Case3:軍服の青年 3


 アカネさんいわく、この場所が歪んでいるから、らしい。ぼくにはよくわからなかった。


 ただ、記憶を持たないぼくの時間はゆっくりとだが進んでいるらしい。爪や髪が伸びるのは、そういう理由らしい。


「ところで、せんじょうとは?」

「言葉のとおり、船の上さ。海軍なんだよ、オレ。オレの知っているお前もそうだった。だけど――嵐の日に、波にさらわれた」

「……そんなに似ているんですか?」

「似てるなんてもんじゃないさ」


 肩をすくめる青年に、ぼくは小さく息を吐く。すると、ノックの音が耳に届いた。アカネさんだ。


「フェリックス、ちょっと良いかしら? お客様の具合は?」


 シャワーとホットワインで身体が温まったであろう青年に視線を向けると、アカネさんを警戒しているのか鋭い視線で扉を睨んでいた。


「大丈夫そうです」

「そう。なら、良かった。こっちのことは気にしないで、お客様のことをよろしくね」

「かしこまりました」


 ぼくらの会話を聞いていた青年が扉に向かって歩き出す。


「……あなたがここのオーナーと聞いた」


 硬い声で、扉の向こうにいるアカネさんに話しかける。


 アカネさんは「ええ、その通りです」と返事をした。


「――なぜオレは、ここに迷い込んだ?」

「お客様の大事な記憶を取り戻すためでしょうね。とりあえず、今日はもうお休みください。詳しい話は明日にしましょう。風邪ひかないようにお気をつけて」


 アカネさんはそう言うとコツコツと足音を響かせて歩いていく。ドアノブに触れて出て行こうとする青年だったが、扉は開かなかった。そのことに驚いたのか、勢いよくぼくを見る。


「すみません、当店の仕様です」

「監禁が!?」

「やだなぁ、ちゃんとアカネさんの許可が下りたら開きますよ」


 監禁をしているわけではない。する理由もないし。


 青年は諦めたのか、ベッドまでふらふらと近付くと、バフっと音を立てて倒れ込んだ。


「毛布を使ってくださいね、風邪ひきますよ」

「……どうなっているんだ、この変な場所……」


 変な場所というのは同意をしたい。ぼくには想像のつかないことが起きているし……だいぶ慣れたが。


 とにかく、青年は毛布をもぞもぞと掛けて寝ることにしたらしく、数秒後にはすぅすぅと寝息が聞こえてきた。


 ベッドはもうひとつあるから、ぼくも着替えて今日は休もう。

 素早く寝る準備を整えて、夢の世界に旅立つことに……いや、その前に明日の朝食を考えなければ。


 風邪をひいていたとしたら、食べやすいものがいいだろう。だが、風邪をひいていなかったら、彼は軍人。食べる量もそれなりに多いだろう、恐らく。


 ……どのくらいの量を食べるのか想像がつかない。


 そもそも、お茶菓子ならともかく、食事をお客様と共にするのは初めてのことだ。もしかしたら、アカネさんなら経験があるかもしれないが……。


 ぼくがここに来て二年。そんなこと、一度もなかったからな……。


 すやすやと眠る青年を見て――明日の様子を見てから決めようと眠ることにした。



☆☆☆



 翌朝、起き上がり辺りを確認すると、青年の姿がなかった。驚いて辺りを見渡すと、シャワー室から水の音が聞こえてほっと胸を撫でおろす。


「……さてと、ぼくも起きますか」


 起き上がってシャワーを浴びられるほど元気なのなら、朝食は病人食ではなくて良いだろう。ベッドから抜け出して、クローゼットから私服を取り出す。袖を通して、エプロンを身に付けていると、青年がシャワーから上がり、ガシガシとタオルで髪を乱暴に拭いていた。


「おはようございます。よく眠れましたか?」

「……あ、ああ。良く寝た。揺れない場所で寝るのは久しぶりだったぜ」

「船上ですものね」


 波に揺られて眠るのはなかなか大変そうだ。そんなことを考えながら、ぼくは冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中にはいろいろな食材が入っていた。


 アカネさんは自分で好きに食べるだろうから、ぼくと彼の二人分を作ればいい。


「ところで、朝からどのくらい食べられそうですか?」


 ぼくの問いかけに答えたのは、彼のお腹の虫だった。盛大にぐぅうう、と鳴ったのだ。ふたり揃ってキョトンと目を丸くして、それから耐え切れずに笑い合う。


「では、作れるだけ作りましょうか」


 とはいえ、それだけお腹が空いているのなら待たせるのも悪い。ぼくは考えた結果、サンドウィッチを作ることにした。ハムとレタス、それからパン。調味料もあるし、なんとかなる。


「……手際良いな」


 サンドウィッチを作っていると、感心したような声が聞こえた。


「具材を挟むだけですから。作ってみます?」


 ふるふると首を横に振られた。


 ぼくは肩をすくめて、サンドウィッチを作っていく。ハムとレタス、チーズなどを挟んでいく。マヨネーズにマスタードを混ぜてパンに塗っているから、それなりに大人の味だろう。


 ついでにスープも作ろう。こちらは簡単にたまごを溶いたスープだ。それと、彼ならきっと物足りなく感じるだろうと考えて、ウィンナーも焼いた。


「……すごいな……」


 テーブルの上にサンドウィッチとスープ、ウィンナーが並んだ。ごくり、と彼が唾を飲み込んだ。


「どうぞ、召し上がれ」

「それじゃあ、早速」


 空腹感が限界だったのだろう、サンドウィッチに手を伸ばしてがぶりと大きな一口。もぐもぐと咀嚼して、ごくんと飲み込む。


「うまい!」


 ぱぁっと彼の目が輝いた。


「それは良かった」


 ぼくもひとつサンドウィッチを手に取って食べた。シャキシャキのレタスと塩気の強いハム、それらをまとめるチーズ。うん、久しぶりに作ったが、うまくいったようだ。素材が良いのもあるだろう。


「このスープもうまいな。ウィンナーも」


 ひょいひょいと口に持っていく青年。豪快だが食べ方が汚いわけでもなく、美味しそうに食べてくれているのを見るのはなかなか嬉しかった。


 ――大皿いっぱいに作ったサンドウィッチのほとんどを彼が平らげ、スープもおかわりをして、ウィンナーもほぼ彼が食べた。……よくそんなに食べられるな、朝から……と感心していると、食べ終えたのかふぅ、と小さく息を吐いてからぼくに向かってもう一度、


「うまかった」


 と言って、頭を下げた。

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