Case:2 白髪の紳士 3


 奥様は一度、言葉を切ってそっと紳士の手に自分の手を重ねた。


『――私と結婚してくれて、ありがとう。こんなに幸せになれるなんて、人生わからないものね』


 そう言った奥様の表情は、とても綺麗だった。


 見惚れるように、紳士はずっとその表情を見ていた。


『君が幸せだと思ってくれるのなら、よかったよ』


 紳士はそう言って、こつんと奥様の額に自分の額を合わせる。オーロラよりも、互いに夢中になっているようだった。


「いい、フェリックス。これが理想の『夫婦』というものよ」

「はぁ……、そうなのですか……?」


 小声でアカネさんが教えてくれたが、『夫婦』という言葉はピンと来ない。記憶がないからなのか、それとも記憶があるうちからそうだったのかはわからないが、結婚や恋愛に憧れをいだいた覚えがない。


「そうよ。だから、あなたも結婚するなら、心から愛し合える人にしなさいね」

「……ええと。よくわかりませんが……、そうします?」

「うむ」


 わからないながらも返事をすると、エッヘンとばかりに胸を張り、腕を組むアカネさんに眉を下げて微笑む。……しかし、その場合、アカネさんはどうなるのだろうか? 彼女に恋人や結婚相手がいたとは聞いたことがないけれど……。


 いや、そもそもアカネさんに関して知っていることのほうが少ないのだ。彼女がなぜ“記憶メモリア館”のオーナーをしているのかも、どのくらいの年齢なのかも(お酒が好きなので、成人はしているはず)、ぼくは知らない。思えば、知ろうともしなかった。


「……妻は本当に、私のことを愛してくれていました。いずれ生まれ変わっても、また私と結婚したいと……言ってくれました」


 懐かしむように、愛しむように、ゆったりとした口調で紳士は言葉を紡ぐ。言葉の端々から、亡き奥様への愛情が伝わってきて、切なくなってきた。


 死者は生き返らない。


 それが自然の摂理だ。


「――残りの人生、妻との記憶があれば生きていけると思いました。亡くなったばかりの頃は、塞ぎ込んでしまい、息子たちに迷惑をかけてしまったがね」


 過去を思い出しているのだろう。遠くを見るようなまなざし。その向こうには、きっと塞ぎ込んでいた頃の記憶がある。


「息子に叱られたんだ。そんな腑抜けになって、母さんが喜ぶと思うのか、と。……彼女は私の腑抜けた姿を見ても、『あなたったら』と笑うと思うが……、息子に心配を掛けるのも申し訳なくなってきてね、ようやく前に進むことができた」


 言葉を切り、アカネさんに向かい合う。


「――私はずっと、彼女に問いたかったのだと思う。駆け落ちしたため、彼女にはずっと苦労を掛けていたからね。君は本当に私と来てよかったのかと」


 駆け落ちという言葉を耳にして、ぼくは目を丸くした。アカネさんは優しく微笑んで、胸元に手を置いてちらりと記憶の中の彼らを見てから、紳士の真正面に立つ。


「答えは見つかりましたか?」

「ええ。妻の表情を見て確信しました。――彼女は、本当にこの結婚を心から喜んでくれていたのだと」


 嬉しそうに紳士は顔をくしゃっとしながら笑った。目尻に浮かんでいるのは涙だろう。ハンカチを使い、その涙をぬぐってから、紳士はアカネさんとぼくに小さく一礼した。


「――この記憶を糧に、また残りの人生を生きられそうです」


 心底嬉しかったのだろう。愛する妻の顔を見られたことも、愛されていたことを再確認できたことも。


「それは良かった。今日は特別サービスがありますので、お客様にはわたしたちと一緒に店内に戻っていただきます」


 紳士の手を取るアカネさん。紳士は意外そうに目を大きく見開いた。どちらを意外だと受け取ったのかが気になるところだ。


 店内に戻ることを意外と思ったのか、ここで別々になることを意外と思ったのか。


 “記憶の扉”が、重い音を立てて閉まる気配がした。


 ――ぱたん――


 眩しい光に包まれて、次の瞬間には店内に戻っていた。


「……これはまた、不思議な……」

「“記憶館”ですから」


 アカネさんの説明に、紳士が目をぱちぱちと瞬かせて、それからくつくつと喉を鳴らして笑う。


「さて。お客様にはサービスで、こちらの写真を差し上げます」


 パチン! とアカネさんが指を鳴らす。その音に反応するかのように、ふわりと写真が数枚


 ――店内の七不思議、数えてみたら七不思議どころの騒ぎではないのだろうな……。そう考えながらも、紳士が器用に写真をキャッチしたのを見て、パチパチパチ、とアカネさんと共に拍手を送る。


「写真……? これ、は……!」


 不思議そうに突然現れた写真を見ていたが、写っている人物を見て、彼は思わずというように唇を結んだ。涙を堪えているようだ。


「その写真はサービスです。受け取っていただけますか?」

「……本当に、良いのかい?」

「もちろんですわ。とても素敵な記憶を見せていただいた、ささやかなお礼です」


 アカネさんの言葉に、紳士はもう一度ぐっと唇を結び、それからぎゅっと目を閉じたあとに、「ありがとう」と頭を下げた。


 出てきた写真は、彼が愛した妻の写真。満面の笑みで写っているものや、愛しそうに微笑み合っている写真など、見るからに幸せそうな写真が彼の手に広がっている。


「大事にするよ。本当にありがとう」

「いいえ。こちらこそ、ありがとうございました。お気をつけて、お戻りください」


 アカネさんはそういうと、出入り口まで紳士の後ろを歩き、ぼくを見る。ぼくもアカネさんの隣に並び、紳士を見送った。


 紳士は扉を開けて出て行く。心なしか、足取りが軽そうに見えた。


 そのあとすぐに、今日の報酬が現れた。


「あら、素敵なステッキ」

「……駄洒落ですか?」

「ちがうわよ!」


 ――今日のお客様は、とても紳士な人だったな、と報酬のステッキを眺めながら考えた。

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