Case3:軍服の青年 1


 その日は雨だった。どんよりとした雲が広がり、しとしとと霧雨が地面を濡らしていた。


「あらま、珍しい」


 アカネさんが窓から外を眺めて、呟いた。


「珍しい?」

で霧雨なんて、珍しいでしょ」


 ぼくが首を傾げると、アカネさんはそっと窓に触れて軽く肩をすくめた。


「……ごめん、わからないか」

「……そうですね」


 ぼくにはここで暮らしてからの記憶しかない。だから、アカネさんは自分の発言はまずかったと感じたのかもしれない。


 自分の記憶に関しては、戻る気配を感じること一度もなかった。


「気にしないでください、アカネさん」

「フェリックスはもう少し、自分の記憶を探しましょうよ」

「特に困っていないので……」


 記憶がないからと言って、言葉が通じないわけでも、意思疎通ができないわけでもないので、記憶を取り戻すメリットを感じることもなく……。デメリットも特に感じてはいないが。


「あなたがその気になれば、わたしだって記憶を取り戻す協力はするわよ?」

「いえ、本当に困っていないので。それに、ここでの生活、結構気に入っているんですよね」

「そう? それなら……まあ、いいけれど」


 アカネさんはぼくがそう言うのが意外なのか、じっとこちらを見つめてから、視線を移動させた。


「……あら? フェリックス、傘を。わたしはタオルを持ってくるから」

「アカネさん?」

「お客様よ」


 アカネさんは窓の外を指した。彼女の指先を辿るように窓の外を見ると……、地面に倒れている人が、見えた。急いで傘を持ち、店から出ると倒れている人に話しかける。


「……あの、大丈夫ですか?」


 深緑色と、それと同じ色の制服――いや、これは軍服か? ともかく、いつから倒れていたのか、帽子も服も雨を吸ってすっかりと色が濃くなっていた。


「……生きてます?」


 ぴくり、と指が動いたのを見て、開いた傘にその人の頭部を入れるようにしゃがみ込み、手を差し伸べる。


 のろのろと視線が上がる。ぼくの存在に気付いたのか、ガシッと手を掴まれる。そして――


「いきて、いたのか……」


 と、呟いたまま……気を失ったようだ。


 誰かと勘違いをしているのではないだろうか? とにかく、アカネさんはこの人が『お客様』だと言ったのだから、保護しなくては……。……仕方ない。ここから店内までそんなに遠くないから、……まあ、大丈夫だろう。


 そう判断して、そっと掴まれた手を外してから、傘を閉じた。ぼくが軍服の人の腕を掴み背負うようにすると、水分を含んだ服が背中を濡らし、次いでずしりと重さを感じた。


 見た目は細かったが、軍服を着ているということは身体を鍛えているのだろう。それなら、この重さも納得できる。


 傘とこの人が持っていたであろう武器を回収し、店内に戻るとアカネさんが「あらまぁ」と目を丸くしてタオルを両手に持ちながら出迎えてくれた。


「フェリックスに頼んで正解だったわね。わたしじゃ、お客様をここまで運べなかったわ」


 アカネさんはふわりとぼくの頭にタオルを乗せると、わしゃわしゃと拭き始めた。


「とりあえず、フェリックスもお客様も、風邪を引かないようにしないとね」


 眉を下げて笑うアカネさんに、ぼくは小さくうなずく。確かに、このままだとふたりとも風邪を引いてしまうだろう。


「アカネさん、このお客様を着替えさせてもよろしいですか?」

「もちろんよ。バスローブでいいかしら?」

「いいと思います。ぼくがやりますので、アカネさんは……」

「別に男性の裸を見るくらいで、動揺する年齢ではないのだけど……」

「……なんだか、ぼくがいやなので、待機していてください……」


 手伝おうとしてくれているのはわかるが、アカネさんがこのお客様の裸を見て着替えを手伝う、ということを想像して眉を下げて首を横に振った。


「フェリックスがそう言うのなら、仕方ないわね」


 あまり『仕方ない』とは思っていないように、面白げに声を弾ませるアカネさん。その声を耳に入れて、ぼくは小さく息を吐いた。


「……ゲストルームが開いたわ。そこに必要な物は一通り揃っているから、自由に使ってちょうだい」

「わかりました」


 ゲストルームまでは、アカネさんが案内してくれた。この店のゲストルームは毎度開く場所が違うため、アカネさんが案内してくれない限り、ぼくがたどり着くことはないだろう。


「それじゃあ、お客様のことをよろしくね」

「はい」


 アカネさんはゲストルームの扉を開けると、ぼくらが入ったのを見届けてからぱたんと閉じた。


 きょろりと辺りを見渡して、どんな部屋なのかを確認する。うん、狭いが充分だ。ベッドの上に寝かせる前に、着替えさせないといけない。


 軍服の青年を床に寝かせて、クローゼットの扉を開ける。タオルやバスローブ、ぼくの私服も入っていた。


 私服が入っているということは、このままここで彼の看病をしろということだろうと判断し、早速行動に移そうと手を伸ばす。


「……ぅぅう……」


 呻くようなその声を聞き、ぼくはタオルとバスローブを持って近付いた。


「お客様、大丈夫ですか?」

「……こ、こは……?」

「“記憶メモリア館”という、記憶を取り扱う店内です。お客様は当店の近くで倒れられたのですよ」


 意識があるのなら、シャワーを……と思ったが、彼は状況を確認するなり素早い動きでぼくに向けて攻撃を仕掛けてきた。武器がないことに気付き、ナイフを取り出してこちらに勢いよく振り下ろす。


「困ります、お客様」


 ぼくの言葉は聞こえているのかいないのか、――とりあえず、ナイフを避けてから間合いを詰めて、ナイフを持っている手を強く叩いた。


 カシャン、とナイフが床に落ちる。


「この店で暴力沙汰は困ります。武器は回収しておきますね」


 ナイフがふわりと浮いて、ぼくに近付く。……持ち手のほうから近付いているからいいけれど、これ、刃のほうが向いて近付いてきたら怖いな。


 ポケットから小さな袋を取り出して、ナイフをそこに入れた。

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