君が救国の英雄となる日

@2321umoyukaku_2319

第1話

 君は海外旅行中に某国で逮捕された。警察署へ連行後、留置場に勾留される。鉄製の分厚い扉、打ち放しコンクリートの壁、太い鉄格子の窓、異臭を放つ薄汚いマットレスと毛布、そして茶褐色の染みがこびり付いた便器の横にミシン目の入っていないシングルロールのトイレットペーパーが置かれた狭い室内の天井から釣り下がる黄色いランプと首吊り死体。それが留置場の中にある全部だった。

 あれ?

 扉。壁。窓。寝具。便所。照明。死体。

 余計なものが最後に一つある。

 あるはずのないものがある。見えてはいけないものが見える。そういったことは、しばしばあること……なのか? 疲れのせいだろう、と君は思い込もうとする。当然といえば当然だ。異郷で突然の逮捕である。神経がやられて変なものが見えるのも、不思議なことではない。

 だから君は体を休めようとした。マットレスに身を横たえる勇気がなかったので、壁際に膝を抱えて座る。そして目を瞑るけれど、気が高ぶって眠れない。瞼を開けると、首吊り死体が見える。嫌でも目に入ってくるので、また目を瞑ろうとして、むきになって両目に力を込めるものだから、逆に心の目が見開かれていく。

 目を瞑っている間に、首吊り死体が床に降り立ち、君へ這い寄って来る……そんな幻覚が君を襲う。

 君は眠るのを諦めた。首吊り死体を虚ろな眼で見つめる。黒いワンピースを着た女のようだ。背中の中ほどまで垂れた髪の色は、はっきり分からない。天井から下がる麻のロープは髪を巻き込んで首に掛かっている。裸足だ。こちらに背中を向けているので、顔は見えない。見たくもなかった。

 そう思ったとき、気のせいか、首吊り死体が半回転したように見えた。君は慌てて目を瞑る。そのとき留置場の室内に耳障りな音が響き渡った。君は両手で左右の耳を塞ぐ。それから人の声が聞こえてきた。

「取り調べを始める」

 日本語を話す、女の声だった。

 首吊り死体が喋った! そう思った君は危うく大失禁するところだったが、少々の失神だけで済んだ、逆だ。もう少しで君は失神するところだったが、少しの失禁だけで済んだ。即ち下半身がびっしょり濡れるほどの尿漏れに至らず済んだのだった。汝、神と尿道括約筋を褒め称えよ! 感謝の意を示すために踊れ、踊り狂え!

 ショックで一時的に正気を失った君は歓喜して踊る。神と自分の尿道括約筋を賛美する感謝の舞は、部屋の何処かに設置された隠しカメラの向こうにいる声の主に衝撃を与えたようだ。怒鳴り声が轟く。

「おい、お前! ただちに踊りを止めろ!」

 そう言われてもトランス状態時の踊りと車は急に止まれない。全身の筋肉が勝手に収縮と弛緩を繰り返す。躍動する肉体は疲れを知らないかのように跳ね回る。しかし実際は物凄く疲労しているのである。これは君にしか分からない。踊りを止めるよう命じた女も君の苦しみは到底、理解できなかった。

「楽しそうだが、そこまでにしておけ。ふざけた踊りを止めないのなら、こちらにも考えがある。その部屋にガスを注入するからな。ガスの効果はすぐに発現する。大抵の人間は眠ってしまう。運が悪いと死ぬ。さて、お前はどちらかな」

 踊りたくないのに汗だくになって踊る哀れな君は慌てて息を止めようとして苦しくなり深呼吸してしまった。万事休す! ガスの効き目はたちどころに現れた。急激に眠くなる。意識が遠くなる。自分を呼ぶ叫び声が聞こえる。

「しっかりして、しっかりしなさい! 気を確かに持って!」

 呼び声に答えて目を開ければ、首吊り死体の女が半回転して君を見下ろしている。叫んでいるのは彼女のようだ。すっかり震え上がった君は、また目をギュッと閉じるも、首吊り女は呼びかけを止めようとしない。

「寝たら死ぬ、寝たら死ぬんだから! 絶対に目を閉じないで!」

 必死の呼びかけとは、こういうものなのだろう。恐怖心を克服し君は目を開けた。

 首吊り女は安堵したようだ。胸の前で両手を合わせ、君に語り掛ける。

「大丈夫、ガスはすぐに薄れていくから、このまま眠らなければ平気よ」

 言われてみれば眠気は前より気にならなくなった。しかし目の前に首を吊った人間がぶら下がっているのは気になって仕方がない。たとえ自分を助けてくれた存在だとしても首吊り死体は……いや、待てよ。助けてくれるのか? そう考えたとき、君は首吊り死体にすがりつきたくなった。溺れる者は藁をもつかむというが、異国の留置場にぶち込まれたら、たとえ幽霊にであっても助けてもらいたくなるらしい。

 そのとき取り調べ担当の女の声が響いた。

「驚いたな。あのガスを吸って立ち上がれる者がいるとは、信じられないよ。動くことさえできないのが普通なのに」

 それから女は「ふふふ」と笑った。

「そうか、お前は忍者、忍者なんだな」

 君は呆気に取られた。忍者だと誤解された経験が無かったからだ。忍者が実在していると信じている人間がいることが信じられなかった、それもある。そして、そんなことをいう者が自分の取り調べる担当者であることも信じられずにいる。これなら、幽霊に助けてもらったことの方が土産話のネタに使えるというものだ……と考えて、背筋が二重の意味でゾッとした。

 幽霊が留置場の同じ部屋にいる、これが気持ち悪い理由の一つ目。

 二つ目は逮捕されて留置場に拘留されていることだ。自分がどうして留置されているのか、さっぱり分からない。君は自分が逮捕された理由を知らされていなかった。犯罪行為に手を染めた覚えはないので、これは何かの誤解か、不当逮捕だ。

 抗議しようとしたら取り調べ担当の女が言った。

「忍者は日本のスパイだそうだな。一般人に変装して他国の情報を入手していたと聞く。道理でなあ、普通の旅行者のふりをして、我が国の機密情報を探っていたのも、忍者ならではのテクニックか」

 君は自分がスパイだと間違われていることに気が付いた。

 それは誤解だ! 自分はスパイではない! 何かの間違いだ! これは誤認逮捕だ! と隠しマイクに向かって抗弁するも聞き入れてもらえない。

 女取調官が「ククク」と薄気味悪く笑った。

「そこに収監された人間は誰もが皆、同じことを言う。これは誤解だ、何かの手違いで逮捕されたのだ、ここから早く出してくれ、とな。出してやることはできる。すぐにでもね」

 君は息を吞んだ。ここからすぐに出られるのなら、それに越したことはないのだ!

 相手は十分に間を置いて言った。

「罪を認めなさい。そうすれば、すぐに出られる」

 なんだ、そんなことでいいのか。君が自分はスパイだと公言しようとした、その時である。

「駄目よ駄目、駄目、言っちゃ駄目!」

 首吊り死体の女が全身をブランブランと揺らして君を制した。目の前でプランプランしている女は意外とスタイルが良かったけれど、それはこの際どうでもいい。ここから出られるのなら何でもする。ああ、そうさ! 自分がスパイでなくともスパイだと宣言するし、罪を犯していなくとも罪を償う。この苦しさから逃れられるのなら、何だってやってやる!

「駄目なの! 罪を認めたら、それで一巻の終わりなの! 殺されるわよ、あなた。スパイは問答無用で処刑されるわ!」

 それがどうした文句はございませ……ん? やってもいない罪を認めようと大きく口を開きかけた格好のまま、君は固まった。君の舌先がレロレロレロレロと巣の中で親鳥に餌か何かを求める雛鳥のように動く。首吊り女の声が聞こえる。

「どんなに脅されても、負けちゃ駄目。気をしっかり持って。強い心で、この逆境に立ち向かうの。流されちゃいけない、自分の意思をちゃんと持つの!」

 吊られた女の言葉は君の心に深く染み入った。言われてみれば君の人生は、他人の意向に従い、世間の流れに逆らわず楽な方、楽な方へと下る一方の生ゴミまたはカスみたいな……いや、生ゴミまたはカスそのものだった。勉強も運動も不得意なのに、努力はしない。無能であることの言い訳に尽きたら時代風潮や国や親のせいにする。骨惜しみして働かない非生産的な自分のことは棚に上げコストパフォーマンスだけを語る評論家の大先生気取りで、異世界転移だか転生だかの代わりに経済力の弱い国で多少なりとも良い暮らしをしようと企んで、このざまだ。おまけに、何様のつもりか知らんが甘い言葉をヒロインに耳元で囁いて欲しいと来たもんだ。どういう了見よ? どういう考えで生きてきて、これからどうするつもりなのか? 直面することを恐れ先延ばしにしてきた問題の答えを今、出すべきなのだ、君は。

 レロレロしていた舌を定位置に戻した君は、飲み込むことさえ忘れ口の中いっぱいに溜まっていた大量の唾液をゴクンと飲み込み、小さく咳払いしてから、自分は犯罪者でもなければスパイでもない、とハッキリした口調で言い切った。一呼吸を置いてから続ける。自分はどのような容疑で逮捕拘留されているのかを、あなた方は説明する義務がある。取り調べをするのなら弁護人を付けてほしい、それから日本の大使館に大至急連絡を取ってもらいたい、昼食はかつ丼が良い、けれども無いのなら無理は言わない、この国の一般的な店屋物で構わない、と。

 四方を囲む壁の一部からガサガサという音が聞こえた。そこにスピーカーがあると君は確信した。その近くへ寄る。他の壁と同じ色だが、その部分は薄い網になっていた。中を覗くと確かにスピーカーらしきものが見える。耳をすませば、ゴニョゴニョと囁く声が聞こえる。何を言っているのだろうか? 耳を近づけたら女性取調官の声が、かすかに鼓膜を震わせた。

「……弱メンタル男子かと思ったけど、予想よりタフね。やっぱり全部、芝居なのよ。どう? 私の予想は当たったでしょ。後は自白だわ。それで本件は解決よ。え、弁護士の同席? ないない、そんなの。日本だってないでしょ? どうせ海外ドラマや映画で覚えただけ。日本大使館に連絡? しなくていいって。電話したところで、あいつら働かないから来ない。旅行者の一人や二人消えたって何もしないのが日本の害務省じゃなかった、外務省」

 外国人とは思えないほど日本の国内事情に詳しいといえよう。君は情報を得ようと更に耳を近づけたが、そこで相手に気付かれた。キィーイーン、ボゥゥウン! という大きな音が鳴り激痛が鼓膜を打つ。君は耳を抑え、舌打ちをして後退りした。聞き耳を立てているところを見られたのだ。

「はーい、はい。おとなしくしていて」

 おとなしくしていたところで、何も解決しないと君は悟った。ここで足掻けるだけ足掻かねば、この地獄から抜け出せないのだ、と! 君は再び要求した。逮捕拘留の理由説明、弁護人との面会、日本大使館への連絡――だが、相手は君の求めに応じなかった。

「逮捕拘留はスパイ容疑であると説明済み。弁護士も日本大使館も、呼んだとしたって何の役にも立たない。あいつらは金持ちのためにしか働かないの。貧乏な一般旅行者のために、警察署まで来てくれるはずがないでしょ」

 スパイスパイというが、自分がどんなスパイ活動をしたというのか、君は尋ねた。

「歩いてはいけないところを歩き、立ち入ってはいけない場所に入り、話してはいけない相手と話をして、撮影禁止地帯で写真を撮り、我が国に持ち込んではならない物を持ち込み、持ち出してはいけない物を持ち出そうとした」

 知らなかったのだ、何も知らなかったのだと君は言う。

「言い逃れが出来ないことは、他にもあるわ。貴方は殺人の罪を犯した」

 君は自分の耳を疑った。全神経を聴覚に集中する。

 スピーカーから小さな笑い声が流れているように聞こえた。君は先程の一件を苦く思い出しながらスピーカーに近づく。警戒を緩めず、いつでも退ける姿勢で、壁の中のスピーカーに耳を傾ける。女性取調官の声が、まるで小鳥の囀りか優しい鈴の音のように耳元で響いた。

「下手な嘘はおやめなさいな。世界の真実に身を委ねるのです。今から私が話すことが事実、揺るぎのないリアル」

 蕩けるような声に君は鼓膜が溶けるかと錯覚した。彼女は続ける。

「空港に到着してからの貴方の動向は、すべて把握しているわ。我が国に入国した貴方がまず向かったのはタクシー乗り場。タクシーへの乗車を待つ人の行列に並ぶかと思いきや、そこを通り過ぎて、行列から離れた場所で人待ち顔の男にゆっくりとした足取りで近づいた。その男性は自分に迫って来る貴方に注意を向ける。でも、それはほんの少しだけ、遅かった。貴方は左手をピストルの形にして相手の男に向けた。人差し指を突き出し、口を尖らせて、貴方は呟いた。バン! とね。すると貴方に指を向けられていた男に異変が起きたの。まず胸を片手で抑え、それから苦しげな様子で、両手で胸や喉を搔きむしるように動かして、口から白い泡を吹き、次に仰向けに倒れ、そのまま息絶えた。貴方は自分には関係ないことのように、その場を行き過ぎて、そのままバス乗り場へと向かった。周囲で起きた騒ぎには無関心を装ってね」

 君は自分の左手に目を落とした。手の甲を見て、掌を広げ、人差し指の先を右手で揉むと、パッと離した。何も起きないし、何も変わらない。女は話を続けた。

「その男の正体を貴方は知っているわけだから、話すのは無駄でしょうけど――事情を説明してほしいというから伝えるわ。何も知らないふりとか、しらばっくれるのは無意味だから、時間の無駄だからやめてちょうだいね」

 君は話を続きを身振りで促した。女は言った。

「その男は我々の仲間、私服の警察官だったの。我が国にとって好ましくない立場だけれど、入国を表立って拒否することが困難な入国者の行動をチェックするために、空港前で待機し、そこから尾行を開始するのが彼の任務だったのよ。それを貴方は、謎めいた力で殺害した。おかげで尾行の対象者はまんまと逃亡したわ」

 君は嘲笑った。スピーカーの向こうの女性は、君の嘲笑に気を悪くした様子もなく――あるいは無視を決め込んだのか――話を再開した。

「バス乗り場へ向かった貴方は、タクシーを使わない貧乏旅行中のバックパッカーや地元の人間と一緒にバスを待ち、それから空港発首都行きの路線バスに乗り込んだ。ほとんどの外国人は空港から首都へ直行するシャトルバスを利用するのだけど、貴方は違った。タクシーを使うと足取りを拾われやすいと判断したのかしらね。でも無駄なことだったわ、貴方の動きを警戒して監視体制を短時間で構築したの。うふふふ、褒めてくれても構わなくってよ」

 突然のお嬢様チックな話しぶりに困惑しつつも、君は両手で乾いた拍手を送った。

「どうもどうもサンキューベリーマッチ。我々の監視網に気付かなかった貴方は、隣に乗り合わせた農家のおばちゃんと話をしたり、反対側の座席に座った子供とお菓子を交換していたけど、我々はそういったことを全部観察していたの。そして貴方が何処に向かおうとしているか探ったわ」

 君は胸のポケットから小さな箱を取り出した。箱を開き、中からホヤの干物を一つ取り出す。口に入れて噛みしめる。癖はあるけれど味わい深い。この燻製の良さを、日本人でも分からない者がいることが、君には信じられない。

 女の話は続く。

「貴方は首都から離れた場所でバスから降りた。そこからしばらく歩いて、スラム街に入った。他国からの観光客は勿論、良識というものを持ち合わせているのなら地元の人間だって足を踏み入れようとはしない場所よ」

 この国の貧困を象徴するスラム街は国家の定める法律ではなく悪徳と暴力が生み出す独自のルールによって統治されている。強大な国家権力の支配が及ばない地域なので、無法者にとっては住み心地が良い。善良なる市民にとっては無関係な土地のはずだが、善人面ぜんにんづらをしているだけの悪党には心惹かれるものがあるようで、夜の明かりに吸い寄せられる羽虫のように貧民窟へ足が向く。麻薬、売春、さらなる悪事の相談と、闇の経済を回すために腹黒いビジネスマンが大車輪の活躍だ。そんな危険な場所を、君はどうして訪れたのか? その答えを知るために君を監視していた者たちは、スラム街に潜り込ませた密偵団に連絡を取り、君の調査を継続させた。

「貴方は、この国に入国したのは初めてだった。当然、スラム街を訪問したことなんて一度もないはず。それなのに、長年住んでいるみたいな足取りで、あるいは、生まれてからずっと住んでいたけど、しばらく留守にしていて、久しぶりに里帰りした人間のような気軽さで、入り組んだ街を歩いていたそうね。物騒なところなのに、怯えた様子が全然なかったって、密偵たちが驚いていたそうよ」

 人がいない場所だと鼻歌でスキップしていた、とまで彼女は言った。見ている方が恥ずかしくなった、とのこと。まるで遠足気分ね、と女は笑った。君は一緒に笑いたくなったが、止めた。

「貴方が向かった先は、政権転覆を図る反社会的勢力のアジトと噂されている廃工場だった。外国人が立ち寄るような場所では、勿論ない。ただし、その反社会組織が我が国と敵対する外国勢力とのつながりが疑われている場合は別だ。貴方は、我が国を崩壊させようと企む邪悪な秘密結社への特使として、ある国から派遣されてきたのではないか?」

 ある国、であって日本と名指ししていないことが、君は気になった。聞いてみると彼女は答えた。

「その国家が日本である可能性は否定しないよ。その可能性は当然あるのだ。けれど、我々はこうも考える。貴方のパスポートが偽造されたものではないか、と。貴方から没収したパスポートを精査中だが、その疑いはあると鑑識班は言っている。貴方が本当に日本人なのか、日本大使館に問い合わせてみたらどうかと思うよ。大使館に連絡されたら、困るのはどちらなのかな?」

 君に答える義務は微塵もない。話を続けるよう日本語で促す。

「それから貴方はスラム街を出た。そして我が国の国内各地を回る。外国人の立ち入りが禁じられている地域にも潜入し、写真撮影が厳禁の軍事施設や発電所などの映像を撮った。貴方の行動をサポートしていた連中がいたことは判明している。空港で貴方が私服の刑事を殺したことで、簡単に入国できて自由に動けるようになった人間が恩返しをしてくれたみたいね。悪い国際親善だわ」

 そんな話は一切合切、出鱈目だと君は主張した。相手は取り合わなかった。

「証拠写真が何枚もあるわ。見る?」

 壁の一部から映写機の光が出てきて、反対側の壁に映像を映した。そこには確かに君の姿が映っていた。いつ撮影されたものなのか、記憶がない。そこで君は、これは自分に似ているが別人だと言った。その答えを聞いて、取り調べをする女は苛立った様子である。

「別人? これが? どう見たって貴方本人でしょうが」

 他人の空似だ、と君は潔白を唱える。うんざりした声で女は言った。

「自白しないなら拷問を考えないといけないわ。頭を冷やして、一晩よく考えて」

 そして取り調べは終わった。鉄製の扉の下部に小さな開口部があり、そこからパンと水の入ったコップを載せたトレーが出てきた。これが食事らしい。食欲を感じなかったが、そんな粗末な食べ物でも見ているうちに空腹を覚えた君は、トレーに手を伸ばしかけて、ビクッと手を止めた。毒入りじゃないだろうか? 毒ガスを室内に注入する連中だ、料理に何を入れるか分かったものではない、という疑いが湧いてきたためだ。

 そんな君の様子を観察していたのだろう、スピーカーから女性取調官の声がした。

「何も入っていないから安心して。それと例の怪しげな術を使うのは止した方が良くってよ。指鉄砲の格好をしたら射殺するように警備へ通達済みだから」

 お言葉に甘えて、君は食事を摂ることにした。パンと水だけなので、料理とは呼べないのかもしれない食事内容だったが、口に入れたら意外と美味しく食べることができた。量が少ないのは不満な点だ、お代わりが欲しいな……と考えていた君は、急に具合が悪くなり白目を剥いて卒倒した。当初の予想通り、一服盛られたようである。

「毒であっさりと気絶している場合じゃないでしょっ! もう、しっかりしてよっ! あなたは伝説の勇者様なんでしょう? この国を救う神の代理人エージェントなんでしょう? どうか立ち上がって……お願い、私たちを助けて……」

 首吊り女の声は、最後の方は涙声だった。女を泣かしておきながら、呑気に気絶しているわけにはいかない。君は死の淵から蘇った。

 目を開けた君を見て、首吊り女は首を吊った縄が切れんばかりに狂喜乱舞した。

「やっぱり、やっぱりそうなのよ! あなたは伝説の勇者なのよ! もう疑わないわ! 何だか物凄く頼りない感じがするから、ずっと疑っていたけど、謝るわ。本当にごめんなさい」

 謝られるようなことはされていないし、頼られるようなことは何もしていない自覚のある君は、返答に窮した。そもそも分からないことだらけで、何を言っていいのかも分からないくらいだった。それでも自分がスパイだと疑われて逮捕拘留されていることは分かった。しかし、女性取調官が言ったようなことをやった記憶が君には全然ない。誰かと間違われているのだと確信を持って言える。絶対に警察当局の勘違い、誤認逮捕なのだ。自分に瓜二つのそっくりさんがこの国の何処かにいて、そいつが指鉄砲でバン! とやったりスラム街に乗り込んで反政府組織の人間と接触したり機密情報を入手していたのだと君は考えた。もしかして自分には、生き別れた双子の兄弟がいるのかもしれない。その辺のところを首吊り女は知っているのかも……と思い、君は彼女に事情を聴いてみたくなった。

 それでもやっぱり幽霊との会話は怖い。自分を処罰しようと一生懸命な異国の女性取調官との会話も嫌だが……霊に憑りつかれるのと死刑になるのを比べたら、若干ながら前者の方が選ぶ余地ありだった。

 何か事情を知っていたら、話してほしい。君は、そう呟いた。

 首吊り死体の女は、君から話しかけられて喜んでいる様子だった。首に巻き付いたロープを器用に伸ばして天井から床に降りてくると、君の隣にちょこんと腰を下ろす。君にささやきかける。

「この国には伝説があるの。汚職と悪政がはびこり民衆が苦しむとき、伝説の勇者が異国から現れて不当な権力を握る上流階級を打倒する。その伝説の勇者が、あなた」

 あまりにも漠然とした話である。自分が救国伝説の主役だと聞かされても、まったくピンと来ない。その伝説は、一体どんな伝説なのか? もう少し具体的なところを教えて? と君は聴いてみる。

 物凄い超能力でバンバンやるの、と女幽霊は言った。何が何だかさっぱり分からないが彼女が語彙力に乏しい感じなのは、薄々理解できる君なのだった。

 君は質問の方向性を変えてみることにした。どうしてここにいるのか? どんな事情で首吊り死体の幽霊になってしまったのか、と尋ねる。

「昔、昔、もう遠い昔のことよ。私は、この国の王女だったの。とても大切にされていたわ。誰からも愛されていた……と思っていたけど、実は違ったの。私を追い落とそうとする邪悪な陰謀がひそかに企てられていたのよ。ああ、私はそれに気付かなかった。そう、あれは私の十六歳の誕生日だった。私はあの日、世界で一番幸せな十六歳の女の子だったと思うわ。誕生日を迎えただけじゃないの。その日は、私の婚約発表の日でもあったの。相手は隣国のプリンス、王位継承順位は第一位の皇太子様よ。とても素敵なお方だったわ……でも、私たちの結婚はかなわぬ夢物語で終わってしまった。私は突然、逮捕されたわ。逮捕容疑はプリンス様の暗殺を企んだこと、ですって! そんなこと、私がするわけないじゃない! 彼を心の底から愛していたのよ。そんな私が、暗殺計画の首謀者なんて、ありえない、ええ、ありえないでしょう! それなのに、当時の国王陛下であらせられた私の父君は隣国との関係悪化を懸念し、私を牢に入れたわ。それが何よりも悲しかったわ! あのお優しいお父様が、私の言葉を信じて下さらず、牢屋に入れるなんて、あんまりよっ! そして裁判が始まり、私の有罪が確定したわ。斬首ですって。でも、でもね、私の誇りは処刑されることを許さなかった。だから私は、自分の意思で首を吊ったの。誇りを守るために自殺する、それこそが高貴なる血を受け継いだ王族の誉れだと思いませんこと。ええ、私の代で王族は滅んだと考えて間違いはございません。私の一族がどうなったか、ご存じ? 悪事に精を出して、挙句に王国を失ったわ。そう、私を破滅させた方々が国を滅ぼしたの。死んでから、首吊り死体の姿で国中の天井からぶら下がって、私は真実を知りました。私を追い落とそうと企んだのは、私の身内だった。私の意地悪な異母姉も、彼との結婚を望んでいたの。異母姉は権力拡大を狙う有力貴族や宗教勢力そして大商人と結託し、嘘の証拠を固めて私を逮捕させた。そして私の王子様を毒殺、そして自分の父親である国王陛下をも殺害して両国の最大権力者となったわ。自らの欲望を満たすため殺戮に次ぐ殺戮の嵐を巻き起こして大混乱を招いた異母姉は反対勢力のクーデターに倒され断頭台の露と消えた。それでも平穏な日々は戻ってこない。理念なきクーデター、権力闘争でしかない革命劇が繰り返され、独裁政治の代名詞みたいに国外で紹介されるのが、この国、私の母国」

 首吊り死体の幽霊は話を終えた。彼女が隣に座ったときは死臭を警戒したが、今は甘い女性の香りがして、心が弾む君だった。命を二度も救ってもらった礼もある、何か彼女の力になってやりたいと、君は心から思った。

 しかし何をどうしたらよいのか、それが分からない。女の幽霊は君を救国の英雄だと言い、女性取調官がスパイと決めつけているけれど、自分はそんなものではないのだ。

 それでも首吊り幽霊は君に期待しているようだ。甘く蕩けるような声で囁く。

「こんなの不条理な話だと思うわ。スパイだと疑われて不当逮捕されて、拘留された留置場には大昔から死ねずにいる幽霊がいて、なんてそんなの、出来の悪いカフカとかカミュの小説だもの。迷惑をかけているって感じてる。反省しているの。それでも、ね。私はあなたを信じてる。私はずっと、あなたを待っていたの。きっとあなたは、私の王子様なのよ。私のプリンス様は、本当はあなただったのよ」

 隣に座る首吊り女を、君は見つめた。首の縄さえなければ、素敵な女性に思えてくるから不思議だ。いや、ロープもファッションだと考えれば無問題か? と君は思う。多様性が叫ばれる時代でもある。首吊りの縄もおしゃれだし、恋人が幽霊というのもありかも? それに考えてみれば、こんなにまで異性から頼られることなどなかった。何がどうなるか知らないが、異国の土になるのも故郷の墓に入るのも、死ぬのは一緒。それならば命の限り暴れてみるのも悪くあるまい?

 君は試しに左手を指鉄砲の形にしてみた。女幽霊の首から天井に伸びている縄に向けて人差し指を向ける。バン! と呟く。縄がブツリと切れて落ちてきた。首吊り女と顔を見合わせる。彼女は瞳を輝かせて言った。

「勇者様だわ、あなたは私の勇者様なのよ!」

 彼女にいきなり抱きつかれた君は、両手をどうするか、大いに悩んだ。その手で彼女を優しく抱きしめるべきか、それとも力強く押し倒すべきか……と判断に苦慮する時間が短かった。短機関銃サブマシンガンを構えた警察官数名が室内へ突入してきたのだ。君はとっさに女幽霊をかばった。幽霊に銃弾が命中しても大きな問題は発生しないだろうに。

 スーツを着た若い女性が警官たちの前に立った。彼女は小さな穴の開いた天井を見上げて呟いた。

「カメラ越しに見たときは到底信じられなかったけど、実際に開いた穴を見れば信用するほかないわね」

 そして彼女は言った。

「今ので貴方が殺人犯のスパイだと確定よ。記憶がないとか人違いといった言い逃れは、もう通用しないわ」

 スピーカー越しに聴いた声だった。君が想像していたより声の主は美人だったと書いておく。

 自分は二重人格で、それは病気だから無罪! という新たな言い逃れを思いついた君だったが、言わなくても良いかな、と思い直す。そう、君は思い出したのだ。自分には別の人格があり、オンとオフのスイッチが入るように人格が切り替わるのだと。今の人格のときは、別人格の記憶がないようだ。だから殺人や諜報活動について君は何も覚えていなかった。だが、今は違う。逮捕され幽霊と出会いガスや毒入りの食事で生死の境をさまよっているうちに、両者の境界線が消失してしまったらしい。

 それでも両人格は完全に混ざってしまったわけではないらしい。君の心の奥底で、君の別人格が「全員を指鉄砲の連射で射殺しろ」と主張しているが、君は人殺しを好まない。人を指さす行為は失礼に当たることも知っている。だから君は両手をゆっくり肩の高さに上げて、自分に銃を向ける警官たちに言った。

「降参するから撃たないで」

 次の瞬間、君は掌から人間を眠らせる怪電波を発射した。無音であり強い衝撃波が発生するわけではないが、人間ならば確実に眠る技である。指鉄砲のテクニックをとっさに応用して編み出した技で、上手くいくか不安だったけれど警官たちは眠った。一人だけを除いて。

 君の後ろから首吊り王女が顔を出し、自分の目の前に立つスーツ姿の若い女を見て呟いた。

「お姉さま……」

 幽霊からお姉さまと呼ばれた女の目にも、幽霊は見えているらしい。彼女はニコッと笑った。

「久しぶりね」

「どうして、お姉さまが、ここに」

「天国にも地獄にも行けず、この世を彷徨っているのよ……お互いに、ね」

 先程の話題に出た異母姉が、この女らしいと君は察した。女取調官は首吊りの女幽霊の異母姉で、断頭台の露と消えたはずの悪女だったのだ。二人とも、さっさと気づけよと思わざるを得ないが、それはこの際どうでもいい。前後を幽霊に挟まれている君は、この期に及んで怖くなってきた。それでも、自分は伝説の勇者なのだと自分自身に言い聞かせて、勇気を振り絞る。君はスーツの女に優しく言った。

「どうしてこんなことをする? 君は死んだんだ、迷わずに、あの世へ行け」

 彼女は妖艶に笑った。

「私はこの国に憑りついているのよ、この国の何もかもが憎いの」

 彼女の妹が憎々しげに言った。

「あれほど好き勝手なことをやっておいて、その言い草は何なの!」

 スーツの女が一歩前に出た。君の背後にいた女幽霊も、君の陰から出てきた。睨み合う二人の間に立って、君は仲裁を試みた。

「待って、話し合おう」

 無駄だった。姉妹は君をなぎ倒して戦いを始めた。あまりにも激しい戦いで留置場の壁が崩れ、鉄製の扉が壊れ、床が抜けた。二人は床に空いた穴に落ちてからも戦い続けた。そのうち警察署全体の崩壊が始まった。君は這う這うのほうほうのていで警察署から逃げ出す。やがて警察署の残骸から火災が発生した。火の手はあったという間に広がり、首都は炎に包まれた。騒ぎに乗じて革命勢力が武装蜂起した。大規模な衝突が国内各地で起こり、大混乱の末、臨時政府が樹立された。その首班として海外にも報道された美人姉妹が、首吊り死体の女と、その異母姉だったことは君しか知らない。あれだけ不仲だった姉妹が協力して統治した結果が出て、その国の経済状態は急速に改善し、今や奇跡の国とまで称賛されるようになるとは、救国の英雄である君も想像できなかった。今は日本に戻った君は、遠くから二人姉妹の活躍を眺めているだけだが、それでも自分の活躍があったからこその話だと思いながら、いつの間にか使えなくなった指鉄砲の格好をしてみるのである。

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