Case×××:フェリックス 1
その日のことは、今でもよく覚えている。
「……ねえ、大丈夫?」
心配そうな声が耳に届き、のろのろと視線を上げるとこちらをじっと見る女性がいた。彼女はそっと屈むと、ぼくに向けて手を差し伸べる。
――ぼくは、その手を取った。
「あなたはお客様かしら?」
「……?」
立ち上がったぼくの格好はとてもボロボロで、彼女は大きく目を見開いて「こっち! はやく!」と手をぐいぐい引っ張って店の中に入る。そして、ソファに座らせると「手当てしなきゃ!」とバタバタと応急手当に必要なものを用意し始めた。
「あなた、こんなに傷だらけでなにがあったの……?」
「……ええと……」
なにがあったか、と聞かれてぼくは言葉に詰まった。
――
「……どうしたの?」
「いえ……あの、……ぼく、記憶がないみたいです」
傷口の手当てをしようとした彼女は、目を丸くしてぽかんと口を開けた。
「この場所に、記憶がない人が来る、なんてことある……?」
呆然としたように呟く女性。その目はなにかを探るように細められ、ぼくを見る。
「自分の名前はわかるかしら?」
「フェリックス」
「ファーストネーム?」
こくり、とうなずいた。名を問われたときに、頭の中にパッと浮かんだのだから、きっとこれが名前だろう。だが、それ以外のことはさっぱりとわからない。
ぼくが戸惑いを隠せないように、彼女も戸惑いを隠せないようだった。
「……わたしはアカネ。この店のオーナーです」
はっと我に返った女性はアカネと名乗った。ぼくが「アカネ、さん」と繰り返すと、こくりとうなずく。
「ここは……いったい、どんな店なのですか?」
辺りを見渡しても商品が並んでいる様子はない。ただ、店の至る所に扉があるように見えた。ぼくの目がかすんでいるだけかと疑い、ごしごしと目を擦る。
「……なんか、扉が多くありませんか……?」
先程パッと見ただけだが、こんなに多くの部屋があるようには見えなかった。アカネと名乗った女性は小さく笑い、肩をすくめる。
「そうね、今日は特別、扉が多いわ」
扉が
それではまるで、日によって扉の数が違うように聞こえるのだが、気のせいだろうか……? ぼくの思考が混乱し始めたことに気付いたのか、彼女は応急手当を終わらせると、
「まあ、とりあえず今日は休んで。その間にわたしは、いろいろ用意しておくから」
「用意……?」
「ええ。あ、二階の扉が開いたわ。ついて来て。そして、ベッドで休んでね」
そう言うとスタスタと歩き出してしまう。ぼくが困惑して動けずにいると、「こっちよ」と手招く。……困惑しながらも、彼女について行った。
「この部屋を使って。今は傷を治すことに時間を使いましょう」
「はい……」
二階に上がり扉の前で一度足を止め、アカネさんがぼくを見る。ぼくが返事をしたことに対し満足そうにひとつうなずくと、カチャリと軽い音を立てて扉を開けた。
「あなたに必要なものが揃っているわ。気にしないで使ってちょうだい」
「ありがとうございます」
……どうして必要なものが揃っているのだろう? そう疑問を口にする前に、扉が閉じた。
辺りを見渡して、クローゼットを見つけ、近付いた。必要な物……? と考えながら開
けると、……確かに必要なものが入っていた。タオルとパジャマだ。
シャワールームまで完備されているようで、タオルを濡らしてざっと汚れを拭きとり、パジャマに着替えた。もちろん、手当てされた傷には触れないように。
とはいえ、細かい擦り傷やかすり傷もあったので、すべての傷に触れないということは出来なかった。
パジャマに着替えたぼくは、吸い込まれるようにベッドに近付いていく。
「……ああ、眠い……」
ぽつりとひとつ、言葉をこぼして――ベッドに上がると、目を閉じた。
――その後の記憶がない。
気が付けば明るい日差しが窓から差し込んでくる時間だったようで、どのくらい寝ていたのだろうかと首を捻る。しかし、考えてもわからなかったので、むくりと起き上がった。
そして、驚く。身体の傷がすでに癒えていることに。
「……傷が、ない……」
呆然としていると、扉がノックされた。
「今日は起きているかしら?」
「は、はい。起きています」
「あら、良かった。三日も目覚めなかったから、心配だったのよ。入ってもいい?」
「もちろんです」
ぼくの返事に、アカネさんは扉を開けて中へ入って来た。起き上がったぼくを見て、ホッとしたように安堵の息を吐くと同時に扉を閉め、ぼくに近付いてきた。
「よかった。傷もすっかり癒えたみたいね」
「……傷ひとつない、なんてなんだか不思議な感じがします……」
大した怪我ではなかったということなのだろうか。……と言うよりも、ぼくは三日も眠っていたのか。なるほど、だから身体が怠いのだろう。寝過ぎだ。
「そして、ここでひとつ、あなたにお知らせすることがあります」
「お知らせ……ですか?」
アカネさんはこくりとうなずき、こほんと咳払いをしてからお腹に片手を添えて微笑んだ。
「……お腹空かない?」
アカネさんの言葉に返事をするように、ぼくのお腹がぐぅう、と鳴った。
「……空いています……」
「でしょうね。まずは、シャワーを浴びて着替えてから、ね?」
悪戯っぽく笑うアカネさんに、ぼくは眉を下げて微笑み、小さくうなずいた。
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