Case×××:フェリックス 3


「まぁ、つまり、自分の記憶を取り戻さない限り、あなたはこの世界から元の世界に帰ることは出来ないってこと」


 肩をすくめるアカネさんに、ぼくは額に手を添えて混乱する思考を落ち着かせようとこころみた。……まぁ、ダメだったけれど。


「……というか、ここがどういう世界なのかもわからないのですが……」

「でしょうね。わたしも全部知っているわけではないし」


 アカネさんはポリポリと頬を掻いて曖昧あいまいに微笑んだ。


「悪いところではないわよ? 生きるために必要な衣食住は完備されているし、扉を開けば外に出られるし、まぁ、どこに繋がっているかはわからないけどねっ」


 指折り説明していたが、最後のほうは多少ヤケになっているようにも聞こえた。


「……まぁ、まとめると、あなたにはここの従業員になってもらいます」

「……はい?」

「記憶のない人がここを訪れるなんて、きっとあなたの身になにかあったとしか思えないのよね。それに、行き場所も帰る場所もないのなら、ここを拠点にして、ゆっくり自分の記憶を探すと良いわ」


 アカネさんはそう言うと、がしっとぼくの手を掴む。そのことに驚いて彼女を見ると、彼女はにこっと笑みを浮かべて、「これからよろしくね」と嬉しそうに言葉を弾ませた。


 ――その笑顔が、どこか痛ましく見える。


「アカネさん……?」

「とりあえず、まずはこの店についての説明から始めるね」


 だが、ぼくがなにかを口にする前にアカネさんがこの店の説明を始めた。いつお客様が来るかわからないから、毎日開店準備をしていること、とはいえ滅多にお客様が来ることはないから、待機時間は本を読んだり好きなことをしていいこと、などを教えてくれた。


「それと、この店にある食材たちはいつの間にか増えます」

「なぜ、そこだけ敬語……?」


 ラフな感じで話していたアカネさんだが、この店の食材たちのことになると敬語になった。それに対してツッコミを入れると、アカネさんは視線を逸らす。


「昨日使った部屋、そこがあなたの部屋になるわ。部屋の中がちょーっと変わっているかもしれないけど、受け入れてね」


 ……部屋の中が変わる……?


 理解出来ないことばかりを耳に入れて、なんだかくらくらとしてきた。そう申し出ると、アカネさんは心配そうに眉を下げて、「お腹もいっぱいになったろうし、休んで?」と部屋に押し戻された。


 ぱたんと扉が閉まり、困惑しているうちにひとりになってしまった。


 きょろりと辺りを見渡し、確かに記憶にある部屋よりも配置が換わったような気がする。どうなっているんだ、この場所は。


 椅子に座り、とりあえず落ち着こうと深呼吸を繰り返した。


「……記憶がない、けれど、ここが『普通』ではないことはわかる」


 言葉にしてみて、すとんと心の中に落ちた気がする。ここはぼくの居た世界ではないことは確定している。


 ただ、元の世界がどんな場所だったのかはわからない。記憶が戻るまで、と言っていたが、なんの手掛かりもない状況で記憶が戻ることなんてあるのだろうか……?


 ぎしり、と椅子の背もたれに体重を預けて、もう一度深呼吸をした。


「……傷もすっかり癒えているし……。この場合、ぼくはこの場所にということなのか……?」


 小さく肩をすくめて、これからどうするのかを考える。この場所に縛られたとアカネさんは言っていた。それは恐らく、外に出ても結局この店に戻るという意味だろう。


 ――少し、試してみるか。


 椅子から立ち上がり、窓を開ける。窓の外に触れるように手を伸ばす。パンッと弾かれたような感覚があった。


「なるほど、窓からは外に出られない」


 いや、どういう仕組みなんだ。


 もしかして、深く考えれば考えるほど混迷を深める仕組みになっているのでは……?


 ふと思いついて今度はクローゼットを開けた。先程開けた時よりも服が増えている。


 なにも見なかったことにして、クローゼットの扉を閉めた。


 ……情報過多で混乱している。これは一度休んでしまったほうが良さそうだ。考えすぎてパンクしそうな思考をどうにかしようと、ぼくはベッドで休むことを選んだ。


 ベッドに潜り込んで目を閉じる。知らずに緊張していたのだろう。ピンと張りつめた糸が切れたかのように、眠りに落ちた。


 ――と、思う。


 なぜそう思ったかと考えたかと言えば、目の前に真っ暗な空間が広がったからだ。


「ここは……?」


 部屋の中ではないようだ。辺りを見渡しても暗闇だけでさっぱりとわからない。身動きもせずにただじっとしていると、ほんのりと光っている場所があった。興味を抱き、その光に向かって歩く。淡い光に触れると、一気に場面が変わった。


 ――どこだ、ここは。


 真っ暗だった世界から、どこだかわからない世界へ。人がたくさんいる。その中でも、なぜか彼女のことはわかった。


 今のような恰好ではないが、確かに彼女だろう。


「アカネさん……?」


 ぽつりと呟くと、彼女の足がぴたりと止まり、こちらを見た、気がした。気のせいかもしれないが……。


『――はぁ……』


 アカネさんがため息を吐く。人々を避けるように歩き、ひとりになれる場所を求めるように彷徨い続けているように見えた。


『いっそ別の場所に行けたらなぁ……』


 どこか切実そうな声に、彼女から目を離せなかった。

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