2章 悪魔と過ごす日々②

 そんなに悪い奴ではないのかもしれないと、うっかり思ってしまっては自分を𠮟しつせきする日々が続いた。まんまと悪魔の術中にはまっているのではとなやむネリネの意識を大きく変える事件が起きたのは、春も半ばになろうかという日のある夜の事だった。

 ガタガタとさわがしくれる食堂のまどわくに手をえていたネリネはぽつりとつぶやく。

「今夜は荒れそうですね……」

 やみの向こうからびゅうびゅうとき付けてくる風が、れているしよを通して指先をビリビリとふるわせる。たたきつける雨音も少しずつ強くなってきているようだ。教会はがんじような造りだから問題ないだろうが、かげに置いたおけは吹き飛んでしまうかもしれない。

「……神父?」

 反応のなさに振り返ると、クラウスは夕食後のテーブルで熱心に何かを作っていた。使わない紙を折ったり切ったりしていた彼は、ようやくこちらの視線に気付いたのか、笑いながらそれを見せてくる。

「あぁ、この紙工作かい? 次の礼拝で子どもたちに作ってあげようと思って」

「……」

 見上げた心意気だとは思うが、そのなんとも言えない形状は何なのだろう。やたらとトゲトゲが付いていたり、見るものを不安にさせるようなシルエットがきよう心をあおる。

「こいつはかいに生息するあくウサギでね、そばを通りかかるとしげみから飛び出してきて額のツノでものを突き殺すんだ。かわいいだろう? こっちはかいねんきんている間に鼻から侵入して脳に寄生する生き物なんだけど、気づかない内に少しずつ内側からい荒らされていくところを表現してみた。ここの、こう、もがき苦しんでいる表情の造形が上手うまくできたと我ながら」

「お願いですから、つうに花とかこんちゆうにしません……?」

 痛む頭を押さえながらネリネは進言する。そんなぼうとく的な物を配っては子どもたちの情操教育に悪すぎるだろう。そもそも、悪魔とバレるような行動はつつしんで頂きたい。

 その時、外からガラガラと何かが転がるような音が聞こえて来た。ついに吹き飛んだかとのうにその光景をえがきながら窓をはなれる。

「桶が……、ちゃんと納屋の中にしまってきます」

「危ないよ、私が行こう」

「別にこのくらい──」

 一人でやれると言いかけたネリネは、勝手口を開けたところで足を止めた。おおれの庭の向こうから、明かりをたずさえたシルエットの一団がこちらに向かってやってきている。目の高さまでかかげられたランプは、そう感あふれる一家の顔を照らし出した。

「神父さま、お助け下さい! むすめが!!」



 今にも泣き出しそうな両親にかかえられていたのは、この教会にもよく遊びに来ていた女の子だった。毛布にくるまれた彼女は苦しそうな顔で呼吸を乱している。救護室のベッドに寝かせ、れタオルであせぬぐってやると、リンゴよりも赤い頬は異常に熱かった。

「あつい……あついよぅ……」

「一番上の子も、何年か前に同じような熱を出して一晩で死んじまったんです。神父さま、どうか……どうか」

 おろおろと狼狽うろたえる父親の横で、母と兄もなみだを必死でこらえている。

 体もいてやろうと毛布をけたネリネは、女の子の右足首に切り傷があることに気づいた。ぷっくりとれてんでいる。

「これは?」

「昼間転んだ時に切ったみたいなんです」

 ひとまずはその箇所をていねいに拭って消毒してやり、教会の常備薬の中からねつざいと栄養剤をあたえてみた。だが時間がつにつれ、坂道を転がり落ちるように女の子の容態は悪化していく。日付が変わる頃になると女の子の意識はれることが多くなって来た。呼びかけても応答がなく、ただ苦し気にハアハアと胸だけが上下している。外の荒れていく天気と呼応するように、しようじようは悪化していくようだった。苦し気にうめく末っ子の様子を見て居られないのか、両親と兄は礼拝堂で必死に神にいのりをささげ始める。



 看病のちゆうで気になることがあったネリネは、たらいの水をえるついでに礼拝堂の席に座る兄のかたわらにひざをついた。視線を合わせるとしんけんな顔をして問いかける。

「少し聞いてもいいですか?」

「シスター……」

 落ち着かせるようかたに手を置く。すると、ぼんやりとこちらに視線を合わせた少年は見る間にひとみうるませた。

「ど、しよっ、このままアイツ、死んじゃうのかなぁ? そしたら俺……っ」

だいじよう、きっと神様が助けて下さいます。そのためにも聞かせてくれませんか? 昼間、あの子は転んで足を切ったと言いましたよね、どこで傷を作ったんです?」

 目元を拭っていた少年は、少しまたたいたがなおに答えてくれた。

「北の森……白いはんてんがある草がいっぱいあるところで転んで、それで」

 その証言にネリネは軽く目を見開く。すぐに立ち上がると、短く礼を言って歩き出した。

(もしかしたらあの傷は……だとしたらまずい、早く処置しないと)

 ここから先に行う事は完全に教会の応急処置のはんちゆう外だ。シスターとしてのわくみからはいつだつしてしまうが、このまま死にゆく子どもを見過ごすぐらいならその可能性にかけてみようと心を決める。

 替えの水ぼんを手にしたネリネは救護室に向かう。中に居るはずの神父に許可をもらおうとノブに手をかけた時、とびらの向こうからどこかあわれむような声が聞こえてきた。ピクリと手を止めて耳をすます。

「かわいそうだけど、これ以上してやれることは無いか……」

 あきらめにも似た口調に、水盆をにぎる手に力が入る。それはちがう、まだ打つ手はあると彼に言わなければ。

「あのっ、神父。お許しを頂けるのであれば」

 意を決して扉を開けたネリネは息をんだ。かなし気な顔をするクラウスは、女の子の首に手を触れていたのだ。指先に力が入り、今にもめそうに──。

 手から水盆が落ち、ガラガラと盛大な音を救護室にひびかせる。ハッとして振り返った悪魔と女の子の間に、気づけばとっさに割り込んでいた。ドンッと彼をき飛ばしさけぶ。

「やめてください!」

「ね、ネリネ」

「信じられない……今、なにを」

 恐怖と非難の入り混じった視線を向けると、よろめいた神父は両手を上げて固まる。みようちんもくが流れ、冷や汗をかいたクラウスはそのポーズのまましんちように口を開いた。

「し、しないよ。というかできないんだ。悪魔としてのチカラは、だれかとのけいやくがなければ人間には使えないから」

「それにしたって、首に手を……」

 こんなに細い首なら、悪魔でなくたって絞め殺す事はできるだろう。疑いの目を向けると、グッとまった悪魔は気まずそうに視線をらした。しばらくして消え入りそうな声で白状する。

「……ごめん、もう長くなさそうだし、このまま苦しむよりは、いっそラクにしてあげた方が……いいと思って」

 ドクドクとどういやな音を立てている。いくら見た目を人間に寄せているとは言え、やはり目の前に居る生き物は自分とは根本から違う存在なのだと思い知らされる。

 思った以上にショックを受けている自分におどろく。おたがいに指先一つ動かせない。そんな中、意識を失っていた女の子がうめいて宙に手を彷徨さまよわせた。

「うう、おか……さん、……ぃちゃん」

「あ、あのぉ……何かあったんですか?」

 先ほどの騒ぎを聞きつけたのか、女の子の家族もそろって扉から顔を出す。また意識を失ったかんじやにネリネは一刻のゆうもないと判断した。そくに頭を切り替え、彼ら家族に後をたくすことにする。

「この子の傍に付いていてあげて下さい!」

「ネリネ、どこへ──」

 制止しようとするクラウスを見ると、彼はまどいの表情をかべていた。

 ──このまま苦しむよりは、いっそラクに……。

 先ほどの発言が頭をよぎり、気づけば力いっぱい宣言していた。

「この子は助かります! わたしが死なせない!」

 返事を待たずにネリネは教会から飛び出した。春のあらしが顔にたたきつける中、全速力で北の森を目指す。ブーツでどろね上げながら目的の場所にたどり着くと、身をかがめて女の子が転んだという場所を探し始めた。

(この辺りだ!)

 ほとんどいつくばる勢いでさぐり当てた広場は、少年の言う通り白いまだらのある草が群生していた。思った通りシラー草だ。この白い部分はわずかに毒性のあるほうで、普通にさわったぐらいでは何のえいきようもない。だが、ごくまれていこう力の弱い子どもや老人などが傷口でれてしまうと、じやくだった毒が体内に入り込み、全身をめぐって悪さを引き起こしてしまう事がある。

(でも、この草の近くには必ずアレがあるはず)

 き付ける風に目を細めながらも、ネリネは立ち上がって周囲を探る。不気味にざわめく森の中を見回すと、ある地点から急に足元がなくなっていることに気づいた。近寄ってみるとそのがけはかなり高さがあった。いわはだしゆつしていて、落ちればあちこちに叩きつけられてタダでは済まなそうだ。

 その時、雲の切れ間から月明りが地上に落とされる。生ぬるい風にほおを叩かれながら崖を見下ろしていたネリネは、少し下に目当てのものを見つけて顔をかがやかせた。

「あった!」

 濡れたつちかべに這うようにして生えていた物。それはむらさきいろのコケだった。シラー草からのがれるように必ず生えているこのコケは、すりつぶして傷口にり込めば毒を打ち消す効果があるはずだ。

 しかし、あんな場所に生えているとは思わなかった。いつしゆんためらったが、キュッとくちびるを結ぶと腹ばいになって上から手をばした。何とかギリギリ手が届きそうな位置にはある。

(もう少し、あとちょっと……!)

 こうしている今も、あの子は苦しんでいる。いや、もしかしたらもう……。そんな嫌な想像をはらうように、手元の草を支えに握りしめ限界ギリギリまで身を乗り出す。その時、雲が流れて月をかくし、辺りはくらやみに吞み込まれてしまった。

「あっ……!?」

 そのことにひるんで、つかんでいた草を思わず強く握ってしまう。しまった、と思った時にはおそく、ブチブチと千切れるかんしよくと共に嫌なゆうかん身体からだおそった。グラリとぜんけいになりながら、絶望に飛び込んでいく。

(落ち──!!)

「ネリネ!」

 呼びかけにハッと目を開いたしゆんかん、世界がぐるりと上下し、わけのわからぬ内に手首をパシッと掴まれた。ガクンとすっぽけてしまいそうなしようげきが左の肩に走る。

「っ……!」

 痛みをこらえて上を向くと、天に伸ばした手を誰かの手がかんいつぱつのところでつかまえていた。一度しっかりと握り直された手を引き上げられ、勢いをつけた身体は地上へともどる。気づけば誰かの胸の中にぽすりと収まっていた。

「ど、どうして……」

 明かりがなくとも、深みのある声で誰かなんて一発で分かっていた。少し引いて見上げると、予想通りそこに居たあくは真顔でこちらを見下ろしていた。しばらく無言で見つめ合う。やがて彼は赤く戻った瞳をすがめ、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「私には、分からない」

「え?」

「どうして君は、そこまで赤の他人のために命を張れる?」

 心の底から理解不能といった悪魔は、どこかひやりとする声で現実を突きつける。

「現に今、君は死ぬところだった」

「っ、」

 背後に広がる底なしのやみを振り返り、今さらながらに冷たいものが背筋を伝う。ふるえる手で地面をギュッと握りしめたネリネは、青ざめながら答えていた。

「わ……わかりません、まさか落ちるとは思って居なかったものですから、でも」

 苦し気にうめく患者の顔がふとのうに浮かぶ。いつの間にか身体の震えは止まっていた。まっすぐに神父を見上げ、なおな気持ちを打ち明ける。

「ただ、あの子を助けたくて……それだけしか考えていませんでした」

 一時の暴風に比べれば、風は少し収まってきたようだ。しばらくこちらを見下ろしていたクラウスは、ふいにふっと口のはしり上げると困ったように言った。

「先ほど君が私に驚いたように」

「?」

「私も君に驚いている。人間はここまで他人のためがんれるものなのか」

 片手を上げた彼は、ネリネの頬に手をやると付いていたらしい泥をぬぐって落としてくれる。ビクッと反応する彼女のかみを少しだけいて、目をせた悪魔はかなしげに笑った。

「でもね、博愛主義も行き過ぎるとただの自己せいだよ」

「そ、そこまでは、ええと」

 そんなことは無いと、先ほど死にかけた分際でどの口が言えるだろうか。言い訳がましく口ごもっていると、目の前のクラウスはふいに目を開けた。こちらを見下ろして限りなくやさしいみを浮かべる。

「なんにせよ、無事でよかった」

 心の底からあんしたような声に、しばらくネリネはほうけていた。だが、時間がつにつれて鼓動がおかしな具合に暴れ出していく。それを認めたくなくて、あわてて視線をらすが、胸の内でふくらんでいく気持ちは、気づけば勝手に口を動かしていた。

「あの、助けてくださって、あ、あり……」

「うん?」

 最後まで言う事ができずに、声が消えていく。ふぅっと息をいたシスターは、礼を言う代わりに先刻のふるまいを謝罪することにした。

「先ほどは、ったりしてすみませんでした。あなたも、自分なりのやりかたで、あの子を助けようとしてくれたんですよね」

「やりかたはおおちがいだったみたいだけどね」

 アハハと困ったように笑い飛ばす悪魔だったが、急にしんけんな顔をするとこう言った。

「……うん。今日のように、悪魔と人間の価値観の差でおかしな事を言ってしまう事がこれからもあるかもしれない。その時はえんりよなくてきしてくれないか」

 その声のしんさに、ネリネはふっと口の端を吊り上げる。すっくと立ちあがった彼女は気持ちを切りえた。その顔は、これまでとは違うどこかすがすがしいものへと変化していた。

「わかりました、でもその前にお願いしたい事があります。あなた飛べるんですよね、この崖の中腹にあるむらさきのコケを取ってきてもらえませんか?」

「コケ?」

「はい。それがあれば、あの子を治すための薬になるんです」

 そこまで言ったところで、ハッと我に返る。このお願いでさえ、もしかしたら『悪魔のけいやく』にていしよくしてしまうのでは?

 そんなきんちようが伝わったのだろう、クラウスは軽くしようするとその不安をふつしよくしてくれた。

「心配しなくても、このぐらいなら『契約おためしサービス』のはんちゆうだよ」

「お試しって……」

「ちょっとした抜け道だね、ちゃんと実力を見せなくちゃ契約をしぶる人間も居るもんだから」

 だからだいじよう、と言いながらクラウスはたいを少し解いた。大きな黒いつばさを羽ばたかせながら崖へ向かって一歩み出した彼は、空中でくるりと振り返り軽く両手を広げる。

「助けが欲しいときはいつでも呼んでくれ、すぐに飛んでいくから」

 やわらかい笑みに、不覚にもまたどうねてしまう。すぐにごまかすようにしゃがんだネリネは、指を差しながら指示を始めた。

「そこ、そのあたりにあるはずの紫色の、お願いします」

 頬の赤さが分からないような暗闇でよかったと、そんなことを思いながら。


 必要量を採取して教会にとんぼ返りをすると、かんじやの容態はかなり悪化していた。慌ててコケをすりつぶし、出来上がったねんちやく性の液体を傷口にたっぷりと塗りつける。そのこうにしか見えないシスターの行動に、当然のことながら患者の父親はぎようてんした。

「コ、コケ!? アンタ何を考えてんだ! そんな物塗ったら余計に──」

「あなた、シスターを信じましょう」

「でもお前……」

 横にいた母親がそれを止めた。真っ赤にらした目の彼女は、わが子が苦しむベッドに伏せるとワッと泣きさけんだ。

「お願いよ、せきを起こしてくれるんなら、もう神様だってコケだって何でもいいからぁ……っ!!」

 あぁぁぁ……と、なげく彼女を見下ろしていたネリネはひざをついた。視線を合わせるとそのかたを力強くたたいてこちらを向かせる。

「大丈夫です、この方法で助かった人間ならここに居ます」

「え……?」

「わたしも、子どものころにかかって、母に同じように治して貰ったんです」

 もしかしたら間に合わないかと気をんだが、その後の必死の看病のもあり、明け方ごろには女の子の容態はだいぶ安定した。うっすらと明るくなる救護室の中でもう大丈夫と宣言した時、患者の家族はき合って喜んだ。

「ありがとうシスター、本当に、本当にあなたがいてくれて良かった……!」

 特に母親はネリネの手をにぎりしめ、はらはらとなみだを流す。今すぐにでもたおれててしまいたいほどクタクタではあったが、それを見て心の中を満足感が満たす。

(そうか、聖女にはなれなくても、この知識をかせば……)

 ふぁ、とあくびをみ殺したネリネは、心の内である一つの計画を思いついていた。

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