あなたと出会えたから③

「夕日、綺麗だね」


 私の腕の中で、実來さんは言った。

 一日中遊んでいたからか、いつの間にか日が落ちている。

 久しぶりに実來さんと遊んだけれど、やっぱり楽しかった。


「本当に、綺麗です」


 穏やかに夕日を見つめる実來さんが何よりも一番綺麗だと思う。でも、そんなこと言えない。


 しばらく無言で空を飛び続ける。実來さんは時折私を見て、にこりと微笑んでくる。


 海の上を飛んでいると、不意に実來さんはペンダントを首から外し始めた。チェーンにくっついた鍵は、二年前と全く変わっていないように見える。


「桃。私ね、最近学校が結構楽しいんだよね」


 実來さんは鍵を夕日にかざしながら言う。私が知らない日常について、語ってほしくないと思う。


 でも、止める言葉を持たない私は、話の続きを待つことしかできなかった。


「意外と好きなものを好きって言っても誰にも変なこと言われないし。私らしく振る舞っても誰かとぶつかったりしないし。皆ある程度大人だからってのも、あるんだろうね」


 実來さんに強く尻尾を巻き付ける。

 実來さんは、笑った。


「でも。そもそも好きなものを好きって言えるのは、私が私らしく振る舞えるのは、桃のおかげ」


 穏やかで優しい言葉で、胸がいっぱいになる。あったかくてふわふわしたものが胸の奥から溢れ出す。


 自分の心を見ることはできないけれど、あの頃実來さんが私に抱いてくれていたのと同じものを、今私は抱いている。


 それは確かに、恋だった。

 溢れ出しそうなほどの恋が、私の心を埋めている。


「桃と出会えたから、私は星野実來に戻れた。桃が見つけてくれて、よかった。桃と……あなたと出会えたから、私は人間として、幸せを感じられている」


 あなたと出会えたから。

 その言葉は、まっすぐ私の胸を射抜くように響いた。


「だから私は、少しでも桃のためになることをしたい。……これでもまだ、桃の恋人のつもりだから」

「……え」


 恋を食べたあの日から、私たちは恋人でなくなった。

 私はそう思ってきたが、実來さんは違ったらしい。


「だって、別れようとか言ってないしね。だから、もし。もしまだ桃が私のことを好きでいてくれているなら……契約を更新しよう」


 契約。

 私が実來さんに初めて会った時に結んだものだ。

 実來さんを癒す代わりに、ロリコンになってもらうという。


 我ながら、どうかしていたと思う。雑誌に「気になるあの人にパワーワードで告白してみよう!」なんてことが書かれていたから、自分なりに考えたのがあれだったのだ。


 色々雑誌とかネットの知識を総動員して、契約してくれそうなセリフを考えて。あの時はいいセリフができたと思ったけれど、今にして思えばわけがわからない。


 多分、実來さんみたいにあったかい人じゃなかったら、あんな契約を持ちかけても誰も契約してくれなかったと思う。


 でも、あの契約から全てが始まって、今の私たちに繋がっている。

 本当に、人生というのはよくわからない。あの頃は実來さんのことを好きになって、こうして一緒に空を飛ぶなんてことは、考えてもみなかった。


「桃を愛してるってこと、証明するから。だから、ずっと一緒にいてほしい。それが、私が求める契約」


 実來さんは私にぎゅっと抱きつきながら言う。その言葉の透明さとか、力強さとか、そういうものが心に響くと、全てを信じられそうな気がした。


 冬の風が私たちを包む。

 でも、尻尾を巻き付けて実來さんと繋がっていると、風の冷たさが全く気にならなかった。それがきっと、答えなのだと思う。


「更新、します」


 翼を動かしながら、私は言う。羽ばたきの音で聞こえなかったりしないかと危惧したけれど、ちゃんと聞こえたらしい。

 実來さんは花が咲いたような笑みを浮かべた。


「ん、ありがと。……よし! じゃあ、早速証明しようか!」


 実來さんの手から、鍵が滑り落ちる。

 二年間ずっと変わらずとっておいたはずの鍵を、実來さんは何食わぬ顔で海に捨ててみせた。


 着水する音が聞こえないほど遠くで、鍵が小さく飛沫を上げて沈んでいく。私はそれを見送ってから、実來さんに目を向けた。

 実來さんは悪戯が成功した子供みたいに、楽しそうに笑っていた。


「南京錠の鍵ってさ。本当は捨てないといけないんだって。捨てれば、永遠が叶うらしいよ」

「いいんですか? ずっと、とっておいたんじゃ……」

「いいのいいの。桃との思い出を一つでも多く残しておきたくて、捨てらんなかっただけだから」


 今まで捨てなかったけれど、今は捨てられる。それは、やっぱり。


「今は桃がいるから、思い出はいくらだってまた作っていける。だから、いいの」


 実來さんは私の首に腕を回してくる。

 ぐっと、肩が重くなる。


 実來さんは私の腕から抜け出して、首の方に回した腕だけで体を支えていた。それに伴って、私の体は重くなっていく。


 でも、以前よりもっと強くなった私は、それほどの負荷を感じないまま実來さんを支えることができる。

 実來さんはそのまま、身を乗り出すように私に顔を近づけてきた。


「嫌だったら、落としてくれちゃっていいよ」


 前に私は、嫌なら突き飛ばしていいと言って実來さんにキスを迫った。

 あの時私は、嫌だと言ってほしくないと思っていた。でも、今の実來さんは本気で、私が拒んでも構わないと思っているように見えた。


 だって、実來さんの瞳はどこまでも真剣で、冗談とか嘘の色が全く見えない。


 本気で嫌がって、落としたとしても受け入れそうなほどに、偽りのない目だ。そこまで真剣になるというのは、普通じゃない。


 実來さんがあったかい人だから、演技をしている。

 そんな考えが吹き飛ぶくらいに本気の顔だ。実來さんは落とされても構わないと思いつつも、本気で私とキスしたいと願っているみたいだった。


 その熱い吐息が、視線が、それを伝えてくる。

 嫌なわけ、ない。

 ここまで本気の顔を見せられて拒めるほど、私は強くない。

 私は弱い。


 本当はずっと、実來さんとキスがしたかった。そのくせ臆病だから、恋が見えないと信じられないからキスもできないなんて、面倒臭いって言われそうなことを考えていた。


「改めて。絶対私の好きが、愛が変わらないって、変わってないって教えるから。だから……受け止めて」


 私が拒まないでいると、実來さんはそう言った。

 空の上で、唇が重なる。


 私たちの唇は完全にお互いだけのものだと思う。柔らかさとか、弾力とか、そういうものがお互いの唇を合わせた時に全く抵抗にならなくて、吸い付くみたいにぴったり重なる。


 それが何よりも、相性の良さを示していると思う。

 私たちの体温が重なって、混ざり合う。二年という時間は今このときは全く障害にならず、私たちの唇は元々一つだったかのように交わっては、互いの温度を全く同じものに変えていく。


 私の唇も、実來さんの唇も同じくらい熱い。

 実來さんの唇を軽く噛むと、小さく唇が開かれる。


 私は実來さんの全身に尻尾を巻き付けて、腰をぎゅっと両手で抱きながら舌を彼女の口腔内に進めていく。


 舌が弾むように絡み合って、混ざった唾液が私たちの喉を通っていく。

 実來さんの舌をもっと味わいたくて、夢中になって舌を動かすと、実來さんも応えてくれる。そういう反応の一つ一つがどうしようもなく嬉しくて、気持ち良くて、信じられないものなんて何もないように思えた。


 キスするだけで、こんなにも実來さんの気持ちが伝わってくるのはなんでだろうと思う。


 唇と唇。舌と舌。くっつけて、絡ませて。

 それだけで不安が溶けていく。


 見えなくなった恋の代わりに、実來さんが私に向けてくれている愛が、見えるようになった気がした。


「実來さん。……好きです」

「うん。私も、大好き」

「今度こそ、実來さんの全部をもらいたいです。私の全部を、あげたいです。いい、ですか?」

「いいに決まってんじゃん。桃にだったら、なんだって、全部。全部あげる。全部、もらう」


 私たちは唇を離して、空の上で抱き合った。

 沈む夕日が目に入らないくらい、私たちの瞳には互いの姿しか映っていなかった。


 二年間ずっと実來さんから逃げてきて。目に見えない愛なんて信じられない、なんて思ったのに。


 恋を失った実來さんと一日デートして、キスをしただけで。

 私は全部、信じられるようになった。

 私と実來さんの間にだけ存在する魔法に、私はすっかりやられている。


 愛を知っちゃいけない。愛を抱いちゃいけない。愛を感じちゃいけない。そう思っていたのが、遠い昔のことのように思えた。


「実來さん。実來さん、実來さん、実來さん!」

「なになに、桃」

「もう離しません! 今まで会えなかった分も、ずっと一緒です! その……今までごめんなさい!」

「桃は、何も悪くないよ」


 いつか言われた言葉が、同じ響きで私の鼓膜を震わせる。


「これからいっぱい、私たちの時間を取り戻していこう。したいことして、行きたいとこ行ってさ」

「はい! ……実來さん!」


 私は実來さんを思い切り抱きしめて、今までで一番大きな力で羽ばたいた。


 ぐん、と体が揺れて、私たちは世界を置き去りにして飛び上がっていく。

 感情が爆発しそうだった。もう全部抑えることができなくて、居ても立っても居られなくて、空を泳ぐように進んでいく。


 今の私は、多分世界中の誰よりも楽しそうに空を泳いでいるように見えると思う。


「世界中の誰よりも! この宇宙の何よりも! 私は実來さんのことが、大好きです!」


 強く実來さんを抱きながら、叫ぶ。

 海に反響する私の声はひどく子供っぽくて、馬鹿みたいで。でも、ちゃんと透き通っていた。


「私も! 桃が好き! 桃に会えて、よかった!」


 私たちはかつてと変わらず、愛を叫びあった。

 海は私たちの声を全部受け止めてくれていた。

 私はやっと、人間らしい感情を理解できるようになった気がした。


 私も、実來さんも。きっとどうしようもなく沈んだ人生を送ってきて、それでもこうして出会って、互いを愛し合うようになった。


 始まりは馬鹿げたものだったかもしれないけれど。

 私たちのこの出会いが、互いの人生にとって一番良い出会いなのだと信じたい。

 ……いや。

 確信を持って、言える。


「私も、実來さんに会えてよかった!」


 空で叫ぶと、色んな感情が透明になっていくような感じがした。

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