽装で剽悍な兵士。馬の生産が少なく騎兵は少ないが、歩兵の強さは大陸随一だと聞く。虎の紋章を掲げる帝国最大のライバル。間違い無い。


「あれはガルダリン皇国軍です!」

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